その男が店に入ってきたとき、店主も居合わせた客たちもいっせいに品定めの視線を投げた。
入り口を通るのに身をかがめるほどの身長があり、それに見合う横幅もある。がっしりした体はうろこに覆われ、巨大な口、鋭い爪の持ち主だった。そして、鎧と戦斧を装備した戦士のいでたちだった。
「ここらじゃ見かけないやつだ」
「リザードマンか?」
客たちは小声でそう話し合った。
――あいつ、クロコダインとか言ってたやつだ。
ラノは店の片隅に身を縮め、横目でクロコダインを見ていた。クロコダインの後ろからヒュンケルとマァムが来た。
――やっぱり橋を渡りに来たか。
その店は、塔の二階にある。塔は深い谷にかかる橋の両側にあり、もともとは橋を渡ってくる者を監視し、通行料を取り、場合によっては攻撃するための施設だった。
黒い海が川をさかのぼり、水面を上げ、谷を満々と満たした今、橋は二つの島をつなぐ唯一の通路となっていた。
リカントのラノはこちらの島でしくじりを重ねた結果、逃げるように隣の島へ渡ろうとたくらんでいたところだった。
酒場の椅子は空き樽だった。クロコダインは悠々と腰かけると、悪魔系らしい店主にむかって機嫌よく話しかけた。
「この土地で酒が飲めるとは思わなかったぞ。何があるんだ?」
褐色の肌に尖った耳を持つ店主は背後に並ぶ酒樽を指した。
「スパイス入りの麦酒に蜂蜜酒、あとは果物で作ったシードルだね」
「ほう。オレと連れに麦酒を一杯ずつもらおう。ご婦人にはシードルを頼む。そうだな、肴はないのか」
「ここんとこ、めっきり物資が入ってこなくてね。お客さんには手持ちのつまみで呑んでもらってるよ」
店主はじろりと二人の人間を眺めた。
「お客さん方、地上から来たのかい?」
そうだ、とヒュンケルは短く答えた。愛想の悪い店主は肩をすくめた。それでも“出て行け”のようなことは言わず、しばらく酒の準備をするとカウンターに不揃いのマグを三つ置いた。
マァムがシードルを取った。
「おい、女だぜ」
店の中がざわざわした。ヒュウと口笛が鳴った。一切無視して、マァムが店主に話しかけた。
「このお店、長いのかしら?」
店主は肩をすくめた。
「四、五年はやってるかね」
地上からの旅人たちは互いに視線を交わしあった。クロコダインが尋ねた。
「そこの橋は、こっちとあっちの島をつなげる唯一のルートだな?」
店主は壁に開いた穴を通して、眼下の橋をちらりと見た。
「そうだな。それで?」
「オレたちは人を探してこっちまで来たんだが、その尋ね人が橋を渡るときにひょっとしてこの店に立ち寄りはしなかったか、と、思ってね」
この古い塔はそれなりに大きく、中に入れば雨風をしのげるだけの頑丈さがあった。橋を渡りたい旅人は塔の中に寝場所を探す。そういう者たちを相手に小商いをする商人たちもいた。そしてもっとも大きな“店”がこの二階の酒場だった。
店主は気の無さそうな口ぶりだった。
「そうさなあ、どんな奴を探してるんだね?」
マァムが言った。
「行方不明になったのは五年前。人間の男の子なのだけど、見たことはない?」
「ちょっと思い出せねえなあ」
クロコダインとヒュンケルはうなずきあった。ヒュンケルは金貨数枚をカウンターにのせた。
「いい情報なら喜んで買うつもりだが」
店主は目を金貨に吸い寄せられたようだった。
「そうだな、だいぶ前にここへ寄った旅人がそんな噂をしていたな。ええと、あっちの島の街道沿いの谷でドラゴンの巣の中に人間の子供がいるのを見たそうだ」
早口にそう言って金貨に手を伸ばした。
ヒュンケルは指で金貨を手前に引き寄せた。
