屍カラスは、冥界の産物だった。地上のカラスとだいたい同じ大きさで羽毛はすべて黒い。共通点はそれだけだった。
眼の穴から眼球の飛び出した顔、内臓のはみ出した腹、羽毛がごっそり抜けて骨の出た翼を持つ、奇怪で醜悪なモンスターだった。
黒い海藻を身体に巻き付けたワカメゾンビと同じくメドーサボールの配下である。そして同じく、過剰なまでに数が多かった。
屍カラスは巨大な群れを作って空を飛び回り、得た情報をメドーサボールに伝えていた。
屍カラスの舞う空から、ふりそそぐものがあった。
黒い雨。水滴は黒く、粒が大きい。魔界の黒い海と同じ成分であり、雨に当たるだけで生命のエネルギーを容赦なく削り取っていく。雨足は強くないが、まったく止む気配もなくシトシトと降り続けていた。
魔界の大地はすでに大半が黒い海に沈んでいたが、残った地面にその雨が染み込んだ。地面が黒いぬかるみに変わるまで、それほど時間はかからなかった。
びしゃ、と音を立てて骨の出た前足が水たまりにつっこんだ。やせてフラフラした狼に見えるが、アニマルゾンビという。屍カラスと同じく、かつて生きていた体を怨念で動かすモンスターだった。
アニマルゾンビは今にも倒れそうなようすだったが、赤くつり上がった目は攻撃的で、常に牙をむき、唸り声をあげている。何か見つけると甲高く吠えたて、同じアニマルゾンビどうしで噛み合うこともあった。
まっとうな生命の欲求よりも攻撃の衝動に駆られて彼らは動く。この狂った屍狼の群れは、大地の監視というより明らかに威嚇だった。
魔族の若者、イジフは、頭上の布を自分の上に引き下ろし、見張り台から降りてきた。
交代の見張り、エリシュが尋ねた。
「外はどうだ?」
「だめだ。身動き取れねえ」
暗がりから重いため息がいくつも聞こえた。イジフもエリシュも、ダリボルを長とする一族の若者だった。
襲撃が起こったとき、ダリボル船長たちは必死で船を走らせて追いすがる海蛇から逃走した。
竜の騎士とその仲間たちがかなり撃退してくれたが、もともと老朽化した船が長く持たないのは誰の目にも明らかだった。
とにかく海蛇どものいないところへ、それだけを念じてダリボルの一族はぎざぎざに入り組んだ海岸を選んでそこへ走り込んだ。崖と崖の間の浜へほとんど乗り上げるようにして停まった。
あとは一族総出でカモフラージュにつとめた。布をかき集めて船全体を覆い、その上からそのへんの植物を刈り取って積み上げた。
だが、そこまでだった。屍カラスが空から、狼ゾンビが大地を監視している。そして船の損傷はひどいものだった。
「あれが怒ったんだよ」
一人の老婆がつぶやいた。
「いよいよ終わりが来るんだ」
うるせぇ!黙ってろっ!といらだった声がいくつも飛びかった。
「声が大きいぞ。見つかりたいのかっ」
ダリボル船長が一喝して、一族は沈黙した。
船内は暗かった。ただでさえ薄暗い魔界の空の下、布で覆われた空間は絶望の闇が支配していた。
「失礼、竜の騎士殿」
今はなぜかヒトの姿をしているが、船長といっしょに地図を見ている若者こそ竜の騎士、竜の力と魔族の魔力をともに与えられた伝説の存在なのだとイジフは聞いていた。
「船を捨ててばらばらに逃げるのは、気が進みません」
とダリボル船長は言った。
「この近くに海上から入る洞窟があるのです。洞窟には我が一族が昔作った隠れ家がある。そこならうまく身を隠せるはずです」
「近いのか」
竜の騎士の仲間でラーハルトという魔族がそう尋ねた。
「上手くいけばいっときの航海でたどりつける距離ですが、問題点は二つ。今、よく調べさせていますが、修理しないとこの船で長い航海は無理、さらに屍カラスに見つかって海蛇とメドーサボールが襲ってくるのをどう切り抜けるか」
