マァムはレオナの髪をそっと撫でた。
「五年も悩んでたのね」
うん、とレオナは言った。
「誰にも言えなかったの」
「そうよね。辛かったよね、かわいそうに」
今になって、ダイの覚悟を知った。
「ねえ、私、思うのだけど」
どうすればレオナの心を上向かせられるのか、マァムはわからなかった。なんとか思いついたことを言葉にしてみるしかなかった。
「あいつ、バーンはたぶん、ダイに揺さぶりをかけたんじゃないかしら」
「揺さぶり?」
「バーンにとっては、ダイがイエスと答えて勇者が手に入ればよし、もしノーだったとしても“勝っても無益”とダイの頭にすり込めれば自分に有利になるわ。でもその言葉はダイを今も縛っているのね、呪いのように」
戦士や武闘家が手合わせの前に敵に心理的な揺さぶりをかけるのはそれほど珍しい事ではないと、マァムは実体験で知っていた。
レオナは、沈んだ目でつぶやいた。
「問題は、ダイ君が今でもその呪いにかかっているかどうかね。『バランの時と変らない』ってダイ君にとっては辛い宣告だから。ダイ君の周りの人はソアラ姫のように迫害される可能性があるっていうことなのよ」
そう話しているレオナこそ、その可能性の筆頭だった。
「だったら誰にも迷惑をかけないために地上へ戻らない、ってダイ君なら考えたかもしれない」
少し考えて、そうね、とマァムは肯定した。
「可能性はあるわ。でもダイが本当はどう思ってるかなんて、誰にもわからないわよね。だから私たちが行くのよ。行って大魔王の呪いを解くわ」
レオナが、ぎゅっとマァムの手をつかんだ。
「あたしも行きたい、行きたいっ!」
一度止まった涙が再びあふれてきた。その顔を自分の胸に引き寄せて、マァムはつぶやいた。
「声、殺さなくていいのよ。たくさん泣くといいわ。誰にも見せられない涙に、私、朝までつきあうから」
レオナの嗚咽は止まることはなかった。
●
ホルキア大陸の中央にある火山性の高地には、その日大勢の人間が集まっていた。
カールとパプニカの兵士たちが協力して簡単な天幕を立ち上げている。その中にパプニカのレオナ、カールのフローラアバン夫妻、その随従や警備兵などがひしめいていた。
天幕のまわりには、客たちが集まっていた。ひときわ巨大な姿は、クロコダインだった。彼の周りには同じく獣人のチウ、モンスターのブラス、ヒム、そして魔族のラーハルト、ロン・ベルクらが顔をそろえていた。
「なんでこんなに人が集まっちまったんだ?まるでお祭りだこりゃ」
片手を目の上にかざして周りを見回すポップの背後でヒュンケルがつぶやいた。
「誰かさんが世界中で言いふらしたからではないのか」
ポップは小さくなった。
「おれ、ついうれしくて」
「たいへんなのはこれからだぞ」
すぐそばで、鬼面道士のブラスがいっしょうけんめい伸びあがった。
「ポップ君、ダイのために、まことに申し訳ない。わしが行かれればよかったのじゃが」
ポップは片膝を折ってブラスと視線を合わせた。
「みずくさいぜ、じいさん。おれとダイは長い付き合いだって、じいさんも知ってるだろ?心配すんなって。きっと連れて帰ってくるからさ」
頼みましたぞ、というブラスの声は涙で湿っていた。
はっはっは、と豪快な笑い声があがった。
「ブラス老、大船に乗った気でいるといい。ポップは、やろうと決めたことはやり遂げる男だ」
クロコダインだった。
ポップはぱっと笑顔になった。
「さすが獣王クロコダイン、お目が高いぜ!」
巨大なリザードマンは、手のひらを差し出した。ポップがパン、と音を立てて自分の手のひらをうちつけた。
みなさん、と声がした。アバンフローラ夫妻が天幕から出てきた。
「今日は魔界捜索隊の見送りにおいでいただきましてありがとうございます。この捜索隊は、皆さんご存じのように五年前に行方不明になった勇者ダイを探し出して連れ帰るために編成されました」
アバンは一歩前に出て、天幕の中を指した。
「これは地底魔城に保管されていた旅の扉です。倉庫からここへ持ち出しました」
大きく広げた天幕の内部には神秘的な模様を描いた床石の基壇があった。基壇上の魔法陣の中で薄く輝く液体が波をたてて回転していた。
「この旅の扉のつながる先は魔界です。が、古の神によって配置された、と主張するゲートキーパーなる者が通行を妨げています」
クロコダインのそばで、背の高い魔族の男が身じろぎした。顔の中央にエックス字型の傷のある長い黒髪の魔族、魔界の名工ロン・ベルクだった。
