ダイの大冒険二次・捏造魔界編 第九話 首無しの騎士

 空は灰色と紫の濃淡でできていた。相変わらず雲の低くたれこめる曇り空だったが、雲の遥か上空に何か不思議な光源があるらしく、大地は意外なほど明るかった。
 ヒュンケルは、つぶやいた。
「このへんは、前の島とはちがうな」
 橋から先は荒野ではなく、街道があった。
「このあたりは魔界の中でも気候風土が穏やかなのだ。だから、かつては大魔王の直轄領だった」
そう答えたのはラーハルトだった。
「前にも来たのか」
 ラーハルトは首を振った。
「バラン様から話を聞いたことがあるだけだ」
 女の声が尋ねた。
「どんなお話か、うかがってもかまいませんか?」
 島からこの土地への橋を渡るとき海蛇の襲撃にあい、クロコダインが流された。ヒュンケルとマァムはその夜「王女の愛」を使って地上へ報告した。体より心に負った傷のために、マァムも一度地上へ戻ることになった。
 交代要員として魔界を訪れたのは、ヒュンケル旧知の魔族ハーフ、ラーハルトと、テランの女占い師メルルだった。
「それは、かまわんが」
言いさしてラーハルトは言葉を切った。
「何か?」
「お前の話し方はエイミと違うな」
 メルルは控えめな笑みを浮かべた。
「仕事柄か、と思います」
 現在のメルルはテラン王の公式な顧問だった。テランという国は神権政治の色合いが濃く、宮廷の顧問占い師という身分は宰相にも匹敵した。
「テランの宮廷は、よいのか?」
とヒュンケルは尋ねた。
「休暇ということにして、あとは祖母に頼んできました」
「そうか。すまない」
「ダイさんを見つけるのが先決です」
そう言ってメルルは微笑んだ。
「改めてお願いします。この地方についてご存じのことを教えていただけますか?」
 うむ、とラーハルトはつぶやいた。
 三人は街道に沿って歩いていた。魔界とは言え道の両側は整えられた草地、その彼方に森があり、はるか向こうに山脈も見えた。
 だが、行きかう旅人の姿はなく、道端には壊れた馬車や獣車が放置されている。魔界の獣が車につながれたままで死んでいたこともあった。
「このあたりは竜の谷地方と呼ばれ、大魔王直轄領だった。大魔王の最盛期にはこの道を通って魔界のいろいろな地方から上納や貢物が彼の元に集まっていた。そしてたてつく者があれば、この道から大軍が発せられて敵を殲滅した」
「では、この道の先にお城があるのですか?」
「ああ。この街道を進むと、両側から山が迫る谷となる。それが竜の谷だ」
そう言ってラーハルトは前方を指した。
「大魔王は広大な魔界に七つの城を持ち、自分の廷臣たちを引き連れて城々を渡り歩いていたそうだ。竜の谷を見下ろす山中に、大魔王気に入りの城がある。バーンの第七宮廷だ」
 見ろ、と言ってラーハルトは森を指した。梢の上に何かが見えていた。
「谷を貫く街道を監視する関所だ。あの上に城があるはず。城に近づく者は必ず関所を通る。通らないとしたら、マヌーサとメダパニの魔力に満ちた迷いの森を抜けなくてはならないのだ」
 片手を目の上にかざしてヒュンケルは関所を眺めた。
「待て、あれはなんだ」
 関所は森の入り口に立っていた。石造りの関所の大きな扉は開かれ、その前に小型のモンスターたちが十数名かたまっていた。どれも大荷物を抱え、そして、おびえた顔をしていた。
