オウム返しの使い魔 2.ヒュドラの首

 紫水晶の瞳は、まだわずかに潤んでいた。
「マリア、マリア!」
 侍女が案内する手間をすっとばして、王国宰相ヘンリーは愛妃のもとへ駆け寄った。
「あなた」
 結婚して数年になるが、この夫婦はいまだに新婚の気配を残している。ぎゅ、と妻を抱きしめて、ヘンリーは言った。
「一部始終を聞いたよ。かわいそうに、辛かったろ」
「あなた……」
 両腕に抱きしめられたまま、マリアは夫の胸に額を押し付けた。しばらくの間、夫婦は抱き合ったまま満ち足りた沈黙を楽しんでいた。
「兄上、もういいですか?そろそろ相談をしたいのですが」
 そこはラインハット王デールの私室だった。デールは椅子のひじ掛けに肘をつけ、あごを支えていた。
「あ~、くそ、わかった」
 夫妻は、二人掛けのソファに並んで座り込んだ。寄付のためのお茶会で事件が起きた時、ヘンリーは城外へ視察に行っていた。デール王じきじきに事情を知らせる使いを出したために、すべて放り投げてヘンリーは城へ戻ってきたばかりだった。
「今回の騒動の件で対策を考えていたら、母から相談を受けました。母の侍女のセイラが何か知っているようです。兄上にも話を聞いてもらいたいのです」
 デールは片手で国王付きの従僕に合図をした。まもなく扉が開き、侍女を従えた太后アデルが姿を現した。ヘンリーマリア夫妻は立ち上がって姿勢を正した。
「義母上」
と、ヘンリーは太后アデルにそう呼びかけた。
「妻をかばってくださいましたこと、御礼申し上げます」
 そう言って頭を下げた。
 アデルは軽く手を振った。
「そのことはもうよい。大公殿、実は、これなるセイラが不思議なことを言いやるのでまかりこした次第じゃ」
 用意された贅沢ないすに、アデルは腰かけた。
 セイラは、アデルよりやや年下の中年ないし初老の侍女で、ヘンリーもデールもよく知っていた。
「やあ、セイラ、お久しぶり」
 ヘンリーは笑顔を向けた。
「昼間は義母上と一緒にマリアを守ってくれたんだって?ありがとう。恩に着るよ」
 セイラは会釈したが、表情はむしろ硬かった。
「あの、マリア奥さま、つかぬことをおうかがいいたしますが」
「なんでしょう?」
「ええと、七日前の夜、晩餐のあと、お城の厨房の食器室か中庭にいらっしゃいませんでしたか?」
 マリアは不思議そうな顔になった。
「七日前ですか?よく覚えていませんが、夜はお城の二階より下には降りていないはずですけど」
「まちがいなく?」
 マリアは困った顔で夫を見上げた。
「七日前だな?夕食は生ハムと温野菜のチーズソースにカボチャのポタージュと鴨肉のオレンジ煮、最後がタルトタタンだった。コリンズがデザートをひときれおかわりしてたな」
 メニューの詳細まで記憶しているのは、ヘンリーデール兄弟共通の、というよりラインハット王家の特殊技能だった。
「その日でしたら、私は夕食後にお部屋でコーヒーをいただいていました」
「失礼を承知でおうかがいします。暗くなった後、マリア奥さまはお部屋にずっとおいでになったのですね?」
 マリアはぽっと頬を染めた。その肩をそっと抱いて、ヘンリーが答えた。
「片時も手放してないぜ」
 小鼻からふんす!と息を吹きかねない表情だった。
 セイラは片手を胸に当てた。
「落ち着いてお聞きください、その夜厨房近くで、私、マリア奥さまのお声を聴いたのです」
 え、とマリアはつぶやいた。意味をとりかねているらしかった。
「暗がりでお姿は見えませんでしたが、誰かが奥様そっくりの声で、不思議な瞳をした黒髪の殿方を慕う、と言っていました」
 マリアは両手を重ねて口をふさいだ。その眼が大きく見開かれていた。
「私、知りません」