「アバン殿、オレも昔聞いたことがある」
とロン・ベルクは言った。
「地上の生き物を守るために神が定めた門番がいる、その門番はえらく融通がきかず、魔界と地上の往来を許さないということだった。そんなやつがいるのに、あんたらはどうやって魔界へ行くつもりだ?」
アバンは微笑んだ。
「私たちはゲートキーパーと交渉してダイ捜索を許可してもらいました」
やるな、とロン・ベルクはつぶやいた。
「完全にフリーというわけにはいきませんでした。魔界へ入れるのは三名まで、しかも入ったら七日で戻らなくてはなりません。地上では交代要員を用意して捜索を続けます。ただし、二十八日で一区切りとなります。ここまではゲートキーパーに了解をもらっています。さて、最初の三名は」
はい、は~いっとポップが手を上げた。
「おれ、ポップと、マァム、そしてヒュンケルです」
小さなざわめきがおこった。
「ヒュンケル、やはり行くのか」
魔族のラーハルトだった。
「ああ。やっと覚悟ができた」
静かにヒュンケルが答えた。
「悪いがエイミにもそう伝えてくれ」
ラーハルトは顔をしかめた。
「平気な顔で嫌な役目を押し付けるな。ああ、これを持っていけ」
それはかなりの長さのある、表面を磨いた木の棒だった。棒の断面は六角なので、長大な鉛筆のように見えた。
「歩行杖ならば、オレも持っているが」
ラーハルトは真顔だった。
「オレの知る限り、魔界は地上ほど穏やかではないからな。少し工夫をしておいたから、こいつは役に立つだろう」
ヒュンケルはあきらめ顔で自分の歩行杖をラーハルトに手渡し、餞別の杖を受け取った。
「おまえは言い出したら聞かんからな」
「よくわかっているじゃないか。おまえが地上へもどったら、おれが交代する」
「先生」
リンガイアのノヴァが小声でロン・ベルクに尋ねた。
「先生やラーハルトさんは、魔界へ自由にいかれるのではないのですか?」
ふりむいてラーハルトが答えた。
「オレは地上生まれなのだ。ゲートキーパーの目からすれば、ヒュンケルと立場は変わらない」
「オレは魔界の産だ」
ロン・ベルクはそう答えた。
「ということは、一度魔界へ行ってうっかりひと月を越えたら、地上へは戻れなくなるということだ」
「それは、いやです!」
フッとロン・ベルクは、若い弟子に自然な笑みを見せた。
――このおっさんも丸くなったよな。
と心中ポップはそうつぶやいた。
「アバン殿」
とラーハルトが言った。
「交代要員というが、どうやって交代するか、プランはお持ちか?」
「そのことですが」
フローラは背後に向かって片手をあげた。兵士が大きなトレイを捧げ持ってきた。トレイの上には、いくつかアイテムが並んでいた。
アバンはその中から一つ取り上げた。
「リリルーラという呪文があります。ルーラの変種ですが、ルーラが場所をイメージして飛ぶのに対して、リリルーラは人、特に目印を持った人をイメージして移動します。地上と魔界の往復にはこの呪文を使います」
はああ?と誰かが言った。
「すんません、オレ、どっちかって言うと呪文苦手なんで」
そう言ったのは、ヒムだった。今日は天気がいいので、ヒムのオリハルコンボディは太陽を反射してまぶしいほどに煌めいている。ヒト型の金属生物だった。
――こいつはたしか、バーンパレス内外をルーラで行き来していたはずだよな。
とポップは思ったが、呪文は不可能でないとしても得意ではないのだろうと思い直した。
「ぼくもそんな呪文は契約したことがないな」
隣にいたのは獣人のチウだった。種族はおおねずみだが、ロモスの拳聖ブロキーナの弟子のひとりで、マァムとは相弟子の関係だった。
「大丈夫、ごらんなさい」
アバンが手にしているのはキメラの翼だった。
「合流呪文リリルーラを、このキメラの翼にこめました。キメラの翼はアイテムなので、契約なし、魔法力なしで使用できます。そして、魔界捜索隊と私自身はこの目印を装備します」
目印、とアバンが呼ぶのは小さな布の巾着袋だった。
「この中にはルラムーン草から抽出したパウダー“魔法の砂”を詰めてあります。これがリリルーラで飛ぶ行き先の目印です」
すげぇ、とヒムたちは目を丸くしていた。
「ポップ、あなたに渡しておきますからね」
ポップは進み出て、おそるおそる目印の巾着と、地上へ戻るためのキメラの翼をいくつか受け取った。
