月と海神の王国 11.魔導師の杖

  アビス神殿から船でムーンブルグ南岸へ、そこから西の関所を通り、秘密のトンネル経由でテパへ。帰路の間、アムは不思議な感覚にずっと包まれていた。奇妙なほどの安心感だった。
「今なら、何でもできるような気がする」
供としてついてきたテパの村人たちは、いつぞや見せた敵意は霧のように消え失せ、アムをただ恭しく扱っていた。
 テパへ戻り、ドン・モハメの館へ入ったとき、見慣れた人影を見つけてアムはほほえんだ。
「私の方が遅かったのね」
ロイとサリューは、何かに驚いたような顔をしていた。
「どうしたの?」
「いや、なんか、貫禄ついたな」
とロイが言った。
「出かける前はぴりぴりしてたのに、すげぇ余裕って顔だ」
「巫女として受け入れていただいたわ。そのせいかしら」
アム、とサリューがつぶやいた。
「アビス様はなんて?」
ちょっと後ろめたい気持ちでアムは打ち明けた。
「具体的にはなにもおっしゃらなかったの。でも」
神に相まみえたあの体験をどう説明しようかとアムは悩んだ。
「でもね、何か、いただいたわ。だから今、すごく安心してるの、私。きっと大丈夫な気がする。おかしいわね」
いやいや、とドン・モハメが声をかけた。
「姫がそのようにお感じになったのなら、きっとその通りでございましょう。神殿に、アビス様はおいでになったのですな?」
「ええ。そして供物を受け取ってくださったわ」
ドン・モハメの館にいた人々から、うれしそうな声がいくつもあがった。
「よかった……本当によかった」
ドン・モハメがつぶやいた。
「皆の衆、こうして新しい巫女も生まれたことじゃ。アビス様はきっと我らをお守りくださる!」
おう、と威勢のいい声があがった。
「予定通り、月のかけらを使いますぞ。期日は明日の正午」
はっきりとドン・モハメが宣言した。
「準備を急いでくだされ、皆の衆」
人々はざわめきだした。
「さあ、忙しくなるぞ!」
イリヤだった。
「計画通りに行けば、この村も半分は水に浸るからな。低地の衆は避難してくれ。大切なものは身につけるか、避難所へ持ち込むといい」
のるかそるかの一大計画が、次第にクライマックスへ向かおうとしている。十日間の準備期間は、もういくらも遺っていなかった。
「私は明日に備えて身を清めます」
そう言ってアムは席を立った。
「おお、では、明日の朝にこの館へおいでくだされ」
「わかったわ」
ロイたちはアムについて、館から外にでた。あたりには、ごくありふれた真昼の情景が広がっていた。
「あとまる一日なのね」
月のかけらを使ってしまえば、この村も半分は水没することになっている。この平和な情景は、今日限りなのかもしれなかった。
「そんなことにはさせないわ。きっと、大丈夫よ」
「アム」
小さな声でサリューが言った。
「ぼくら、っていうか、ぼく、ザハンであまりいい結果を出せなかったんだ」
サリューはごめん、とつぶやいた。
「応援するぐらいしか、できないんだ」
ロイが元気づけるようにサリューのあとをついだ。
「でも、誠心誠意応援するぞ?な?」
「う、うん。もちろん!」
アムは、二人の従兄弟の手をそれぞれ握った。
「ありがとう。それで十分だわ。もし、万一テアマトが水没したままになったとしても、海神の民の上には変わることなくアビス様の加護がある。私、それを実感したの」
「アムは強いね」
サリューはまぶしそうにそう言った。
「僕も、それだけルビス様を信じられたらいいんだけど」
「なんて言うか、その」
これまで何度サリューがその機転や推理でアムたちを助けてきただろうか。その賢くて優しいサリューが自信のない顔をしているのがアムにはつらかった。
「おい、サマ、しけたツラするなよ」
あえて乱暴にロイが話しかけた。
「ようするにこちらのお姫様は、自信あるわって言ってるだけなんだ。もし失敗したら、おれたちがフォローいれるしかないんだぜ?しゃんとしろよ」
話の最後に平手でサリューの背をばんとたたいた。
「するよ、ちゃんとする」
