オーシャンクローの島の入り江の風はそれほど強くなく、波は穏やかだった。ライディングにのぞむ一行は船で入り江の中央までこぎ進んでいた。
舟のこぎ手がつぶやいた。
「今日はまた、波の下が騒がしいぞ」
クロコダインは腕組みをしたまま気配を探るように目を閉じていた。
「むぅ。ライディングには良い日和だ」
そう言って隻眼を開いた。
船をあやつるのは海に特化した竜族オーシャンクローたちで、その一人、クロコダインと顔見知りの戦士タァンニは、じっと波の下の気配をうかがっていた。
「ちょうどいい。出てきますぞ」
その言葉の通り、入り江の水面が渦を巻き、その中から金色の外骨格で覆われた頭部が現れた。
「あれはシャークマジュです」
ほう、とクロコダインはつぶやいた。
「オレは何度もこの入り江を出入りしているが、そのたびに会うぞ。人懐こいのだな」
「本当に?あいつはめったに水面には出てこんのです」
とタァンニは答えた。
「この入り江に匿われている水龍の中で、あいつはおそらく一番強い。入り江の主という格です。貴殿はシャークマジュに気に入られているのでしょうな」
クロコダインは開いている方の目を細め、にやりと笑った。
「強いと言うなら安心した。よい勝負になりそうだ」
鮫に似た顔でシャークマジュはこちらを眺め、ゆらゆらと漂っている。赤いうろこに覆われた本体ははるかに長大で、短い前足があるのが見えた。
「すげえ口だな。あの歯を見ろよ。ってか、牙だな」
船に同乗していたポップがつぶやいた。
「おいダイ、おっさんのライディング、だいじょうぶか?がぶっとやられたらお陀仏だぞ。いっそライディングは、やったことにしてスルーでいくねえ?」
「う~ん、ごまかしはちょっとね」
とダイは答えた。
わはは、とクロコダインが笑った。
「そうバカにしたものでもないぞ、ポップ」
「だってさ」
「おまえの心配ももっともだが」
クロコダインはポップよりもシャークマジュの目を見ていた。
「チカラとチカラを競う以上、馴れ合いはなしだ。それがモンスターの、魔界の流儀でもある」
タァンニはじめ、オーシャンクローたちも異論はないらしかった。
「クロコダイン殿、その鎧を着けたまま潜る気か?」
オーシャンクローの一人に聞かれて、にや、とクロコダインは笑った。
「この重さが必要なんでな」
そして、小舟の船底からどっしりとしたイカリを取り上げ、イカリにつながる太い鎖を右腕の肩にぐるぐる巻きつけた。
クロコダインは船端に立ちあがった。それだけで小舟の重心がぐっと傾いた。
いきなり大口を開けると、クロコダインが雄たけびをあげた。
「うぅぉぉぉおおおおおおっっっ!」
魔界の大気が震え、水面にその振動が伝わった。ダイとポップにさえ、衝撃がわかった。
「自信があるならオレの挑戦を受けろ、だ。意味は伝わったはず」
静かだった水面がしだいに波立ち始めた。水底から巨大な生き物が次々と浮上してくる。水平線の上には黒雲が集まってきた。
風が変わる。気温が下がる。低く不穏な鳴き声が威嚇を込めてあちこちから起こった。
シャークマジュは水中からさらに体を伸ばし、上空からクロコダインたちを眺めた。丸い目は相変わらず無表情だが、気配が変わりつつあった。
――おっさんの挑戦を、受ける気か。
入り江の主は何ひとつ譲るつもりはないらしかった。
シャークマジュは頭から水面へ突っ込んでいきなり潜り始めた。
クロコダインが大声で呼ばわった。
「よし、行ってくるぞ!」
「気を付けて!」
いくつもの声援を背中に浴びてクロコダインが海中へ飛び込んだ。
しばらくは何も起こらなかった。
闘いは海の中で起こっているので、舟からは何一つわからない。だがタァンニはじめオーシャンクローたちはさかんに声を上げていた。
「泡が、あんなところに」
「う、すごいうねりだ」
ダイの隣でポップが心配そうにつぶやいた。
「水に潜ってからかなりたつんだが、おっさん、だいじょぶか」
ダイは薄く目を閉じてつぶやいた。
「おれにわかるのは闘気だけだけど、クロコダインは大丈夫だよ。こっちのは……シャークマジュかな。ぴったりくっついてる」
