善か悪かと問うなら、大魔王バーンはまちがいなく悪だった。が、赫赫と輝く闘志をまとい、恐れを知らぬ鋼の意志を備えた巨悪だった。
白のチュニックの上に黒と金の肩当をつけてその下をマントで覆い、複雑な形の兜を装備した大魔王は、悠々と空中にいた。
兜の下からは長い白髪が流れ、あごにも白髭をたくわえている。そして額の中央に第三の目があった。
己の宮廷を歩むかのように大魔王は虚空に歩を進め、眼下の海を傲然と見下ろした。
「ここまで来れば、余の話を聞けるか?」
遥か下方には魔界の紫色の海が広がっている。島の一つにある崖の前に、現在よりはるかに小さいメドーサボールがいた。タコの触腕のように銀の鱗の海蛇を岸壁に貼り付けて、メドーサボールは目を見開き、身を震わせていた。
「まずは挨拶をしておこうか。余が大魔王バーン、現在の魔界の覇者だ」
メドーサボールは怯えた目で見上げた。
ふ、とつぶやいて老魔王は口角をあげた。
「そう恐れずともよい。ここまで追い詰めたのは、おまえが逃げ隠れをするからにすぎぬ。いきなり命を絶つつもりはない」
老魔王は空中で向きを変えた。まるで物理的な床が空中に存在するかのように、優雅な足取りで足元を入れ替え、チュニックの裾をさばき、マントと長い袖をふわりと振って形を整えた。
その瞬間、メドーサボールが崖の前の海面めがけて飛びこもうとした。
「カラミティウォール」
海底から空中までを覆う光の波がバーンの足元に噴出し、メドーサボールめがけてばく進した。カラミティウォールは崖を真っ二つに立ち割ってようやく止まった。
「ニクイ、ウラメシィッ!」
悲鳴を上げてメドーサボールが岩の上へ飛び上がった。
「このカラミティウォールでおまえの棲み処の黒い海からここまで追い込んでやったというのに、まだ喰らい足りぬか、愚か者が」
淡々とバーンはつぶやいた。
「忌憚のないところを言っておこう。おまえはおぞましい。戦うことをせず海の中へ逃げ隠れ、海を黒く変えて着々と領域を広げる。魔界の言葉もろくにしゃべらず、志らしきものも見せぬ」
メドーサボールは恨みをこめて老魔王をにらみつけた。
「だが、魔界の空をヴェルザーが取り、魔界の大地を余が統べる今、魔界の海を牛耳るのはおまえであろう。おまえがヴェルザーにつくことは、ここで阻んでおく必要がある」
バーンの手が長い袖の中に一度もぐり、豪華な装飾を施した杖をつかみだした。
「余について大魔王の同盟者となるのが最良の選択肢だ。いかにおぞましい存在であろうと、おまえが己の領域の中で何をするかについて、余は口を出すつもりはない。だが」
バーンは杖の先端をメドーサボールに向けた。
「同盟を断る、ヴェルザーを選ぶ、または単に余と敵対するならば、容赦はせん」
ぶつぶつつぶやきながらメドーサボールは震えていた。
「念のために言っておくが、この周辺の海は我が配下のマーマンたちが固めている。やすやすと逃げられると思わぬことだ」
メドーサボールはぶるっと全身を震わせた。バーンは眉をひそめた。
メドーサボールを中心に、周辺の海の色が変色している。淡く紫がかった魔界の海が、墨を流したように黒々と染まりかけていた。
ふ、とバーンは笑みを浮かべた。そして、天を仰いで哄笑した。
「ははははっ、それがおまえの抵抗か。余の魔力を吸い取ろうとするか!」
くっくっと笑いながらバーンはわざわざ海面近くまで降下してみせた。
「教えてやろう。余の魔力は、無尽蔵だ」
どうした、ん?と嘲るようにバーンはつづけた。
メドーサボールは救いを求めるように一つ目を動かした。
「知っているぞ。きさまに物理攻撃を与えるとそのダメージを反射するそうだな。だが、攻撃されなければ反射も使えぬな。なすすべ、なし、か」
ぎらっとバーンの視線が熱を帯びた。
「無力。無能。無知。魔界に生まれ、なにひとつ持たざる者ならば、誰よりも貪欲に求めるがいい!それすら怠って逃げ隠れに徹したゆえに、おまえは醜く、そしておぞましいのだ」
吐き捨てるようにそう言うと、バーンは杖を掲げた。
「おまえには飽いた。死ね」
杖を空中に舞わせれば、カラミティウォールの光の波が四方八方からメドーサボールに襲い掛かった。
噴出する闘気は周囲の海水をほぼ消し飛ばしていた。身を隠す海から切り離され、メドーサボールは濁った悲鳴を上げた。
杖を持たない方の手をバーンは高く掲げた。その老いた手の長い指から、炎が噴きあがる。暗くよどんだ魔界の空の下に炎は燃え盛り、やがて紅蓮の鳳凰と化した。
「カイザーフェニックスの贄となれ、醜い大目玉よ」
