月と海神の王国 1.密林探索

 誰かの手が、やさしく肩を揺すった。
「起きて」
母上の声だ、と思った。
「私のアマランス、起きて」
王女は眠い目をこすった。
「姫を、これへ」
王女を抱いていた乳母が王妃について進み出た。小さなアムのやわらかい頬は、冷たい風にさらされた。
 風の塔の最上階は、手すりもあまりないフロアだった。中央に大きな火壺があり、黒い煙をあげて火が燃えさかっていた。滅多に人の訪れないその場所に、近衛兵たちに守られてムーンブルグ王家の一家が上ってきたのだった。
 アムは六歳前後、まだほんの幼女で、とても自分の足では最上階へ登れなかった。乳母に抱えられ、途中ですやすやと眠り込んでしまっていた。
「ははうえさま」
乳母がアムをフロアにおろすと、アムは紅葉のような手を差し出して、母にだっこをせがんだ。王妃は愛娘のほほにキスを与え、優しく言い聞かせた。
「よい子ね。ちゃんと起きて、見ておいでなさい」
アムはあどけない目で見上げた。青い空を背景に美しい母が覗き込んでいる。母の向こうには父の長身があり、ほほえみを浮かべてこちらを見ていた。
 乳母が心得て、小さなアムの手を引いて傍らに控えた。
「始めよう」
王は妃に呼びかけた。
「はい、陛下」
 王は白地に紅の文様入りの長いチュニックをまとい、金でロトの紋章を描いた赤のマントを羽織っていた。金の王冠を装備した姿はとてもりりしかった。王妃は髪ごと頭を頭巾で被い、その上に繊細なティアラを載せている。夫とほとんど同じ文様の、袖の大きなガウンをまとっていた。ロイヤルカップルは美男美女、似合いの一対とあって、二人が並んだとき警備の兵士や王妃の腰元たちが控えめな嘆声をあげたほどだった。
 兵士の後ろから、一人の男が進み出た。その手の上に紫色の丸いものが載っていた。
「お望みの品はこれにございます」
低い声でその男は言い、その品を国王夫妻へ捧げた。
 優れた体格の初老の男だが、兵士とはどこか雰囲気が違う。髪は黒く、顎の周りにやはり黒い髭がある。そろえた両手が大きく、長い指をしている。そして、眼光炯々とした鋭い目をしていた。
「遠方より大儀であった」
「もったいのうございます」
王は男の手から紫の円盤を取り上げ、王妃を見た。王妃はうなずいた。二人はそろって、塔の最上階の縁へ寄り、東にある海を見下ろした。王の手の上に円盤があり、それを隠すように王妃が自分の手のひらを重ねた。
 ひーぃぃぃと風が音を立てて吹き上がってきた。塔は海に近く、強風が来る。乳母の腕の中からアムは空と海が出会うところを遙か遠くに見ることができた。
 王と王妃は重ねた手を海へ向かって差し出した。
「いにしえよりこの海原を統べる女神よ……」
突風が襲ってきて、アムは乳母の胸に顔を押しつけた。
「めが……ビスよ……、我らに潮のたか……」
風が強すぎて言葉はよく聞き取れなかった。
 詠唱が終わってしばらくのあいだ、なにも起こらなかった。アムは不思議そうにあたりを見回した。誰も何も言わない。だが、みなが何かを期待していることをアムは知った。アムはまだ幼な子だったが、そういう時はじゃまをしてはいけないことをすでに学んでいた。
 ふいに乳母が身をこわばらせた。
「御覧なされませ!」
若い兵士が数名、小さく声をあげた。誰もが海を見つめていた。
 王がつぶやいた。
「来るぞ」
ようやくアムは、自分が見ているものの正体に気づいた。空と海の出会う水平線が、こちらへ向かってくるのだ。
 押し寄せる。
 ひたひたと。
 海はまぎれもなく一個のモンスターだった。嵐の海の波のような勢いはないがじりじりと水位をあげ、容赦なく海岸線を押し上げてくる。
 乳母の背後で兵士たちが、うわ、と声をたてた。
「うろたえるな」
静かに王は命じた。
「この塔の屋上まで海は上がってこられないのだ」
アムは目を見開いた。