「じゃ、真っ最中だな。おっさんのことだから、息が続かないってことはないだろうがよ」
オーシャンクローたちが騒ぎ始めた。
「ここじゃ、まずい」
「少し離れなければ」
オーシャンクローもまた海の竜族だった。水面下の気配で危険を悟ったようだった。
「竜の騎士殿、退避しますぞ!」
次の瞬間、すぐそばの水面が突然波立ち、水柱が立った。シャークマジュの巨大な頭が水柱から飛び出した。
おそらく水面下から全力で空中へ飛び上がったのだろう。メドーサボールのあやつる海蛇たちとほぼ同じサイズのシャークマジュは、ほとんど全身を海面から飛び出させ、鮮やかに身をひるがえし、重力にまかせて自らを水面にたたきつけた。
集中豪雨のような飛沫が降り注いだ。
「おっさん、あそこだ!」
ポップが叫んだ。
シャークマジュに比べると、さしものクロコダインも小さく見える。だがシャークマジュの頭を覆う金色の外骨格にとりつき、大きな口で鎖をくわえ、今まさにシャークマジュの首を締め上げようとしている瞬間だった。
オーシャンクローの戦士たちが歓声を放った。シャークマジュと共にクロコダインは水中へ姿を消した。
ほとんどすぐに、やや沖よりの水面から再びブリーチングが起こった。どうやってもクロコダインを振り落とすことができず、シャークマジュはいらだっているらしかった。長い本体とその先の尾びれでビシバシと水面をたたいている。
クロコダインはまだ、シャークマジュの頭につかまっていた。が、太い鎖が水龍の首に巻き付いている。その先端のイカリが鎖の目にからみ、首輪のようになっていた。
ぐい、とクロコダインが鎖を引いた。引かれたのと反対の方角へシャークマジュが逃れようとした。
クロコダインはシャークマジュの首のあたりに足の爪を食い込ませ、鎖をたぐって直立している。獣王はたくましい腕で水龍を御し、全身に浴びる飛沫をものともせず、豪胆な笑顔を見せていた。
一方シャークマジュは怒り狂っていた。全身を波打たせ、再び空中へ大ジャンプで飛び出した。舟の中のダイたちからは見上げるような高みにシャークマジュの頭部はある。クロコダインは鎖を肩へ担ぎ直すと、その高みから一気に飛びおりた。
オーシャンクローたちから悲鳴が上がった。
まっさかさまにクロコダインは落ちていく。鎖の“首輪”に引かれてシャークマジュがのけぞり、水面へ倒れ込んだ。
轟音が鳴り響き、巨大な水柱がいくつも立ち上がった。
「でも、今、クロコダインの笑い声が聞こえた」
「おれも」
ダイとポップは顔を見合わせた。
しだいに波のうねりは小さくなってきた。オーシャンクローたちは黙ったまま水面に目を凝らしている。
ダイの感覚でも水面下の闘気の塊が、しだいに静かになり、集約していくのが感じられた。
ちゃぷ、と入り江が波立った。
「おい、あそこだ」
タァンニが指さした。水が濃いめの紫色を帯びている。青みを帯びた水面のすぐ下に深紅色の竜が長々と浮かんでいるのだろう。それが、動き出した。
見物の舟は一斉にその動きにならった。やがて、竜も舟も浜へ集まった。
「お、おっさんよぉ」
とつぶやいて、ポップが絶句した。
全身ぐしょ濡れのクロコダインが肩に担いだ太い鎖の先にシャークマジュの巨体を引いて浜へ上がってくる。水中から出れば浮力もなくなり、すさまじい重さだろうに、クロコダインは砂を踏みしめて一歩ずつ進んできた。
「誰かこいつに回復を」
ポップが飛び出した。
「おお、ポップか。頼む。まだ死んではいないだろう」
「こんなデカブツ、何をどうすればこんなんなるんだよ。ベホマで間に合うのか?こいつ、目ぇ回してるぞ」
回復呪文を使いながらポップはぶつぶつぼやいていた。
ダイもかけつけた。シャークマジュはようやく目を開いた。爬虫類らしく無表情な目がクロコダインを見つけた。
「よう、悪かったな」
クロコダインは首から鎖を外してやっていた。
「おっさん、こいつ逃げちまうぞ?」
「心配するな」
そう言うと、片てのひらをシャークマジュの皮膚につけた。
「呼んだら来てくれるか」
シャークマジュは短めの前肢を浜につけて身を起こした。鼻孔がふくらみ、ふすふすと鼻息がもれた。
