オウム返しの使い魔 13.チーム・グランバニア

 グランバニア兵が一人、屋上庭園を走っていった。王の間の扉を開けはなち、片手で外を指し、荒い息で叫んだ。
「来ました!」
 オジロンとサンチョは顔色を変えて立ち上がった。
 押し殺した声でビアンカが命じた。
「手はずの通りに!」
 王の間から教会へ、伝令が走った。まもなく教会の鐘が激しく打ち鳴らされた。
 鐘の乱打は非常事態の宣言だった。国民はあらかじめ決められている通り、近くの建物の中に入り、息を殺した。グランバニア城の一階大通りから人が次々と消え、やがて無人になった。
「マー、サー、マー、ザー……」
 虚ろな声が城の上空に響き渡った。
 二階でも人々は手で自分の口にふたをしていた。兵士たちが、鍛冶職人や城の役人たちをハンドサインで誘導して避難させた。人々は王家からの布告によって事前にこの災厄のことを知らされている。青ざめながらも整然と誘導に従ってくれた。
 グランバニア城の王の間では、ビアンカと双子、そしてコリンズが窓のそばにうずくまり、外のようすをうかがっていた。
「オジロンさま、どうか避難してください」
 ビアンカが言った。
「しかし、ビアンカさまおひとりでは」
「今戦えるのは、私、子供たち、サンチョさん、そして仲間モンスターたちよ。ルークが戻ってくるまで、私たちでしのがないと」
 グランバニアにエビルスピリッツがいるとわかって以来、ビアンカたちはあちこちに使者を出してルークの行方を探していた。エルヘブンには最初に使いを出したが、エルヘブンに来たことはわかっても、その後の足取りがつかめなかった。
「不肖サンチョ、ビアンカさまに助太刀いたします。オジロンさまがドリス嬢さまと奥さまを守ってくだされば、その分ビアンカさまが楽になりますぞ。ここは避難してください」
「是非もない。頼んだぞ」
 サンチョに言われてオジロンはようやく召使たちを連れて階下へ降りて行った。
 残った者たちは息をひそめて窓から空を見上げた。
 コリンズはぞくぞくしていた。ラインハットの災厄の日、城の上空で渦巻いていた紫の雲が、今グランバニアの真上にある。
(あれなんだね?)
とアイルがひそひそと尋ねた。
(うん。ラインハットで見た時より、あいつ、でかくなってる。)
とコリンズは答えた。エビルスピリッツはラインハット城の中庭にすっぽりおさまるほど大きなガス状の雲だったのだが、今はグランバニア城全体にのしかかるほど巨大だった。
 紫のガス塊の中には、恨み、痛み、妬み、憎しみに顔をゆがめて喚き叫ぶ顔がぎっしりと詰まっている。
 カイは目を背けた。
(あれは呪いだわ)
 桃色の唇がふるえた。
(コリンズ君、あんなのに襲われたのね。わかっていたはずだけど、目の前に見るとすごくイヤ。怖かったでしょ?)
 カイは小さな手でコリンズの手をそっと握った。
(怖くなかったなんて言えないけど)
 コリンズは大好きな少女の手をそっと握り返した。
(でも俺はまだ生きてる。なんとか切り抜けようぜ。グランバニアをラインハットみたいな目に合わせてたまるもんか)
 双子はこく、とうなずいてみせた。
(みんな、聞いて)
 決然とした表情でビアンカが仲間を呼び集めた。子供たちとサンチョ、そしてアンクルホーンのアンクル、ライオネックのライオウ、グレートドラゴンのシーザー、ヘルバトラーのバトラーだった。
(空にのさばってるあのモンスターをなんとかしたいわ。チカラを貸してちょうだい)
 仲間モンスターたちはうなり声で応じた。
(ルークの話では、アレはたくさんの魂のかたまりらしいの。ヘタに殴って傷つけて、取り返しのつかないことになってはダメ。私たちがめざすのはアレを弱らせてグランバニアから追い払うこと、できれば吸い込んだ魂を吐き出させること。いいわね?)
 おおかたの事情は前もって話してある。仲間モンスターは意気盛んだった。
(さあ、魔法攻撃が効くのは、あいつが黒い霧を使う前だけよ!)
