捜神アレフガルド 10.マイラ温泉

 広い水面から豊かな水蒸気があがっている。白い湯気は夜空へゆらゆらとあがっていった。
「わ~、ひろーい」
レックスはうれしそうにそう言うと、湯をかきわけて父のところへやってきた。
「泳げそうだよ?ね、お父さん!」
フィフスは、息子と同じ黒髪をタオルで束ねて頭に巻き付けていた。湯船は天然の岩場だった。岩のひとつに背をもたせかけ、フィフスは笑った。
「うん。ビアンカの村のお風呂と同じくらい広いね」
「ぼく、一回しか行ったことない」
「あ~ぼくもしばらく行ってないなあ」
 マイラの温泉に彼らは来ていた。ルーラのできるメンバーが多いのでラダトームまではメルキドからでも難なく帰ることができた。
 アレフたちの目的は、今のところ黒い竜を見つけることだった。手がかりはムツヘタの言った沼地のダンジョンの目撃例だけ。とりあえずそこを見に行こうということになった。マイラはそこからもっとも近い村なので戦闘を控えて一泊しよう、という提案で立ち寄ることになったのだが、どうやら仲間たちはアレフを気遣ってくれているらしかった。
 食事の後、誰からともなく温泉行こう、と言い出して全員でひと風呂浴びることになった。マイラの温泉は共同浴場だった。大地の神ガイアの操る炎の一部がマイラの村の地面の下で今も燃えさかっている。その地層を通る地下水は熱い湯となってマイラの中にある岩場に湧き出してくるのだ。
 アレフは、マイラは初めてではなかった。共同浴場は柱を立て簡単な屋根をかけただけの脱衣所と、目隠しの塀を回した岩の露天風呂でできている。今のメンバーは男ばかりなので誰に遠慮することもなく、ぞろぞろと風呂場へ通った。
「そこに服置いて、体洗うのはあっち」
エイトは珍しそうに設備を眺めている。フィフスとフォースはさっさと裸になっていた。
「お風呂、おふろ~」
アレフは見るともなしにフィフスの方を見て、思わず息をのんだ。
 先日アレフを驚かせた青黒い刺青はなくなっているのだが、あのときはわからなかった無数の傷跡が全身についている。明らかに鞭傷だった。
「レックス、髪洗ったげる」
「うん!」
息子は見慣れているのか、何も言わなかった。
「すげーな」
となりでフォースがそう漏らした。そういうフォースは、草色の上着と生成の服を脱いで、裸の胸をさらしていた。やはりいくつか傷が残っている。フォースはごそごそと下の方を脱いでいた。彼の性格を反映して、背中側の傷、いわゆる逃げ傷がなく、体の前にだけ向こう傷がついていた。
 筋肉の発達した肩に手ぬぐいを一枚ひっかけてフォースは風呂場へ行ってしまった。
「露天風呂って初めてです。楽しみだなあ」
言いながらエイトは、脱いだものをていねいにたたんでいた。アレフはちらっとそちらを見た。エイトは、はにかんだような笑顔を見せた。
「習慣なんです。なんとなく、たたまないと気になって」
「俺は戦士を何人か知ってるが、けっこう珍しいな」
“戦士”はどちらかというとそのへんはおおざっぱになる人間の方が多い職業だった。
「元々小間使いだったんです」
へ?と変な声が出てしまった。
「僕は孤児だったんで、お城に拾われて最初は下働きをしてました。年が近かったんでお城のお姫様の遊び相手とかね。大きくなってから、兵士になりました」
「それで今は近衛隊長か。出世したんだなあ」
あはは、とエイトは穏やかに笑った。
「お城では、らしくないって言われます」
エイトの前の棚は、黄色い上着、青いシャツ、赤いバンダナがきれいにたたんでおいてある。アレフはちらっと彼の体に視線を走らせた。
 らしくない、どころか。童顔の上に着痩せする性質なのだろう。それはよく鍛え、ひきしまった体だった。そうでなければ第一、槍を取ってのあの鮮やかな戦場働きができるはずもない。
「でも、いい身体してるよな」
「……あんまり見ないでください」