――モンスターたちの中には、オレの直接の命令しかきかぬ奴らもいる。このガルーダもその一匹だ。
昔クロコダインがそう言っていたらしい。なんとなくダイは、このシャークマジュもそうなるのだろうと感じていた。
「来てくれるそうだ。ダイ、これでいいか?」
うん、とダイはうなずいた。
「もちろん。クロコダインはおれの海戦騎だ。ありがとう」
シャークマジュの鼻先にダイは手を触れた。
「きみもだよ」
水龍の肌は鱗で覆われ湿っていたが、どことなく温かい、と思った。
●
そのリカント、ラノはオーシャンクロー一族の居候だった。漂流の結果オーシャンクローの砦に住みつき、一族の移住と共にとある島へ引っ越してきて、そのまま下働きや子守りのような仕事を引き受け、いっしょに暮らしていた。
オーシャンクロー一族の族長トランが、滅亡しかけている魔界を捨てて他の世界へ移住すると決断したとき、オーシャンクローたちは当然のようにラノを連れて行くと決めた。それもいいか、とラノもついていく気になった。
「ちと狭いが、箱舟の出来上がるまでの辛抱だ」
族長のトランといっしょに先頭を歩いている大柄な獣人がそう言った。その場所は不思議なところだった。外から見ると岩だらけの小島、だがトンネル状の入り口から内部へ進むと広い空洞があり、満々と水をたたえている。
巨大メドーサボールの支配する魔界の黒い海から隔絶された、秘密の地底湖だった。
ラノたちの視線はその湖に造られたドックに釘付けになっていた。
「なんだ、あれ、何なんだ……」
ドックに横付けされているのは、ぴかぴかの新造船で見たこともないような大きさだった。
「あれと同じ船があと三隻出来上がる。四隻で船団を組んで別の世界へ行こうという計画なのだ。ただそれまでは他の避難民とこの隠れ家で出発を待ってもらうことになる。不自由をかけるが、我慢していただきたい」
「クロコダイン殿」
とトランは言った。
「貴殿は一族の恩人だ。そのていどのことは喜んで受け入れよう」
オーシャンクローたちに避難と移住を提案したのは、クロコダインという獣人だった。クロコダインはオーシャンクローたちに味方して戦ったといういきさつがあり、トランとも旧知の仲だった。
そもそもラノがオーシャンクローたちのところへ連れて来たのが、このクロコダインだった。
「おまえ、ラノか。よく無事でいたな!」
ラノと目が合うと、低く太い声、隻眼を輝かせ、大きな口でにっとクロコダインは笑った。ラノは頭をかいた。
「まあ、そこそこやってた」
「そこそこか。そいつはよかった」
クロコダインは族長のほうに顔を向けた。
「この隠れ家には魔界の生き残りがあちこちから集まってきている。竜族もいるが、魔族や獣人、それ以外の種族も多い」
と言って言葉を切った。
「むぅ。貴殿のご心配もわかる。一族の若い者たちにはわきまえさせる。出発まで無用な騒ぎは起こさせないように心がけよう」
クロコダインは、ほっとした顔になった。
「ありがたい。それが一番の心配事なのだ。なにせ前代未聞の脱出計画だからな」
トランがつぶやいた。
「まさに呉越同舟」
種族が違えば仲が悪いのは当たり前。意見が異なったり利害が対立したときは、強い方が正義。一度弱者になったら何をされても文句は言えない。だが強弱が覆れば、あっさりと正義も変わる。それが魔界の流儀だった。
「みんなで仲良く避難なんて、誰が思いついたんだ、いったい」
気が付くとラノはつるっと気持ちを口にしていた。クロコダインは豪快に笑った。
「竜の騎士殿の仕切りだ」
「とんでもねえ甘ちゃんだな、そいつは」
おいこら、とオーシャンクローの戦士たちが止めた。が、クロコダインは気を悪くした風もなく、楽しそうに答えた。
「うむ、おまえはダイに会ったことはなかったか。あのときオレたちが探していた相手なのだ。実に器のでかい男よ」
――この道の先で最高の友だちが待ってる。
ポップとかいった魔法使いの言葉をラノは思い出した。
「この隠れ家にいれば、そのうち嫌でも会うだろう。トラン殿、こちらへ。出発までの宿を作っておいた」
そう言ってまた先に立って行ってしまった。