 たっとカイが立ち上がり、ビアンカの袖を無言で引いた。グランバニア最強の魔女母娘と呪文に長けた仲間モンスターたちは、王の間の扉をそっと開き、屋上庭園へ滑り出た。
 ビアンカたちはあちこちに分散して隠れ、上空をにらんだまま無言で呪文を構築した。
(みんな、行くわよ!)
 ビアンカの合図で、最強呪文が一斉に放たれた。
「ボアアアアァァァァッッッ」
 突然攻撃されることなど、まったく考えていなかったらしい。エビルスピリッツは仰々しい声で濁った悲鳴をあげた。
(攻撃呪文の耐性は高いはずだけど、ライオネックのライデインとシーザーの灼熱のブレスなら)
「マーッダーッ、マーッジャーッ!」
 うろたえた声でわめきながらエビルスピリッツはぐるぐる回り始めた。
 ビアンカの炎の魔法の威力を知っている者たちは呪文だけで追いはらえるのではないか、と考えていた。あの災厄を経験しているコリンズもそう願っていたが、楽観的かもと疑ってはいた。
 ビアンカたちが王の間へ走ってもどってきた。
(どうですか、ビアンカさま)
 サンチョが尋ねた。ビアンカは首を振った。
(くやしいわ。デイン系さえあんまり効いてない……)
 急に空が薄暗くなった。同時にうすら寒い風が吹いて来た。
 くっとビアンカがくやしそうにつぶやいた。
(黒い霧だわ。これで呪文は使えない……)
 コリンズはアイルの肩をつついた。
(出番だ)
(うん、やってみる)
 少年勇者は天空の剣をひっさげて屋上庭園へ飛び出した。
「凍てつく波動!」
 剣を掲げて高らかに叫んだ。天空の剣は、勇者の命に応じてすべての効果を打ち消す波動を放った。
 黒い霧は一度、天空の風に吹きはらわれた。が、すぐに戻ってきた。
「だめかっ」
 上空からエビルスピリッツが襲ってきた。アイルはまっすぐに王の間へ飛びこんだ。
「ごめん、ぼく、失敗しちゃった」
 グランバニアチームは顔を引きつらせていた。最強呪文がだめでも、凍てつく波動ならエビルスピリッツをおおう霧を引きはがせると、半ば確信していたのだから。
 凄まじい音が響いた。エビルスピリッツは城の天守閣に体当たりしているらしい。城の建材が音を立てて崩れ、城外へ落ちて轟音をあげた。
 寒気のするような敗北感を追い払うようにコリンズは声を張った。
「一回の失敗がどうした!まだまだあるぜ!」
 王の間の床には、さまざまな装備が並べられていた。雷の杖、氷の刃、破邪の剣、その他すべて天空の剣と同じく、呪文に寄らずに呪文と同じ効果を上げる、追加効果付きの装備だった。
「やるしかないわ!」
 ビアンカはすぐに落ち込みを切り替えた。
「装備できなくたって道具として使えばいいわ。あっちこっちから魔力を浴びせて、あいつが襲ってきたらすぐ離脱。応戦したりしない。いいわね?」
「やりましょう!」
 威勢よくそう言ってサンチョは、雷神の槍をつかんだ。アンクルたちもそれぞれ装備を取った。
 きゅ、と音を立ててビアンカは自分の結婚指輪を回した。かつてルークと二人で地底湖に注ぐ滝のダンジョンで入手した水のリングだった。
「最初に私が出てあいつの注意を引くわ。その間に後ろから攻撃お願い」
「お母さん、待って」
 カイは、自分の装備、妖精の剣を掲げた。スカラの効果がビアンカを覆った。
「ありがと、カイ。カイも気をつけて。さあ、ここが崩れるわ。出るわよ!」
 チーム・グランバニアが王の間から飛び出した。

 戦闘能力のないコリンズは、王の間からグランバニア城の見張り台へ上った。腕には軽い道具を入れた大きな籠を抱えていた。
 見張り台から見るグランバニア城は惨憺たるありさまだった。ラインハット城と同じく石壁に穴が開き、角塔の角が削られていた。
(みんな、どこだ?)