「それから、これを。ダイ君の輝聖石を取り付けた『ダイの羅針盤』です」
ふわりといい香りがたった。
「ポップ君、もうひとつ渡すものがあるわ」
フローラ女王は、別のアイテムをトレイから取り上げた。
「なんですか、これ?」
それはちょうど手のひらに乗るような大きさの金のリングだった。ただし、上部にチェインが、下部に重りめいた八面体が取り付けられている。リングの中には、ごく小さなメダルとその下に方向を示す三角形に似た矢印が吊り下げられていた。
「これは『王女の愛』、フローラズ・ラブ。私のホープチェストに収めてあったのを、五年前に発見しました」
かすかに頬を染めて女王フローラはそう言った。こほんとアバンが咳払いをした。
「私の祖父デ・ジニュアール一世は、カール王国に王女誕生という慶事のあったとき、王家にこのアイテムを献上しました。生まれたばかりの王女フローラと王女の未来の配偶者のために、二つ一組のアクセサリを造ったのです」
アバンは手を差し出した。その上には、まったく同じ「王女の愛」があった。
「『王女の愛』を持っている者どうしは天体の運行を利用して、離れたところにいても会話ができます」
「じゃあ、それがあれば!」
地上と魔界で交信ができるはず。そのことに気付いてポップは一気に心が軽くなるのを感じた。
「そうです。ただ、星の力を使うので会話は夜に限られ、星の巡りによってはうまくいく時といかない時があります。それでも、ないよりはずっとよいでしょう」
「よかった~、おれたちいつでもアバン先生に相談できますよねっ。こりゃ案外早くダイが見つかるかも。楽勝、楽勝」
アバンは苦笑した。
「あなたは楽天的ですねぇ。マァム、ヒュンケル、頼みましたよ」
周りから笑い声があがった。
「えっ、えっ?」
ヒュンケルは会釈し、マァムはちょっと赤くなった。
「しっかりしてよ、ポップ!あなたが隊長格でしょ?!」
わははっ、と笑い声がした。
「ポップ君はそれでいいんじゃ!」
パプニカの “剣豪”、バダックだった。
「魔界だからと下手に委縮するよりも、楽天的おおいにけっこう。呑んでかかるんじゃ!」
「ありがとな、じいさん!地上はまかせたぜっ」
五年前と比べてバダックはほとんど変わっていない。剣の腕は本人が言うほどでもないが、どんな逆境でも明るくふるまうバダックはその場の元気の素だった。
「うむっ、引き受けた!交代もやぶさかではないぞっ」
ポップは、あはは、と笑いでごまかした。
ポップ、とヒュンケルが言った。
「そろそろ時間だ」
「そうだな」
捜索隊の三人はそれぞれ荷物を背負いあげ、旅の扉の天幕に近づいた。
「じゃ、行ってきます!」
先の大魔王戦で共に戦った仲間たちがその前を取り囲んだ。
ノヴァが進み出た。
「リンガイアの父から、お見送りに行けなくて申し訳ない、リンガイアは国を挙げて勇者捜索隊を応援しています、と伝言を預かっています」
今は鍛冶屋の弟子だが、ノヴァはリンガイアの名門バウスン将軍の息子であり、本人も実はお坊ちゃまだった。
ノヴァの隣で、びしっと敬礼した軍人がいた。
「我が主、ベンガーナのクルマテッカ二世より預かりました言葉をお伝えいたします」
ベンガーナのアキーム隊長だった。
「『ベンガーナは勇者ダイから受けた恩をけして忘れない。捜索隊は必ず成功するものと信じている』とのことです」
アキームの隣に、立派な体格の男が歩を進めた。
「あ~、柄にもないが、ロモス王の使いで来た。覚えているかどうかわからんが」
「ゴメスじゃないか、あんた!」
ロモスの武術大会に出場した強豪の一人で、先の大魔王戦も地上の処刑場での戦いに参戦し、ピラァ・オブ・バーン凍結のために尽力してくれた一人だった。
ゴメスはいかつい顔で笑った。
「覚えててくれたか。その、魔界へ行くんだってな。ロモスの王様は、ロモスでできることはなんでもするそうだ。食料や水は十分持ってっか?」
「そのへんはフローラ様のご厚意で、準備万端だよ。ロモスの王様には、おれたちの旅の始まりからずっとお世話になってるんだ。よろしく伝えてくれ」
「おう、まかせておけ」
そう言うと、背後をふりかえった。
「お先に悪かったな、姉ちゃん」
ゴメスの後ろには、優雅な姿があった。
「テラン王フォルケンから、皆様にご挨拶するように申しつかっております」
「メルル!」
大魔王戦のときポップと同じく十五歳だったメルルは、二十歳になっていた。メルルはにこ、と笑顔を見せた。