「出すもの出せば通してやると言ってるんだ。こっちがやさしく言ってる間におとなしく通行税を払いな」
 野太い声で、鎧を付けた大柄なモンスターがそう言った。ソルジャーブル、ライオネックなど、魔界のモンスターたちだった。
「金貨なんてもってないんで」
 困惑した顔でスモールグールがそう言った。
「私ら、身ひとつでここまで上がってきたんですぅ」
 毛玉の塊が、たれ目の下のくちばしをせいいっぱい広げて泣きついた。
「差し上げられるものなんて、ほんっとうにないんですぅ」
 ちっと舌打ちしてソルジャーブルが槍をつきつけた。
「甘ったれんじゃねえぞ!」
 その毛玉のかたまり、ももんじゃは、驚きのあまり腰を抜かしていた。
「おまえら、黒い海の水位が上がって来たんで山の上へ逃げようって腹だな?」
 陰気な声でライオネックがそう言った。小型のモンスターたちは熱心にうなずいた。
「だったら、急げ。早く山へ登らないと、海に追い付かれるぞ」
 猫背無表情のライオネックは、一番前にいたいたずらもぐらにわざと顔を近づけた。
「なにも出せないなら引き返せ。それだけだ」
 いたずらもぐらは手にしたスコップを振り上げた。が、スモールグールたちがあわてて取り押さえた。
「ちょっと待ってください、話し合うから」
 急げよ、と言い捨てて、ライオネックはこちらを見た。
「おまえたちは地上の者か」
 ラーハルトは雄弁な目つきでヒュンケルを見た。だめだ、とヒュンケルは首を振った。モンスターたちにむかって、ため息交じりにラーハルトは答えた。
「地上から人を探しに来た。通してくれ」
 ソルジャーブルどもがしゃしゃり出た。
「おう、いいぜ!?おまえら身なりがいいし、栄養も足りてそうだ。その荷物をここへおいて、さっさと行け」
「よく見りゃ、いい得物を装備してんな。その槍でもいいぜ?」
 ヒュンケル、とラーハルトがつぶやいた。
「ここまで頭が悪いやつらとは、穏やかな交渉など不可能だ」
 となると、腕ずくで通るか、または通行税とやらを支払うか。クロコダインのように、その場の雰囲気を一気に味方につけるような懐の大きさが自分にあれば、とヒュンケルは思った。
「しかたがないな」
 こく、とラーハルトがうなずいた。
「何も差し出す気はない」
「そうかい、そうかい!」
 返ってきたのは、唾液をまき散らすような嘲笑だった。
「そいじゃあ、おまえらぶちのめして取り上げるだけよ!」
 ソルジャーブルたちが不揃いの武器を手にヒュンケルたちを取り囲んだ。
 いやな目つきでライオネックがメルルのほうを見た。
「そこの女。こちらへ来い。顔に傷でもついたら売れなくなるからな」
 メルルが立ちすくんだ。メルルの前に、ラーハルトとヒュンケルが立ちはだかった。
 気配を感じてヒュンケルは振り向いた。
 その場の空気が変わった。
 関所へ続く街道を踏みしめて、甲冑の騎馬武者が近づいてくる。騎士の右手に鎖付きの鉄球、左手に盾、だが、甲冑には首から上の部分がなかった。
 騎士は手綱を取る代わりに両足で馬腹をはさんでいたが、その馬も馬鎧を装備していて、馬の顔は面布で覆われている。面布の下は死肉を残した骨のようだった。
「多勢で女連れの旅人を取り囲む醜態、見苦しいぞ」
 陰々とした声がそう言った。
「なんだ、この首無し野郎」
 ソルジャーブルたちは小声でそう言いあった。
――首無し、の話をオレはどこで聞いた?