 コリンズはきょろきょろした。
「コリンズ君!」
 驚くほどの距離をジャンプでつめて、アイルがやってきた。呼吸が荒く、マントの端がちぎれている。手にも顔にも傷を負っていた。
「薬草食え!」
 四の五の言わせずにコリンズは友だちの口に薬草をつっこんだ。
「むっぐっ」
 一生懸命アイルは咀嚼している。ホイミ系がいっさい使えない以上、ほかに回復の手段はなかった。
「薬草、籠いっぱい準備したぞ。じゃんじゃん食え」
 ごくんと音を立ててアイルが飲みこんだ。
「ぼく、ほうれん草嫌いなんだ。同じ味がする」
「それ、勇者が言うことかよ」
 しかも、今。そうつっこんだコリンズの視界がピンク色になった。カイのマントだった。
 傷を負ったライオネックが腕の中に王女を抱えてアイルの所へ連れてきたのだった。カイはライオウの腕の中から、ふらふらしながら立ち上がった。
「カイ、だいじょうぶか!」
 柔らかい白と桃色の頬が、地べたにこすったらしく土まみれになり、唇のすみに出血が見えている。見るからに痛そうだった。
「こんなの」
と、こぶしで血をぬぐいながらグランバニアの姫魔女は言った。
「戦闘ならあたりまえよ。薬草、くれる?ライオウにも」
 寡黙なライオネックは、全身傷だらけになっていた。
「いっぱい、いっぱい食べて!」
 コリンズのそばの旗竿に、音を立てて何か長いものが巻き付いた。次の瞬間、鞭の柄をつかんだビアンカが見張り台へ飛びあがってきた。
「みんな、無事?」
 ビアンカも、満身創痍だった。美しい三つ編みから金の髪が何本も飛び出し、左腕は力が入らないのかだらりと垂れていた。
「ライオウはここにいるよ。サンチョは、ほら、今、上がってくる。でも、シーザーはやられたみたい」
 アイルが指さすほうには、色が抜けて動かなくなったグレートドラゴンがいた。
「よくも……」
 ビアンカはきっとエビルスピリッツをふりあおいだ。
「あっ、アンクルとバトラーが、ほら、あそこ!」
 両方とも有翼の山羊男なのだが、赤い身体に青い髭がアンクルホーン、青い身体に赤い髭がヘルバトラーとコリンズは聞かされていた。ふたりは屋上庭園を巨大なエビルスピリッツに追われて走っていた。
 アンクルたちはかなり足が速かった。エビルスピリッツは移動の速度は遅かったが、それを補うほどの巨体だった。
「追いつかれる!」
 カイが悲鳴をあげた。そのときバトラーがにやりとして立ちふさがった。成人の体格を二回り以上大きくしたその身体を、遙かに大きなエビルスピリッツが悠々と飲みこんでいく。だが、バトラーを吸収している間エビルスピリッツはその場にとどまっていた。
 アンクルは走りながらエビルスピリッツが追ってこないこと、バトラーが傍らにいないことに気付いたらしい。急停止して振り向き、怒声をあげた。
「だめよ、アンクル、こっちへ」
 ビアンカやカイの声はもう届かないようだった。アンクルは怒りに満ちた顔、振り上げた腕のまま、エビルスピリッツに飲み込まれた。
 コリンズたちの見守るなか、そっくり同じに見えるふたりの抜け殻が残された。
 カイの目に涙があふれた。口を開こうとした瞬間、アイルが手でふさいで、自分の人さし指を口に当てた。
(気付かれる。しゃべっちゃダメだ)
 コリンズはため息をこらえた。
 自分の無力さがあらためて心を噛む。だが、アイルを始め、多かれ少なかれ、みんなそう思っているようだった。
(みんな、聞いて)
 ビアンカがささやいた。
(あれを追い払うのは、ちょっとムリみたい。でも、やりすごすならなんとかできるかも。くやしいけど、こらえて。黙ってあいつが行ってしまうのを待つの)
 サンチョがうなった。サンチョもぼろぼろの状態で見張り台まで撤退してきていた。
(一発だけ殴ってはいけませんか、ビアンカさま!)
(シーザーやアンクルも含めて、あいつはいくつもの魂を人質にしてるのよ、サンチョさん)
(しかし!)