 風の塔の周りは、荒野だった。高低差が激しく、細い谷間が縦横に走り、耕作には不向きな不毛の土地だった。
 その荒野の谷へついに海水が侵入した。赤茶けた大地に白い筋が走り、みるみるうちに太く、そして青みがかった緑になっていく。
「陛下、このくらいでよろしいのでは」
王妃がつぶやいた。
「そうだな」
王は同意して、手をはなした。
「疲れたか?」
王は、妃の肩に手を回し、その顔をのぞきこんだ。
「いいえ。これからあのハーゴンと敵対しようというのですもの。これしきで疲れてはいられませんわ」
王妃は健気にほほえんだ。
 王は妻をそっと抱きしめた。そのまま南西の方角に視線を向けた。
「見たか、大神官よ。女神の御力は健在なのだ。おまえが邪な試みをあきらめぬのなら、全ロンダルキアを水で満たすこともためらわぬぞ」
知的で温和な父の、珍しいほど真剣な眼差しを小さなアムは息をこらして見つめていた。
 次の瞬間、南西の空が不気味に光った、とアムは思った。
「きゃあぁっ」
乳母と、王妃付きの腰元たちが悲鳴を上げた。
「地震か!」
「姫様!」
乳母が自分の手を引いて抱え込み、うずくまるのをアムは感じた。
「みな、火壺から離れろ!」
兵士長が指示を出し、兵士はさっと国王夫妻を取り囲んだ。
「ばあや……」
乳母はがちがちと歯を鳴らしてただしっかりと自分を抱えている。風の塔全体がぐらぐらと左右に揺れていた。
 地震は長く続いた。ようやく揺れがおさまり兵士たちが王を助けて立たせた。
「みな、大事ないか」
幸い、怪我をした者はいなかった。ふー、やれやれなどと言いながら、全員立ち上がったころ、兵士の一人がぎょっとした顔になった。
「陛下、あれは」
指さしたのは、南西の方角だった。
「ロンダルキアが……」
それまで存在しなかった灰白色の岩塊が立ち上がっていた。一つだけではなくまるで屏風のように並んでいる。
「ハーゴン、きさまの仕業かっ」
王が青ざめた。
「陛下」
王妃がその腕に手をかけた。
「ええい、放せ!あやつ、水位の及ばぬ高さに壁をめぐらせおったのだ。あくまで我が王家と精霊女神に対抗する気か!」
「どうかお鎮まりを」
王はうなだれた。夫を慰めるように、王妃はただその背に寄り添っていた。
「取り乱してしまった。許せ」
王妃は寂しくほほえんだ。
「さあ、戻りましょう。国が心配ですから」
「そうだな。今の地震で被害がでているかもしれん」
兵士長がその言葉を受けて部下を整列させた。腰元も乳母も気を取り直した。
 随員の一団から一人離れている男がいた。先ほど国王夫妻に魔力のあるアイテムを捧げた黒い髭の男だった。
「モハメよ」
と王は言った。
「無駄足をさせてしまったようだ。これは返すとしよう」
モハメと呼ばれた男は悄然として王からアイテムを受け取った。
「申し上げようもございません」
「それに罪はない。見ての通り、ハーゴンの企ては阻止できなかったのだ。直ちに水郷へ戻り、いっそうの守りを固めるがいい」
「お言葉、肝に銘じます」
そう言って二人は、不安な表情でロンダルキアを囲む山脈に視線を注いだ。

 誰かの手が肩を揺すった。
「起きて」
「母上……?」
「アム、夢を見てたの?」
はっとしてムーンブルグの王女は飛び起きた。目の前にサマルトリアの王子がいた。
「あたし……」
アムは片手で額を押さえてあたりを見回した。強い水のにおいがする。そこは船の甲板だった。積み上げた木箱にもたれて船に揺られている間に眠気がさしたようだった。
「サリュー、ごめんなさい。うたたねをしたようだわ」
サリューはアムの前に片膝ついて座っていた。心配そうな顔で彼は顔をのぞき込んだ。
「体調、よくないの?」
「そんなことないわ。モンスターは出なかった?」
「今のところ、大丈夫。ほら、ロイが舳先で退屈そうにしてるよ」