 クロコダインとマァムと三人で聞き込みをした居酒屋だ、とヒュンケルは思い出した。その時の話では、狼とカラスのゾンビがそばにいたと言う。ヒュンケルは目を凝らした。軍馬の背後に、狩猟用の猟犬めいた黒い犬が確かにいる。そして甲冑の肩のあたりにカラスがとまっていた。
 カラスも犬もアンデッドだとヒュンケルは気づいた。両方とも肉がそげ、白骨が見えている。犬の片目は眼窩から垂れ下がり、カラスの頭は半分潰れていた。
 ゾンビを連れた首無し騎士は、悠々と馬を進めた。
「おい、なんだ、なんだよ、ちくしょう!」
 ソルジャーブルもライオネックもあとずさった。気圧されているようだった。
 おっ、とソルジャーブルの一人が言った。
「こいつ、気のふれた姫を探して魔界をうろつく首無し騎士だぜ」
 へえ、とか、こいつか!とか言う声があちこちであがった。最初に相談すると言ってかたまっていたスモールグールやももんじゃたちも、物見高くのぞきこんでいた。
「いかにも我は首無しだ。笑いたくば、笑え。だが」
 首無し騎士が、盾をかかげた。縦の表面には頭蓋骨のレリーフがある。そのどくろが、おもむろに動き出した。うつろだった目の穴に眼球が生まれた。炯炯と輝くその目が、ソルジャーブルたちをねめつけた。
「我は姫の名誉を守るために戦うと誓った者である。気のふれたとの暴言、許し難し。そこへ直れ」
 どうやら、ライオネックは通行税を取り立てる仲間のリーダーらしかった。ソルジャーブルたちがライオネックの後ろに隠れ、リーダーを前に押し出した。
 ライオネックは首無し騎士と向かい合った。
「お前が振り上げたこぶし、どうやっておろす」
 陰鬱な声でぼそぼそとライオネックは言った。
「こっちにはこれだけの数がいる。俺がやれと言ったら、お前はその馬から引きずり降ろされてふくろだたきだ。痛い目をみたくなければ、回れ右して帰るがいい」
 ヒュンケルは、ラーハルトと視線を交わした。このライオネックは首無し騎士の力量をまったく読めていなかった。
「我が単騎であるのが不服か」
と騎士はつぶやいた。
 その瞬間、空が暗さを増した、とヒュンケルは思った。メルルが空を見上げ、袖で口元をおおった。
「あれは!」
 空の一画に赤黒い渦が生まれ、そこから無数の黒い鳥が飛び出した。本物のカラスのように鳴くこともなく、無言のまま上空を旋回している。空を覆うほどの数だった。首無し騎士の肩に止まっていた屍カラスが、骨の出た翼を広げて舞い上がり、群れに合流した。
「地上からも来るぞ」
 黒い狼ゾンビたちも、大地から湧き出したかのようにいきなり現れて主の足元に群がった。
――冥界から召喚されたのか。
 魔界と冥界は簡単に重なる、とヒュンケルは知っていた。
 重々しく騎士は尋ねた。
「これで満足か」
 その問いに返事はなかった。ライオネックたちはすでに逃げ腰になっていた。一番後ろにいたソルジャーブルが真っ先に踵を返し、駆け出した。
 総崩れのモンスターたちの上に、首無し騎士は落ち着いて鉄球をふるった。かなりの重量のある鉄の玉がぐいと鎖に引かれ、うなりをあげて飛び出した。
「メルル、見ない方がいい」
 骨の砕ける音、肉の飛び散る音。そして体液まみれの指だの肉片だのがあたりにぶちまけられた。
 ヒュンケルとラーハルトは、青黒い返り血を浴びながらなまぐさい饗宴に耐えた。
 屍カラスの群れが舞い降りた。黒い死犬の群れが集まってきた。どれも粛々と死体の始末をしていた。
 首無し騎士の盾のどくろが、こちらへ視線を向けた。
「おぬしらは、やつらの仲間ではないようだな」
 ラーハルトが答えた。
