オウム返しの使い魔 14.名前当て

  エビルスピリッツは興奮しているようだった。あいかわらずマー、サーとつぶやきながら、ガス状の身体を濃厚に展開した。グランバニア城一階の大通りは黒い霧に覆われて物がよく見えないくらいだった。
 ルークは静かにたたずんでいた。ルークと並んで、ヘンリーも黙って立っていた。
「マー、サー、マー、ダー」
 何かねだるようにエビルスピリッツつぶやき、二人のまわりを取り巻いていた。
 ルークがヘンリーに軽く目配せした。ヘンリーは頷き返し、ベルトにつけたバッグから何か引き出して目の高さに掲げた。その手には白いメダルのように見えるものがあった。
「命名神マリナンよ、我に力を!」
 一言ずつはっきりと発音する。エビルスピリッツは警戒も露わに後退した。
「さすがは天なる竜の言霊だ。よく効くな」
 当たり前のことを指摘する顔でヘンリーが言った。
「この霧をひっこめてくれ。それからもうちょっと縮んでくれよ。目線が違うと話がしづらいんだ。そうそう、それでいい」
 コリンズは、エビルスピリッツが諾々と要求に従うのを、ぽかんと口を開けて見ていた。
「それから、いい加減なんかしゃべれ。『マー、サー』以外にも、ちゃんと口がきけるんだろ、あんた?」
 城を飲みこみかねない大きさだったエビルスピリッツが、今はだいたいヒトの大人のサイズにまとまっていた。エビルスピリッツの中の無数の顔がじっとこちらを見ている。ようすをうかがっているらしかった。
「うぇ、キモ」
とコリンズはつぶやいた。
 エビルスピリッツが唐突に尋ねた。
「まーさ・ハ・ドコダ?」
 コリンズの傍らでカイが口元を抑えてささやいた。
「うそ。しゃべったわ?」
「やっぱりな」
とコリンズはつぶやいた。
「母上とサンチョさんの声でいろいろ言いまわったのはこいつだ」
「マーサはここにはいないよ」
とルークが話しかけた。
「まーさ・ハ・ドコダ?」
 エビルスピリッツは、今度は別の声で同じ問いを繰り返した。
「君は普通のモンスターとはちがうね。人工使い魔だから?君には知性がある。育つ過程でひどい目に遭ったのだろうね。それでいびつになってしまったのか。でも、知性には違いない」
 静かな声で語りながら、ルークはエビルスピリッツに近づいた。
「だから、一度だけ聞くよ、小アニマ」
 ルークを警戒してエビルスピリッツが下がった。
「君が吸収してきた人間たちの魂を返してくれないか?そうしてくれれば、ぼくらは君がしてきたことをあえて罰することはしないし、君に干渉もしない。きみもこれ以上、ぼくらヒトに関わらないでくれ」
 しゅう、と音を立ててエビルスピリッツは息を吐きだした。
「まーさヲ・ココヘ。サモナケレバ・スベテ・飲ミコム」
「返さない、というんだね」
 ルークの表情は、怒りよりも哀しみのそれだった。おもむろにルークはドラゴンの杖をエビルスピリッツに向けた。
「もう魂の吸収なんか、させない」
 その声音の冷たさに、コリンズはぞくっとした。希代の魔物使いは、全霊をもってエビルスピリッツを威嚇していた。
「考え直す気はないか?ぼくの相棒はマリナンの許しをマスタードラゴンに与えられた」
 人々の視線はヘンリーの持つ白いメダルに集中した。
「きみも今わかっただろう?マリナンの許しの持ち主は名付け親と同じだ。そしてあのマリナンのメダルには、マスタードラゴンの言霊がこめられている。天空人は、『このメダルを持つ者が発する言葉は、対峙する者に強制力を持ちます』と言っていた」
 威圧の効果は明らかだった。エビルスピリッツはもう荒れ狂ってはおらず、細かく武者震いしていた。
「ヤッテ・ミルガイイ。オマエタチハ・ワタシノ・真名ヲ・シラナイ」
 ふん、とヘンリーがつぶやいた。