「おひさしぶりですね、ポップさん」
初めて会った時から神秘的な美少女だったメルルは、理知的な美女に成長していた。今では祖母のナバラの後を継いで占い師となり、テラン王の相談役を務めているとポップは聞いていた。
「テランでは何度も占いをくりかえしましたが、今回の魔界行きに関して結果らしいものは出せませんでした。古文書もひもときましたが、おぼろげな言い伝え以上のものもありません」
「いいって、いいって!気にすんなよ。わざわざ占ってくれてありがとうな!」
くす、とメルルが笑った。
「ポップさんらしいわ。占いで何かわかりましたら、『王女の愛』を通じてお伝えしますね。皆さん、どうかご無事で。ダイさんといっしょに戻っていらっしゃるのをお待ちしています」
メルルは優雅に会釈すると、すっと後ろへさがった。
警備兵に守られて、レオナがその場へ進み出た。周りにいた者たちから、ざわめきが起こった。
――姫さん、眼が死んでるぞ。
レオナは明らかにやつれていた。唇を噛み、努力して顔を上げ、毅然とした態度を保っているようだった。
「私、パプニカのレオナは」
声も少ししゃがれているようだった。
「魔界の捜索隊の成功を祈念しています。無事に行って、無事に戻れますように」
“絶対ダイ君連れて帰ってよ?言ってやりたいこと、い~っぱいあるんだから!”のようなセリフを待っていたために、ポップは肩透かしをくらった気がした。
――いやその前に、あたしも行くっ!がないよなあ。
レオナはポップたちにあまり視線もあわせず、すぐに下がろうとした。アバンが痛ましげな表情で何か言いかけたが、フローラは小さく首を振った。
「あの、それじゃ」
ポップが、行ってきます、と言おうとしたとき、待って、と声がした。
「レオナ、待って」
「おい、マァム?」
マァムは真剣な顔をしていた。
「レオナが行けないって、知ってる。だから何かレオナに関係のあるものをもらえないかしら。ダイ君がそれを見たら、レオナが地上で待ってるってわかるようなものを。私、それをダイ君に渡すわ」
レオナの変化は劇的だった。うつろだった視線がいきなり熱狂を帯びた。さっと振り返ると、お付きの賢者を呼んだ。
「マリン、ナイフを!」
「姫さま」
「お願い!」
賢者アポロとマリンは視線を交わし、それからうやうやしく短刀を持ち出した。柄の部分に緑色の宝玉がはめこまれた、パプニカの宝、「風のナイフ」だった。
パプニカのナイフをひっつかむと、レオナはマァムに走り寄った。
「お願い、これをダイ君に渡して!」
二人の視線が空中で交わり、マァムはレオナの手ごとナイフをにぎりしめた。
「まかせて!ダイが四の五の言うようだったら、ひっぱたいても連れて帰るわ!」
うん、とレオナはうなずいた。その目に涙があふれているのをポップたちは見ていた。
「ダイが四の五の言うって、なんのことだよ?」
「あとで話すわ。さあ、行きましょう!」
さかんな激励の声に送られてポップたちは旅の扉へと足を踏み入れた。旅の扉の上で空間がゆがんだ。最後の瞬間、ポップは見送りのほうへ向き直り、高く片手をあげ、笑顔をつくった。
「行ってきますっ!」
ひと呼吸する間もなく、三人の姿は溶けるように消えた。
●
マリンは女主人の横顔を眺めた。
「おいでにならなくて、本当によろしかったのですか」
幼いころのレオナを知る身としては、今回のレオナの決定はかなり意外だった。レオナがどれだけ苦しみ、歯を食いしばって参加を思いとどまっているかをマリンもアポロも知っていた。そして、出発の日が近づくにつれて、どんどんやつれていくレオナを気遣ってもいた。
「ええ、いいの」
さきほどまでとは別人のような張りのある声でレオナは答えた。顔つきさえ変わっていた。
「だってあたし、親友にすべてをまかせたんだもの」
――レオナ姫が、もどっていらした。パプニカ一のじゃじゃ馬娘が。
マリンはうれしくて泣きそうだった。
「フローラさま、アバン先生!」
明瞭な声でそう言ってレオナが動き出した。
「ご相談したいことがあります」
アバンフローラ夫妻は笑顔を見せてくれた。
「はい、なんでしょう?」
「やりたいことがあるんです。ずばり、『勇者ダイ地上定着計画』です。幸いなことに、この場には各国の代表がおいでです。善は急げと言いますし、ばっちり計画を立ち上げちゃいましょう!」