マジックフライト一号の上はにわかにあわただしくなった。
「上昇!」
船長の指令があちこちで繰り返されている。姉妹艦にも伝わり、四隻の箱舟はすり鉢の谷から垂直に上昇していた。
ダイと仲間たちは甲板に集まっていた。無傷な者など一人もいなかった。無理もない、とヒュンケルは思う。自分を含め、追跡の防衛戦、首無しの騎士戦、メドーサボール戦と、立て続けに戦闘をこなしてきたのだから。むしろ、一人も欠けていないのが奇跡に近かった。
「みんな、回復取るんじゃねえの?」
とポップが言った。
シルバーフェザーを温存している仲間のほうが少ない。この状態で戦うためのエネルギーを回復するには、身体を休めて眠るしかない。
「バカを言うな」
とラーハルトが言った。
「ことここに及んで、眠っていられるか!」
「みんな、『川』のカードがどうなるかを見たがってるんだよ」
とダイが言った。
ポップは、ふん!と気合を入れた。
「そんじゃまあ、いっちょう始めるか。ヒュンケル、やつは?」
ヒュンケルは谷間全体に知覚の網を投げ、蛇の行方を捜しているところだった。
「……いたぞ。谷底だ。回復しつつある。闘気はまだ小さいが、こちらを見上げている」
まさに憎悪の権化、そして妬みと殺意の化身でもあった。
「ほかに分裂体や乗り移った個体は、見当たらない。蛇だけだ」
「そいつさえ倒せば終わりだな。よし!」
ポップ殿、と船長が呼んだ。
「もうすり鉢のふちを抜けます!」
「よっしゃ!」
ポップは手すりから身を乗り出した。人差し指と中指の間にカードをはさんでいるのが見えた。
「ポップ、急げ!蛇が巨大化している!まちがいなく姫が乗り移っているぞ」
「大丈夫、ここまで来りゃ、こっちのもんだ」
ポップの持つカードは、まず輪郭が白く輝き、それから全体が淡く光った。
「頼むぞ……第三のカード、“川”」
カードを放すと、白く光るカードはそのままひらひらとすり鉢の底へ舞い降りた。
上昇する船の上で、ヒュンケルはつぶやいた。
「カード着地……爆発が起きるのではないのか?」
ダイがつぶやいた。
「起きるよ。ほら、聞こえる。地鳴りだ」
たしかに地の底から低く重い音が連続して聞こえてきた。仲間たちは船の上からすり鉢状の谷のあちこちを見回していた。
「あのカードそのものは仕掛けの引き金を引くだけなんだ」
とポップは誰にともなく言った。
「特定のポイントに向かって魔法力を飛ばす、それだけの仕掛けさ。けど、魔法力を浴びるのは、アレだ」
大地の下に埋めた、六基の黒の核晶(コア)、とヒュンケルは聞いていた。
「さあ、弾けろ!」
ポップの声が聞こえたかのように、魔界の大地が大きく鳴動した。
異変はすり鉢の底ではなく、ふちで起こった。
すり鉢を構成しているのは魔界の山々だった。船はようやくすり鉢を越えた高さにいるので、山々の頂が見えた。
「噴火口か!」
に、とポップが笑った。
すり鉢を形づくる噴火口は六つ、そのひとつひとつの中に金朱色の点が生まれ、点は見る見るうちに円へと広がった。
「船長!もっと上へ!」
上昇、上昇、と船員たちが叫びあっている。マジックフライト二号から四号が、ヒュンケルたちの居る一号を追い越して上空へ逃れた。
ヒュンケルはつぶやいた。
「姫の乗り移った大蛇が浮いた。追ってくるぞ」
「飛べるのか。やっぱな。間に合ってくれ!」
噴火口はその願いに応えたようだった。
金色がかった赤い円は丸い輪郭を崩して噴火口から流れ出した。魔界の地下に脈々と滾る高温のマグマが地上めがけて噴きあがる。その動きは激しい鳴動と轟音を伴っていた。
いきなり真紅のマグマが夜空へほとばしった。六つの火口から六条のマグマがシャワーのように噴きあがり、すり鉢の中へ舞い散った。
激しい熱がマジックフライト一号を下からあぶり出した。下方の爆発のために船団は何度も揺らいだ。だが、どの船でも魔界の住民が甲板へ詰めかけ、空前絶後の奇観に声を上げて感嘆していた。
漆黒の魔界の空に、金と紅の飛沫が華やかに噴きあがる。噴火口からは鮮血のような溶岩流が流れ出し、黒い山肌を塗り替えてすり鉢の底へ流れ込んでいた。
「あれは魔界のマグマだ。キルバーンの血と同じ成分。てことは、マグマそのものが強烈な酸なんだ」
――だって、『川』を使ったら、あたり一面本物の地獄になるからよ。
ポップがこの罠を指してそう言ったことをヒュンケルは思い出した。
今すり鉢の中にいたら、高熱のマグマの海にさらされることになる。すでに谷底は溶岩の海だった。表面が冷えて暗赤色になった溶岩流がときどき割れ、白い水蒸気が上がり、血の色の溶岩がどろりと現れた。
