ダイの大冒険二次・捏造魔界編 第七話 死人沼

 魔界の山に、雨が降っていた。
 この雨が降ってくる元は、はるか上なのだとラノは聞いたことがあった。雨は天界から降り注ぎ、地上にあふれて川となり、この魔界へしたたり落ちる。そして、最後に行きつく先があの黒い海だった。
 ラノは腕で自分の身を抱え込み、うつむいた。リカント族の身体はびっしりと青い獣毛で覆われ、ちょっとやそっとの寒さにはへこたれない。身体の傷も回復している。が、心に負った重傷はまだじくじくと痛んでいた。
 顔を伏せると、呼気が白くけぶった。そのあたりの岩をタンタンと打つ雨だれの中、もれてくる会話にラノは神経を集中していた。
 パチパチと火の燃える音が聞こえる。焚火でもあるらしい。そこは山中の岩が左右から重なり、うまく雨を遮る場所だった。ポップたちはその奥で野宿をすることに決めたようだった。
「ポップ?聞こえますか?」
 それはラノの知っている三人以外の声で、おそらく大人の男だろうとラノは思った。
「先生!」
 ポップの反応はうれしそうだった。
「ばっちり聞こえてるぜ!」
「ああ、よかった。そちらはどうです?マァムたちは?」
「私はここです。ヒュンケルもいっしょです。ちょっとケガをしてますけど」
「ケガ?大丈夫ですか?」
「山道で足を少し。問題ありません」
「それは何より。その土地はどうですか?魔界と言えばマグマが地表を流れる灼熱の土地というイメージがあったのですが」
 どことなく飄々とした、いわばのんきな口調だったが、ポップたちの反応からして彼らはこの男をずいぶん信頼しているようすだった。
――先生とかいうこの男、今までどこにいたんだ?
 ラノは首を振った。おそらく、“先生”はどこか遠くにいて、何かのアイテムを使って彼らに話しかけているのだろう。
「それが、どっちかというと寒いくらいで。たぶんマグマの流れは黒い海の底になってしまったんだと思います」
「山の上の村はどうでした?」
「無事に通れました」
とマァムの声が答えていた。
「でも、前回の報告から状況はあまり変化していません。ダイの羅針盤が示すところへ行くには海を渡る必要があります。黒い海は魔法力を吸い取るから飛翔呪文は論外、船で行くしかないのに、海の底には巨大な海蛇がいて生き物を襲います。こちらの住人は魔族や獣人ですが、地上とはかなり価値観が違うようです」
 先生、とポップが言った。
「山の上の村にいた魔族はロン・ベルクを知ってました。岩を掘って鉱石を取る一族みたいです。ロン・ベルクに会ったら、そいつらが魔界で待ってるって言ってもらえませんか」
「わかりました。なるほど、刀鍛冶には鉱石掘りの知り合いがいても不思議はないですね。さてと、前に話した時に橋があるらしいと言ってましたね。確認はできていますか?」
「橋そのものは山の上から遠目で見ました。渡れるかどうかの確認はまだです。ここからだとちょっと距離があるので」
 ヒュンケルがそう答えた。
「それがさ、先生」
とポップが話しだした。
「岩堀族が言うには、途中に嫌なところがあるんだって。死人沼って言うらしいけど、そこには近づくな、って会うやつがみんな言うんだよ。生き物がそこへいくと、引きずり込まれるって」
「ひきずりこまれる?よほど深い沼なのですか?」
 三人は説明に困っているようだった。
「岩堀たちも、怖いから近寄らないんで詳しいことは知らないって。でも、なんとなく不吉なところらしいです」
「ふうむ。土地の訳知りの言うことなら、言う通りにしておいた方がよいでしょう」
「そっか、そうですよね。死人沼をつっきっていけば橋まで近いんだけどな。遠回りで行くしかないか」
「あせることはありません。交代の期日まで何日かあるでしょう。ダイ君を見つけるまで安全第一ですよ、ポップ」
 先生、とポップが言った。それまでとは違う口調だった。
「交代のことですけど、おれ、一度地上へ戻りたいんですが」
「ほう?」
「魔界の海はヤバイです。魔法力を吸い取る海は、魔法使いには鬼門もいいところで何か対策が必要です。おれ、マトリフ師匠に相談しようと思ってます」
「それは、私も考えていました。ふむ、いいでしょう。みんなで相談しましょう。マァム、ヒュンケル、あなたたちも一度地上へ戻りますか?」
