夕涼み

 ラインハットは世界の北方にある。冷涼な気候だが、八月の訪れとともに気温はぐいぐい上り、その日は朝から太陽が熱く照り付けていた。
 ラインハット城を取り巻く濠に陽光が反射している。人々は仕事の合間に、濠を泳ぐ水鳥をうらやましそうに眺めていた。
「ヘンリーさま!」
王国宰相の秘書が主を探す声が響いた。この城は中庭を取り巻く形になっている。暑い中庭から眺めると薄暗く涼しい影になった回廊を、秘書や役人たちが右往左往していた。
 中庭の井戸のそばから、少年が一人回廊へ声をかけた。
「ネビルか?どうしたんだ?」
ネビルは宰相の秘書だった。
「ヘンリーさまのお姿がどこにも見当たらないのです。コリンズさまにはお心当たりがありませんか」
その少年、ラインハット王子コリンズは首を振った。
「知らないって。俺、中庭で乗馬の稽古してたんだから」
「どこへおいでになったのやら。明日は大事な会議ですのに」
秘書はイラついていた。
「議題はもう決まってんだろ?資料できてんだろ?」
いちいち秘書はうなずいた。コリンズの父、王国宰相ヘンリーは、ある意味心配性な性格で、イベントの前の準備は完璧に行うのが常だった。おそらく根回しもすべて終わっていて、明日のヘンリーは議長席にふんぞりかえって議事を進めることだろう。
「父上いなくたっていいじゃん」
「そうは行きません!宰相がどこへ行ったかわからないなど、秘書の私の面目が立ちません!」
コリンズは肩をすくめた。
「それじゃあ、母上に聞きな。絶対知ってるから」
ネビルは顔を輝かせた。
「それもそうですな!みんな、マリア奥さまのところへ行くぞ!」
城の役人や宰相付き従僕たちを引き連れてネビルは二階への階段へ突進していった。
「そっちじゃないと思うぜ?」
ネビルたちは、たぶん城の最上階にあるヘンリー一家の住まいへ突撃しているのだろう。コリンズは一度肩をすくめ、城の厨房へ向かった。この時間なら、城の女主人であるマリアは、城の運営に必要な物資の在庫を調べているはずだった。
「母上、いる?」
 厨房では城の料理女が指揮して、ディナーの下ごしらえをやっているところだった。
「おや、コリンズさま。いえ、マリア奥さまはいらっしゃいませんよ」
「あれ、俺がまちがったか。ネビルが父上を探してるんだ。母上なら知ってるって思って」
ベテラン料理女のメルダは、鍋をのぞきこむふりをしてくすくす笑っていた。
「メルダ!なんか知ってるよな?」
メルダはヘンリーが小さい時からかわいがっていたので、ヘンリーそっくりのコリンズもメルダのお気に入りだった。
「メルダは何にも存じませんよ」
と、歌うようにメルダは言った。
「さあ、焼きたてのクッキーをさしあげますからね。夕ご飯までいい子にしてらしてくださいね」
見回すと、城の厨房の料理人たちはみな、含み笑いをしていた。
「なんだよ、あいつら」
ちゃっかりクッキーを受け取って、一枚かじりながらコリンズは厨房を出た。ナッツ入りでバターたっぷりの薄焼きクッキーは、父のヘンリーの好物だった。
 厨房のすぐ外にある階段を上がっていくと、人だかりがしていた。そのあたりは叔父のデールの病室だった。人だかりは侍女や女官で、どうやらデールの母、アデル太后が見舞いに来たらしかった。
「おばあさま」
太后が振り向いた。
「コリンズかえ?おいで」
太后の傍らにデールもいた。
「コリンズ、乗馬の練習をしていたのでしょう」
叔父は窓から見下ろしていたのだとコリンズは悟った。
「うん。けっこう上手になったよ。ねえ、叔父上、父上がどこにいるか知らない?」
デールの視線がふんわり流れた。
「さて、兄上なら仕事中ではないかしら」
「あ~、叔父上、知ってるよね」
ちらっと見ると、太后もレースの扇で、にやにやしている口元を覆っていた。
「おばあさまも!」
血はつながっていないのだが、孫の特権でコリンズは太后にくっついて甘えた。
「ねえ、おばあさま、こっそり教えてよ!」
たまらずに太后が笑いだした。
「しかたあるまいの。コリンズや、ひとつ手がかりを授けるゆえ、それで堪忍してたもれ」
「うん、なに、なに?!」
「暑い日に野良猫が町から消えるのはなぜか、存知おるかえ?」
「涼しいところに隠れちゃうから?」
ほほほ、と老いた貴婦人は笑った。コリンズはピンと来た。