恥ずかしそうにそう言って、エイトはいそいそと湯に行ってしまった。
 大の男四人と男の子一人で洗い場を使うと多少狭く感じるほどだった。豊かな湯水の流れる音、時々湯桶を石床に置く音が響いた。
 全員が岩の露天風呂に落ち着いた時は、誰からともなくはふぅと声が出た。
「アネイル以来だ……あ~贅沢してるって気がするな」
顎の下まで湯に浸かり、肩から先を湯船の縁になっている岩の外に出してフォースが言った。
「気持ちいいですねえ。みんなもつれてきて上げたかったな」
エイトが逆に、岩の上に頭を載せ、湯の中に仰向けで手足を伸ばして、夜空を仰いでつぶやいた。たぷん、たぷんと掛け流しの湯は岩風呂に満ちてはまた流れていった。
 フィフス、レックス父子は二人で湯をとばして遊んでいた。親指と人差し指で輪を作って湯に沈め、水面のすぐ下で三指を握り込んで湯を噴水のように飛ばす。
「あ、できた、できた」
「レックス、上手だよ」
レックスがじゃばじゃばと音を立ててフォースの方へやってきた。
「ねえ、見て見て」
目の前で実演すると、擬似兄貴は発憤したようだった。
「俺だってできるぞ、ほら!あれ?」
すぐムキになってフォースは練習を始め、レックスはきゃっきゃっと笑いながらそれを眺めていた。
 すぐそばで、ちゃぷんと音がした。
「さっきから、静かなんですね」
フィフスだった。
「ヒフミさんのことが気になりますか?」
「どうしても思い出すよ。この村はあの子の故郷なんだ。もう家族はなくて、叔母さんを頼ってラダトームへ出たと聞いたかな」
「彼女が好きだったんですか?」
質問したのがこの、世間離れのした超天然ボケでなかったら、アレフは答えなかっただろう。 
「好感はあった。あのころパーティはフィールドを長く歩くために回復役を探していたんだ。ヒフミは、最初髪を短く切って男言葉でしゃべり、衣服も女らしいものは身につけなかった。パーティにとって女僧侶を入れたというより、けなげな後輩ができた、みたいな感じだった」
まじめな印象のヒフミは、だんだん笑顔を見せるようになった。そもそも箸が転がっても可笑しい年頃の娘なのだ。
「楽しかったな、あのころは」
レベルは低かったし、装備もしょぼかったけど、パーティは楽しかった。アレフにとって生まれて初めて対等な仲間だった。ロッコがヒフミをからかい、ヒフミがムツヘタに泣きついて、アレフがまあまあと止めに入る。
「そんな生活がずっと続くと思っていた。鈍かったんだな、俺は」
 あのね、とフィフスが言った。
「僕が結婚しているからそう思うのかもしれませんが、これは一種の離婚だと思います」
「離婚?!」
思わず声が裏返った。
「アレフ、あなたが夫、ヒフミを始めパーティが妻、で、ラーレ様が姑です」
「ちょっと待て」
「だから、たとえばの話ですよ。姑は姑にとっての正義を夫に押し付ける。夫はその正義を受け入れても、妻はその押しつけが不満かもしれない。でも夫は妻の不満には鈍感なものです。なおかつ、姑の悪意にも鈍感です」
「鈍感……」
「妻の我慢や犠牲を当たり前とみなし、自分の我慢や犠牲を棚上げにする不公平を異常と思わないなら鈍感というべきでしょう」
言い返そうとしてアレフはしばらく考えた。
「“夫”は、この場合、“妻”の我慢と釣りあうには何をすれば良かったんだ?」
うーん、とフィフスがうなった。
「何が不満なのか、解消するにはどうすればいいかをはっきり話し合う手間を惜しまないことでしょうね。“悪気はない”、“気のせいだ”と言って現状を維持するのは夫に取って一番犠牲の少ない方法ですから」
“悪気はない”、まさにその通りのことをヒフミに言ったことを思い出し、アレフは濡れた手で自分の顔をぬぐった。
「夫も妻も人間なら、それぞれの正義は違うかもしれない。それをつきつめたら、別れるしかなくなっちまう」
「デボラは、家内のことですが、そう言ってました」
あっさりとフィフスは言った。