「オレは残ります」
とヒュンケルが言った。
「誰かひとり残らないと、交代で魔界へ来る者のための目印がなくなりますから」
「ひとりなんて言わないで」
とマァムが言った。
「先生、私も残ります。今のヒュンケルを一人にしておけません」
「心配のし過ぎだ、マァム」
 あきれたような口ぶりでヒュンケルがそう言った。
「ラーハルトと万全の体調で試合をするためにオレは体力を温存しているだけだ」
「でも!」
 まあ、まあ、と先生がなだめた。
「では今回の戻りはポップということで。クロコダインが交代してくれるそうです」
「え、おっさん魔界生まれじゃないのか?」
とポップが口走った。
「先生、大丈夫なんですか?」
「ゲートキーパーとの約束では、短期間で地上へ戻るなら出自は不問ということになっています。では始めましょうか」
「わかりました。ヒュンケル、目印持っててくれ」
 よしっ、とポップがつぶやいた。
「何事も初回ってもんがあるからな。ものは試しだ」
 野宿の岩場からポップが出て来たので、遠目で見ているラノにもその姿を確認できた。ポップは懐からキメラの翼を取り出し、暗い空を見上げた。
「地上へ……先生のところへ!」
 その瞬間、ポップの身体は金色の光に包まれた。一条の光と化してポップは遥か上空へ消えていった。
「うまくいったようだな」
「そうね。あとはクロコダインがうまく到着すれば」
 その言葉が終わる前に、別の光が空から降ってきた。あたりを揺るがす衝撃と轟音を伴って、それは岩場のそばへ激突した。
「大丈夫?!」
 マァムもヒュンケルも外へ出てきた。光の中から立ち現れたのは、見上げるような体格のモンスターだった。
「ここが魔界か」
 太い声でそう言った。ヒュンケルより一回りも二回りも大きな体はごつごつした固い皮膚に覆われている。爬虫類系モンスターのようだった。立派な鎧に身を固め、分厚い戦斧を手にしている。歴戦の勇士であるらしく、その片目は刀傷でつぶれていた。
「そうよ。ようこそ、クロコダイン」
 開いているほうの目をやや細め、親指を上げて、クロコダインは不敵な笑みを見せた。
「生命力を吸い取る海とやらは、近いのか」
「山の上だからかなり遠いわ。でも、気を抜くと気力が減るの」
 むぅ、とうなってクロコダインは軽くこぶしを握り、ひじから先を動かした。
「オレはそれほど影響を感じないぞ。まあ、もともと獣人は魔界に所属するからな」
「あのリカントもそんなことを言っていたな。クロコダイン、おまえは魔界生まれなのか?」
「実はわからんのだ。物心ついたときには地上にいた。魔界には武者修行に来たかったのだが、実際に来たのは初めてだ」
 野宿の場所からマァムが呼んだ。
「とりあえず、こっちへ来て。雨宿りできるから」
 まずい、とラノは思った。叩きのめしてやると誓ったポップは手の届かないところへ行ってしまい、交代でやってきたのは見るからに強そうな獣人だった。やはり“兄貴”に頼み込んでこいつらをたたいてもらうしか手はなさそうだった。
「ちくしょうめ、どうしてこうなった……」
 ぬすっとうさぎたちから物資を巻き上げて上納する予定だったのに、ラノにはできなかった。実は“兄貴”に事情を話して少し待ってもらっているのだが、よりによって地上から来た人間たちにやられたと言った時、兄貴と仲間たちはバカ笑いとあざけりで応じたのだった。
 焼きが回ったな、鈍くせぇ、ふざけてんじゃねえぞ、とさんざんな言われようだった。
「人間たちの中に“ヒュンケル”というやつがいる?魔界の剣豪と同名たあ、とんだ名前倒れだな!おまえ、そんなやつらと張り合って負けたのかよ!」
 言われた嫌味を思い出してラノは頭を抱えていたが、ふと気づいた。
「ポップが何か言ってたが、あのヒュンケルってやつ、ほんとに戦ってないよな。足もくじいていたようだし、あいつだけならなんとかなるんじゃねえか?」

 あたりはうすく霧がかかっていた。
 岩堀族たちの村は、この島の中央にある山の中腹にあった。橋は山道をたどって海岸まで降りた場所にあり、そこまでの道のりは森の中の長い下り坂だった。
 クロコダインが先頭に立ち、荷物を持ったマァムがその後ろ、最後に自分、ヒュンケルという順序で一行は坂を下りていた。