「そっか。俺、行ってみる」
そう言って飛び出した。

 ラインハット城の回廊部分屋上はそのまま歩哨の兵士が歩く通路になっている。城の四隅にある円塔はその通路から中へ入れるようになっていた。
 西北の隅にある円塔は内壁に沿って幅の狭い階段がらせん状に配置されている。一段ずつ上がっていくと、上の方から聞き覚えのある声がした。
「やっぱりここが一番涼しいな!」
「そうですね。景色もすてきです」
階段の最後の段から、コリンズはそっと頭だけ持ちあげた。父のヘンリーが母のマリアと、円塔の最上階でくつろいでいた。
 最上階は柱を立てまわしてその上に屋根を乗せた構造になっている。柱の間から風が吹き抜ける。屋根の下は涼しい日陰で、ヘンリーは帽子もケープも上着まで脱ぎ捨てて寝そべっていた。
 マリアも軽快な姿で……大公の妃の位を示すファー付きの重厚な胴着を取って薄地の絹のブラウス姿、重いオーバースカートを外して軽いレースのスカートだけで……柱の一つにもたれて座っていた。
 柱の一つの前に脱ぎ捨てた衣服の山ができている。そのそばにバタークッキーのカゴと、真鍮の水差しがひとつと、なぜか猫が一匹。
「襟を開けてみたら?」
マリアはちょっと赤くなった。
「そんな、恥ずかしいです」
「誰も来ないからさ。ほら」
 ヘンリーは起き上がり、マリアのブラウスの襟もとを少し広げた。
 片手で水差しを引き寄せ、中から濡れた手巾を取りだし、片手で絞る。コリンズのいるところまで華やかな香りが漂ってきた。オレンジだ、とコリンズは思った。
「いい匂い」
「さっき汲み上げた冷たい井戸水に、オレンジのスライスをたくさん沈めたんだ」
そうささやき、金髪を優しく束ね、オレンジ水に浸した手巾でマリアの首からあごをぬぐった。
 風が濡れた部分から熱を奪い取っていく。マリアは微笑んだ。
「まあ、涼しい」
「な?」
――なにいちゃついてんだよ、父上
コリンズは階段から目だけ出してそのようすを眺めていた。もうちょっと身を乗り出そうとしたとき、目の前に何かいることに気付いた。
「フシャーッッッ!」
野良ネコが背を丸めて、コリンズを威嚇していた。コリンズは腕で頭をかばった。
「あっち行けよ、バレるだろうが!」
「コリンズ!」
あわてて身を縮めたが、遅かった。顔を上げると、ヘンリーが野良猫を抱え上げているのが見えた。
「マリア、こいつ、やっと来たぞ」
ふふふ、とマリアは笑った。
「いらっしゃい。遅かったのね、コリンズ?」
あっけにとられてコリンズは両親の顔を見比べた。
「なんだよ……隠れてたんじゃないの?」
「涼んでただけだ。クッキー食うか?メルダのお得意だ」
 コリンズは階段からはいだして、母に並んで柱にもたれた。
「つまり、父上は仕事早く終わらせて、メルダに好きなクッキー焼いてもらって、母上誘ってここで涼んでたんだな?」
「まあな」
 コリンズは腕を組んだ。
「勝手なことすんなよ!この塔の上は、俺の見つけた隠れ家なんだぞ?」
「はあ?おまえの隠れ家?証拠あんのか?」
「あるさ!父上のいる柱の下んとこ見てみなよ。『こりんず』って彫ってあるから」
ふむふむ、とヘンリーは柱を確かめた。
「じゃ、おまえのいる柱の下を見ろ」
あわてて柱を見ると、釘でひっかいたような幼い字で『へんり』という文字が彫り付けられていた。
 ヘンリーはにやにやした。
「俺が先だぜ~」
「くっそう!」
一世代の年齢差のある二人の悪ガキの言い合いをマリアは笑って眺めていた。
「コリンズ、父上ったらね、『あいつ、いつ気付くかな』って、すごくわくわくして待ってらしたの」
「え、ほんと?」
 ぷい、とヘンリーは腕を組んで顔を背けた。
「あ~、まあな」
「なんだよ、もう」
気勢をそがれてコリンズはその場に座り込んだ。
「まあいいや。今日んところは、縄張り争いはナシだ」
「おう。クッキーで手打ちにしてやるぜ」
 うふふ、と片手を口元に添えてマリアが笑った。
「あら、日が暮れてきましたわ」
円塔の柱の間からラインハットの空が見えた。いつのまにか日が傾いている。ラインハット西方の山の向こうが赤みを帯びていた。
 まもなく豪華な夕焼け空が見えるだろう。ラインハット一家の三人は、だんだん涼しくなってきた風に吹かれながら、黙って空を見上げていた。