「はい、今お尋ねして、ちがうとわかりました。でも、私と一緒に厨房の下働きの娘さんがその声を聞いていました。その子には口止めをしましたが、別の者たちが別の時に謎の声を聞いていたのかもしれません」
「そんな、どうしましょう、私」
 セイラ、とデールは話しかけた。
「その声は、ルークさまのお名前を出していたのですか?」
「いいえ、具体的に誰と指してはいませんでした。そうそう、誰かもうひとり傍にいて、その相手に向かって話していたようです」
「その相手は誰?」
「わかりません。話し相手はやはり見えませんでしたし、話し相手の声も聞こえませんでしたので。ただ、マリア奥さまによく似た声の女性もその話し相手も、黒髪の殿方を知っているようでした。いかにも嬉しそうに、慕わし気に話されるので、その、男女の仲になっておられるように思えました」
「困ります」
 赤面して指を握りしめ、マリアが訴えた。
「私、ルークさまのことは好きですけど、そのような目で見たことは一度もないのに」
 ヘンリーは黙ったままそっと妻の肩を抱いていた。
「義姉上には少しがまんしていただくとして、セイラ、謎の女性が言ったことをもう少し詳しく話してください」
「と言っても、実際その声が話したことはそれで全部です。私も下働きの娘さんも、すぐにその場を離れてしまいましたから。問題の男性がブロンズの肌と黒髪、不思議な瞳の持ち主だということだけです。あ、それから、“あの方を見ていると心が暖かくなりますの”と言っていました。優しげな言い方で、それもマリア奥さまらしいと感じました」
 ヘンリーが顔を上げた。
「セイラ、今なんて?」
「はい?」
「“あの方を見ていると心が暖かくなりますの”」
「その通りです」
 しばらく無言でヘンリーはマリアを抱きしめていた。
 マリア、と彼はささやいた。
「君がなんと答えても、俺は君を信じる。君と結婚してコリンズが生まれて今に至るまでの歳月を、信じる。だから一度だけ、尋ねさせてくれ」
「なんでしょうか?」
「“あの方を見ていると心が暖かくなりますの”。大神殿にいたころ、君は誰かにそう言ったことは、ない?」
 マリアは夫の顔を見上げた。
「ありません」
 ひゅっとヘンリーは息を吸い込んだ。
「あれはマリアじゃなかったのか?」
「あれ、というのはなんですか?」
 ヘンリーはそっとマリアを手放し、真剣な口調で言い始めた。
「“ブロンズの肌と黒髪の男の方には、初めて会いました。それにあの不思議な瞳……。あの人にじっと見つめられると、不思議な気持ちになるのです。この人なら私を受け入れてくれる、なんて、根拠はないのですけど。あの方は男らしく手が大きくて、背中も広いのです。とても強くて、それなのに少しはにかみ屋で、優しくて。あの方を見ていると心が暖かくなりますの。あの方がもし、私をかえりみてくださらないとしても、私は全力であの方をお守りしたい、できることは何でもしてさしあげたい、そう思いました”」
「それです!」
 セイラだった。
「その通りの言葉を、私と下働きの娘さんは聞きました。どうしてヘンリーさまがご存知なのか……」
 デールは唇の前に指を立ててセイラを制止した。
 つぶやくようにヘンリーが言った。
「十年近く昔、大神殿の建設現場の暗がりで、誰かがきみそっくりの声で誰かに打ち明けていたんだ。俺、てっきり、マリアはあいつのことを好きなんだって思って……」
 マリアはぽかんとしていた。
「いいえ、私ではありませんわ。あの、御記憶ではありませんか。兄のヨシュアは髪が黒くて浅黒い肌をしていましたのよ」
 ヘンリーは一瞬無表情になり、ぱちぱちとまばたきした。
――珍しいものを見ました。