 周囲は高い樹に囲まれている。空は相変わらず重苦しい曇り空だったが、海岸近くで吹いていた強風はなく、あまり空気は動かなかった。
 とちゅうでマァムが斥候に出た。というより、気になるものを見つけたようだった。
「木の向こうに白い煙の玉が上へ向かって吹き上げていったのが見えたわ。誰かが助けを求めているのかもしれない!」
「オトリかもしれん。気を付けるのだ」
「ええ、すぐ戻るわ」
 そう言ってマァムは行ってしまった。
 やれやれ、とそのときクロコダインはつぶやいた。
「五年ぶりだが、マァムは変わらんな」
 その口調にヒュンケルは苦笑を誘われた。
「彼女はそれでいい」
「こいつはごちそうさまだ」
 次の瞬間、二人とも身を固くした。女の悲鳴だった。
「マァムか?」
 ちがう、とヒュンケルは思った。
「微妙なところだ。どうする、クロコダイン」
「我々をバラバラにしようとしているのではないか?」
 うむ、とヒュンケルはうなずいた。
「オレの読みも同じだ。今はともに行動すべきだ。二人で行ってみるか。あちらのほうだったな」
 そう二人が判断したときにはもう、霧がわきはじめていた。ヒュンケルたちは警戒しつつ進んでいた。が、暗く荒涼とした魔界にふさわしく、濁った紫の霧がたちこめ、あたりを包み始めた。
「まずいぞ」
 クロコダインに話しかけようと振り向いたとき、ぞっとした。霧の中にクロコダインの背が遠く見えていた。何か見えない存在にむかってクロコダインはしきりに呼びかけていた。
「ヒュンケル、単独で動くな!」
「おれはここだ!」
 とっさに叫んだが、クロコダインは幻のヒュンケルを追いかけたまま行ってしまった。
 分断されたと悟った時、最初にヒュンケルが取った行動は、荷物を背に固定し、歩行杖を取り、眼を閉じて気配を探ることだった。
 闘気技の使い手は闘気を感じ取ることができる。闘気すなわち命のエネルギーは、大小の差はあっても生き物なら必ず備えているものだから。
 マァムはよほど遠くにいるらしく、感じ取れなかった。クロコダインも遠ざかっていく。
 ぴく、と杖を取る手が震えた。ヒュンケルは跳び下がった。今まで自分がいた場所に何かが勢いよく振り下ろされた。
 刃、と認識するよりも早く第二撃が来た。
――二刀流か!
 ぐしゃ、と音がして靴が泥の中にはまりこんだ。第三撃をかわすことができたのは奇跡だった。
 自分の方向感覚が狂っている、とヒュンケルは気づいた。クロコダインと同じく、自分も間違った方向へ誘導されていたらしい。
――ここは、死人沼か。
 胸の高さへの刺突と、それに続く胴へのなで斬りを避けて、ヒュンケルは動き続けた。
 どこまで動いても、樹木一本ない。沼、草地、足の沈み込む泥、ところどころに平たい岩、それだけだった。視界のほとんどは暗い色合いの霧に覆われていた。死人沼は果てしなく広がっているように思えた。
 ふいに真後ろから刃が突き出された。ほほに一筋、切り傷ができたらしい。血が顔をつたって流れ落ちるのを感じたが、痛みの感覚は不思議と鈍かった。
 ヒュンケルは動きながら気配を探った。
 明らかにこちらを殺そうと襲ってきた者がいる。それなのに、殺気がない。気配も感じない。
 ラーハルトが餞別に渡してくれた杖を手に、ヒュンケルは心を鎮めようとした。
 どれだけ気配を殺しても、物理的に質量はある。
――敵の足が沼に踏みこめば、水音がするはず。
 足元の感触を頼りにヒュンケルは動いた。水たまりの真ん中に立てば、敵は音を立てずに接近することはできない。
――これで攻撃が来たなら、相手は遠距離攻撃技を持っていることになる。
 それはそれでやっかいだった。が、少なくとも相手の情報は得られる。そう考えてヒュンケルは身構えた。
 ぴっ……という音をとらえた瞬間、ヒュンケルは杖の握りを顔の前まで斜め上に引き上げた。
 ガガッと音がして、杖に刃が連続してぶち当たった。
 その衝撃で留め金がはずれたようだった。歩行杖、に見せかけたさやが壊れ、滑り落ちた。内部に仕込まれていた、定寸無反りの直刀がむきだしになった。
 ヒュンケルは腰を沈めた。仕込み刀を逆手に持ち、相手が沼の中に立っているならすねを払うような高さで振りぬいた。