「姫はどうなった?」
ヒュンケルは眼下の一点を指した。
「あそこだ」
飛び散るマグマが光源となって、そのあたりはよく見えた。大蛇は暴れながら浮上しようとしている。だが、マグマの豪雨を頭上から浴び、そのたびにうめき、もだえていた。
マグマの圧力に耐えきれなくなったのか、噴火口のひとつがすり鉢に向かって大きく崩れた。
大蛇はメドーサボールと同じ声で悲鳴をあげた。崩れた噴火口からマグマの塊が蛇に向かってなだれ落ちたのだった。
船の上の者たちは、思わず目を背けた。
「成仏してくれ……」
傍らにいるポップの口から、そんなつぶやきがもれた。その場の誰もが、気のふれた姫の最期を確信していた。
「見ろ!」
思わずヒュンケルは叫んだ。
ほとんど真下から姫の取り憑いた大蛇は上がってきた。まるで鯉が上流へ向かうために滝に挑むかのように、苛烈な強酸と地獄の炎熱をものともせず、マグマの流れの中に自ら身を投じた。
ポップは音を立てて船の手すりをつかみ、のぞきこんだ。
「なんだ、あれ」
大蛇は炎の滝をさかのぼって泳いでいた。上から灼熱の溶岩流が襲い掛かった。酸を浴びて蛇の形が崩れていく。
「なんだ、あれは」
茫然とした表情でポップが繰り返した。
大蛇の下半身はそのまま残っていた。だがマグマにつっこんだ頭部は鱗も皮も失って骨が見えた。
黒いシルエットになった骨が形を変えていく。大蛇の背骨とあばらから明らかな前足、というよりも腕の骨が生まれ、頭蓋骨の形も変化していた。大きな口が狭まり、脳の容量がましていった。
「ひと、なのか?」
ヒュンケルはぼそっと答えた。
「おそらく、人間の女だ」
全身に比しての肩幅の狭さや腕の細さ、なで肩になったライン、卵型の頭蓋骨、小さい顎などから、なぜか、女に見える。その、どことなく華奢な骨格を鱗が覆い、その下に明らかに肉が付きはじめた。
頭部からは髪の代わりに無数の細い蛇が生え、肌はびっしりと鱗でおおわれている。そしてその額にはミストバーンと同じく黒いシャドーが取り憑いていた。
「あれが、正体か!」
だがマグマの中で、みるみるうちに髪も鱗の肌も焼けただれ、ひきつれた。すでに華奢な印象はない。人間で言うなら腰にかかるほどの長さに蛇髪を伸ばし、しかも振り乱し、片側がやけどでつぶれた顔面には真紅の涙が流れていた。
怪女は船団に向かい、つかみかかるかのように指を広げて腕を振り上げ、口を大きく開けた。
「ワレカラ逃ゲルナド、許サヌゾ!」
聞きなれた声が響いた。
ふたたびあふれ出したマグマの滝がその姿を上から覆った。船団は先ほどから最大船速ですり鉢の谷から遠ざかっている。だが、蛇姫の恨みの声は姿が見えなくなっても聞こえてきた。
「憎ヤ、憎ヤ、恨ンデヤル!」
脅すような、それでいて泣くような、妄執に満ちた叫びだった。
どすん、と音がした。ポップが甲板に座り込んでいた。
「冗談じゃねえ。もうカードねえのに、あの蛇姫、まだ追ってくんのかよ」
ダイは船の手すりを握り締めた。
「なんで、そこまでして」
「理由などないのだろう」
とヒュンケルは答えた。
「蛇姫は理由があって追っているのではない。追うことが目的だ。彼女は妄執そのものだ」
ポップは両手の中に額を埋めた。
「一人も、一匹も、逃がさないってのか」
「それだけじゃないよ。見て、あれ」
ヒュンケルはダイの指す方を見た。
暗夜の中、船首方面の空の一画が、夜明けのように薄明の光を帯びている、と見えた。が、目を凝らすとその光は長方形をしていた。
「たぶん、ゲートキーパーの扉だよね」
「間違いない」
と、ヒュンケルは答えた。四角く切り取られた光はその中心に何かまばゆい輝きをもっていた。
「あの扉を、蛇姫に通らせたらだめだ。そんなことしたら地上は、魔界と同じように……」
低くダイはつぶやいた。
「どうしてもだめなら、おれが」
「いけません!」
ラーハルトだった。
「そんなことをしたら、またすべて繰り返しです。自覚していただきたい。ダイさま、あなたの行動が彼らを駆り立てることになるのです」
いつもダイのやることを全肯定するラーハルトが、珍しく正面切って諌めていた。
「でも」
「どうしても、とおっしゃるなら、必ず私をお連れ下さい」
とラーハルトは詰め寄った。
「ダイ、おれもいる」
とヒュンケルは言った。
「マァムも黙ってはいないだろう。ヒムも、クロコダインもだ」
そうだ、そうだ!と声がした。仲間たちはほとんどダイを取り囲んでいた。