「『違う道を行きたくなったら、そう言うわ。その時はお別れね』って」
なんと言うべきかわからなかったが、とりあえずアレフの属する社会に沿って感想を言ってみた。
「夫婦の価値観がちがったら、ふつう、妻が我慢しないか?」
経済的な問題、社会の慣習に沿って言うなら、少なくともこのアレフガルドではそうなる。
「ぼくたち夫婦は置いといて、今回の場合、“妻”の役の三名はそれぞれ職業を持つ自立した人間ですからね。夫を見捨てても生活に困ることはない。自分を殺してまで“姑”の悪意と“夫”の不公平に耐えるくらいなら別れようと思っても不思議はないでしょう」
生活感漂うたとえ話に、アレフはくらくらしていた。
「ええと、夫婦っていうのはたとえだよな?」
「もちろんです。要するに、主神―勇者のつながりと、パーティ―勇者のつながりのどちらを重いと考えるかですね」
俺ならパーティ一択、とフォースが言ったことをアレフは思いだした。
「自分のパーティと神が対立するなんて、考えたこともなかったよ」
フィフスは同情するようにうなずき、しばらく黙って湯に浸かっていた。
 アレフの背に湯の波がかかった。
「フィフス、ひとつうかがってもいいですか?」
エイトが来たのだった。
「何ですか?」
「あなたのところでは嫁姑問題はあったんでしょうか?あ、立ち入ったことをうかがってすいません」
えーと、とフィフスはつぶやいた。
「実はぼくの母は生前ずっと家族とはなればなれだったんです。母と妻は、最後に一度顔を合わせただけで。だから嫁姑の諍いそのものがありませんでした」
と言ってからフィフスは早口で付け加えた。
「でも、ぼくはいつでも妻の側に立つつもりです!」
「そーですか」
とエイトはつぶやいた。
「僕は、どうかなあ」
「結婚するんですか?」
エイトはあっさりうなずいた。
「はい」
「本当か?聞いてないぞ」
思わずアレフは言った。
「すいません。個人的なことだと思ってました」
「お嫁さんは、どんな人ですか?」
「幼なじみの美人です」
にへら、とフィフスが笑った。
「いいなあ。わかりますよ」
「でも、彼女の父上が」
「反対なの?」
「いえ、賛成してくれたのですが、あの、彼女の父上はぼくの上司なんです」
アレフとフィフスは顔を見合わせた。
「そりゃ大変だ」
「近衛隊長の上司って、何もんだ?」
「実は、王様です」
あー、とアレフはうなった。
「おれも王族生まれだが、やっぱりうっとおしいもんだぞ、あれは。よく婿になろうなんて気になったな。すると嫁さんはお姫様か」
エイトは真顔で聞いた。
「アレフ、あなただったらどうします?好きになったひとがお城の姫様だったりしたら。自動的に王様がお義父様ということになりますよね」
「うざいだろうなあ。本人がいいやつでも、立場があるから自分でもどうにもできないんだな、あれは」
アレフはため息をついた。
「そんなことになったら、俺、逃げるわ」
「お姫様を置いて?」
「ん……駆け落ちするって言って一緒に来てくれれば最高なんだけどな」
エイトはため息をついた。
「姫は、母上様が早くに亡くなってて父君と仲良しなんです。父一人子一人で」
エイトはちょっと首を振り、気を取り直すように言った。
「ぼくも王様のことは嫌いってわけじゃないし」
「嫌いじゃなくても、一緒に暮らすとなるといろいろあるぞ」
「一緒に暮らしましたよ?馬車の中ですけど、こ一年くらい」
「馬車?上司で王様のやつと?」
「はい」
アレフは思わず、言った。
「おまえ、勇者だな」
「ま、そうなんですけどね……」

 レミーラの光の中に、洞窟の壁が浮かび上がった。石壁の継ぎ目と継ぎ目の間には土が入り込んで苔がつき、緑の筋となっていた。
 アレフたちは沼地のダンジョンを進んでいた。レックスが見たという通路の分岐点は、マイラ側の入り口近くにあった。そこから細い通路が続いている。一行は道の続くままに進んでいった。