「その谷の名は?旅人が話していたのはいつごろだ?」
「店を始めてすぐだから、四、五年前だ。地名は“竜の谷”、とそいつは呼んでいた」
ヒュンケルは金貨を抑えていた手を放した。あっという間に店主は金貨を懐へおさめた。
「けど、その子供はドラゴンのエサだったのかもしれねぇよ?」
「心配無用だ。それが本当にオレたちの尋ね人なら、おとなしく食われてはいない」
珍しくヒュンケルの口元に笑みが浮かんでいた。振り向きもせず、言葉を続けた。
「地上ものが珍しいか?」
声をかけられた相手はびくっとした。魔族崩れらしい旅人で、ヒュンケルの背後からその手元をのぞきこんでいたのだった。
ラノの見る限り、酒場じゅうの者たちが地上から来た三人を注視している。旅人、酒場の客といえばまっとうに聞こえるが、この魔界ではたいていの者がおいはぎやスリを兼ねていた。
「ハッハッハ!」
いきなりクロコダインが、大きな口を開けて笑い声をあげた。
「おやじ、酒の在庫はたっぷりあるのか?」
「は?まあ、あるにはあるが」
よしっ、と隻眼を光らせてクロコダインが宣言した。
「探索成功を祈願して、今店にいる皆さんに一杯ずつおごろう!」
おお~っと歓声が沸き上がった。クロコダインが店の中を見回した。
「オレたちの前祝だ、あんたらも呑んでくれ。気持ちよく酔っておもしろそうなことを思い出したら、オレたちにも教えてくれ」
「ごちになりますぜ」
「太っ腹なワニさん、いや、ワニ旦那」
「いや~、いい時にきた!」
魔族、獣人、モンスター等々種族はさまざまでもそろって酒好きの客たちはいそいそと酒を注文に来た。
「ワニ旦那は地上から来たんだって?知ってるかい?魔界にゃ五つの大陸があったんだが、そのうち二つは完全に黒い海に沈んだんだ」
「昔はこの辺りは全部一つの大陸だった。海面があがってきたんで、山だったところが残ってバラバラの島になっちまったが」
「あんたらが言ってた竜の谷ってのは、橋でつながった隣の大きな島の奥だ」
旅人たちは口々にそう言った。ぐび、と音を立ててクロコダインは自分の麦酒を呑んだ。
「黒い海か。またなんだってそんなことに」
「昔からじわじわ黒い海が広がってきたんだが、五年くらい前、どーんと水位があがってなあ。それ以来、引きゃしねえ」
「そいつは難儀な話だな」
「難儀もいいとこさ!」
「住処をなくしたやつが、まだ残ってる陸地をうろついて迷惑でたまらねえ」
酔っぱらいの一人が言い出した。
「ここらにあの首無しが出たらしいぞ」
周りの酔っぱらいどもが、一瞬沈黙した。
「あれか?骸骨馬に乗った首無しの騎士か?」
「狼ゾンビと屍カラスの群れが後から群がってたっていうから、そうだろうな」
旅人たちは、そろって嫌な顔をしていた。
ヒュンケルはつぶやいた。
「首無し騎士とは、何者だ?」
「生きてる頃はニンゲンだったらしいぜ」
ぴく、とヒュンケルは眉を動かした。
「あんたも人間か。でも、かかわりあいになるなよ?なんでも、昔お仕えした主君の姫を探して、今でも魔界をさまよっているんだそうだ」
「人探しなら、私たちと同じね」
とマァムが言った。
けっと獣人の一人がつぶやいた。
「あの首無しが死んだのは何百年も前だろう。姫様てのも、もう生きちゃいねえよ。気がふれていたって話だし」
ふむ、とクロコダインはつぶやいた。
「死してなお、主君の姫を探す骸の騎士か。魔界らしいと言えば魔界らしい話だが、哀れなものだ」
店主がとうとつに叫んだ。
「この酒樽は空になっちまった。お客さん方、今樽を変えるから待ってくれ!」