「真名を知らない以上、マリナンメダルだけで強制的に魂を吐き出させるのは不可能ということか。まあ、折りこみ済みだ」
 ルーク、と彼は相棒の名を呼んだ。
「やるしかないみたいだ」
 ルークが眉をひそめた。
「危険だよ。あいつはひと月もラインハットにいて、ずっと耳を澄ませてきたんだ。……知ってるんじゃないか?」
 ヘンリーは肩をすくめた。
「そのくらいのリスクは取らないとな」
 そう言って、その場に持っていた壺を置き、自然なようすで前に出た。
「小アニマ、と今は言っておこうか。おまえ、まるっきりのバカじゃないだろ?今のこの状況はわかるな?」
「何ヲ・言イタイ?」
「膠着状態と言いたいのさ。おまえはマーサを求めている。おれたちはおまえが吸収した魂を返してほしい。だが、どちらにも要求を通すだけの決め手がない」
「ソンナモノ」
とエビルスピリッツが言いかけたとき、ルークが身じろぎして視線をエビルスピリッツへ向けた。びくりとエビルスピリッツが震えた。
「お、逃げんのか?逃げ出して、気配を消して、陰からぐちぐち言うのはおまえの得意技だからな。けど、まずは俺の提案を聞けよ。聞かずに逃げると、後で後悔するぜ?」
「……言ッテミロ」
 ヘンリーの口角が、たしかに持ち上がった。
「名前当てをやらないか。これから俺が、お前の名前を当てる」
「私ノ真名ノ・コトダナ?」
「その通り」
 ヘンリーは荷物からまた何か取りだして見せた。
「これはラーの鏡という。昔、神の塔から持ち出した本物だ。この鏡は常に真実を映す。だから俺がおまえの真名を言ったとき、おまえはしらばっくれることはできない」
 コリンズも、ラーの鏡については聞かされていた。が、見るのは初めてだった。
「俺がおまえの名前を当てたら、魂を吐きだしてもらう。そもそも命名神の許しと真名があれば、強制的に排出させることができる」
「オマエガ・私ノ名ヲ・当テラレ・ナカッタラ?」
「そうしたら、マーサさまがどこにいるか教えてやるよ」
 エビルスピリッツは返事をせずに、しばらくその場をぐるぐる回っていた。まるで本体にあるいくつもの顔どうしで相談しているようだった。
「私ガ・名前当テニ・負ケタラ・私ハ・スベテヲ・失ウ」
「勝ったらマーサさまだぜ?」
「ソレダケデハ・不足ダ」
  ヘンリーは、手にした白いメダルを細い鎖で指からぶら下げ、目の前に掲げてみせた。
「じゃあこうしよう。今言った勝負とは別に、おまえは俺の真名を当てろ。もし当てたら、このメダルをやる」
 コリンズはぎくりとした。ルークが危険だと言ったことの意味をコリンズは理解した。エビルスピリッツには、コリンズを含めたラインハットの人々がヘンリーの名を口にするのを聞く機会が一か月以上あったのだ。
 くるん、とエビルスピリッツがその場で回った。
「オマエノ提案ニ・乗ロウ」
「よし」
 ラインハット城一階の民家や商店から人々が顔を出し、同時に興奮したようなざわめきが湧き上がった。無人だった路上にはルークの仲間モンスターたちが散開して楕円形の空間を造り、誰も入れないようにしていた。
 ヘンリーはその中央にラーの鏡と白いメダルを並べて置いた。
 エビルスピリッツがゆっくり入ってきた。両者は向かい合った。
「ドチラノ・勝負カラ・オコナウノダ?」
 そうだな、とヘンリーはつぶやいた。
「いっそ同時進行で行こうぜ。まずは七回でどうだ?俺たちがひとつずつ名前を言い合って一回だ。七回でお互い当てられなかったら、一度仕切り直す」
「私ガ・先ニ・発言スルコト。ソレナラ・了承スル」
 あてずっぽうでも、先に言ってたまたま当たればそれで勝てる。エビルスピリッツは自分に有利な勝負を要求していた。
 ヘンリーは肩をすくめた。
「持ちかけたのはこっちだ。先攻は譲るさ」
「デハ、私カラダ」
 ぐるんぐるんとエビルスピリッツは回転した。辺りは緊張に満ちた静寂が支配した。
