月と海神の王国 8.ドン・モハメの計画

 両手のひらで支えてもほとんど重さを感じないほど、それは薄い。花嫁のベールに使う極薄の絹だった。薄布の表面には大きな花柄が純白の糸で織り出されている。花婿はおそらく、薔薇の花弁の間から恥じらう花嫁の顔をかいま見るのだろう。
 その隣にはどっしりと分厚い織物があった。もともと縦糸横糸を贅沢に使い、その上から太い色糸でほとんど隙間なく刺繍を施している。王侯貴族のマントに使うような豪華さだった。
 織物の上には、布地を巻いた物が何本も並んでいる。元々白地のところに職人技を駆使して染め上げたもので、鮮烈な原色や柔らかなパステル色、細かな粉を吹き付けたような微妙な色彩、黒や濃紺、暗赤色などの地に金や銀をまじえたもの、さらに先染めしたり磨いて光沢をつけたりした加工糸で、光り輝くようなつややかさをだしたものもあった。
 いずれもテアマト水郷の誇る織物技術で作られた作品である。テパに隠れ棲むドン・モハメの館の地下は、かつての工房で作り出された商品の見本が大切に保管されていた。
「お日様みたいな金色のドレス、か」
イリヤはつぶやいた。最後の生地見本は、明るい黄金色だったのだ。それが棚から少し飛び出していたのを、イリヤはていねいに元に戻した。
 テアマト水郷に数多く存在したアトリエは、それぞれ得意分野を持っていた。ある工房は紡績加工、別の工房は染色、あるいは下絵、そして刺繍などなど。ドン・モハメの工房はその中でももっとも規模が大きくなんでもやったが、彼自身の得意とする技は羽衣……超絶技巧によって織り上げる、きわめて薄い布を使った衣だった。
「聖なる織り機があればな」
ドン・モハメの館の地下室の一画に作業台があった。織物職人の親方らしく、台の上にはメモや糸の見本帳などが載っていた。かつての工房なら、作業台のそばに織り機が並び、たくさんの織り子が一斉に作業をしていたはずだった。
 今は作業台だけが寂しく地下室に残されていた。てっぺんに海神の眷族、人魚を飾った聖なる織り機はそのそばにあるべきなのに、今は失われている。ドン・モハメとテアマトの民の無力なありさまを象徴しているようで、その一画を見るとイリヤはいつもつらい思いをした。 
「今夜にはきちんと決めねばならんな」
地下室に集まったテパの住民を見回して、ドン・モハメはそう言った。人々は私語をやめて静かになった。みんなの視線は、自然にドン・モハメの手に集中した。
「月のかけらは、このとおり、手に入った」
金の三日月を配した紫の円盤がその手にあった。
「海神アビス様のお力にすがり、月のかけらを使ってみるか否か。意見のある者は今ここで話してくれ」
 一人の男がおずおずと手を挙げた。
「いいですか」
ドン・モハメは大きくうなずいた。
「イアンか。話を聞こう」
イアンと呼ばれた男は唇をちょっとなめた。
「海神アビス様を信用しないわけじゃねえが、月のかけらはほんとに使えるんですかね?」
ちっ、とか、まあっ、とか、非難のつぶやきが沸き起こった。ドン・モハメはそれを抑えるように口を開いた。
「十年前は、使えた」
年はとっても、朗々とした声だった。
「ただし、使い手は、みずから魔力をお持ちのムーンブルグ王家の国王夫妻だった」
人々はざわめいた。
「私らには魔力なんかない。大丈夫なのか?」
イアンは誰にともなく聞いた。
「じゃあ、ほかにどうしようって言うの?」
答えたのは、テラビスから来たナンナだった。
「もう、普通の方法じゃ水郷へ帰ることなんかできないじゃないの。アビスさまにおすがりするしかないんだわ!」
「いや、だが、しかし」
ナンナの口調の激しさにイアンはたじろいだ。
「こんなことに月のかけらを使って、アビス様はお怒りにならないだろうか」
「今使わなかったら、いつ使うのよ!」
 まあまあ、とイリヤは割って入った。
「落ち着け、ナンナ。イアンだって生まれ故郷に戻りたいのは同じだ。な?」
イアンは黙ってうなずいた。
 ドン・モハメが言った。
「月のかけらは、海神アビス様からわれわれ信徒が賜った宝だ。なあ、イアン、もしアビス様がお怒りなら、わしらには月のかけらは使えまい。逆にわしらにも使えるようなら、アビス様はお怒りではない。そう考えてみてはどうだろうかな」
イアンはむしろほっとした顔になった。
「親方がそうおっしゃるなら、異存はありません」
ドン・モハメの地下室の空気がやわらかにゆるんだ。
 月のかけらを使って水位をあげる、それはほとんど決まったことだった。今夜のこの集まりの目的は、誰も反対しなかったという事実をこしらえること、つまり行動の責任を全員で分かち合うための儀式のようなものだ、とイリヤは思った。
「では皆の衆」
ドン・モハメは月のかけらが全員に見えるように高く掲げた。
