ラインハットでは盛夏の頃に、ある祭が行われる。この国の初代王が戦いの前に湖の精霊に祈りをささげ、精霊から祝福を受けたことを感謝するための「湖の精霊祭」だった。
湖に面した桟橋には、ひときわ華麗な御座船が出番を待っている。祭の夜、国王を乗せて湖の中央へ漕ぎだし、王は船から花輪を湖に投げ落とすことになっていた。
花輪の儀式の後には、貴族たちを城に招いてもてなすのが恒例だった。城での饗応について太后アデルの意見を聞くために、その日マリアはコリンズを連れて太后の離宮を訪れていた。
祭の準備をするざわめきや浮き浮きとした気配が町から城中まで伝わってくる。ひと通り話を終えた後、侍女のセイラの入れたお茶を一口飲んで、太后アデルはためいきをついた。
「祭が近づくと、町の暮らしが恋しくなるのう」
アデルは、先王エリオスと結婚する前は、一介の町娘だった。
「さようでございますね」
アデルと同年配でやはり町方出身のセイラがそう言った。
「マリア奥さまはご存知ありませんか、湖のお祭では広場にたくさん屋台が出て、おいしいものや甘いものを売っているのですよ。若い娘たちは着飾って友だち同士でお祭に遊びに行くのが、年に一度の楽しみでございました」
「まあ」
光の教団の内部で育ち、修道院で暮らしていたマリアには、聞くだけでもうっとりするような華やかさだった。
「俺、知ってる!」
コリンズだった。
「一回、こっそり前夜祭を見に行ったんだ。いい匂いがして、お菓子とか焼きソーセージとか、いっぱい売ってたよ」
この年にして脱走常習犯のコリンズは胸を張ってそう言った。珍しく微笑んでアデルが言った。
「ジャムを乗せたワッフルはあったかえ?」
「あった!おばあさま、知ってるんだね?屋台の人が鉄板の蓋を開けるともあ~って湯気が上がって、ワッフルが焼き上がるんだ。でもお小遣いを持っていかなかったから、食べられなかった」
アデルはふふ、と笑った。
「祭の屋台の前に並んで買うと、焼きたてが手に入る。今思い出しても美味であったよ」
王妃時代は獰猛とさえ評された太后は、思い出に浸る時は柔らかな表情をしていた。
●
雨続きで人々をやきもきさせていた天気は、精霊祭の前日に奇跡的に回復した。
「今夜は前夜祭だ!」
城の前の広場は日没と同時にたくさんの灯火で輝き、屋台が次々に店を開いた。人が大勢集まって来ると楽師たちがにぎやかな音楽を始め、その前にはたちまちダンスの輪ができた。
「蜂蜜酒はいかが?」
「タルトができたよう!」
「名物のソーセージグリルはこちら!」
「焼きリンゴ、おいしい焼きリンゴ!」
どの屋台も盛大に呼びこみをかけ、わざといい香りをたてて客の気を引いていた。
町の人々は誰もかれも祭のためにめかしこんで、興奮したり笑ったりして楽しんでいる。ときどき妙に身なりのいい者もいて、貴族の若者たちも群衆に混じっているようだった。
ふくよかな中年女が、かまどの上に置いた鉄板の蓋を開いた。いい香りと共に湯気が立ちのぼった。
「お前さん、焼けたよっ」
鉄板には格子状のもようがついているが、取りだしたワッフルにも同じもようがついていた。女はワッフルを次々と台の上に並べ、またすぐにワッフル生地を鉄板へながしこみ、蓋をしめて焼き始めた。
お前さんと呼ばれたのは、ワッフル作りの女の亭主らしい小太りの男だった。
「女房のワッフルは天下一品だ。そのままでもうまいが、今日はイチゴのジャムか濃厚ハチミツを無料でのせるよっ」
ワッフル売りの夫婦の屋台の前には、甘い香りにつられて行列ができていた。
「まいどあり!お次のお客さん、いくつさしあげましょう?」