「何かいる」
とフィフスが低くささやいた。
 それは力の気配とでも言うべきものだった。自然にアレフたちは緊張していた。このダンジョンのどこかに強い敵がいる。フォースもエイトも自分の武器を手にしていつでも対応できるようにゆだんなく身構えていた。
「雑魚モンスターが、いない……」
エイトがつぶやいた。その通り、聖水でも撒いたかのように、モンスターが出てこないのだ。雑魚がおそれるような大物がこの通路の先に存在する、ということだった。
「見ろ!」
通路はその先で曲がり角になっていた。その先がほのかに明るくなっている。どこからか漏れる灯火を受けて、床にシルエットができていた。
 黒々とした影だった。コウモリの羽のような翼の影が、通路の床で羽ばたいた。
 ウォン……と吼え声が響いた。
 パーティに緊張が走った。
「ドラゴンですね」
エイトの声だった。
「まちがいないね」
フィフスが答えた。
 ふと、気配が変わった。
「そこに誰かいるのか」
アレフは自分の腕一面に鳥肌が立つのを感じた。
 人間でいうなら、壮年の男性の声というところだろう。しかし直感が、これは人の声ではないと告げていた。ダンジョンを支配するパワーオーラの主に間違いなかった。
 アレフたちは互いの顔を見合わせた。意を決してアレフが一歩進み出た。
「勇者アレフとその仲間だ」
再び石床で黒いシルエットが踊った。
「やっと現れたか。これへ参れ」
くっそ、と背後でフォースがつぶやいた。
「マスドラの双子じゃねえ?」
片手の甲で小鼻の冷や汗を苛ついた仕草でぬぐい、歩き出した。ラスボス戦に等しい緊張感に身を堅くしたままパーティは進み、通路の角を曲がった。
 最初に目に入ったのは頑丈な扉だった。ダンジョンのつきあたりの岩室を小部屋にしてその前に扉をつけたらしい。扉の左右の岩壁にくぼみを作り、そこで太いろうそくを燃やしていた。
 ろうそくの火は扉の前の生き物の目に反射していた。縦長の虹彩の黒の瞳、眼球はメタリックな金色。黒に近い紫の鱗に覆われ、皮革質の翼を備えた巨大な怪物は、知性を備えた目で遙か高みからパーティを見下ろした。
「ようこそ、勇者アレフ」
アレフは声がのどに絡むのを感じた。
「あなたは、何者だ」
巨大なドラゴンが答えた。
「我は王の中の王。竜王」
名乗りと同時にダンジョンの中の大気が震撼するのをアレフは感じた。全身に鳥肌が立ち、背筋に沿ってチリチリした痛みが走った。ドラゴンはモンスターであると同時に神でもある。巨大な霊的存在を前にして現実の方が耐えられずふるえる、という現象を初めてアレフは経験した。
 フィフスが手にした杖をかつんと石床につき、進み出た。
「世界の転変に立ち会ったという竜は、あなたですか」
竜王は濃紺の翼を背に畳み、後ろ足で座り、前足をついていた。首と背筋を伸ばして見下ろし、長い尾は行儀良く丸めている。つやつやした鱗、白銀の牙、知的な瞳の彼は、奇妙に貴族的だった。
「いかにも」
尊大に竜王は答え、鱗をきらめかせて振り向いた。
「さあ、役者がそろったぞ。どのように踊らせるのか、見せてもらおう」
竜王が話しかけたのは背後の扉のようだった。重そうな鉄の扉は上半分の中央が素通しになり、そこに鉄格子がはまっていた。細いスリットを通して、そのとき、光があふれ出した。
 再度ダンジョンの空気がふるえた。のみならず、あたりの空間そのものが変質していく。暗い沼地の洞窟は岩壁と岩床を失い、不思議に明るい清浄な神殿へと変わった。濃紺の地にデフォルメした金の鳥の紋章を描いたタイルを一面に敷き詰めた床の奥、段差をつけて築いた壇上に玉座がある。その上に若い女性が悠々と座っていた。
 きゃしゃな体に薄物をまとい、紅の髪を結い上げて金環でまとめていた。
「呼びかけに答えて、よく来てくれました」
圧倒的な力と同時に、夏の夕方の涼風のように優しく快い声だった。
「我が名は精霊ルビス」