早くしろ!と急かす声で酒場は一気にさわがしくなった。
「マスター、お代はこれで」
マァムが小声で言って、巾着ごと金貨を渡していた。
「まいどどうも、お嬢さん」
新しい酒樽からいそがしく酒を注ぐ手を止めずに店主は言い出した。
「あ~、よかったら塔の上の階に泊まっていくかい?」
「気持はうれしいけど、すぐに隣の島へ渡りたいの」
店主は首を振った。
「そいつはおすすめしないよ。今日の潮かげんじゃ、海面があがりすぎてるからな。ヤツに見つかるよ」
クロコダインたちは、はっとして顔を見合わせた。
「この塔に旅人が多いのは、ひょっとして引き潮待ちをしているわけか?」
蜂蜜酒のマグを抱えた魔族が、声をかけた。
「あんたらも、ヤツを見たのかい?」
「巨大な海蛇のことか。こちらにもいるのか?」
「いるさ、いるいる。黒い海のあるところならどこにだっている。特に鐘を鳴らそうもんなら、海から飛び出して襲ってくるぜ」
別の獣人が話しだした。
「今じゃあ黒い海のあるとこには、必ずヤツが、ヤツラがいて、海に近寄ると長い首を突き出してなんでも食っちまうんだよ」
「おいら、知ってるよ。黒い海は海蛇のセンサーみたいなもんなんだ。鐘なんか鳴らさなくたって、そりゃ、どこにいたって気付くさ」
そう話しかけた狐顔の獣人は泣き上戸らしく、ぼやきをまぜた。
「あ~あ~、バーン様がおいでのころは、ヤツラもっとおとなしかったんだがなあ。厳しいお方だったが、強いことは魔界で一番強かったからよぉ。大陸なんか、全部バーン様のご支配だったんだ」
クロコダインたちは互いに顔を見合わせた。
「一番強いは聞き捨てならねえな!」
シュプリンガー系統の竜族がからんだ。
「ヴェルザーさまのほうが強かったぞ」
「なんだとう!?」
まあまあ、とクロコダインが割って入った。
「それでは魔界には、三つの勢力があったわけか。大魔王バーン、冥竜王ヴェルザー、そして黒い海の蛇の群れ」
はぁ、と獣人たちは肩を落とした。
「でもヴェルザー様は魔界で成敗され、バーン様も地上で討伐されちまった。どちらかでもおいでだったらよぉ。せめてバーン様が」
「もう、よせや。バーン様は戻ってこねえよ」
「けど、あのお方が太陽をもってきてくださったら、ヤツラ干上がっちまっただろうに」
ヒュンケルがたずねた。
「ヤツは、太陽が弱点なのか?」
「そうらしいぜ?まあ、魔界じゃないものねだりだがな」
すん、と狐の獣人はすすりあげた。
「そんなだから、おれたちゃ潮を待つんだよ。橋と黒い海の海面が一番離れている時間を見計らって、橋を渡るのさ」
なるほど、とヒュンケルはつぶやいた。
「次の干潮は?」
「明日の朝だ」
●
その夜、周辺一帯はほとんど嵐だった。かなりの雨量がふりそそぎ、強い風に乗って横殴りに降っていた。
朝になって雨足はゆるんだが、嵐雲は低く垂れこめ、橋は強風にさらされていた。
最大の引き潮は早朝だった。その時間帯が近づくと旅人たちは荷物を背負い装備に身を固め、塔の下、橋の手前に集まった。
「おい、さっさと渡れよ」
「ああ?俺はまだいい。あんた先に行きな」
「ごちゃごちゃ言うな。たぶん大丈夫だ。行けって」
「やだよ」
ラノもまた、その場にいた。
――みんな考えることは同じだな。
誰かひとり橋を渡ってはくれないか。万一海面下に海蛇がいたら、その一人目が犠牲になることだろう。海蛇がそいつを食っている間に走って橋を渡れば、自分は無傷で隣の島へ行かれる。
もっと言うなら、数人でいっしょに橋を渡りいざ海蛇が襲ってきたら、その中の一人を生贄がわりにぶん投げればいい。
