カンパニュラ

 その部屋にはビアンカはいなかった。
 そんなことは、わかっていたはずだった。デモンズタワーの上で彼は妻のビアンカと共に石に変えられてしまった。石像となった二人はバラバラに売り払われ、彼、グランバニアのルークは、やっと救出されて人の姿を取り戻したばかりだった。
「ビアンカ……」
 そして、石像となったままのビアンカは、いまだに行方知れずだった。
 そこは城内の寝室だった。ルークは寝台からのそりと起きて、身じまいもしないまま出窓へ寄った。
 部屋は数日前にルークがこの部屋を出てからほとんど変わっていなかった。数日前、のような気がするのだが、実際は生まれたばかりの双子が八歳になるまでの年月がたっている。それはわかっているのだが、ルークにはビアンカの不在が耐えられなかった。
 部屋は見慣れたもので窓辺はごみひとつなく清潔に整っていた。出窓の前の床板には植木鉢が置かれていた。明るい茶色の陶器の植木鉢は、白い顔料でおおらかな絵付けをされている。
「これ、ビアンカが」
 お腹の目立ち始めたビアンカが出窓の前に座っているところをルークは思い出した。ビアンカは紙包みを広げてタネを取り出し、植木鉢へと大切そうに植えていた。
「何の花が咲くのかな?」
 そう尋ねると、少女のころと同じ笑顔でビアンカは言った。
「まだ秘密よ」
「ひどいな。教えてよ」
「きれいに咲いたら教えてあげる」
 冗談でふくれてみせると、ビアンカは両手で彼の顔をはさんで笑いかけた。
「いい子だから、待っててね。そのほうが楽しみが増えるから」
 そう言って、日当たりのいい出窓のところに植木鉢を置いたのだった。植木鉢の中の植物はかなりの大きさに育ち、釣鐘型の青い花を咲かせていた。
「花、きれいだよ、ビアンカ。それなのに、きみがいないなんて」
 控えめなノックの音がした。扉が開くと、年配の女官が心配そうに立っていた。
「おかげんはいかがですか?食欲はおありですか?」
「ぼくは、大丈夫です」
「とても大丈夫というお顔ではありませんが」
 言いかけて女官は植木鉢に気付いた。
「王妃様のカンパニュラが咲きましたのね」
「カンパニュラ、というんですか?」
 きれいな青紫の釣鐘が、つつましく下向きに咲いている。葉の上に水滴がついていることにルークは気づいた。
「水をあげてくれたんですね」
「たいしたこともしておりません。ただ、ビアンカ様はその花を楽しみにしていらしたと思いまして。だって、カンパニュラの花言葉は」

 その部屋に、植木鉢がなかった。
 そうかもしれないと、わかっているべきだった。なにせ、十年もたっているのだから。彼女、グランバニアのビアンカは、大神殿から救出されて人の姿を取り戻したばかりだった。
「やっと帰ってきたのだもの、植木鉢のひとつくらい、あきらめなくちゃ」
 大神殿での十年の間にビアンカの身体は衰弱しきっていた。事実、ビアンカはグランバニア城に戻ってきてから寝室でこんこんと眠り続け、ようやく目を覚ましたところだった。
「失礼いたします」
 顔なじみの女官がそっとノックして入ってきた。
「お茶をおもちいたしました。おかげんはいかがですか?」
 ビアンカはなんとか微笑んでみせた。ビアンカにとっては数日前、でも本当は十年前から知っているひとだったが、さすがに年を取っている。そのことにビアンカはあらためてショックを受けていた。
「大丈夫だけど、なんだか自分が場違いな気がしてしかたないの」
 銀盆の上のティーカップにお茶を注ぎ入れながら、女官は控えめに笑った。
「ルーク様も、お城へ戻られたばかりのころそのように言っておいででした。知っているところなのに、なんだかよそよそしい気がする、と」
「ええ、ちょうどそんな感じね」
 十年という時間が、自分を置き去りにして過ぎていった。知らない家、知らない家族を、どう扱ったらいいのか、ビアンカはまだ少し混乱していた。
 女官がトレイを置いた。
「もしビアンカ様がどこかなじめないとお思いなら、どうかこちらへおいでくださいまし」
 女官が導いたのは、グランバニア城の屋上庭園だった。風よけに大きなストールを肩の周りに巻き付け、髪も編まないまま、ビアンカはゆっくりと道をたどった。
「ビアンカ様、あちらに」
 屋上庭園に誰かいる。近づくにつれて、ルークだとわかった。ルークのそばには男の子と女の子。アイルとカイの双子だった。
「あ、お母さん!」
「お母さんだ!お父さん、お母さんが来たよ!」
 ルークがこちらを見た。笑って手を振った。
「来てよ、ビアンカ、こっちだ」
 こっち、こっち、と双子も呼んでいた。
 空は青く、遠いチゾットの山は白い。風にのって雲が流れていく。衰えた足でゆっくりとビアンカは進み、一歩ごとに目を見張った。
「こんなところに!」
 グランバニア城の屋上庭園は、一新していた。
 広い花壇を埋め尽くす花は一種類だけだった。人の膝の高さの花で、一本の茎に釣鐘型の花がたくさんついている。色は青紫、薄紅色、白の三種で、カラフルな小さい釣鐘が大量に下がっているように見えた。
 遠慮がちに女官がささやいた。
「王妃様がタネをまかれた、カンパニュラですわ」
 一歩ビアンカは近寄った。
「こんなところに、こんなにたくさん」
 ルークは嬉しそうだった。
「ぼくと子供たちでここへ花を咲かせたんだ」
 そばに双子がやってきて、熱心にうなずいた。
「お母さんが帰ってきたら、一番に見せようと思ったの」
「花畑にしようって、みんなで決めたよ」
 ルークが片手を差し出した。
「花を育てながら、ずっと待ってた。おかえり、ビアンカ」
 屋上庭園を風が吹き抜けた。ストールの合わせ目を片手でおさえ、もう片方の手でビアンカはルークの手を取った。
「ありがとう。私、やっと言えるんだわ」
 釣鐘型の小さな花、カンパニュラ。その花言葉は「思いを告げる」。
「ありがとう、ルーク。私を待っていてくれて」
 小さな双子の前にビアンカはかがみこんだ。
「私と家族になってくれてありがとう」
 泣くまいと口を引き結んでいるのに、鼻がぐじゅぐじゅしている息子と、ぽろぽろ泣いて唇が震えている娘をビアンカは抱きしめた。
「私をお母さんにしてくれて、ありがとう!」
「うわーん!」
 がまんできずに小さな手が四つ、しがみついた。ビアンカは双子を抱きしめた。その外側からルークの大きな手がビアンカの背に回された。
「これまでの十年を失ったなら、これからの十年を力いっぱい生きよう。ビアンカ、ぼくの大切な人」
 答えに代えて、ビアンカは夫の手を握る指に力を込めた。

了(2023年4月23日twitter上のイベント「ビアンカの日」のために)