木箱を並べたテーブルの上に、マトリフはガラスの浅いボウルをのせた。そのボウルに入っているのは、黒い海の海水だった。
「よっく見てろ」
手にした小ビンの蓋を開け、マトリフは黒い海水の中に数滴を落とした。
木箱の上では手燭に刺したローソクがちらちらと燃え、アジトの壁に影を作った。ダイの一行と船の魔族の主だった者たちが、アジトの広い部屋に集まっているのだった。
海水の変化に気付いたのは船長だった。
「色が……変わったのか?黒くないぞ」
なに?と魔族たちがボウルの上に顔を寄せた。
「本当だ、ふつうの海水になっているぞ」
ケッケッとマトリフは笑った。
「この小ビンに入ってんのは、地上ならどこでも手に入る聖水だ」
ポップは得意げな顔になった。
「魔界から戻るたびにおれが海水サンプルを取って、師匠と先生と三人でこのネタをつきとめたんだ」
ヒュンケルは目を見張っていた。
「見事だ、ポップ。これで全部解決か」
へへっとポップは笑い声をあげた。
「おめえに褒められるのってめったにねえからな。ありがとよ。けど、これは、あんまりもたねえんだ。少しすると、元の黒い海にもどっちまうんだよ」
ポップは頭をかいた。
「ダイ、あれをおぼえてないか?ロモスの王様が用意してくれた船は、船首から聖水を流し続けて海のモンスターを排除しながら進んでたよな」
「おぼえてるよ。ああ、あれがヒントだったんだね」
「そういうこと。だから、大量の聖水があれば黒い海を航海することはできるんだ」
「ラーハルトに地上からたくさん聖水をもってきてくれってポップが頼んだのは、これか」
一行が話し合っているのは、洞窟の中の地底湖のほとりにある魔族のアジトだった。
古いアジトを住めるように補修し、火をおこし、魔法の筒に入っていた潤沢な食料で料理を作り、一行は久々にくつろいだ。船に乗り込んでいた魔族たち、とくに子供たちは、今夜は満腹して眠りについている。長いあいだなかったことだった。
一族が眠りについたころ、船長や魔族の船大工、長老たちは、マトリフはじめダイのパーティとの話し合いのために集まっていた。
マトリフが話を継いだ。
「……そこへアバンが言い出したことがあった。聖水が効くってことは、トヘロスでもいいんじゃねえかってな。呪文とくりゃあ、魔道士の出番だ。オレたちは黒い海水にトヘロスはじめ、いろんな呪文をかけてみた。その結果わかったんだが、この黒い海水はトヘロスよりトラマナでかなりの時間、無効化できる」
「そうかっ。ポップもマトリフさんも、それで魔界で自由に呪文を使えてたんだね」
へっへっとポップは笑った。
「わかってみりゃ、こんなもんさ」
骨ばった指でマトリフは木箱をとんとんと叩いた。
「ダイ、バリヤー床ってわかるか?」
「歩くとダメージがくる床のこと?」
「そうだ。そのダメージは、一歩ごとに体力を削る。そうだな?」
うん、とダイは素直にうなずいた。
「この黒い海水は一種のバリヤー床だ。ただし、体力より気力にダメージが来る。魔法力や闘気はガンガン消耗するし、普通の人間なら生気が失われて、何かしよう、生きようって気がおきなくなる」
「おれなんか、魔法力をすっからかんにされたぜ」
とポップがぼやいた。
「そりゃおめえ、黒い海水の上をトベルーラで飛んだんだろ?トベルーラは体から直接魔法力を放出する。つまりバリヤー床を靴底で踏むだけでダメージがくるってのに、大の字になって寝ころんだみてぇなもんだから、すっからかんであたりめぇだな」
くそぅとポップがつぶやいた。
「一番まずいのは、黒い海水に直接体が長時間触れることだ。海に沈むなんてのはもってのほか。この条件を逆さにしてみな?黒い海水に触れない。距離を取る。近寄らなくてはならないときは、短時間で済ませる」
魔族たちも知らなかったらしく、時々感嘆の声をもらして聞いていた。
「それにプラスしてトヘロスかトラマナをかけ続けることで、黒い海の影響は避けられるし、船なら航海できる。おとりがあればなお良しだ」
マトリフはダイと仲間たちの顔を見渡した。
「それはそれで、けっこうなことですが」
とダリボル船長が言った。
「ドラ……ダイ殿、我々はゲートキーパーとの直談判の結果をうかがいたいのですが」
あ、とダイがつぶやいた。
「そう言えば、まだだった。え~と」
「なんだ、まだ言ってなかったのか?」
とマトリフが言った。
「魔族の皆さんよ、若き竜の騎士殿は神々の遺産たるゲートキーパーにむかってタンカ切ってたぜ、おれが魔界の住民を全員避難させてみせる、って」
「住民全員、だと?」
ダリボルはそう言って絶句した。おれ、タンカなんて……と、ダイが言いかけたが、隣にいたポップが手でダイの口をふさいだ。
「行先はゲートキーパーの管理する異世界だ。アバンを通してのまた聞きだが、なんでも『できたての世界』だそうだ。それなりに苦労はあるだろうが、まあ、滅びかけの魔界よりは生き残る確率は高いだろうぜ」
魔族たちのあいだから、ピリピリした雰囲気が薄れていく。代わりに安心感が宿り、それぞれの顔に落ち着きが戻ってきた。