 我が兄ながら、何かに驚くところをめったにヘンリーは見せない。デールはじっくり観察した。
 マリアもじっと夫を見上げていた。
「それでわかりましたわ。昔、ルークさまがビスタの港から船出した日の朝、修道院でお尋ねになりましたわね、“あいつのことが好きじゃなかったの?”」
「ああ、そうだよ。でも、マリアは」
「“好きです”とお答えしました。ルークさまを嫌いな人など、いないのです」
 かすかにヘンリーは口角を上げた。
「そうだな。俺も好きだよ」
「私もルークさまが好きです。でも、それはあなたを好きだという気持ちと違う“好き”なのです」
 ヘンリーはうなずいた。
「ふられるのを覚悟の上で、修道院の中庭で君にプロポーズをした。“はい”と返事をもらって、ものすごく嬉しかった」
 小さくヘンリーはうつむいた。
「俺たちの結婚の後あいつがラインハットに来たとき、自分の気持ちはわかっていたはずだった。でも俺は自分の選択した道に自信が持てなくて、その分、自由に旅をするあいつの生き方が魅力的に見えた。そのひがみをあいつに、というか、君に重ねてしまった」
――もしかするとマリアはお前の方を好きだったのかも知れないけど。
 兄がそう言ったという話は、デールも耳に挟んでいる。
 ヘンリーの手が、そっとマリアの手を取り、やさしくなでた。
「マリアがあいつのほうを好きだったかも、なんて、言うべきじゃなかったよ。悪かった」
 マリアが夫を見上げた。
「そのことは、あのあとすぐに謝っていただきましたわ」
 ふわりとした、いかにもマリアらしい微笑みをマリアは浮かべた。
「今はいかがです?」
 ヘンリーは、愛妃の身体に両腕をまわしてその髪に顔を埋めた。
「愛してるよ。そして、君に愛されるにふさわしい男を目指して一生がんばるよ」
 嬉しそうに、恥ずかしそうに、マリアはほほを染めた。
「あの時私のために、拳ひとつで戦いへ飛びこんでくださったときからずっと、あなたが私の王子さまですわ」
 くうぅぅ!と、声にならない声でヘンリーがうめいた。
「マリア……」
「はい?」
「マリア!」
「はい」
「マリアっ」
「はい、はい」
 コリンズをあやすのと同じように、マリアは優しく夫の腕をたたいていた。
 こほん、とデールは咳払いをした。
「そういうのは義姉上とお二人だけの時にしてください。それで、そちらのうわさの出どころはわかったのですか?」
 デールが言うと、ようやくヘンリーは妻を放した。
「ネビルだ」
 ネビルはヘンリーの私設秘書だが、浅はかとうぬぼれを絵に描いたような男だった。
「俺たちが結婚した時、あいつはもう俺の秘書だった。“マリアはお前の方を好きだったのかも”って言ったのを、やつは聞いてたんだ」
「結婚直後、八年ほど前のことですね」
「そういうこと。さっき、ぎっちりと締めあげて吐かせてきたぜ。ネビルは俺の言ったことを、あることないことのうわさ話に交えてあっちこっちで吹聴したらしい」
 デールは片手で額を抑えた。
「ネビルらしい……でも、ネビルが言いふらしたのなら、きっと義姉上のうわさは一度や二度は広まったでしょう。けれど、宮廷の婦人方全体を巻き込むようなおおがかりな醜聞になったことはなかったと記憶しています」
 ヘンリーはうなずいた。
「それが、謎の声が原因で一気にスキャンダルとしてふくれあがったというわけか」
 あの、とセイラが言った。
「どうして謎の声の女性は、昔、大神殿で言ったのとまったく同じことを今ここ、ラインハットで触れ回るのでしょう」
「たしかに、それが謎だ」
 ヘンリーがつぶやいた。
「まるで、芝居のセリフのようですね」
とデールが言った。
「台本があるみたいです」