「わしらは月のかけらを使ってテアマト水郷を水没させよう。わしら、生き残った者全員の意志としてだ。よいな?」
はい、よいです、わかりました、とテパの住民は熱心に賛成した。イリヤはひそかに安堵のため息をもらした。
 地下室の中に、鋭い声が響きわたった。
「反対!」
「誰だ!」
村人は一斉に振り向いた。
「あたしは反対よ、ドン・モハメ」
先頭に立つアマランス姫が、両手を腰に当てて胸を張った。そこにいたのは、聖なる織り機を探してうろうろしているはずのロト王家の三人組だった。
 ナンナが前に飛び出した。
「余所者は出て行ってちょうだい!」
王女はじろっとナンナをにらんだ。
「あたしは海神アビス様の、現存するただ一人の巫女よ?余所者扱いはやめていただくわ」
「ジーナ姐さんがここにいたら、あんたなんかにそんな口きかせやしないのに」
王女はふんとつぶやいただけでもう目もくれなかった。
「月のかけらの力は健在だから、おそらく誰がやっても人工津波を起こすことができるはず。でも、やってはだめ。テアマト水郷を水没させるのは反対よ」
「ほう、姫がそれをおっしゃるか」
皮肉っぽい口調でドン・モハメは言った。
「十年前に月のかけらを発動させたのは、ほかならぬ姫のご両親でしたぞ」
「ええそうよ。その結果どうなったかわかって?」
「ロンダルキアのことならば」
その先を姫は言わせなかった。
「ロイ、サリュー、あたしたち、いっしょに風の塔へ上ったわね?」
ローレシアとサマルトリアの王子たちは、王女の後ろで一見のんびりと控えていた。が、イリヤの目には、誰かが王女に手を出そうとしたらすぐに飛び出せる体勢なのがわかった。
「ああ。覚えてるぞ?それがどうかしたか?」
「そのときのことを話して」
「そのときって」
王子たちは面食らったようだった。
「ムーンブルグ城から東の方へ、おれたち風の塔を探しに行ったっけ」
「鏡のあった沼地よりもっと奥だったよね」
「四つの橋が見えるところだろ?」
 それまでつまらなそうに聞いていたドン・モハメが顔色を変えた。
「橋だと?」
「はい」
とサリューは言った。
「でもそのときは風の塔までたどり着けなくて、しょうがないからムーンペタからうんと北へ向かってぐるっとまわって、海沿いに南下しました」
「んでもって、島の真ん中にあった塔にやっと入ることができたんだ」
ドン・モハメは青くなった。
「そんな、ばかな」
イリヤには訳が分からなかった。テパの民もざわざわしていた。一人王女だけがじっとドン・モハメを見据えていた。
「いいえ、私も見ました。風の塔は、今、島にあるのよ」
「あんな山の中が!あのあたりは地続きの荒野だったのに!」
「十年前の人工津波のせいで、あのあたりはすべて水没したの。そして」
王女は息を継いだ。
「水は、退かなかったのよ」
ドン・モハメは目を見開いたまま黙って立っていた。彼の上で十年の歳月が一気に経過したようだった。ひどく歳を取ったようすでドン・モハメはその場に崩れ落ちた。
「親方!」
織物職人たちがあわてて駆け寄った。
「皆の衆、ゆるしてくれ」
蚊の鳴くような声でドン・モハメがつぶやいた。
「テアマト水郷は、終わった。もう、だめだ」
モンスターに工房を焼かれた時も、散り散りになってテパへ逃げてきたときも、これほどドン・モハメが打ちひしがれたようすを見せたことはなかった。
「親方、いったい、何で」
地下室に集まった者たちが一斉に騒ぎ出した。
「私が説明します」
王女がそう言ったとたん、静まりかえった。
「月のかけらを使えば確かに水位を上げることはできる。でも、下げることはできないの。つまり、一度テアマト水郷を水没させたら、二度と元に戻らないわ」
いやーっと甲高い悲鳴があがった。ナンナだった。
「そんなの、だめよ!テラビスへ帰れなくなる!」
「じゃ、あいつらをあのままにしておくつもりか!」
思わずイリヤは口を挟んだ。
「見ろ、テアマトの織り物の技はみんなここにあるんだ。あいつらさえいなくなれば、いつでも再開できる」
イリヤは両手を広げた。
「なんのために俺たちは十年もここに踏みとどまってきたんだ?テアマト復興のためだろう?それはもう、目の前にあるんだ。月のかけらだ!おれはアビス様のお力に賭けるぞ」
テパの住民の顔に生気が戻ってきた。
「イリヤさんが言うなら」
と一人の男が言った。
「やっぱり月のかけらを使ってみよう」
「おれも賛成だ」
ナンナさえ、つぶやいた。
「そうよ。こんなチャンス、もうないかもしれないんだし」
 憤慨した王女が、手にした杖で地下室の床を音をたてて衝いた。
「なにを聞いていたの!」
「お待ちくだされ」
ドン・モハメが言った。
「わし等の話も聞いてくださらんか。そちらの王子方は」
「従兄弟たちには、ムーンブルグとアビス様のことは話してあるわ。遠慮は無用です」