「では、本当に、希望を持ってよいのか」
へっへっとマトリフは笑った。
「まあ、ここからが大変なんだがな。オレとアバンで考えた計画をざっくり話しとく。まず、この魔界で生き残っている住民をまとめる。その間にできるだけ大きな船をつくる。その船に脱出を希望する者を乗せて魔界から飛び立つ。敵の妨害を排除して、ゲートキーパーのとこにつながる旅の扉へ飛び込む。ゲートキーパーとの約束で、ルーラでひょいってわけにいかねえんだ」
師匠、師匠!とポップが呼んだ。
「魔界の住民まとめるって、大事じゃねえか。どうすんだよ」
「残ってる陸地はもう少ないんだろ?手分けしてやりゃあ、なんとかなる。それに、魔界の住民の中には脱出を希望しない種族もいるだろうぜ」
「え、黒い海でも生きられるモンスターなんているのか」
「エレメント系、ゾンビ系なんてのは、たぶん大丈夫だ。だから今の魔界でいいってやつらは除外して、脱出希望者だけに絞る。捜索組は面が割れてるから、そうじゃないやつらをあっちこっちへ派遣するんだ」
「誰を?」
「“獣王”の大将」
「クロコダインのおっさんか?」
「いや、態度のでかいおおねずみと、その“隊員”たちだ」
「チウか!」
ヒュンケルは片手で額をおさえた。が、ダイが笑い声をあげた。
「チウなら大丈夫だよ。頼もしいや」
「でもって、船のことなんだが」
ダリボルの一族の中から、船大工が声を上げた。
「船造りを他人にはまかせられん。わしらで造らせてもらおう」
ちらっとマトリフが弟子のほうへ視線をあてた。
「よっ、待ってました!いっや~、頼りになるぜ。親方って呼ばせてくれよ」
にぎやかにポップが持ち上げる。苦虫を嚙み潰したような顔の船大工の顔が、だんだんゆるんできた。
「師匠、船を造る資材は大丈夫なのか?親方に不自由かけるわけにゃいかねえだろ」
「そこは心配いらねえ。今回の食糧と同じように、魔法の筒で木材でもなんでも運んできてやる。ダイ、地上へ帰ったらパプニカのお姫さんに礼を言っとけよ」
「お礼?レオナに?」
「地上の国々は、勇者ダイを地上に定着させるために一致協力することになってるんだ。姫さんの肝入りでそういう申し合わせができてる。その名も勇者協定だ」
ダイは目を白黒させていた。
「その協定にのっとって、ベンガーナの王様がなんでも好きなだけ持っていけだとよ」
船大工の親方が、ぼそっとつぶやいた。
「資材が手に入るなら安心だし、船のことはまかせてくれ、と言いたいが、あんたらは『魔界から飛び立つ』と言った。船はふつう空を飛ばんぞ」
ダリボル船長がたずねた。
「そもそも、その船でどこへ?」
マトリフは大きな帽子の中に指を入れ、かるくかいた。
「まあいろいろあってな……。あとでアバンから連絡が来るだろう。わかってることはひとつ、魔界の出口になる旅の扉は空中に出現するんだそうだ。その高さまでその船、『箱舟』って呼んでおくが、そいつを飛ばす必要がある」
何か言いたそうな親方と船長を手で押し返すような仕草をして、マトリフは言った。
「箱舟を飛ばす方法については、呪文の目星がついてる。あとは何度か試して修整していくだけだ。そいつぁ、オレとこのひよっこにまかせな」
では、と船長が言った。
「魔界の民を集めるのはそちらの『獣王』の部隊、箱舟を造るのは我々、箱舟を飛ばすのは魔道士殿、ということでよいですか」
魔族の一人がおそるおそる声を出した。
「船長、箱舟はメドーサボールの見張りに監視を受け、航行を妨害される恐れもあります」
ヒュンケルとラーハルトは、とっさに視線を交わした。監視役の屍カラスと狼ゾンビに見覚えがある。あの首無しの騎士の眷属だった。
――メドーサボールの側に、かなり腕の立つ戦士がいるとダイに言っておかなくては。
「妨害については、おれたちがなんとかする」
とりあえずヒュンケルはそう約束した。
「じゃあ、そこは決まりだな」
そう言ってからマトリフは付け加えた。
「ああ、まだあったな。ダイ、竜の騎士の条件を早いとこ満たしておけよ?」
ダイは、うっとつぶやいて無言になった。ヒュンケルは思わずダイの顔を見た。妙にもじもじしていた。
「ダイ、何か隠してるな?」
ヒュンケルの心を読んだようにポップが尋ねた。
「おまえ、正直すぎてウソがつけねえんだよ。さっさと吐け」
あのさ、とダイが答えた。
「竜の騎士の条件て、竜騎衆を配下にすることと、真魔剛竜剣を装備することだよね」
「どっちも楽勝だろ?」
「他はいざしらず、陸戦騎には私が立候補いたしますが」
ダイはぎこちなくラーハルトにうなずいてみせた。
「ありがとう。あてにしてるよ。残りもたぶん、誰かに頼めると思う。問題は」
ヒュンケルは気づいた。
「ダイ、真魔剛竜剣は、今どこにあるんだ?」
ダイは一度、口ごもった。
「……ないよ。おれが、折っちゃった」
ポップが、ヒュンケルが、ラーハルトが、マトリフまでが、一斉に動きを止めた。かろうじてラーハルトが疑問を絞り出した。
「どうして……そんなことに……」