「仲間ではない。……礼を言いたい。貴殿の尊名を明かされよ」
 首無し騎士は、盾をさげた。
「生前、我は名乗るべき名前を持っていた。が、この姿になってはもう、何の意味もない。『首無し』でかまわん」
「では首無し殿、助太刀感謝する。オレはラーハルト。地上から、父とも慕う主君の遺児を探しに魔界へ来た。連れはヒュンケル。そしてメルルだ」
 首無しは三人の会釈を受け入れた。
「おぬしらも人探しか」
 そうだ、とヒュンケルが答えた。
「ラーハルトの尋ね人は、オレにとって師を同じくする同門の相弟子にあたる」
「私はその方に、助けていただいた恩を感じている者です。私と祖母、故国、地上のすべてを破壊から救ってくださいました」
 しばらく首無しは沈黙していた。
「これほど志の高い言葉は、魔界ではめったに聞かぬ」
そうつぶやいた。
「良い出会いであった。だが、ここで別れよう。我はとある剣士を探して進まねばならぬ。その剣士に尋ねるべきことがあるのでな」
 ヒュンケルが尋ねた。
「どのような剣士だ?種族、背格好、武器は?オレたちもけっこう長く魔界を歩いてきた。あるいは、知っているかもしれん」
 首無しは初めてためらいを見せた。
「呆れた話だが、知らぬのだ。その剣士に面識はない。だが、気配を感じることはできる。特にその剣士は特殊な剣を装備していた。その剣の放つ気配を覚えている。それを頼りに探すまでだ」
 おそらくこの首無しは、闘気を読むことができるのだろうとヒュンケルは思った。
「おぬしらの幸運を祈る」
そう言うと、首無しは馬の腹を足で軽くつつき、向きを変えさせた。一二歩進んでから、盾のどくろをこちらへ向けた。
「この関所の奥へ進むならば気を付けるがよい。街道は、今は黒い海に沈んでいるぞ」
 あっと思ってヒュンケルは道の先を眺めた。
「街道は竜の谷の底を通っていた。水位が上がったときに真っ先に水没した」
「なるほど、気付くべきだったな」
 礼を言おうとしたが、首無しはカラスと狼のゾンビを率いてすでに遠ざかっていた。
 関所の前に立って、ヒュンケルたちは話し合った。
「街道以外に竜の谷の奥へ続く道は」
「迷いの森を抜ける。それ以外に手はなかろう。かなり困難な道だが、いたしかたない」
 ふと気づいてヒュンケルは尋ねてみた。
「そう言えば、おまえは黒い海の影響は受けていないか?」
 ラーハルトは首を傾げた。
「何とも言えん。魔族の血を引く以上、闘気を削ぎ取られるような影響はないな。だが、黒い水面に近づけば、多少気力が減退するかもしれん」
「メルル、きみは?」
 メルルは奇妙な笑みを浮かべた。
「生気を削るそうですね、魔界の海は。私の場合、気持ちがふさぎます。心配とか、後悔とか、劣等感とか、そういう思いが積み重なって自暴自棄になりそう」
 ヒュンケルが思わず足を止めたほど、すさんだ口調だった。が、メルルはかすかな笑みを浮かべた。
「心配しないでください。このていどのうつは、生まれた時から私の習い性です。そしてこれも生まれつきなのですが、気持ちが負の方向へ傾けば傾くほど感知能力が研ぎ澄まされるのを感じます」
 メルルは朱色の袖を抑えて指を掲げた。
「あの方向です。たぶん、ダイさんがいます」
 彼女の言葉には確信があった。

 竜の谷は、谷の中に黒い海が入り込んで湖と化していた。もともと街道は谷の底を通っていたため、完全に水没している。一行は湖を避けて迷いの森の中を抜けようとしていた。
 最初、ヒュンケルたちは迷いの森を警戒していたが、メルルの確信はまったく揺らがなかった。
 ヒュンケルの持つダイの羅針盤はばくぜんと方角を指すだけだった。メルルは次々と道を選び、迷わずに進んでいく。ラーハルトとヒュンケルは半信半疑でついていった。