お互いにお互いを横目でうかがい、嫌な雰囲気になっていた。こういう時は互いに威圧しあって、一番弱い者が犠牲になる。
――まさか俺じゃねえだろうな。
ラノは嫌な予感に身を縮めていた。
がやがやと声がした。塔の中から、クロコダイン、ヒュンケル、マァムの三人が出てきたところだった。
「あら、順番待ちなの?」
あいかわらず地上もんは見当外れだ、とラノは思った。
「いいや、誰が先に行ってもいいんだぜ?あんたら行けよ」
マァムがこちらを見た。
「あなた、ええと、ハイン・モイ・ラノって言ったわね」
ヒュンケルも気付いたようだった。
「こんなところにいたのか」
クロコダインがのぞきこんできた。
「このリカントと知り合いなのか?」
巨体の獣人の視線にさらされて、ラノは身を縮めた。威圧というならこの場にクロコダイン以上の威圧感の持ち主はいないだろうと思った。
「何度か、でくわした」
ヒュンケルが簡単にそう言うと、ほう、とクロコダインはつぶやいた。
「ラノよ、おぬし、この二人が魔界に不慣れと思って侮ったのだな?」
耳が痛い思いでラノはうつむいた。
「そりゃ、こっちからからんだのは本当だが、俺だってその姉ちゃんと、仲間の魔法使いにだいぶやられたんで」
「そこはチャラか」
わっはっは、とクロコダインは笑った。
「では、いろいろと思い知ったはずだな」
思わずラノは舌打ちした。まだ笑いながらクロコダインが言った。
「賢くなってよかったなと言っておるのだ。さてヒュンケル、だいたいのところは呑み込んだ。この場をどうする」
ラノは、クロコダインたちの背後の旅人たちがそっと後ずさりするのを見た。おまえ、行ってこい、と言われるのを怖がっているようだった。
「これだけ海面から距離があれば、何とかなると思うが」
橋の下の海を眺めてヒュンケルがそうつぶやいた。
「影響は感じるか。黒い海は、体力より気力、身体より心に不調をもたらす」
マァムは、手のひらを軽く握ったり放したりしていた。
「大丈夫。戦えるわ」
とマァムが答えた。
ふむ、と言ってクロコダインが戦斧を肩へ担ぎ上げた。
「オレはもともと、黒い海の影響はあまり受けん。ヤツが出たら出たでお相手しよう」
橋をにらんで気合を入れた。隆々とした筋肉、炯炯とした眼光。ラノは一瞬、この獣人に見とれた。
「ぐずぐずすると引き潮が終わるな。行くか」
ヒュンケルは片手でマントの襟を背にはねあげ、長い歩行杖を手にした。
「準備はいいわ」
静かにマァムが応じた。
クロコダインが斧を構えた。
「古来、先駆けは武人の誉だ。参る!」
旅人たちがいっせいにどよめいた。
「バカか!」
「気でも狂ったか、わざわざヤツのエサになりに行くとは」
「冗談じゃないぜ」
地上から来た旅人たちは、暴風雨の中をまっすぐに走りだした。ラノはハッとした。
「よしっ俺も行くぜ!」
本気か!と誰かが背後で叫んだ。
「ヤツが出たら巻き添え食うぞ、ってか、おまえ巻き添えにされるぞ」
「あいつらを信用できるのか?」
ラノは振り向き、雨風に負けないように声を張った。
「あいつらのことはよく知ってんだ。やつらはバカだ。魔界ずれしてなくて、お人好しで、誰かを踏み台にするなんてこと絶対にしないほどのバカだ」
旅人たちのざわめきが静かになった。
「だから俺は行くぜ。有利な引き潮を逃したくねえからなっ」
もともとリカントの足は速い。ビースト系一、二の俊足でラノは旅人たちに迫った。
黒い大波が橋をめがけて押し寄せた。波頭が泡になってそこだけ白く見える。波のすぐ下に悪意に満ちた赤い目が見えるようで、ラノは背筋がぞくぞくした。