「ならば、わしらも打ち明けさせていただくが」
ドン・モハメが、イリヤを見た。
「あれをもって来なされ」
「親方」
「お見せしないでは、わかっていただけんじゃろう」
「しかたないですかね」
イリヤはそう言うと、元の職人たちに小さくうなずいた。二人の男が階段をあがっていき、木でできた浅い箱を揺らさないように捧げて戻ってきた。テパの人々は自然に分かれて、箱が作業台の上に置かれるようすを見守った。
「アマランス様、そして王子方。テパの最後の秘密をお目にかけましょう」
ロトの末裔たちは、作業台の周りを囲み、木箱の中をのぞきこんだ。
「……虫?」
手のひらで口元をおおって、王女が言った。
「ご存知でありましょう。絹を生み出す唯一の虫、蚕です。だが、そんじょそこらのものとは違う。背に海神のシンボルをつけて生まれてくる“神蚕”です」
 木箱の中には一面に、幅の広い濃緑色の葉が敷き詰められていた。その上を白っぽいいも虫が何匹も這い、葉をかじっていた。
「今はまだ色が薄いですが、脱皮をすると体色が青紫になっていきます。その背中に、アビス様のシンボル、金の三日月が浮かび上がるのです」
「それで神蚕?」
「むろんそれだけではありません。神蚕たちはやがて繭をつくります。かすかに紫がかった白い繭が」
ドン・モハメは敬虔な口調だった。テパの人々も恭しいほど静かに神蚕を見守っていた。
「そこからテアマト水郷の者たちは最高級の絹糸を取りだしたものです」
「なんだよ」
とロイがつぶやいた。
「あんたら職人がいて、蚕がいる。じゃあ、また織物ができるじゃないか」
いや、とドン・モハメはつぶやいた。
「不可能です。たったこれだけの蚕の作る繭では、取れる絹糸はたかが知れている。テパに十年間こもっていた間に、神蚕はどんどんその数を減らしていったのです」
「なぜ?」
「餌がありませんのでな」
ドン・モハメは、木箱の中の葉を指した。
「これが蚕の餌となる、テアマト桑です。かつては水郷全体に自生し、また水郷各地の都市では森の中にテアマト桑を絶やさぬように腐心してきました。しかし今では、このテパ周辺をのぞいてほとんどありません」
「どうして?」
とアムが言った。
「モンスターがこの樹をを伐ったのかしら?」
「それならばまだ救いもございました。テアマト桑をはじめ、水郷の木々はモンスターへと身を変じたのです」
「人面樹か!」
ロイが小さく叫んだ。サリューがつぶやいた。
「え、樹が、全部モンスターに?」
「そういうわけではありません。現に、このテパのまわりだけは十年たってもモンスター化をまぬがれています」
「それはここが、アビス様の神域だからだと思います」
「仰せの通り、姫。ですがテアマト水郷の他の部分では、樹木はいきなり顔が生まれて歩き出したり、また突然元に戻ったりしました。ある意味で“人面樹”というモンスターは汚れた木精が樹木に次々と乗り移ってできるのではないかと思っております」
「それなら人面樹化してない時のテアマト桑から葉を採ればいいんじゃない?」
ドン・モハメは首を振った。
「最初はそのようにしていましたが、そのうちおそろしいことが起こりました。テアマト桑だったものから採った葉を食べさせた神蚕は体に黒い斑点が出て、やがてぐにゃぐにゃになり、繭をつくらずに死んでいきました」
 テアマト水郷にあった各都市が滅んだのは、その疫病が原因だった。神蚕が黒く変わり、木箱の中を徘徊し始めると、病気は蚕のあいだであっというまに広がっていく。町の外からはくびかり族に襲われ、町の中では職人たちが木箱を抱えて泣き叫ぶ、その悪夢のような時代をイリヤたちはよく覚えていた。
「一度でも人面樹となった樹は汚れているのです。しかもわれらには、どの樹木が安全でどの樹木が汚れているか、区別がつきません」
「それじゃ、それからどうなったんですか?」
とサリューが言った。
「我らはもともと海神の民。アビス様を頼りました。満月の塔を中心としたテパの神域へ逃げ込んだのです。テパ周辺の樹木は汚染されませんでした。新鮮で汚れのないテアマト桑を食べさせた蚕が生き抜くのを見て、我らはどれほど安堵したことか」
 そして十年の間、テパに踏みとどまった。すべては、テアマト水郷へ戻れる日が来ると信じて。
「モンスターは滅ぼさなくてはなりませぬ」
ドン・モハメがきっぱりと言った。
「汚された森も大量の水が洗い流してくれるのではと我らは考えました。水郷を浄化するには、アビス様のお力を頼るしか」
ふーんとサリューがつぶやいた。
「ルビス様はデルコンダルを浄化するのに炎を使われたけど、アビス様は津波か」
「何の話だ?」
とロイが言った。
「なんでもないよ。ドン・モハメ、テアマトは浄化されるかもしれません。でも、人も住めなくなります」