「メルル、羅針盤の方角と道の行く先がずれているぞ」
そう声をかけると、先頭を行くメルルはふりむきもせず、じれったそうな口調で説明した。
「もうすぐ道の方がカーブして、羅針盤と一致するはずです!」
 実際、その通りだった。
 その勢いとはうらはらに、野宿するとメルルは気絶するように眠りについた。
「フィジカルなトレーニングをまったく受けていない人間が魔界を歩くのだ、もっと消耗しても不思議はない」
 むしろ感心したような口調でラーハルトはそう言った。
 メルルを起こさないように小声でヒュンケルは答えた。
「そのことだが。オレはそろそろ魔界から地上へ戻る日限が来る」
 魔界へ来て二日目にポップが、四日目にマァムが地上へ戻っている。ヒュンケルにも、そろそろ七日目の期限が近づいていた。
「オレはそのときにメルルをいっしょに連れて戻るつもりだ」
 ラーハルトうなずいた。
「賛成だ。このままではこの女、死ぬぞ」
 メルルが魔界で過ごしたのは三日になるかならないかだが、明らかに体調が悪そうだった。
 朝になると、メルルは再びパーティを駆り立てた。整備された山道から森の中の小道へ、さらにけものみちへ、先へ、もっと先へ。
 限界は唐突に訪れた。
「大丈夫か!」
 一行は木々を透かして黒い湖を見下ろす斜面にいた。巨木の幹にすがってメルルは肩で息をしていた。
「私、また中途半端……ごめんなさい……」
「謝るな。こんなに短時間でダイに近づけたのはきみのおかげだ」
 たった数日のうちにメルルはやつれていた。美しかった髪が艶を失い、ほほがこけ、眼の下に黒いくまができている。執念だけで歩き続けていたことがうかがえた。
 ヒュンケルは、メルルを横抱きに抱え上げた。
「ラーハルト、オレの服の内側からルラムーン草のパウダーを取り出してくれ。オレはメルルを連れて、地上へ飛ぶ」
 言われた通りラーハルトは目印のパウダー入り巾着を抜き取った。
「これは預かった。おまえも少し休んでこい。ダイ様は、オレ一人でも探しあてるから」
「勘弁してくれ。おまえにそんなことをさせたら、オレが弟弟子に恨まれる」
 真顔でそう言うと、ヒュンケルはリリルーラをこめたキメラの翼を天へ放った。
 ほとんど一瞬のうちにヒュンケルたちは地上へ移動した。何日も魔界で暮らした身には空の青さがしみじみうれしかった。
「ヒュンケル?おかえりなさい」
 場所は出発と同じくヴィオホルン高原、カール王国の天幕のそばだった。声をかけたのはマァムだった。
「先生はカールでお仕事なので、私が目印のパウダーを預かっているわ」
「おれもいるぜ」
 ポップだった。
「メルルが限界だ」
 ヒュンケルは腕の中の乙女を抱き直した。
「こんなんなるまでがんばりやがって」
そうつぶやくとポップは両手をかざした。回復魔法の光がメルルをおおった。
「誰か呼んでくるわ」
そう言ってマァムが走っていった。まもなく担架を持ったカールの兵士と修道女姿の女たちがわらわらと集まってきた。
「占い師殿をこちらへ」
「何か滋養の付くものをさしあげましょう」
 つらそうなメルルが、重そうなまぶたを開いた。
「あ……ポップさん」
「動かねぇほうがいい。傷があるわけじゃないが、すごく疲れてるみたいだぞ」
 マァムが戻ってきた。
「今、魔界は?」
「ラーハルトだけだな。『一人でもダイ様を探し当てる』とはりきっていた」
とヒュンケルは答えた。
「冗談じゃねえ!」
とポップが言った。
「おれたちが交代する。マァム、行こうぜ」
「準備できてるわ!」