次の客は、まだ子供だった。襟を紐でしめる簡単なチュニックとズボンに木靴で、下町の職人の子のような身なりだった。
「六つおくれ」
子供は木の皿を差し出した。そばかすだらけの顔はよく見ればかわいい部類かもしれないが、いかにもいたずら小僧という雰囲気の悪ガキだった。
「ジャムのせるかい?」
「ええと、三つはイチゴ、あとはハチミツがいいや」
「よーし、待ってな」
ワッフル売りはできたてのワッフルを木の皿に盛りあげた。
「十二ゴールドになります」
男の子は首からからかけた巾着を開けた。
「えっ」
とこどもはつぶやいた。
「値切りはカンベンしてよ、坊や。ウチもぎりぎりなんでね」
子供はおずおずと巾着を持ちあげた。今度はワッフル売りの方がえっと言った。巾着の底は、切り裂かれていた。
「ありゃりゃ、巾着切りが出たか」
ワッフルを焼いていた中年女は気の毒そうな顔になった。
「かわいそうにねえ。祭のときは、よく出るんだよ」
「あの~」
とためらいながら子供が言った。
「あとで絶対お代を払いに来るから、それ、もらえねえ?」
いやいやいや、と夫婦は声をそろえた。
「うちは現金払いの掛け取りなし。おあしがなけりゃ無理だね」
「熱々が値打ちだってのに、まいった、どうしよう」
●
明日の夜に精霊祭を控え、ラインハット城は一日中ざわついていた。警備の兵士、儀典係、衣装係、厨房等々、あちこちの部署で準備の仕上げをしている。しかし日が暮れると次第に終わり、城は静かになってきた。
「失礼いたします」
ヘンリー大公とマリア妃は、準備の一段落のあとは私室に居た。そこへ女官が緊張した顔でやってきた。
「コリンズ様付きの従僕殿がおいでです。コリンズ様のことで、大事なご報告があるとか」
夫妻は、はっと互いに顔を見合わせた。
「あいつ、脱けたな?」
とヘンリーがつぶやいた。
●
コリンズは困りきっていた。前夜祭のために小銭を持ってお城から抜け出したのだが、まさかすりにあうとは。
今のコリンズは、城の厩で働く夫婦者の息子から借りた服を着た、一文無しの小僧にすぎない。つい、誰か助けてくれないかと周りを見回したが、前夜祭の興奮のほかは、都会らしい冷たさがあるだけだった。
「何やってんだ、こっちは順番待ちなんだよ」
「買うのかい、買わないのかい?」
野次が飛んで、コリンズは身を縮めた。後ろの方で騒ぐ声がした。しかもどんどん大きくなってきた。
「おい、割り込みはやめろ!」
「ちょっと通してくれ」
と誰かが言った。コリンズはその声を聞いて振り向いた。
職人らしい男がそこにいた。庶民のありふれた服、チュニックとズボンという姿だが、肩から大きな道具入れを斜めに下げている。そこから小型の木槌と曲尺、ノミがのぞいていた。
「あいつ、石工か?」
と野次馬が言った。その職人は棟梁というほどの貫録ではないが、一人前の石工のようだった。頭には白い布を巻き、その下に緑の髪が見えていた。
「うちのせがれが、何か?」
コリンズは驚いてまじまじと相手を見つめた。
「坊やの父ちゃんかい?」
ほっとしたような声でワッフル売りの男が言った。
「坊ちゃん、巾着切りにあったみたいでね。お代は十二ゴールドなんだけど、おあしがないんでさ」
石工、のかっこうをしたヘンリーは、笑顔になった。
「こまけえのなら、俺が持ってる。お代はこれで」
気取りのない口調でそう言うと服の隠しからゴールド金貨を取りだして、ワッフル売りに手渡し、焼きたてワッフルの木皿を受け取った。
「あ、あの」
ほらよ、とコリンズに皿をよこし、ヘンリーは職人口調で話しかけた。
「小遣いすられるなんて、運が悪かったな。まあ、いい勉強だ。さ、母ちゃんとこへ帰るぞ」