マァムのすぐ後ろを走っていたヒュンケルが、突然足を止めた。
「いるぞ!そこだっ」
次の瞬間、ヒュンケルの指した海面に巨大な水柱が立った。銀鱗のバケモノが、まるで呼ばれたかのようにまっすぐ首を突き上げてきた。
先頭にいたマァムはすでに海蛇とわたりあっていた。足を大きく開いて腰を沈め、気合とともに拳をいれた。
ラノは驚きのあまり声も出なかった。あの海蛇が頭を半分吹き飛ばされて、悶絶しながら海面下へ逃げて行った。
「次はそっち、すぐあとにそこからだっ」
なぜこの男は海蛇が襲ってくる前にそれがわかるのか。ラノは唖然としていた。
クロコダインは予測された場所を狙って戦斧を振りきった。喉を真一文字にかき斬られ、盛大に体液をまき散らして蛇は沈んだ。
警戒もあらわにマァムは海面を見ている。
「これだけ海面と距離があれば、黒い海でも生命エネルギーを削ぎ取る力が弱いわ。いける!」
「いや、ヤツら、海面下で回復しているようだ」
ヒュンケルがそう言った。クロコダインは目をむいた。
「蘇生回復の速さ、ヒュドラの系統か。キリがないとは」
「だがやるしかない。一斉に来るっ」
激しい水音、飛び散る水しぶき。もともと大粒の雨の中、橋が水浸しになる。五、六頭ほどの海蛇が次々と襲い掛かってきた。
「全部倒そうなんて思わないで!」
信じられない高さまで跳んだマァムが、なんと上から一頭にかかと落としを入れて叫んだ。
「前方の個体だけ倒したら、その間に走りましょう!」
「それしかないな」
ヒュンケルがつぶやいた。つぶやきの終わる前に、白い光が走った。すぐに金属が反射したのだとわかった。ヒュンケルが手にしているのは細めの直刀だった。
――あの杖、仕込み杖か!
目にも止まらない速さで海蛇の顎を貫いたらしい。ずぶずぶと音を立てて引き抜くと蛇の頭がだらりと弛緩した。
青黒い体液を刀身から振り落とし、ヒュンケルは刀を杖に納めた。
「こっちはやった。無事か?」
むぅ、とクロコダインがうなった。
「こちらは二頭だ」
「私は三頭!」
「では、今のうちだな、いそぐぞ」
武器を下げたまま三人が走っていく。
すぐ前を行くクロコダインが振り向いた。
「何をやっとるか!走れっ」
一瞬ためらったが、ラノも後に続いた。
くっ、と前方のヒュンケルがうめいた。
「一頭すり抜けた!気をつけろ!」
すりぬけた、って、何を?ラノがきょろきょろした時だった。生臭い息を背後に感じた。
思わず振り向いたラノは、大きく口を開けた巨大海蛇の顔をまともに見てしまった。
「ぎゃあああっ」
絶対に食われる、そう思った瞬間、刃うなりをラノは聞いた。たたらを踏みながら前のめりにラノは跳び出した。
「クロコダイン!」
反対にマァムとヒュンケルがこちらへやってくる。血相が変わっていた。
クロコダインは、戦闘用の大きな斧で海蛇の下あごを橋へ縫い付けていた。顔の上半分が歯列を噛み鳴らして大暴れしていた。
「いかん、来るな!壊れるぞ!」
その言葉が終わる前に、クロコダインの足元の要石がひとつ抜けた。
「クロコダイン!早くこっちへ」
だが、いくらクロコダインでも海蛇の大きさは桁違いだった。斧を抜いた瞬間にひと吞みにされるのはまちがいなかった。
思わずラノは叫んだ。
「なんであんた、俺のためなんかに!」
斧を持つ腕は筋肉が盛り上がっている。渾身の力で海蛇を抑えているらしい。
「おまえの叫ぶのを聞いたのだ、リカント」
その状況で、クロコダインは静かに笑った。