 片手にマント、片手に荷物をつかみ、二人して旅の扉へ飛び込もうとした。
「待って、待ってください」
 細い声でメルルが呼び、担架の上から片手を伸ばした。ふりむきざまにポップはなだめるような笑顔を見せた。
「メルルは休んでてくれ!ありがとよっ!」
 メルルは身を起こそうともがいた。
「あの二人なら大丈夫だ」
 ヒュンケルが声をかけると、メルルは頭を振った。
「ああ、ヒュンケルさん、ポップさんたちに伝えてください!」
 やせ細った手がヒュンケルのマントをつかんだ。どこにそんな力があるのかと驚くようなきつさだった。
「ダイさんを早く、助けてあげてください。邪悪なものがダイさんを狙っています」
 ヒュンケルは思わず息を呑んだ。
「君には何が見えている?」
 メルルの身体は細かく震えていた。
「ダイさんと重なる恐ろしい影です。そして同時に光の塊もあります。光がダイさんを覆って守っているけれど、闇が侵食しようとしています」
 シスターたちは早くメルルを休ませたいようすだったが、メルルはヒュンケルをつかんで放さなかった。
「お願いです、ヒュンケルさん、ダイさんを守る光の力は強固ですが、邪悪もまた強いのです。ダイさんに危険が迫っています。このことをポップさんたちに、どうか伝えて」
 何とか保っていた意識がぷつりと切れたらしい。メルルはがくりと首を垂れた。
「もうよろしいですね?病室へ」
 運び出されるメルルを見送ってヒュンケルは考え込んでいた。

 メルルとともに地上へ戻ってから数日がたっていた。その間地上で体力を回復して、ヒュンケルは再び魔界に立ち戻った。あらためて魔界を見回した。
 谷の両側から迫る山は崖に近い急斜面だった。斜面は大型のシダのような植物が大量に生い茂っている。中には樹木に近い大きさのものもあった。シダの森が黒い湖を縁どり、谷の情景はなかなかの壮観だった。
 今、魔界にはラーハルトがいる。そしてヒュンケルとメルルに代わってポップとマァムがラーハルトに加わったはずだった。
「どこだ、ラーハルト?」
 雨上がりなのか水滴をたっぷり含んだシダの茂る斜面を、ヒュンケルは歩き出した。
 竜の谷の一番下は、昔は街道だったはず。今は黒い水面が上がってきたために三日月湖になっていた。迷いの森よりも水面が近い。ヒュンケルは眉をひそめた。
 ポップの声がした。
「ヒュンケルか?こっちだ!」
 シダの群れの奥にタープが張られ、そこに野営の準備がしてあった。マァムが困った表情をしている。どうやらポップとラーハルトはにらみ合っているようだった。
 冷静にラーハルトが言った。
「どっちみちオレは魔界の滞在期間が切れる。交代要員も来たようだしな。あとは勝手にしろ」
「ああ、勝手にするわ!」
 逆にポップは頭に血が上っているようだった。
「何の話だ」
「ダイがここにいるか、いないかって話!」
とポップは吐き捨てた。
「ダイの羅針盤が壊れたみたいなんだ。輝聖石はぐるぐる回るばっかりで、特定の方角を指さない。メルルもいねえ。だけど人間の子供がこの竜の谷で目撃されてるんだろ?手分けして探すしかないだろうがっ!」
「その目撃情報がダイ様のことかどうかわからん」
「でも調べてみる値打ちはある!」
 ラーハルトは首を振った。
「だから、ドラゴンが巣穴にしそうな横穴にいくつかもぐってみた。やつらは適度の湿気と暗さを好む。たしかにここはドラゴンの営巣地としては悪くない場所だ。だが、人間がいた痕跡は全くなかった。おそらくここではないのだ」
「まだ谷じゅうを見たわけじゃないだろう!」
 マァムはポップに寄り添い、そっと肩に手を乗せた。ポップは感情を抑えるためか一度目を閉じ、自分の手のひらをマァムの手に重ねた。