 金属音をたてて攻撃は防がれた。ヒュンケルは敵の足元をすり抜けるようにして間合いを取った。
 霧の中でヒュンケルは、仕込み刀を構えて立った。視界ははばまれ、呼吸は荒くなっている。だが、不思議なほど気持ちが高揚していた。
 ばしゃっと激しい水音がした。敵はもう忍び寄ることをあきらめたらしかった。勢いよく剣が襲ってきた。
 これまでに二刀流の戦士と戦ったこともあった。が、霧の中から襲ってきたこの敵は、斬撃の手数がさらに多く、一撃一撃が早く、かつ重かった。
 こんな流儀は見たこともない。両手に持った剣を、水車のように振り回しているのだろうか。
――多少、動けるようにしていてよかった。
 アバンのすすめで魔界突入の前に基礎の動作を繰り返し、自分の身体に再度パターンとして覚え込ませた。そのおかげで今、致命傷を防ぐことはなんとかできる。だがこちらから攻撃する余裕がなかった。
 霧の湿度は汗となって額に浮かび、剣を受けそこねてできた傷からは血がにじんでいる。
 真横で水柱があがった。これはフェイク、そう判断し半歩避けて防御の形を取った。
「!」
 思いがけない角度から斬りたてられ、ヒュンケルは体勢を崩しかけた。
 刀の柄から片手を放し、片手を水中につき、おもいきりヒュンケルは蹴り上げた。
 手ごたえがあった。敵は一度間合いを取ったようだった。
 気が付くと霧がやや、薄くなっていた。相変わらず魔界の空は薄暗かった。だが、目が慣れてモノの輪郭がおぼろげにわかるようになった。目を凝らすと敵の姿もどうにか視認できた。
 敵はかなりの大男に見えた。胸のあたりに一か所、黄色っぽく見えるところがあった。鎧の留め具か何かがかすかな光を反射しているのかもしれない。
 ヒュンケルは刀を構え直した。こちらから間合いを詰め、まっすぐにその黄色い点を狙った。
 突如二刀が交差してヒュンケルの武器をはさみ、直進を阻んだ。それ以上深追いせずにヒュンケルは退いた。
――この防御をオレは知っている。見たことがある。
 心を平静に保とうとヒュンケルは深い呼吸を始めた。いやおうなしに記憶がよみがえってきた。
 剣技の型、生命のエネルギーの希薄さ。
「おまえはアンデッドか」
 世界が静まり返った。
 静寂が確信につながった。吹き始めた風が沼の水面にさざ波を作っている。どこか遠くで小動物の鳴き声がする。うなじを汗が伝う。魔界の花々が花弁を広げ、その匂いで虫を誘っている。
 ただひとつ、暗い霧の中で黄色い点が動いていた。
 物も言わずにヒュンケルはその標的を斬り下げた。
 無言のラッシュが始まった。ヒュンケルの一撃に対して数回の斬撃が降り注ぐ。それをすべてしのぎ、わずかなチャンスに攻撃をしかける。その繰り返しだった。
 一度ゾンビ系だと気付くと、いろいろなことが腑に落ちた。幼いころから地底魔城で暮らし、育ての親をはじめまわりには多くのアンデッドがいた。魔王軍の軍団長となったとき、配下はほとんどすべて白骨だった。
「おまえから、死者の匂いがする」
 剣を交えて近々と斬りあうと、慣れ親しんだ匂いがわかった。ぐぐ、と音がした。敵がもらした、初めての声だった。笑ったのかもしれないとヒュンケルは思った。
 次の瞬間、強烈な一撃が来た。数年前に剣士として愛用していた剣より、仕込み刀は刀身、柄、ともに細い。強打を支えきれずに指が一瞬、柄から浮いた。その浮きあがりを敵が見逃さなかったのか、偶然か、敵は鋭く刃を返した。
 刀が弾き飛ばされた。
 遠い水面にばしゃりと音がして、武器を奪われたことをやっとヒュンケルは悟った。
――オレは死ぬのか。魔界で。こんなところで。
 マァム、ラーハルト、エイミ、それにダイ、アバン、仲間たち。目の前にいくつもの顔が浮かんだ。
 本当は、それでもいいと思っていた。どうせもう、戦士としての自分は死んだのだ、生きながらえてどうする、と思っていた。
 それでも生きていたのは、ラーハルトのおかげだった。死ぬ前に一度、オレと真剣勝負をしろ、そのためだけに体調を戻せ、とラーハルトは言った。
 ふいに耳の中に師の声がよみがえった。
――ヒュンケル、あなたは再び武器を取ることをためらっているのではないですか?