「くだらんことを考える前に、あいつをここで倒しきることに専念しろ。それしかあるまい」
「待って、みんな」
ダイは両手を胸の高さにあげて、押し返したいような仕草をしていた。
「わかったよ、おれひとりで残る、なんてもう言わない。でも、最後の闘いは人数が少ない方がいいんだ」
なんで、とヒュンケルが言おうとしたとき、ポップが割って入った。
「ダイ、こういう時の憎まれ役は、おれの仕事だ」
こく、とダイがうなずいた。
「みんな、知ってるだろ」
とポップが話し始めた。
「あの蛇姫は、ミストバーンと同じ憑依型モンスターだ。最初取り憑いたメドーサボールからあいつは蛇に乗り移って生き延びた。おれたちがあいつを追い詰めたら、どうなる?次の憑依先を探すはずだ」
ほとんど全員が青ざめた。
「……蛇姫が誰を狙うか、わからねえ。もしダイが取られたら、」
そう言いさして、ポップは言葉を切った。
それがどれほど恐ろしい事態なのか、ヒュンケルにもわかった。天地魔界で最強の生き物が、すべてを憎み、破壊し始めるのだから。
「それなら、人数が多いほうがいいのではない?」
とマァムが言った。
「人数が多ければ、取り押さえることができるかもしれないわ?」
う、とか、あ、とかうなるばかりで、みな声が出なかった。
「無理だ。おれたち全員でかかっても、ダイを取り押さえるのは不可能だ」
――あのとき、憑依されたマァムを抑えられなかったように。
「ま、そういうわけだ。戦いに参加する人数を少なくすることで蛇姫の選択肢も少なくする。そのほうが対処しやすい」
ポップは振り向いた。
「ダイ、アタッカーを選抜してくれ」
うん、とダイは言った。
「戦うのはおれとポップ。理由は、ポップがメドーサボール戦に参加していなかったから、まだ魔法力が残っていること。それと、いざってときに、ポップならおれを消滅させることができるから」
「しかし」
ラーハルトが言いかけたのを、ダイはやさしく、だがきっぱりとさえぎった。
「ラーハルトはおれの竜騎衆だろ?なら、おれの判断を信じて」
ダイは、相手の目を見て語っていた。子供だったころと違って、ラーハルトとダイの目線はほぼ同じ高さにある。ついにラーハルトが言った。
「……お心のままに」
ダイは優しく目を細め、ありがとうとつぶやいた。
「マァム、飛竜たちを使って、みんなを別の船に移動させてくれる?みんな、避難民たちを先にゲートキーパーのところへ届けてほしいんだ」
「……わかったわ。それなら今の私にもできるし、足手まといになるよりいいわね」
「ありがとう。頼むよ」
あどけないような笑顔でそう言って、ダイは踵を返した。
「じゃ」
と短く告げて、ポップもヒュンケルたちに背を向けた。
「ポップ」
と言ってはみたが、ヒュンケルにはそのあとの言葉が見つからなかった。
仲間たちに背を向けて、ダイとポップだけが去っていく。
ふいにポップが足を止めて、首だけ動かしてこちらを見た。
ポップの手が動いた。
片手でマントを横にたぐり、人差し指だけ長く伸ばして背中のベルトを指した。
ポップのベルトの背中側に白いものがはさまれている。
キメラの翼だった。
●
ラーハルトは後を追っていきたそうなようすだった。
「未練がましくするな。ダイの指示を聞いたはずだ。さっさと移乗するぞ」
ヒュンケルが腕をつかんで抑えると、ラーハルトはまだぶつぶつとぼやいていた。
「きさま、ここぞとばかりに。ダイさまにあのようなことを言われて落ち着いていられるか」
「ポップはキメラの翼を持っていただろう?」
「それがどうした?」
「魔界探索の時にさんざん使ったはずだ。あれは合流呪文リリルーラを込めたマジックアイテムだ」
それって、とマァムが言った。
「ポップはいざとなったら、ダイの腕をつかんでリリルーラで地上へ飛ぶ、と思っていていいのよね」
「おそらく」
とヒュンケルは答えた。
「ただダイの性格からして、そんなことをしたらポップはだいぶ恨まれることになるだろうよ」
とクロコダインが言い添えた。
「倒すと約束した蛇姫を放り出してくるのだから」
「それでもポップは、たとえ恨まれてもダイを助け出すだろう。だから、ラーハルト、安心しろ」
とヒュンケルは答えた。
ラーハルトはまだ悩んでいた。
「やはり気になる。ダイさまに万一のことがあったら」
「心配のし過ぎだ。そもそも、ダイとポップだぞ」
特に表情を変えることもなく、当たり前のようにヒュンケルは言った。
「最強のタッグだ」