 若い男の声のようにも、気丈な女性の声のようにも聞こえる不思議な声でエビルスピリッツが尋ねた。
「オマエノ名前ハ・『アニウエ』か?」
 ヘンリーはにやりとした。
「おまえやっぱりラインハットで聞き耳をたてていたな?いいや、ちがう。俺の名は『アニウエ』じゃない」
 コリンズの緊張がいきなり解けた。その場に立っていられずにコリンズはしゃがみこんだ。
「そういうことか……」
「コリンズ君?」
 すぐ上でアイルがのぞきこんでいた。
「あの化け物、ちゃんと知性があるし、耳もいい。でも、人間の社会ってものがわかってないんだ。名前と呼びかけの言葉の違いを理解してない」
 どうにもならないと思った状況にひとすじの光がさしこんでいる。その光があまりにも魅力的で、でもあわててすがりつくと壊れそうで、コリンズは息苦しいほどだった。
「っていうことは」
「チャンスがある」
 コリンズは友だちを見上げて、ひきつった笑いを見せた。
「父上にも勝つチャンスがあるんだ。あとは、父上があいつの名前を当てられるかなんだけど」
 アイルと一緒にいたカイが話しかけた。
「私、エルヘブンの話を聞いてたの。小アニマ、今はエビルスピリッツだけど、あれの真名を決める時にマーサおばあさまはいい名前を思いつかなくて、パパスおじいさまとコリンズ君のおじいさまから名前を募ったのですって」
 その話はコリンズも少し知っていた。パパスとエリオスは当時若者だった。特にエリオスは新婚の妃が身重だったため、男女両方の名前を第一子のために用意していた。
 ヘンリーが前に出た。
「それじゃ、こっちの勝負だ。行くぞ」
 そして、タメも前置きもなしでいきなり尋ねた。
「お前の名前は『ヘンリー』か?」
 んっ、ぐっといううめきがあたりから湧き上がった。カイも両手で自分の口に蓋をした。
「小父様ったら、なんてことするの」
 ふーっと息を吐いてコリンズは言った。
「でも、最初に聞くべきことだ。『ヘンリー』はエリオスおじいさまが考えた名前の筆頭なんだから」
 当時のエリオスの妃ヘレナが身ごもっていた赤子、エリオス王の第一子こそ、目の前に立っているヘンリーだった。
「どうしよう、ぼく、ドキドキしてきた」
とアイルがつぶやいた。
 エビルスピリッツは、当たりの反応を見回した。そして低い声で答えた。
「イイヤ・私ノ名ハ『へんりー』デハナイ。ヨモヤ・オマエノ名ハ」
 コリンズと双子は緊張のあまり互いに手をきつく握りあっていた。
「『デンカ』か?」
 その場の緊張がぎゅっと高まり、またすぐに弛緩した。緊張感の乱高下に、聞いている者たちは心臓を振り回される思いをしていた。
「全然ちがうね!」
 ひらひらと手を振ってヘンリーが却下した。
「こっちの番だな。おまえの名前は『ルキウス』か?」
『ルキウス』は、アイルとカイの父ルークの本名だった。つまりパパスが我が子の名として考えた名前のひとつだった。
「父上、危ない橋を渡ってるよな」
 あたりは、人の声らしきものは途絶えていた。が、グランバニアの国民やルークが仲間にしたモンスターがまわりに群がり、ざわめいている。騒がしい静寂というものがあるとしたら今がそれだ、とコリンズは思った。
「『るきうす』トハ・ソコニイル・男ノ・名ダロウ。私ノ名ハ『るきうす』デハナイ。残念ダッタナ」
 ヘンリーはおおげさに両手を広げた。
「そうでもないさ。ここまでで候補が二つ減った。な?」
 傍らにはルークが立っていた。
「まったくだね。さあ、次行ってみようか。小アニマ、君の勝負だ」
「ヨロシイ。オマエノ名ハ『ぎざみみ』カ?」
 やおらヘンリーは片手を高く上げた。同じように手を高く掲げたルークと、音を立てて打ち合わせた。
「はずれ!おい、本気出せよ」
 挑発的ににやりと笑った。