――やつらはバカだ。魔界ずれしてなくて、お人好しで、誰かを踏み台にするなんてこと絶対にしないほどのバカだ。
「士は己を知る者のために死す、と言うぞ」
ヒュンケルが駆け寄りながら叫んだ。
「だめだ、クロコダイン!今、オレが」
視線だけ動かしてクロコダインは仲間を見た。
「ダイを探せ、ヒュンケル」
足元からぼろぼろと石が零れ落ちる。
「必ずダイを助けろ」
その瞬間、クロコダインは斧を解き放った。白刃を三列に植え付けたような上あごがギロチンのように落ちかかる。抜いた戦斧を下から上へ、クロコダインはたたきつけた。
声にならない怒号をあげて海蛇が暴れた。断末魔の海蛇は、橋の残骸をついに砕いた。
「行けえええっっっ、走れえええええっっっ!」
クロコダインの怒号が背中を押した。きつく目を閉じてヒュンケルが首を振った。物も言わずにマァムを促して橋を渡り始めた。
マァムは一度ためらい、意を決したようすでヒュンケルの後を追った。
海蛇がクロコダインの身体を口の中に呑み込み、大きく身を起こした。勝利に驕ったかのように頭部を高くもたげ、海上高く蛇身をくねらせた。が、くぐもった声が聞こえた。
「獣王激烈掌!」
ラノの目の前で海蛇の頭部が倍にふくらんだ。かと思った時、眼球が先に飛び出し、蛇の頭は大量の肉片と化して爆発四散した。
ラノは、蛇の残骸にまじってクロコダインが落下するのを見た。
「おい、あんた」
ラノは、落下した方の側の橋の欄干に飛びつき、どこへ流されるか見届けようとした。
――今なら助かるんじゃないか?
「どこだ、どこだっ」
暴風雨の中、黒い海に落ちたクロコダインを探してラノは身を乗り出した。
「ラノ!危ない!」
遠くからマァムの叫びが聞こえた。と同時に足元の感触が消えた。橋を形作る石の崩落がついにラノの足元を崩したのだった。
●
雨風はようやくおさまってきた。空のどこか遠くにある光源が傾き、大気は赤みがかって見えた。ヒュンケルたちは疲れ切って橋の根元に座り込んでいた。
引き潮は早朝、クロコダインが流されたのはそのすぐあと、二人はその日のほとんどを捜索に費やしたが、無駄に終わっていた。
「状況を整理するぞ」
とヒュンケルは言った。
「クロコダインは流されただけで、死んではいなかった。そして種族特性として、水中の移動はむしろ得意のはずだ」
ええ、と低い声でマァムが答えた。
「クロコダインが無事ならこの近くに泳ぎ着いていると思って探したけど、見つからなかった。海流でかなり流されたのかもしれない」
「水中であの海蛇の群れに再び襲撃された可能性もある」
想像したくもないことだったが、可能性はあった。
「ヒュンケル、私、あとから海に落ちたリカントを、クロコダインが捕まえたのを見たわ。二人とも傷ついていたけど、息はあるようだった」
ヒュンケルは、ダイの羅針盤を取り出した。輝聖石は二人のいる土地の内陸を指していた。
「マァム、行こう。日が暮れる」
「でも!」
ヒュンケルは膝をつき、マァムの目をのぞきこんだ。
「オレたちが魔界に来たのは、ダイを探すためだ。違うか」
へとへとのマァムは、両手で顔を覆った。二人とも食事も休息もとっていない。
ええ、とマァムはつぶやいた。
「クロコダインも、そう言っていた」
ヒュンケルは自分の額を妹弟子の額につけた。
「いい子だ」
ようやくマァムは、結論を出した。
「ダイが見つかったら、みんなでクロコダインを探しましょう」
よし、とヒュンケルはつぶやいた。旅の荷物を背負い直し、ヒュンケルたちは歩き出した。二人の前には、魔界の大地が広がっていた。