「ラーハルト、ドラゴンたちにダイを見なかったかと聞いてみてくれないか?」
 ヒュンケルがそう提案するとラーハルトはきょとんとした。
「なんだと?」
「陸戦騎が、陸棲ドラゴンを配下におさめる者だからだ」
 空戦騎が飛竜の友、海戦騎が水棲ドラゴンの王だったのだから。
 む、とラーハルトはうなった。
「そもそもドラゴンを統べるのは、ドラゴンの騎士だ。陸戦騎はその配下、つまりドラゴンの騎士の威光をもって陸棲ドラゴンを仕切る」
 ポップが顔を輝かせた。
「それなら!」
「バラン様亡き今、ドラゴンたちがオレを陸戦騎と認めるかというと、まず無理だろう」
 う、とつぶやいてポップは黙ってしまった。
「やっぱり、こつこつ探すしかねえ。探せばあいつがいるかもしれないんだ」
 思いつめたようすのポップにラーハルトは言い渡した。
「オレは、いないと思う。ダイ様がそばにいれば、オレにはわかる」
「おれは、おれだって」
 くやしそうにそう言うと、ポップは服が濡れるのもかまわずにシダの葉の上にあぐらをかいて座り込んだ。
「何を焦る」
とラーハルトは言った。
「もう少し待って、あのメルルという娘が回復したらもう一度頼るといい。それまではおとなしくしておけ」
「そのメルルによると」
と、ヒュンケルは言った。
「ダイに危険が迫っているらしい」
 なに、とポップが言った。
「メルルは地上で療養している。病室へ連れていかれる前メルルがオレにそう言った。『ダイさんを早く、助けてあげてください。邪悪なものがダイさんを狙っています』」
「邪悪って何だ?」
「メルルにもわからないようだった。『ダイさんを守る光の力は強固ですが、邪悪もまた強いのです。ダイさんに危険が迫っています……』」
「なるほどな」
 ラーハルトは考え込んだ。
「そうなると早く探したいところだが、オレの魔界の滞在時間はギリギリだ」
 ポップは肩を落とした。
「あんたのことは当てにしてたんだけど。強ぇしな」
 魔界では、半人半魔のラーハルトはヒトであるポップたちより耐性が高い。だがラーハルトは首を振った。
「できるだけ早く戻ろう。待っていろ」
 ふいにラーハルトはこちらへ視線を向けた。
「おまえは無理をするなよ?」
「わかっている」
 どうだか、と首を振り、ラーハルトはキメラの翼を取り出した。
「ポップ、もう一度言うが、冷静になれ。それがおまえの仕事だろう、大魔道士」
 ラーハルトの姿が光の筋となって上空へ消えた後、ポップはくやしそうにつぶやいた。
「言われなくとも……」
 その肩を、マァムがそっとたたいた。
「ヒュンケル、あなたにはどう?」
 光の闘気を網のように広げ、気配を察知するスキル、ドリームキャッチャー。この大陸に渡る前の島で、ヒュンケルが新たに体得した闘気技だった。その時のできごとをアバンに報告したとき、アバンがその技をそう命名してくれた。
 アバンによると、遠い国の賢人たちは、良い夢だけを通し悪夢をとらえるお守りを造る。そのお守りの名がドリームキャッチャーだった。
「ドリームキャッチャーは、敵意を持った相手を捕捉する技だ。すべての生き物を感知できるわけではないのだ」
 そう、とつぶやいてマァムはうつむいた。
「ダイ、ではないと思うが」
 同じ口調でヒュンケルは言った。
「この谷の向こう側に何か大きな生命エネルギーが集まっているのを感じる。行ってみるか?」
 一瞬でポップが沸騰した。
「早く言えや、このツンデレむっつり二枚目面ド天然が!」
「……ついてこい」
 それだけ言って、ヒュンケルは先に立った。内心、ひどい言われようだと思った。