紅の巨鳥は力強く羽ばたいてメドーサボールに襲い掛かった。
その瞬間、黒い水面から空中へ突きあがるものがあった。メドーサボールは、無数の細い海蛇を銀鱗の触手としてバーンめがけて投げかけ、足に絡みついて引き下ろした。
「む……」
とつぶやく間さえバーンに与えず、メドーサボールは海蛇の大群でバーンの全身を覆った。
「恨ム、恨ム、恨ム!ワレヲ苛ムモノハ、ミナコウシテ」
勝利に酔うかのようにメドーサボールはわめきたてた。
純白の閃光が走った。
びくりとしてメドーサボールがその場に固まった。触手の残骸がコマ切れとなって飛び散り、青黒い体液とともに次々と海面へ落下した。あたりに生臭いにおいが満ちた。
「無礼者がっ!」
白のフード付きコートで全身を覆った人影だった。目をみはるばかりの手練れであり、手刀のひと振りで触手をすべてたたき斬っていた。
空中にダメージ反射の衝撃波が生じた。だが、反射は白いコートの裾をひるがえすのみで、コートの主はまったく影響を受けたようすはなかった。
「きさまごときが我が主君の手をわずらわせるなど、もってのほか。ここで成敗してくれよう!」
低い声でそう宣言し、手練れはメドーサボールのなれのはてへ迫った。
恐怖で固まっていたメドーサボールが黒く変色した海へ飛び込み、汚い水柱が立った。
そこへ向かって白いコートの男は手のひらから衝撃波をびしびしと飛ばし続けた。
「ミスト、もうよい。あれは逃げたようだ。落ち着くがいい」
老魔王がそう呼びかけた。
ミストと呼ばれた白衣の男は、ようやく攻撃をやめ、息を整えようとした。
「私としたことが、つい取り乱しました。どうか、お許しを」
「珍しいことだな。ここまでおまえが乱れるとは」
それは、過ちをおかした家臣に対する主君の態度というよりは、気に入りの孫をあやす好々爺の口調に近かった。
仕草で、ついてまいれ、と告げて、バーンは空中を動き出した。恥ずかしさにうなだれて、ミストがそのあとを追った。
バーンは白いチュニックの大きな袖を交差させて腕を組んだ。
「あれの何が、そこまでおまえを苛つかせるのだ?」
そう言うと、腕組みをしたままミストのほうへ視線を投げた。
「……ご存じでいらっしゃいましょう、あの醜い、おぞましい者と私が、同族である、と」
ふふ、と大魔王は声を立てた。
「何のことかと思えば、また」
ミストは押し黙っていた。
ふいに魔王は立ち止まり、手を伸ばして、無造作にミストのフードの中に手を入れた。
「おまえはあのような、おぞましい者とはちがう」
位置的に、ミストのあごを直接つかんでいるようだった。
「天地魔界に声をあげ、誰はばかることなく名乗るがよい、我こそは大魔王バーンの第一の側近、最も信頼厚き家臣なり、と」
ミストは低くささやいた。
「ありがたき、幸せ……」
かすかに笑みを浮かべたまま、ふわりと袖をひるがえしてバーンはまた歩き出した。
「さて、あのメドーサボールとは決裂したということだな。いずれとらえて処刑せねばならぬが、黒い海へもぐりこまれては容易に見つけることもならぬ。どうしたものか」
バーン様、とミストは言った。
「あやつの弱点は太陽です」
なに、とバーンはつぶやいた。
「あの黒い海そのものが太陽の光に照らされれば雲散霧消いたします。あれ自身も太陽光にさらされては、ひとたまりもないはず」
「なるほど。ということは、余の計画をそのまま進め、地上をすべて破壊して、太陽をして魔界を隅々まで照らしめればよいということか」
戯れをこめて、大魔王はつぶやいた。
「善き哉、善き哉」
●
ふいにダイがたずねた。
「それ、本当?」
「それとは、何のことだ?」
とヴェルザーが聞き返した。
「ミストバーンとあのメドーサボールが同族だって話」
ふむ、とヴェルザーはつぶやいた。
「念のために尋ねるが、ミストバーンがどのような者か、知っての上でオレに聞いているのだな?」
「知ってるよ」
ね?とダイはヒュンケルたちを見回して同意を求めた。
「知っている」
とラーハルトが答えた。
「ついでに言うと、オレはあいつの身体に一撃入れたこともある」
ほう、とヴェルザーは言った。
「それからどうなった?」
「しらっとした顔をしていた。『ミストバーン』の下半分がとれて『ミスト』だけになったとき、ヒュンケルが仕留めた」
「ならば話が早い」
とヴェルザーは言った。
「『ミスト』は暗黒闘気そのものがモンスター化した存在だ。もともと実体のない思念体で、その本質は戦いへの執念だった。もうはるか昔のことだ。それよりあとになって、魔界と冥界が偶然重なり合った時、ひとつの暗い怨念から影のようなモンスターが誕生した。いわば恨みの塊よ」