「ダガ、オマエハ・ソノ名デ呼バレテイタ」
 ヘンリーは気障なしぐさでてのひらを自分の胸に当てた。
「ギザミミってのは、俺の昔のあだ名だ。おまえの小アニマって名と同じものだ。俺の真名じゃない」
「グゥゥゥゥ」
 さきほど聞こえた遠い雷のような音が鳴り始めた。
「戦いのドラムね。小父さま、挑発しすぎだわ」
とカイがつぶやいた。
「大丈夫、今あいつが暴れ出してもルークさまが抑えるよ」
とコリンズは言った。
「あいつ、気が短くてわがままなだけで、不気味に見えるけど本当はまだ子供だ」
 ヘンリーはわざとらしく片手を広げた。
「俺たちは思い違いをしていたのかもしれないな。無意識におまえを男として扱っていたんだが」
思い入れたっぷりに言葉を切って、ヘンリーは聞いた。
「お前の名前は『ルキア』か?」
 サンチョによれば『ルキア』は、『ルキウス』と対になる名前だった。もしマーサの産んだ子が女児だったら、ルキアと名付けられていたかもしれない。
 エビルスピリッツは、人の声を真似て鼻を鳴らした。
「私ハ・男デモ・女デモ・ナイ。ソシテ『るきあ』トイウ・名デモ・ナイ!」
「そうか。まあ、女だからってどうってことはないなあ、考えてみれば」
「うん。たいていのモンスターって、性別はあんまり関係ないよ?」
「そんなもんか」
 のんびりと会話する相棒どうしに苛立ったのか、エビルスピリッツは急に距離を縮めた。
「ワカッタゾ。オマエノ名前ハ『んり』、ン、ン」
 ざわっとコリンズの産毛が逆立った。双子たちは手をもみ絞るようにして緊張に耐えた。
「『えりおす』ダナ?」
 指数本分の空間をはさんでヘンリーは怪物とまともに向かい合った。
「どうしてそう思った」
「オ前ノ・声ダ」
「へえ、そんなに似てんのか。いいや、俺は『エリオス』じゃない」
 エビルスピリッツは、疑うようにラーの鏡をのぞきこんだが、鏡の表面には変化がなかった。
「コノ・世界ハ・ワケガ・ワカラナイ!誰モカレモ・勝手ナ・フルマイヲ・スル!ドウシテ・私ノ・思ッタヨウニ・ナッテイナイノダッ」
「ガキかよ」
 エビルスピリッツの憤懣を、一言でヘンリーは片づけた。
「こっちの番だ。お前の名は『デール』か?」
「チガウ!」
 噛みつくように返事がかえってきた。その勢いに押されるように、ヘンリーは一歩下がった。
「あと三つだ」
 ルークが声をかけた。
「正念場だな」
とヘンリーが応じた。
「来な、小アニマ。あと三回しかないぞ。よく考えろよ?」
 いくつもあるエビルスピリッツの顔が、狡猾そうな表情を浮かべた。
「オマエノ・名前ハ・『宰相サマ』か?」
 ヘンリーは腕を組んで哄笑した。
「いいや、ちがう。俺の名は『宰相さま』じゃないし、『鬼畜上司』も『やらずぶったくり』もはずれだ」
 こんな時だが、コリンズはにやにやした。宰相ヘンリーの部下や政敵がヘンリーをなんと呼んでいるか、コリンズにも見当がついた。
「ズイブン・ぺらぺら・シャベルナ」
 歯ぎしりしながらエビルスピリッツは言った。
「サービスだ、気にするな。こっちの番だな。お前の名は『リュカ』か?」
 だんだんコリンズの肩の力が抜けてきた。周りの人々やモンスター、この場を遠巻きにしてようすをうかがっているグランバニア城の住人達も、顔に明るさが戻ってきた。
「このままいけるかもしれないなっ」
「そうだね」
 アイルも嬉しそうだった。
「私ノ名ハ・『りゅか』・デハナイ。オマエハ・マタ・ハズシタ」
「まだ二回残ってるさ」
「キサマ・何ヲ・考エテイル?」
「さあねえ」
 ヘンリーはにやにやしていた。
「そっちの番だ」
 しばらくその場でエビルスピリッツはぐるぐる回っていた。
「オマエノ・名前ハ・『アナタ』カ?」
 ばっとコリンズは自分の口を手でふさいだ。
「コリンズ君どうしたの?」