 先生はお見通しだったな、とヒュンケルは思った。自分が生きていることが正しいかどうか、ずっと疑問だった。自分がこの先も剣をふるっていいのかどうか、わからなかった。今でも答えは出ていない。
 頭の上から刃が落ちてきた。
「ここで終わってたまるかっ!」
 ヒュンケルは、敵の刃の下から飛び出して体当たりをかました。
 他のモンスターに比べてアンデッドの身体はもろい。相手がひるむのに乗じて、ヒュンケルは間合いをあけた。
 武器もなく、敵の攻撃にさらされていることに変わりはない。
 だが霧の中でも相手の輪郭がわかり、黄色の点が所在を教えてくれる。そしてこの敵は、必ず同じ方向から最大六回の攻撃を放つ。四、五、六と攻撃の回数を数えて身をかわした。
「このヒュンケルの見切りをなめるなよ」
 ぎりぎりまで追い込まれて、身をかわしつづけるのはこれが初めてではなかった。
 そんなことがなぜできるのか、あまり考えたことはなかった。アバンやミストバーンの指導を受けていたころから、できて当然だった。
――おれも父さんみたいに強くなりたいんだ。剣術を教えてよ!
 始めて父にそうせがんだのは、六歳のころだった。だが、その前も小さかったヒュンケルは観客席の陰から父が闘技場で模擬試合を行っているところをずっと見ていた。こっそり剣の構えをマネして、やってみたこともあった。
 地底魔城で過ごした子供時代、アンデッドの剣士たちの修練をずっと眺めていたころに、見切りの目は養われていたのかもしれない、とヒュンケルは思った。
 地底魔城、アンデッド。ヒュンケルは自分の手を見下ろした。
――闘魔傀儡掌ならアンデッドの剣士を抑えられるか?
 暗黒闘気の糸を放てば、と考えてヒュンケルは首を振った。自分の中の暗黒闘気は、おそらく全滅している。
――まだだ、オレにはまだ、何かできる。
 光の闘気で。
 網を作る。
 もうすぐ激しい連続攻撃が来る。このアンデッドの襲撃者は、今まで戦ってきた敵の中でもずば抜けた実力者だった。多彩な攻め口をもち、すべての剣技の水準が高い。
 あせるな、と自戒して、ヒュンケルは目を閉じた。闘魔滅砕陣のイメージは、頭に刻み込まれていた。
 光の闘気を糸のように細く伸ばし、さらに編み上げる。
 雨上がりの蜘蛛の巣のような繊細な光の網を自分の周辺に広げる。
 そこに、敵を捕らえる!