視線の先には、ローレシアの王子が青い服にブーツであぐらをかいている姿があった。膝の上には大きな剣が乗っているが、鞘に収まったまま出番がないらしい。
 ベラヌールを船で出発して、アムたちはこの大陸の川をずっと調査していた。一口に川と言っても大きな河口だけで二つあり、どちらの水路も流れ込む支流が多く、錯綜している。水路の両側は巨木の森だった。枝の差し交わす森の奥は視界も悪く、どこまで広がっているかわからない。森の奥から猿の吠え声や鳥の鳴き声が聞こえ、水面は暗い緑色に見えた。
 パーティが航海に使っているのは元々外洋を旅するのに使う船で、かなり大型だった。時には三人は、小舟に乗り換えて支流をさかのぼったりもしている。結果はすべて行き止まりで、人の住んでいるところは皆無だった。
 夕べも船を泊め、船室で船乗りたちも交えて、三人はルートを検討していた。
「地図によると町があるはずなんだけどね」
サリューの指が黄色く変色した古い地図をたどった。
「河口のテアマト港は廃れちゃって人っこひとりいなかったし、こっち側の川の奥にはテラビス市があるはずなのに船から建物らしいものは見えなかった」
「町は確かにあったんですよ」
ベラヌールで雇った船乗りがつぶやいた。
「昔はこのへんに大きな町がいくつもあってよく船が通っていたんですが」
ロイが聞いた。
「昔って、いつごろだ?」
「十年くらいですかね」
「十年前に、何があったの?」
うーん、とベラヌールの船乗りはうなった。
「本当のところは誰も知りません。テアマトはここいらの町でつくった織物を運び出すための大きな港で、水郷一帯の玄関口でした。水郷そのものの名前も当時はテアマトと言ってました」
船乗りはぼそっとつぶやいた。
「十年くらい前、地震があって」
あ、と言ったのはロイだった。
「覚えてるぞ。ぐらっとすごい揺れが来て、終わってみたら海の向こうにロンダルキアの白い岩壁が生えてやがった。国中で会議をやったが原因がわからねえ。たしかロンダルキアへ斥候をやったが中へは入れずに戻ってきたんだ」
「ぼく、覚えてるよ、そのときのこと。ロイはお父さんの代理で勇者の泉へ聖水を汲みに来たよね」
「精霊ルビスの神託を受けるのに必要だと言われたんでな」
「サマルトリアでも神託を受けようとしたんだけどだめだった。アムはあのときのこと覚えてる?」
アムはうなずいた。
「怖かったわ。でも、あの地震、山脈が生まれたにしては揺れが小さかった。ムーンブルグでは、あれは魔法によるものだとみな考えていたわ」
「ベラヌールでもテアマトでも、地震は来ました」
と船乗りは言った。
「あのあと、テアマト水郷の町が次々とくびかり族に襲われるようになりました。あいつら、集団でやってきて、町に火をつけ、女子供でも見境なく殺してまわったんです」
「ひどい!」
「で?やられっぱなしか?」
「町側でも傭兵を雇ったり、壁を厚くしたりして対抗したんですが、やつらは神出鬼没だったそうです。襲ってきたところを傭兵隊が追いかけたりしたそうですが、水郷の森は深いし、もともとくびかり族の天下ですからね。逆に取り囲まれて自警団や傭兵隊が全滅しました」
日焼けした顔の壮年の船乗りは首を振った。
「テアマト水郷は、いいところだったんです。ここら一帯じゃ、織物、特に絹織物がさかんでした。そりゃあ景気がよくって昼は町中で機織りの音が鳴り響いて、夜は飯だ酒だとみんなで騒いで、一日に凄い大金が動いてましたよ。それがモンスターに襲われて……何もかも……」
船乗りは深いため息をついた。
「地震の後このあたりの沿岸を通ると、いつも森から黒い煙があがってました。またひとつ町が焼かれてるんだな、と思うとつらかったです。しばらくするとそれも絶えて、テアマト水郷には人っこ一人いなくなっちまいました」
「みんな、どこへ行ったの?」
「さてねえ」
と船乗りは寂しそうにつぶやいた。