 コリンズは低くささやいた。
(あいつ、戦いのドラムを鳴らしてる。直接攻撃はまずいよ)
 エビルスピリッツが現れたときから、遠い雷のようなドロドロという音が絶え間なく聞こえていた。
 くぅ、とサンチョがうなった。
(お願い、ルークが戻ってくるまで待って。ルークさえいれば)
 ビアンカが説得した。アイルがサンチョの袖を引っぱった。
(お父さんなら何とかしてくれるよ)
 カイもひそひそと訴えた。
(お父さん、きっとすぐ来るわ。私、わかるの)
 はぁっ、とサンチョは全身を折り曲げるような勢いでため息をついた。
(わかりました。ここはこらえましょう)
(ありがとう、サンチョさん)
 サンチョは、いえいえ、と首を振った。
(ちょっと頭に血が上っておりました。私が坊ちゃんを信じないでどうしますか。坊ちゃんならきっと、あいつをかるくいなしてくれますとも)
 この人たちはルークさまを信じてるんだ、とコリンズは思った。俺が父上を信じているのと同じように。
 音を立てないように手で口を覆い、コリンズは上空を支配する紫の雲を睨んだ。
(今に見てろ。ルークさまと父上が帰ってくる。そしたら、おまえなんか!)
 見れば、アイルもカイもみんな、上を見上げていた。
(だから、帰ってきて。早く!)

 グランバニア城は静まり返っていた。この城は、城であると同時に一国の首都でもあった。人口はこの大陸で最も多い。首都一つ分の人数が一言も口をきかず、冷や汗を浮かべ、身を縮めていた。
 城で一番高い天守閣や、正門左右の角塔、屋上庭園等は半壊していた。エビルスピリッツが何度も体当たりした結果だった。ビアンカ率いるチームが身を隠しているため、城には動くものがなかった。
 エビルスピリッツは苛立ったようにあちこちと動き回った。そのあげく、塔の壁に開いた大穴を見つけ、エビルスピリッツはガス状の身体をやや縮めてそこから流れ込み、城内を漂った。
 壁一枚へだてて紫色の悪意の塊が通過していく。人々はみな声を殺してその緊張に耐えた。
 コリンズたちは壊された見張り台を放棄して城内に潜んでいた。エビルスピリッツは音に反応している。注意を引くのは明らかに人の声だとわかっている。が、足音にどこまで敏感なのかはわからなかった。それでもチーム・グランバニアは足音を忍ばせて一階奥の教会へたどりついた。
「マー・サー?マー・ザー?」
 うつろな声が近づいてくる。教会の中でコリンズたちは手を口元にあててじっとしていた。
 事態は膠着している。エビルスピリッツは攻撃する相手がおらず、ただうろうろと動き回るだけだったし、ビアンカ率いるチームは潜伏しているが迎撃の決め手がなかった。
(それでもいいわ。あいつが出ていくまで、声をたてなければ)
 城には大人数がいるが寂として声もなかった。
 教会は城一階の大通りの突き当りにあった。エビルスピリッツは、大通りを引き返すことにしたようだった。声が遠ざかっていく。大通りの中心にある噴水が噴き上がり、水が水面をたたく音さえ聞こえた。
 その静寂に、何か混じった。人の声だが言葉ではない音だった。
「ああ、ふわあぁ」
(赤ちゃんが泣いてる)
 乳児を瞬時に黙らせることなど、実の母親にもできない。ビアンカが青ざめた。
 ビアンカはいきなり教会の扉を開いた。エビルスピリッツは民家のひとつに向かって突進していた。
「あっ、うぇええぇ、えうえぇぇぇぇっ」
 民家の扉が突然開け放たれた。思ったとおり赤ん坊を抱えた母親がいきなり飛び出した。
 エビルスピリッツが追った。
 若い母親は時々振り返りながら必死の形相で走っている。脚力で逃げ切ろうとしているようだった。
 赤ん坊は泣き続けた。
 ビアンカが教会の扉から走り出た。
「あたしたちはここよ、こっちを見なさい!」
 手にした雷の杖から炎の波が噴き上がり、エビルスピリッツを襲った。
 命がけでエビルスピリッツの気を引く作戦は成功した。赤ん坊と母親を追うのをやめて、エビルスピリッツが教会とビアンカへ向かって猛然と押し寄せた。