ヒュンケルはつぶやいた。
「恨み?何の恨みだ」
「忘れた。興味もない。要するに、恨みを呑んで死んだ魂がモンスター化してしまったのだ」
「それって『シャドー』とか『あやしいかげ』みたいなモンスターのことだろ?」
とダイが聞いた。
「そんなモンスター、たくさんいるんじゃないの?」
「たしかに、それまでにもそのような思念体はいたのだろう。だが、これもまた偶然に、そやつはあのメドーサボールを選んで取り憑いた。そして海の中で際限なく巨大化し、黒い海を造り出すようになった」
あのさ、とダイは真顔になった。
「そもそも黒い海って、何?」
生まれたばかりのドラゴンの姿をしたヴェルザーは、まだ柔らかそうな首を動かして考え込んだ。
「オレも魔界の民もあれを『海』と呼んでいるが、塩水でできているわけではないのだ。なんと言えばよいか、あれは暗黒闘気になる前の何かだ」
「何かって?」
「哀しみ、憎しみ、妬み、または劣等感、焦り、殺意、怒り、後悔、不安。そのような負の感情だ。そういった感情は重くてな。下へ下へと流れ落ちる。その行きつく先が魔界だ。いや、違うな。このような負の感情を流して捨てるゴミためを魔界と呼んだのだろう」
「誰が?」
「古の神々よ」
あっさりとヴェルザーは答えた。
「神々がこの世の仕組みを決めたのだ。魔界には太陽を与えないと決めたのも神々だ」
ダイは、茫然としていた。
「そんなの、ひどいじゃないか」
「おお、ひどいとも。こうして負の感情は魔界の底へたまり続けた。あのメドーサボールは負の感情を黒い液体に変える力を持っているらしく、あやつのまわりには常に黒い海があふれ出る。そうしてできた黒い海は、生き物の生命エネルギーを削ぎ取り、吸収するというやっかいな性質を持っているのだ。しかもあらゆる負の感情を吸い寄せるから、海の水位は年ごとにあがっていく」
ダイは床を見つめてつぶやいた。
「おれ、神々ってもっと優しいんだと思ってた」
「竜の騎士の小せがれ、おまえは神々に会ったことがあるのか?」
ダイはうつむいたまま首を振った。
「なら、お前の言い分はただの思い込みだな。さて、話を戻すぞ。やがてメドーサボールは黒い海を魔界中に広げていった。結果的に空をオレが、大地をバーンが、海をあやつが支配する形になった」
ヴェルザーは、打ち明け話の口調になった。
「三つの勢力が鼎立したのだ、ヤツとの同盟をオレもバーンも、一度は考えたさ。二対一のほうが有利に戦えるからな。それができなかったのは理由がある。同盟しようにも、ヤツとはまったく意志疎通ができなかった」
ヒュンケルは聞いてみた。
「なんとか言葉を発していたようだが。憎いとか」
「確かにあれは、共通語を知らぬでもないようだ。だがあのメドーサボールの場合、言葉は通じても話が通じない。求めるものが全く異なっていた」
幼竜のヴェルザーは尾をパタつかせた。
「バーンは破壊を夢見た。オレは所有を欲した。だが、やつは何も求めない。すべての生き物が死滅した暗黒の海の底で呪詛をつぶやき、ありとあらゆる生命を憎むのみだ。いうなればやつは、世界の不幸を望んでいる」
「ちょっと待って」
とダイが言い出した。
「もしかして、おれたちがあのメドーサボールを退治できたとしても、魔界が黒い海に沈むのは止められないの?」
「止められないさ、誰にもな。もともとそういう仕組みなのだから」
とヴェルザーは答えた。
「あやつがいなくなれば黒い海の水位上昇は多少遅くなるだろうが、遅かれ早かれ、魔界は沈む」
「だけど、それじゃあ、世界の仕組みを変えれば」
ハッとヴェルザーは嘲笑った。
「天上界へ攻め入って神々を指図する気か。それではバーンと変わらん」
ダイは両手で額を支えてうつむいた。
「なんで神々は世界をこんなふうにしたんだろう」
「それをオレに聞くのか?地上と魔界を見渡して、最も天界に近いのはおまえだろう」
ダイはきょとんとした。
「おれ?」
「そもそも竜の騎士とは神々の遺産だ。そして勇者は天に選ばれたる者だと聞くぞ。だが、因果なものだな、勇者とは!自らの存在理由たる魔王を、自らの手で抹殺するのが宿命だ。竜の騎士の小せがれ、おまえは今、本当に勇者なのか?」
ガタ、と音を立ててヒュンケルが、ラーハルトが、クロコダインが動こうとした。ダイは仕草で、待って、とみんなを抑えた。
ヴェルザーは小気味いいという顔で大きく伸びをした。
「そういうわけだ、神の定めにより魔界は変えようがない。逃げることしかできんのだ。それを呑みこんだのなら、オレを地上へ連れていけ」