そのまますたすたと広場を歩き出した。コリンズはあわてて追いかけた。
「ははう……母ちゃんも来てんの?!」
まわりの人々は祭に浮かれているが、誰かが聞いている可能性があった。コリンズはとっさに言いなおした。
「おまえが勝手に飛び出すから、手分けして探したんだ」
ちっとコリンズはつぶやいた。
「ワッフル買ったらすぐ帰るつもりだったのにな」
「それ、土産なのか?」
「うん……」
コリンズはちょっと考えてから呼び方を変えた。
「おばあちゃんと叔父貴とセイラと、父ちゃんと母ちゃんとおれの分で六つ」
広場は祭もたけなわで、陽気な音楽や大道芸、屋台の呼び込みでたいそう騒がしい。その喧噪を突いて、名前を呼ばれた。
「コリンズ!」
その夜二度目の驚きに、コリンズは目を瞠った。
ありふれたスカートと胴着、エプロンをつけ、頭には町の女たちがよく被っている頭巾をのせた若い女が小走りにやってきた。
「は……母ちゃん」
職人の女房姿のマリアは、腰をかがめてきゅっとコリンズを抱きしめた。
「心配したのよ?」
「ごめんよ」
あのさ、とヘンリーが声をかけた。
「こいつ、思った通りワッフル売りの屋台のとこにいたよ」
マリアは立ち上がった。
「まあ、それじゃやっぱり」
ヘンリーは、白い手ぬぐいの下の額を指でかいた。
「おばあさま孝行じゃ、あまり叱るわけにもいかねえしな」
「そうですね」
親子三人のまわりを人々が行きかっている。どこかの酔っ払いが浮かれて声をかけた。
「若奥さん、可愛いなあ!祭の夜くらい、遊ばない?」
とたんにヘンリーが反応した。
「んだと、こら」
「やんのか!」
酔っ払いの連れがあわてて止めに入った。
「やめろよ、あっちは家族連れだぞ」
マリアも夫の腕に手をかけた。
「落ち着いて、ヘ……お前さん」
くるりとヘンリーが振り向いた。
「もう一回、言って?」
マリアは赤くなった。町の女なら妻が夫を呼ぶのに“お前さん”で何の不思議もないのだが、呼び慣れていないせいでどうにもぎこちなかった。
「おっ、新婚さんか?」
通りすがりの客たちが、興味津々と眺めていた。
「若奥さん赤くなってもじもじしてら。くそっ、いいなあ」
「可愛い声で消え入りそうに言うのがたまらん!」
マリアは顔を上げていられなくて、うつむいた。
「お、おまえさん」
先ほどケンカごしだった酔っ払いは、もう連れが向こうの方へひっぱっていってしまった。
「ケンカなんて、やめてね」
「しねえよ。それより」
マリアに見惚れていたヘンリーが、こほんと咳払いをして言った。
「お祭り、見ていかないか?」
「いいのっ!?」
思わずコリンズは、顔を上げた。
「俺も昔、子供の頃にお祭りが見たくて城を脱走したんだ。でもすぐに連れ戻されちゃって、雰囲気しかわからなかった」
まあ、とマリアが言った。
「私も、初めてです」
くすっとマリアは笑った。
「ワッフルは買いなおせばいいですよね、少し冷めてしまったし」
思いがけない成り行きにコリンズはわくわくしてきた。
「俺、あっちの屋台の焼き菓子食べたい!それと、向こうで輪投げやってた」
「行ってみよーぜ。マリア、向こうで音楽やってるから、広場でダンスしないか?それから三人でリンゴジュースで乾杯するんだ」
コリンズに負けず劣らず興奮しているヘンリーが、早口でそう言った。うれしそうにマリアが寄り添った。
「父ちゃん、母ちゃん、早く行こう!」
ワハハっと声を上げてヘンリーが笑った。
「大丈夫、祭の夜は、逃げやしねえよ」
さっ、行こうぜ、と育ち過ぎた悪童が誘った。とても楽しい夏祭りの始まりだった。
了(2021年8月10日twitter上のイベント「ラインハットの日」のために)