「お母さん!」
 アイルとカイがビアンカを追って飛び出した。
 コリンズは必死だった。このままではビアンカと双子が犠牲になってしまう。
 コリンズは、教会に温存していたアイテムを抱え上げた。追加効果のある装備品だが、コリンズはそれを最初王の間へ持ち込まなかった。風神の盾。道具として使った時の効果は二フラム。
――あいつ、ゾンビ系だって叔父上が言ってた。
 エビルスピリッツに吸収された人々の魂ごと浄霊してしまう可能性を考えて、コリンズは風神の盾を教会へ残したままにしていた。
 その盾を前方に突きだしてコリンズは走った。
「くらえっ」
 風神の盾の中央に描かれた顔が光を放つ。今にもビアンカにのしかかろうとしたエビルスピリッツがくるりと身を翻した。虹のような七色の光を、間一髪でエビルスピリッツは避けた。
「二フラムくらわすぞ、あっち行け、バカ!」
 コリンズはエビルスピリッツを追い立てるように盾を動かした。ひらひらと紫の雲は虹色の光を避けて後退した。
「いいか、おまえなんかぜんっぜん怖くないぞ!もうすぐルークさまと父上が帰ってくるんだからなっ」
 コリンズのあおりに答えるかのように、エビルスピリッツは黒い霧を噴き出した。あたりに魔法を阻害する瘴気が濃く漂った。
「マー、サー、マー、ダー」
 逃げるばかりだったエビルスピリッツが、濃密な瘴気の中にいる。こちらのようすをうかがい、そしていきなり襲ってきた。
「この霧の中でほんとに二フラムできるか?」
 いやな汗が首筋を伝う。いちかばちか、重みでしびれる腕を叱咤して風神の盾をコリンズは掲げた。全身が震え、腰は引け、目なんか開けていられない。それでもコリンズは踏みとどまった。
「コリンズ君!」
 いきなり盾が軽くなった。アイルとカイがいつのまにかこちらへ来て、いっしょに風神の盾を支えていた。
「いっけーっ」
 七色の光の波が流れ出す。その上を飛びこえるようにエビルスピリッツがむかってきた。あいかわらず下卑て感情むき出しの顔、顔、顔がコリンズの視界いっぱいになるまで大きくなった。思わずコリンズは目を閉じた。
 ひゅん、と何かが風を切る音がした。
 涼しくて爽快な風が吹き抜けて、黒い霧の中にひとすじの道を造った。
 おそるおそるコリンズは目を開けた。
 誰かが立っていた。
「下がれ」
 静かな口調、短い言葉。だが、それまで暴れまわっていたエビルスピリッツが、一回り縮んだように見えた。
「マー、サー……」
「ぼくはマーサじゃない」
 紫のターバンとマント、手には剣ではなく杖をたずさえ、静かに立つだけでエビルスピリッツを威圧する、その人。
「お父さん!」
 アイルとカイが両側から彼に、グランバニアのルークに抱き着いた。
「ごめんよ、遅くなったね」
 答える声はあくまで優しく、穏やかだった。
 ビアンカがやってきた。
「おかえりなさい。待っていたわ」
 エビルスピリッツから目を離さずにルークは片手を伸ばし、自分の指を妻の指にからませた。
「みんなを守ってくれてありがとう。さあ、ぼくらにまかせて」
 ぼくら……。コリンズはあわてて立ち上がり、振り返った。
「よう」
 ヘンリーが、そこにいた。くたびれた旅人の服姿で右手には大きめの壺を抱えていた。
 遅いぞ、とか、待ってた、とか、言葉が頭の中をぐるぐる回るばかりで何も出てこない。第一、口を開くと涙があふれてしまいそうだった。まるで小さな子のように、えぐっとコリンズはしゃくりあげてしまった。
 エビルスピリッツに視線を据えて、すたすたとヘンリーがやってきた。こんなときなのに、急ぐでもなく、落ち着いた、むしろ飄々とした顔をしていた。
 自分の泣き顔が恥ずかしくて、コリンズはうつむいた。
 ヘンリーがコリンズのすぐ脇を通り過ぎた。すれ違いざま、彼はつぶやいた。
「よくがんばったな」
 あっとつぶやいてコリンズは振り向いた。色の褪めた青いマントで覆った父の背中が見えた。その姿が、涙でぼやけた。