「夜になれば監視の目がゆるむかと思ってたんだけどなぁ」
竜の騎士の仲間でポップという人間の男がぼやいた。
「ほんとの鳥類じゃないんだよ、あいつら。だからトリ目もない」
と、竜の騎士が答えた。
「どうする、ダイ?」
竜の騎士の仲間でもう一人の人間、ヒュンケルがたずねた。
「数は多いが、オレたちでいっせいに技を放てばいっとき、空からカラスはいなくなるぞ」
ラーハルトがうなった。
「だが、それをやるとそのあと海蛇が襲ってきたときにおくれをとる可能性がある。黒い海の真ん中にいるのだ、魔力も闘気もあっというまに消耗するぞ」
「それならポジションを分けよう。屍カラスを追い払うのと、海蛇退治と」
「多少こころもとないが、しかたがないだろうな。ダイさま、いかがですか?」
ダイと呼ばれた竜の騎士の若者が何か言おうとしたとき、エリシュの声が聞こえた。
「船長、誰か、来ます」
なに、と船長がつぶやいた。
「魔族ならどこの一族でもいい、船に乗せてやれ。だが、メドーサボールの味方なら」
エリシュの報告は意外なものだった。
「いや、どう見ても、ヒトなんですが」
ダイと仲間たちは顔を見合わせた。船にいた者はこぞって甲板へ上がり、カモフラージュの隙間からそっと外のようすをうかがった。
船が乗り上げた浜をいつのまにかヒトが歩いていた。人間の男、しかもかなりの高齢で、魔法の使い手が好む長いローブを身につけていた。頭に大きな帽子をかぶっているので顔は見えない。老人は腰をややかがめ、手にした杖を砂につき、ゆっくりと歩いて船に近寄ろうとしていた。
「なんでこんなところにヒトがいるのだ」
困惑してダリボルがつぶやいた。
「この忙しい時にかまっていられん。追い払え」
ポップが割って入った。
「まった、あの人は」
ガウッと喚き声がした。浜の向こうから狼ゾンビの大群が現れた。臓物を背後にまきちらし、青黒い体液を滴らせて屍狼の群れが突進してきた。
大きな帽子の陰で、年寄りは口角をひきあげた。杖を手放し、両手を交差させる。魔力の集中が始まった。
イジフは息を呑んだ。魔族として生まれた身だが、これほどの魔力が個人に集積するさまは見たことがない。魔法使いが満を持してもろ手を広げた。
「極大爆裂呪文!」
最初に来たのは衝撃だった。見えない巨大な手がイジフたちの乗る船をぐらりと揺すった。次の瞬間豪音が沸き上がり、爆風がすべてを薙ぎ払った。イジフたちは何かにつかまり、顔を覆ってその暴威に耐えるしかなかった。
ようやく風がおさまったあと、浜辺から狼ゾンビが、空から屍カラスが一掃されていた。
ダイと仲間たちが船外へ飛び出した。
「マトリフさん!」
マトリフと呼ばれた老人は、にやっとした。
「おおデカくなったな、ダイ。元気そうじゃねえか」
「先生の言った助っ人ってマトリフさんのことだったんだ!来てくれて、ありがとう!」
ふん、とマトリフは言い、また杖を手に取った。
「冥途の土産に魔界ってやつを眺めてみようかと思ってな。半分は物見遊山だ、気にすんな」
「物見遊山で呪文ぶっ放すんじゃねえよ」
とポップがぼやいた。
「いきなりイオナズンなんて、船が壊れたらどうすんだ」
マトリフは片手をひらひら振った。
「なにスッとろいことを言ってやがる。弟子ってのはな、師匠の後ろを三歩下がって歩くもんだ。後ろから見てたら呪文の気配くらいわかるじゃねえか」
「だったら詠唱ぐらいしろや!」
「やだね、めんどくせえ」
ダイたちを横に置いたままこの師弟は口喧嘩を始めた。
ダリボル船長と一族の主だった者たちがようやく浜辺へ出た。
