空色の髪の乙女

★2022年2月22日、このSSのためにすてきなFAをいただきました。⇒フローラとアベル

 広野にそびえたつ大樹は、そのままで小さな村だった。地面の代わりにウッドデッキを樹木の周囲に巡らせて、その上に建物が作られていた。
「ごめんください。こちらはネッドの宿屋さんですか」
 シェルトはそう声をかけて、一番大きな建物の中に入った。
「いらっしゃいませ。お泊りですか?」
 人のよさそうな男がそう尋ねた。宿屋の主のようだった。
「いや、私はサラボナのルドマンの使いできました。こちらにフローラさんと、ご主人のアベル氏がお泊りではないですか」
 宿屋の女将らしい中年女が声をかけた。
「あの新婚さんだね。今朝、お発ちになりましたよ」
「しまった、出遅れましたか」
 シェルトは肩から担いだ荷をゆすりあげた。
「こいつをフローラさんにお渡しすることになってましてね。追いかけてみます。ありがとうございました」
 主人と女将は目を丸くした。
「これは宝箱じゃないか。大荷物だねえ」
「お使いさん、たぶん追い付けるよ。あの新婚さんはグランバニアへ行くって言ってたから、渓谷を抜けて山の洞窟へ入るルートだろう。でも若奥様が暗いところは苦手だと言ってなさったから、まだ洞窟へ入っていないかもしれないよ?」
 シェルトはくすっと笑った。
「ああ、やっぱりね。フローラお嬢さんは前からそうなんですよ。そういうところへ入らなければいけないときは、いつもお姉さんのデボラお嬢さんが手を引いてました。サラボナの者たちはみんな、フローラさんがダンジョンへもぐるなんて大丈夫かって言ってまして」
 うんうん、と宿の主人が言った。
「だよねえ。他人事ながら、守ってあげたくなるような可愛い若奥様だったな。まあ、行ってごらんなさい」
 にこにこしている主人と女将に別れを告げて、シェルトは再び歩き出した。
 シェルトはサラボナの町で働く傭兵だった。その前は子だくさんの一家の長男で、早くから商店の手伝いなどをやって家計の足しにしていた。
 フローラとデボラ、サラボナの“王女”二人のことは、だから昔から知っている。これだけ環境が違いすぎると嫉妬すら感じない。フローラは、はるか高みに咲く可憐な花だった。
 その花を手に入れたのは、旅の若者だった。サラボナじゅうが驚愕したのだが、ルドマン氏は花婿を高く評価しているらしく、若夫婦のために盛大な結婚式をあげてやっていた。
「けど、あのフローラさんを旅に連れ出すなんて」
 風にもあてぬように育てたかよわいお嬢さんに、モンスターでいっぱいの世間を歩けとは。町の大半と同じく、シェルトは義憤すら感じていた。
「このあたりかな?」
 目前に巨大な山脈がある。山頂に降った雪は雪解け水となって岩肌からしみだし、山岳の前に清らかな渓谷を作っていた。
 シェルトは池の中の岩々をつなぐ簡単な木の橋を渡って山へ近づいた。つづら折りの道を上っていくと、道は緑の草原に変わった。
 目指すものを見つけてシェルトは足を早めた。幌馬車が停まっている。その前に旅人がいて、馬から馬具をはずし、手入れをしてやっていた。
「すみません!」
 旅人が顔を上げた。紫のターバンとマントに黒髪の男で、まちがいなくフローラの夫、アベルだった。
 彼はけげんそうな顔をしていた。
「サラボナのルドマンの使いの者です」
 そう名乗ると、アベルは目を見開き、ひとつうなずいた。この男がひどく無口だということは、シェルトも聞いて知っていた。
「ルドマン氏からフローラお嬢様へ、水の羽衣をお届けに来ました。フローラさんはどちらにいらっしゃいますか?」
「あ……」
とつぶやいて、アベルは視線をあたりにさまよわせた。
「お留守で?」
 うなずこうとして、アベルは動きを止めた。ふいに顔を上げた。つられてシェルトも背後を見上げ、そして息を呑んだ。
「アベルさん!」
 フローラだった。小道の向こう、丘の上から、飛ぶようにフローラが駆け下りてきた。
 空色の長い髪が、風の中にふわりと広がる。
 乙女は胸に、チゾットリンドウの白い花を大量に抱えていた。
 高山植物の花畑のなかを、翼があるのかと思うほど軽やかに、フローラは走ってくる。
 たぶん、シェルトのことは目に入っていない。ひたすらにアベルだけを見つめていた。
「アベルさん、アベルさん」
 夫の名を呼ぶだけなのに、その声には天空へ抜けるほどの煌めきがあった。
 飛び込んできたフローラを、アベルはたくましい腕でしっかりと抱きとめた。興奮のあまりフローラは早口になっていた。
「アベルさん、見てください、お花がこんなにたくさん!私、押し花にします。そして暗くて怖いところへ行ったら、このお花を胸にあてておくのです。そうすれば大丈夫。怖くありません」
 アベルはただ、新妻の輝くような笑顔に見入っていた。
「だから私もいっしょにダンジョンへ入ります。私、だいじょうぶです」
 アベルはあらためて腕をフローラの肩に回し、花束ごと抱きしめた。
「ありがとう。いとしい、強いひと」
 無骨な男が赤くなって、やっとそうつぶやいた。ほほを薔薇色に染めてフローラは夫の肩先に顔を埋めた。
 サラボナに帰ったら、ルドマン氏に聞かれるだろう、フローラはどんなようすだった?と。ルドマン夫人、デボラ、お屋敷の人々、町の人たち、同僚や知り合い、みなフローラを大切に思い、案じているのだから。
 シェルトはもう答えを決めていた。
 フローラさんは大丈夫。
 空色の髪の乙女は恋をしている。彼女は今、無敵だった。

了(2022年2月6日twitter上のイベント「フローラの日」のために:すぎやまこういち先生の「亜麻色の髪の乙女」リスペクトです。)