 いきなり世界は鮮やかによみがえった。ヒュンケルは息を呑んだ。死人沼の地形、水の浅深、周辺の森、弾かれた刀の落ちた場所、敵の位置等々の情報が、脳裏に直接注ぎ込まれた。
 敵の動きは奇妙だった。大気ではなく濃厚なゼリーの中を進むように、遅く、もたついている。ヒュンケルは相手を闘魔傀儡掌のようにがんじがらめにしているわけではないが、敵のほうが光の網にからめ取られてうまく動けないようだった。
 バシャバシャと水を蹴ってヒュンケルは落とした刀を拾いに行った。敵が追ってくるのがわかった。
 ヒュンケルは拾い上げた刀を突きの形に構えた。
――今、ブラッディースクライドを使えば。
 ヒュンケルはためらった。意識の下で何かが警告していた。
 この敵は、たぶんブラッディースクライドに耐えることができる。それだけの実力がおそらく、ある。ならば、防御できない攻撃を仕掛けるしかない。
 光の網がもたらす情報をさらい、ヒュンケルは死人沼の一か所に、背後に大きめの岩がある平地を見つけた。わざと水音を響かせてそこまで逃げ、向き直った。
 敵が追ってくる。暗い霧の中を、黄色い点が近づいてくる。
 壊れかけのさやに、一度仕込み刀を納めた。その状態でヒュンケルは、湿った土の上に片膝立てて座り、うつむき、目を閉じた。
 霧の中を敵が接近してきた。光の網がその動きをとらえ、わずかにもたつかせる。せいぜい半秒ほどの遅れができるだけだが、半秒あれば十分だった。
 手にした仕込み刀の鯉口を切ってヒュンケルは待ち構えた。
 敵が走りながら剣を振り上げ、ヒュンケルに迫った。おそらく、確実に「取った」と敵は確信しただろう、こちらは斬ってくださいとばかりに頸を差し伸べているのだから。
 敵の刃が頭上に落ちる。その動きを、半秒だけ、遅く。
――今だ!
 立てた方の膝に重心を移し、同時に闘気を爆発的に高め、仕込み刀を鞘走らせた。
 目指すは、先ほどから見えていた黄点だった。
 カッと音がして、不思議に軽い、乾いた衝撃があった。
 沼の中に片足を踏み込み、一撃を放った刀を前方に保持したまま、ヒュンケルは背後の敵の気配を探った。
 乾ききった白骨が、ばらばらと砕けていくのがわかった。
 自分のあごから血の混じった汗がしたたり落ちた。
 ゆっくり体勢を戻し、ヒュンケルはようやく振り向いた。
 敗れた敵の剣士は、すでにひと塊の骨となっていた。見ている前でその骨は空気に溶けた。
 ふとヒュンケルは足元に黄色いものを見つけて、手に取った。指で触れるとそれは二つに分かれた。自分が切断したものに違いなかった。
 敵の胸のあたりに見えていた黄色いものは金属だろうと思っていた。だがそれは、軽かった。おそらく紙と思われた。しかもかなり古い、とヒュンケルは考え、次の瞬間、息を止めた。
 二つに分かれた紙片を手の上で寄せると、星の形になった。
――これはオレが昔、作って、父さんに……。
 アンデッドの腕利きの剣士。二刀流ではなく、六刀流だったのだ。
「父さん、父さん!」
 あたりを見回し、ヒュンケルは迷子の子供のように父を求めた。
――強くなったな、ヒュンケル。
 声にならない声がヒュンケルを呼んだ。
――お前が生きていることが正しいか間違っているかは、天寿の終わる時に初めてわかる。
 地獄門の守護者バルトスは、そうささやいた。
「待ってくれ、父さん!」
――さあ、生きるのだ、ヒュンケル。想い出を、ありがとう。
 それを最後に、父の声は途絶えた。

 クロコダインはマァムと共に探し回り、ようやく沼のふちにたたずむヒュンケルを発見した。ヒュンケルは、顔も腕も擦り傷だらけ、服はぼろぼろで特に足元は泥だらけになっていた。
「何かあったのか?!」
 放心した表情でヒュンケルがゆっくりふりむいた。
「おまえたちは、無事だったか」
 うむ、とクロコダインはうなずいた。
「土地のチンピラが待ち構えて襲って来たのだが、たいしたことはなかった。それより、大丈夫か?奴らの話では、この死人沼は魔界と冥界が重なり合う土地のひとつで、生きている者が冥界に引きずられることもあるそうだ。早く、出よう」
 マァムが近寄った。
「ヒュンケル、泣いてるの?」
「聞いてくれ、マァム、クロコダイン」
 静かにヒュンケルは笑った。手の中の何かを、マァムに差し出した。
「父さんが、来てくれたんだ」
 涙があふれてほほをつたい、流れ落ちた。