「竜の騎士殿、こちらは」
「おれの仲間で、ポップの先生のマトリフさんです。マトリフさん、あのカラスや狼、敵の監視なんだ。ここ、ばれちゃったんじゃないかな。早くなんとかしないと」
ですが、とダリボルが言った。
「船の底にかなりの穴が見つかりました。ドックで船を持ち上げて修理をしなければとても動きません」
あん?とマトリフが言った。
「そこにある船を持ち上げりゃいいのか?」
いきなり言われてダリボルは顔をしかめた。
「ああ、まあ、そうだ」
「聞いたか、ひよっこ」
とマトリフは弟子に呼びかけた。
「おめえは船尾だ。おれが船首を持つから」
「あいよ」
そう答えてポップは、のこのこと船の後ろへ回った。
「せーので行くぞ。せーのっ!」
ポップとマトリフ、二人とも船体には手を触れてさえいない。それなのに船はぐらぐらと動き、やがて砂をぽろぽろ落としながら空中へ浮き上がった。
ダリボルはじめ、イジフたち一族の者は口をぱかっと開けてそのさまを見上げていた。
「おーい、オレももう、若いってわけじゃねえんだ。修理ってのをとっととやっちまってくんねえか」
飄々とマトリフが言い、イジフたちは我に返って動き始めた。船団を作って海上生活をしていたイジフの一族には、今でも腕のいい船大工たちがいた。
「急げ!船がなおれば、逃げ切れるぞ!」
「応急処置でいい、とにかく、浮けるとこまで持っていけ」
「カラスどもが戻ってくるまでの時間勝負だ!」
バタバタと動いているのを横目で見ていたマトリフが、ダイを呼んだ。
「さっきのやつらが監視だっていうのは確かなんだな?」
「たぶん」
とダイが答えた。
「それじゃあメドーサボールってやつは、気付いただろうぜ。監視の目を消されたってことは、消した奴がいる、ってな」
「つまりカラスじゃなくて、本体が来る?」
マトリフは懐に手を入れて何か取り出した。
「こいつを使いな」
ダイと仲間たちは、しげしげと手の上のものに見入った。
「紙で作った舟……?」
けっけっとマトリフは笑った。
「ただの紙舟じゃねえ。おとりだよ。海へ出すと船に見えるはずだ。五六枚あるから、あっちこっちに浮かべてみな」
ダイは紙舟を受け取り、仲間たちで水面にばらまいた。
「これでごまかせるのか?」
イジフが思ったことをヒュンケルが口に出した。
「オレたちの目には紙だが、監視の目には帆船に見える。どら、修理終わったか?」
船大工が叫んだ。
「何とか浮かぶはずだ」
マトリフポップ師弟は魔族の船を海へ運び、水面へ浮かべた。
「よーし、そっとおろすぞ~」
「はいよ~っと、こんなもんか」
さて、とつぶやいてマトリフがローブの袖口をめくりあげた。
「みんな、船に乗ってくれ。はやくはやく!」
ポップが身振り手振りをまじえて一族を促した。マトリフが浜から声をかけて確認した。
「全部乗ったな?よし、透明化呪文(レムオル)!」
最初何が起こったのかわからなかった。魔族たちは自分の手のひらをながめ、お互いを眺め、それからさわぎだした。
「ほんとうに、透き通ってきたぞ!」
浜に立ったまま、マトリフとポップは腕組みしていた。
「完全に透明ってわけじゃねえのな」
「レムオルって呪文はそういうもんだ。人の目にはほぼ見えなくなるが、モンスターにはうっすら輪郭がわかる。けどあのおとりの紙舟といっしょにつかえば、屍カラスくらいならごまかせるだろうぜ」
すごいや、とつぶやいてダイは感動していた。
「でも、聞いていい?ポップ、こんなに黒い海に近いとこで、どうやって魔法使ってるの?」
マトリフとポップは顔を見合わせてにやりとした。
●