「あるいは、オウムなんてどうだ?意味もわからずに言葉を繰り返すとか」
 ふむ、とラインハット兄弟は考え込んだ。

 大公妃の恋のうわさは、それからも城内にくすぶり続けた。ヘンリーマリア夫妻は毅然としていたし、いつもパーティやセレモニーには二人で出席して仲の良さを見せつけた。
 だが、宮廷の貴婦人たちはマリアに対して常に冷ややかだった。そして城内の女官や召使の中に、うわさに影響される者が増え始めた。
 コリンズに対してもマリアはいつもと同じように接していた。が、夫妻してコリンズがこのいやな噂を聞きこむのを最大限警戒し、常に緊張していた。マリアが完全に気を許すのは夫と二人きりになったときだけだった。
 ラインハット城の上にある王族居住区の贅沢な部屋に憔悴したマリアがヘンリーと一緒に入ってきた。
 ヘンリーは軽く手を振って秘書のネビルをはじめ召使たちを下がらせ、ひとつのソファに二人で仲良く腰掛けた。
「大丈夫か?泣いてもいい。ていうか、たくさん泣いてごらんよ。そのほうが心にも体にもいいぞ」
 そうヘンリーがささやいた。
 マリアは無言で夫の肩に頭を乗せ、しばらくしてつぶやいた。
「大丈夫です」
とマリアは言った。
「あなたが私を信じてくださるなら、何を言われようと怖くありませんわ。私、強くならなくては。この次何か言われたら“さあ、なんのお話かしら?”と笑ってお見せします」
「マリアはえらいな」
 しみじみとヘンリーは言った。
「俺なんかより、マリアの方がずっと強いや」
 そっと肩をたたいて、ヘンリーが言った。
「できることなら城じゅうの人間ひとりひとり、俺のマリアを疑ったら承知しねえぞと脅しまくりたいんだ。でもそんなことしても、たぶん何もならないよな」
 はあ、とため息がでた。
「ヒュドラの首って知ってるか?デールが教えてくれたんだが、ヒュドラは再生能力の高いドラゴンの一種で、首がたくさんあるんだ。かつて英雄がヒュドラ退治に挑んだが、首を一本斬りおとすと新しい首が二本生えてくるので、絶対に倒せなかった。そこで英雄は大きな岩でヒュドラを押しつぶして討伐したそうだ」
「なんておそろしい……」
「うわさってのは、ヒュドラの首と同じだ。うわさに対して何か反応すれば、倍になってかえってくる。対処するには、まず、“無視”だ。表向き、何も反応しない」
 今回の謎の声のことを知っている者は、一族ではヘンリーデール兄弟、アデル太后、召使では侍女のセイラだけだった。ネビルは論外だったし、重臣や官僚たちにも何も言っていない。それが無視ということだった。
「俺はマリアを愛し、信じている、それを態度で見せつけてる」
 そっとマリアの額に唇を触れた。
「もどかしいよ、マリア。しかも、マリアにばっかり辛抱させてるよな」
 夫を見上げてマリアが微笑んだ。
「そんなこと……デールさまも、義母上も味方してくださいます。心強いですわ」
「なあ、マリア、いっそ城を離れてみないか?海辺の修道院で静養するといい」
 突然言われてマリアはためらった。
「私一人逃げるのは、気が引けます」
「ヒュドラをやっつけるのはどうしたって長期戦になるんだよ。マリア、修道院へ行って、修道院長さまに今までのことをうちあけてみないか?長期戦を戦うには、心が強くなきゃダメだ。そうだろ?」
「でも、コリンズになんて言えばいいか」
「表向きは、恩返しとして高齢の院長様を見舞いたい、ということで行くといい。コリンズにはすべてが終わってから俺が話すよ」
 マリアが答えようとしたとき、控えめなノックがあった。
「どうした?」
 ヘンリーの秘書、ネビルがおそるおそる顔を出した。
「ヘンリーさま、デール陛下がお見えになりました」