ロトシリーズ20のお題 13.さまよえる魂

 ムーンブルグ城は、悪臭を放つ泥の海の中に、巨大な石造りの骸をさらしていた。
 赤い靴がためらいもなく泥の海をわたっていく。ときどき汚い飛沫があがってぴちゃりと音がした。
 こうして王女は自分の城に帰ってきたのだった。
「さぞかしとは思っていたけど」
サマルトリアのサリューがつぶやいた。
「ひどいね」
アマランス王女は無言だった。
 屋根をなくしてふきさらしになった城内は、夕方の薄ら寒い風が吹き渡っている。壁や床もごっそりと削りとられ、何度か雨が降ったのか、あちらこちらに瘴気に満ちた水溜りができていた。
「少し、一人にしてくださる」
抑揚のない声で王女が言った。
「わかった」
と、ローレシアのロイアルが言った。
「おれはおれで、やりたいことがある。兵士のたまり場だったところは、どこだ?いや、いい。大体の構造はうちと同じだ。見当は付く」
すたすたと歩いていってしまった。
 王女は、ただ一人、玉座の間へ入っていった。大広間の入り口でサリューはためらった。が、彼女の意志を優先して黙ってみているだけにした。
 ハーゴン率いる魔物の軍勢に襲われ、散々にあらされてはいるが、その広間は見事だった。薔薇色に花柄の厚地の織物が天井から吊り下げられ、玉座二基をすえた壇の背後にめぐらされていたらしい。
 もうカーテンのすそは破れ、模様も判然としない。みじめに風になぶられているだけだった。
 広間の床は色のついた石をよく磨いて幾何学模様になるように配置したものだった。大きなタイル模様は、しかし、とうにひび割れ、欠けている。柱が倒れていたり、石くれがころがっていたり、ひどいありさまになっていた。
 上座にある玉座も片方はひっくり返され、無事な方も魔法の業火に焼かれて薄汚く変色していた。
 その上に何か光るものがあった。実はロイには見えにくいらしいのだが、サリューには、はっきりとわかる。故ムーンブルグ王の人魂だった。
 王女はつかつかと玉座に歩み寄った。アムにはわかるはずだ、とサリューは思った。なにせ、サリューとは段違いな魔法力に恵まれているのだから。
 アムは玉座の前に立った。が、話しかけようとはしない。やおら、その手から杖をはなした。からん、と音を立てて杖がころがった。
 ゆっくりと腰をひねるようにして、アムは左右を見回した。両手の指が白いローブのすそを軽くつまむ。彼女は優雅に足を引いて、父王の魂に一礼した。
上体がゆっくりとあがる。両手が広がり、赤い靴が床を蹴った。
「ラ・ラ・ラーラ・ラー」
アムは歌っていた。優雅なダンスの曲。サリューは大広間の入り口の柱に隠れながら愕然としていた。
 まるで、英明な君主を戴き繁栄を楽しむ豪華な宮廷で貴公子たちを相手に踊っているように、アムは華やかに旋回する。ローブのすそがひらひらと舞い上がり、長い袖が動きにあわせてたなびいた。
 軽いジャンプ、そしてステップ、揺らぎのないバランス。赤い靴は床に転がった瓦礫を巧みに避けて、鮮やかに跳んだ。
 アムは、うれしさとはにかみの混じった表情でほほを染めていた。王と王妃と全宮廷の愛情を一身に受ける、誇らかな王女の顔だった。
 ステップの最後の位置は、玉座の前だった。姿の見えないダンス相手に向かってにっこりと微笑んで別れを告げ、アムは王に向き直った。
 そのまま、動かなかった。
 幻の宮廷楽団は、演奏をやめてしまったらしい。
 アムの顔つきが変わった。表情らしい表情が、彼女の顔から滑り落ちて、消えていく。
 赤い靴はもう踊らない。アムは一歩、玉座に近寄った。
「ただいま帰りました」
はっきりした声でアムは言った。
「お父様、アマランスは、ここにいますわ」
人魂がはじめて反応した。
「誰かそこにいるのか?わしはもう、何も聞こえぬ、何も見えぬ」
くっ、とアムがうめいた。足早に玉座に近寄ると、がくりと膝を折った。両手がこぶしの形をつくる。腕を両方とも振り上げ、激しくアムは玉座をたたいた。
 どすっ、どすっ。サリューのいるところから、彼女の顔は見えない。ただ、渾身の力をこめて、アムは何度もこぶしを振り下ろした。
「う、う、うぅぅ」
獣のような唸り声があがった。
 サリューは思わず駆け寄ろうとした。その肩を誰かがおさえた。ロイだった。
「よせ」
「でも、あれじゃ、怪我するよ」
「手の腫れはお前のホイミですぐなおる。けど、あいつはきっと、おれたちにあんなところを見られたくないだろう」
 すべてを失った王女は感情のすべてをぶつけるようにうなり、玉座を殴り続ける。ロイとサリューは柱の陰で背を向けただじっと待つだけだった。
 日が暮れる。滅亡の城に死霊の徘徊する時間が訪れる。だがそれがどうしたというのだろう。王女の嘆きは、冥界よりも深かった。