監視モンスターはおとりの船を追っていったらしく、一行を乗せた船は特に邪魔されることなく目的地にたどり着いた。
そのあたりは入り組んだ海岸線の湾で、湾の中に大小いくつもの島が浮いていた。ダリボル船長はそのひとつへ船首を向けた。
「不思議な形の島だな」
とヒュンケルはつぶやいた。
「昔は火山だったらしいです」
と魔族の若者が答えた。
「山のあっちこっちが噴火して火口が複雑になって、そのまま海へ沈みましたから、中はほとんど迷路です」
入り口はアーチ状に口を開けた洞窟だった。帆柱ぎりぎりの高さをくぐって中へ入ると、闇の中に浜が現れた。
「ここから先はまだ黒い海に汚染されていません。さあ、中へ」
船は浜へ人力で一度引き上げ、そこから新たな水路に浮かべ直して奥深くへすすんだ。
水路の奥は広々とした地底湖だった。はるか頭上に岩のドーム、湖のほとりにこの魔族の隠れ家らしい場所があった。
船を降りた魔族たちがいそがしそうに動き始めた。船長がヒュンケルたちに告げた。
「竜の騎士殿、お仲間も、いろいろ話し合うこともあると思いますが、我々はとりあえずこの古いアジトをたちあげますので、話はそのあとで」
わかった、とダイは言った。
「おれたちも手伝うよ」
ダリボル船長は目を丸くした。
「騎士殿、それは……」
「ただ見てるのもしんどいから、やらせてよ。それから、おれの名前はダイだよ」
さっさとダイたちは魔族たちと合流した。
そのかたわらで、悠然とマトリフが言った。
「こっちはゆっくりさせてもらうぜ」
浜辺に海水浴に来たかのような、のんびりとした態度だった。
「そういや、タダで居候するのもなんだな。ほれ、手土産だ」
マトリフが船長に手渡したのは手のひらに乗る大きさの円筒だった。
「な、なんだ?」
「開けるんなら、広いとこの方がいいぜぇ?」
涼しい顔でマトリフがそう言うのと、魔法の筒から飛び出した大量の物資が頭上になだれ落ちて船長が悲鳴を上げるのが、ほぼ同時だった。
●
生き物の気配のない黒い海の真ん中に、わずかに残った岩があった。波の音、風の音、黒雲の中の雷鳴以外、静寂の支配する世界だった。
一羽の鳥形のゾンビが飛来した。それは海の真ん中の岩へ向かっていた。
馬車一台分の広さしかない岩の上に、大型の軍馬らしき生き物があり、その上に鎧を装備した騎手がいた。カラスは騎士の肩の上に羽を休めた。だが、何かささやこうにもそれを聞くべき頭部はない。騎士は、首無しだった。
首無しの騎士の腕が上がり、どくろの浮彫のある盾が持ち上がった。どくろの眼窩に眼球が生まれ、じろりとからすを見た。
「彼らが、消えたというのか」
空の向こうからカラスの群れがやってくる。そこから数羽が飛来して騎士の前に降りた。
「どこにもいないだと」
ギャァ、ギャァとカラスの鳴き声が高まった。羽毛が抜けてみすぼらしい翼、内臓の漏れ出した身体、傷だらけの顔面。屍カラスたちはなんとも醜い集団だった。
「……アニマルゾンビどもに告げよ」
沈思黙考の後、首無し騎士は言った。
「しばらくのあいだ、威嚇は無用。大半は冥界に戻って待機せよ。屍カラスどもも同じく」
カァ、と最初の一羽が鳴いた。
「監視は続けよ」
と首無しは答えた。
「魔界の空の高みから、目立つことなきように監視を続行せよ。ただし、単騎。集団は無用。黒い雨も当分のあいだ控えて下さるように我が主には申し上げよう。陸地海面を問わず、すべての地表に視線を配り、彼らを発見したときはすみやかに我に知らせよ」
「カァ、カァ」
「そう、多少のゆさぶりは必要であるか」
そうつぶやくと、首無し騎士は手綱を取り、軍馬を水中へ乗り入れた。水面を蹄でとらえ、軍馬と騎士は悠々と波の上を進み始めた。