移り香

 前肢から爪をむきだし、低く唸り声をあげて、キラーパンサーは侵入者を威嚇した。
 そこは、そもそも魔物の棲み処だった。時折この場所にニンゲンがやってくる。身のほど知らずにも、棲み処の主を退治しようとして。
「ガルルル、ガウッ!」
その声を聞いただけで、ほとんどの侵入者は逃げ出していた。
 だが、今度は違っていた。侵入者は攻撃しようとせず、何か言っている。
「▲〇◇、&“×※、▲△#■#%&%!」
 意図がわからなくて、キラーパンサーは警戒を強めた。鼻づらにしわを寄せ、思い切り口を開いて牙を見せつけた。
 侵入者の口調が変わった。
「&“×※、△$*%、▲△#■#%&%◇#@◆?」
 侵入者が何か取り出し、こちらへ突きつけた。
「&“×※、▽%▲!」
 その手を食いちぎってやろうとキラーパンサーは間合いを詰めた。その瞬間、キラーパンサーはぎくりとして足を止めた。

 甘い香りだった。それなのにすっきりとして、爽やかだった。今まで経験したことのない、不思議な匂いがした。
「いい子、リボンをつけてあげる」
 小さくて柔らかな手が自分の首に何か回している。
「み~」
「怖くないわ。私のリボンなの」
 ベビーパンサーは眼を見開いた。すぐ近くに少女の顔があった。夏空のような美しい青い目と、豊かな金髪のツインテール。彼女は甘く、同時にさわやかだった。
「み~」
 彼女に鼻づらをおしつけ、ふんふんと匂いをかいだ。それまでベビーパンサーをいじめていた悪ガキどもの泥臭さとはまったく違った。
「いい子ね。おまえの名前はプックルよ?」
そう言って、顎の下を撫でてくれた。
 優しく扱われ、大切にされている、親とはぐれて以来、そんな感覚はついぞおぼえがない。プックルはうれしくて目を細めた。
 少女がプックルを抱き上げ、背中の毛皮に顔を埋めた。
「ごめんね、うちは宿屋でお客商売だから、飼ってあげられないの」
 少女の体温は高く、プックルの背はぬくもりに包まれた。
「み~」
 少女はプックルを地面におろし、そっとおしりを押した。その先にいたのは紫のターバンとマントをつけた小柄な男の子だった。
「ルーク。またいつか、いっしょに冒険しましょうね!」
「うん、ビアンカ、ぼく、ぼく……」
 ルークはもう、半分べそをかいていた。
「プックルをかわいがってあげて」
 片方の腕を目にあてて、ルークはうなずくばかりだった。プックルはルークの足元に体をこすりつけた。
「元気でねっ、ルーク!」
そう言うと、ビアンカは踵を返し、ばたばたと走っていってしまった。あの子も泣いていた、とプックルは思った。

 侵入者は髪に紫のターバンを巻いた、人間の若い男だった。
「▲〇◇、&“×※、▲△#■#%&%!」
 プックルはためらった。それまでとは、違って聞こえる。
「ぼ〇◇、ぷ×る、おも#■#てくれ!」
 そしてこの香り。知っている匂いだった。
「ぷ×※、これ▲!」
 甘くさわやかな香りのする何か。プックルは前足を一歩進めた。今攻撃すれば、確実にダメージを与えられる。だがその男は、動かなかった。
 侵入者が手にしているものに顔を近づけ、肺いっぱいにプックルは匂いを吸い込んだ。やさしくされて、大事にされていたころの、大切な匂いだった。
 腰を地につけ、プックルは座り込んだ。
「プックル」
と、名前を呼ばれた。
「ぼくだよ、プックル。思い出しておくれ」
――ルーク!
 大人になったルークが、昔と同じように抱きしめてくれる。鼻づらをこすりつけて、プックルはごろごろと喉を鳴らした。

 ビアンカは、かろやかに笑った。
「あのリボン?プックルはリボンを覚えていてくれたのね!十年くらいたっていたでしょうに」
 そうして片手を出して、プックルを呼んだ。
「いらっしゃい。いい子ね」
 そこはサラボナで貸してもらった帆船の甲板だった。ルーク、ビアンカそしてモンスターたちは、船で水の指輪を秘めたダンジョンを目指していた。
 甲板の上をキラーパンサーは歩き、大人になったビアンカの前に腰を下ろし、巨大な頭をこすりつけた。
「このリボン、懐かしいわ」
 ルークは微笑んだ。
「ビアンカのリボンを見せた時に、最初プックルは匂いをかいでたんだ。ビアンカのおさげ髪の匂いがまだ残ってたのかな」
 くす、とビアンカは笑った。
「それ、私の髪の匂いじゃないわ」
「え?」
 ちょっと貸してねと言うとビアンカは旅行用の荷物袋を取り、中から何か取り出した。
「ほら、これと同じじゃない?」
 それはアルカパの宿でもらった、安眠枕だった。
 プックルはおそるおそる枕に鼻を寄せた。
「ほんとだ……」
 枕の反対側でルークがそう言った。
「たぶん、ブドウよ。アルカパの宿の二階にブドウ棚があったでしょう」
 ルークとプックルは顔を見合わせた。
「もう、なんて顔してるの、二人とも!」
 またビアンカは笑い出した。
「もう、海だわ。さ、早く水の指輪を見つけて帰りましょう。うまくいったらお祝いにごちそうをつくるわ。ブドウも食べましょうね!」
そう言うと、身軽に立っていってしまった。
 プックルは、猫顔ながら承知し難いという表情だった。
「でもさ、魔物の棲み処にいたとき、安眠枕じゃプックルはぼくに気付かなかったわけだし、あのリボンには香りじゃなくても、何か『ビアンカっぽさ』があるんだよ」
 重々しくうなずいて、プックルはルークを見上げた。言葉を持たないながら、その目は雄弁だった。
「ええ?そりゃあ、あったかさとか、何かキラキラしたものとか、元気とか、そんなものさ、うん」

了(2024年4月23日X上のイベント「ビアンカの日」のために)