ロイの腕力にたたらを踏んで、やっとサリューは笑った。
「バケツで一杯づつ汲み出さなきゃなんないとしても、きっと水位を下げてみせるよ」
「こんなことに巻き込んじゃってごめんなさいね」
「それは気にしないで。ぼく、ちょっとした仮説を持ってるんだ。アビス様とルビス様のことでね」
「なあに?」
「えと、アムはアビス様の御前に立ったんでしょ?女神さまだった?」
「ええ」
「やっぱりね。どんなお顔をしておられたか、覚えてる?」
「はっきりとは……でも私、母を思いだしたわ。どことなく面影があるの。それに、長い紫の髪をしておられた。滝の中にゆらゆらして、きれいだったわ」
「それから?」
「あとはあまり覚えていないかも。お話ししたのも二言か三言だったし。あら、でも、そういえば最後に祝福をくださった」
「アムに?」
「私にもだけど」
アムはずっと携えていた魔導師の杖を差し出した。
「直接この杖の先の宝石にお手を触れて、祝福を与えてくださったの」
ん?と言ってロイがのぞきこんだ。
「これ、リリザの福引き屋で当てた景品じゃねえか。なんでこんなものに」
「言われてみればそうだわ。もっといい武器か何かを持ち込めばよかったのかしら」
「ちょっと見せて」
いきなりサリューが言い、アムの手の中の杖をほとんどひったくるようにした。
「これ、ここにアビス様がお手を触れたの?」
「そうよ?」
「それで?どうなった?」
「ぱっと光ったわ、この石が。すごく眩しかった」
サリューは自分の目の高さに杖を掲げ、鋭い目で先端の魔石をにらんでいた。
「おい」
「サリュー?」
両側から呼びかける声を、サリューはほとんど聞いていないようだった。ぎゅっと杖をつかみ、唇をかすかに動かすだけだった。
「こういうことか……」
美しい翠の瞳が潤んだ。次の瞬間、サリューはいきなりアムの方を振り向いた。
「アム!」
「え、な、なに?」
サリューの剣幕にアムはひるんだ。
「これ、借りるよ!」
「杖のこと?いいけど」
「ああ、ごめん、返せないんだ、ぼく、もらってもいい!?」
「いいわ」
魔導師の杖なら、はっきり言って簡単に手に入る。
「ありがと」
つぶやくと同時に、サリューは杖を持った手を高くかかげ、先端の魔石を足下の石畳へ激しくたたきつけた。
「サリュー!」
魔導師の杖の先に留めつけてあった赤い魔石は音を立てて砕けた。
 さっとサリューは身を屈め、砕けた赤い石のかけらを拾い集めた。
「ごめん、ぼくちょっと出てくる!」
「え、おい!ちょっと待て!イベントは明日だぞ!」
すでに走り出したサリューは、顔だけ振り向いて叫んだ。
「だから、時間がないんだ!」
ったく!とロイは言った。
「アム、おまえは明日に備えろ。おれが追いかける」
「わかったわ。あの子、なに考えてるのかしら」
ロイは飛ぶように走り出した。たちまち橋を渡り、テパの外へ走り出た。
 そして二人は一晩中、テパへは戻ってこなかった。

 アムは最初の夜と同じく教会に泊めてもらうことにした。テパは山の中で海の息吹を感じることは難しいが、アムは一人で月光を浴びて祈った。神父を含め、祈りを妨げる者はいなかった。
徹宵して祈るべきかとも思ったのだが、明日の儀式に備えて体力を温存するために、アムはむしろ早めに寝についた。
「体力はいいとして、霊力は……」
アムは床の中で首を振った。海神アビスは大丈夫だと言った。だから、大丈夫なのだ。自分の直感を信じて、アムは目を閉じた。
「それに、サリューも何かしてくれてるみたいだしね」
翌日は美しい朝焼けで始まった。早々にドン・モハメの館から女衆が迎えに来た。
「巫女姫様には、場を御移りの上、身を清め、お召替えをお願いいたします」
正式な口上を述べたのは、驚いたことにジーナだった。彼女は面変わりして見えるほどげっそりしていたが、動作はきびきびしていた。
「わかりました」
それだけ言ってアムは教会を出た。
未明の村は肌寒かった。ジーナを先導にして女たちはほとんど無言で橋を渡っていった。
「守れるんだろうね、あんたに、この村を?」
押し殺した声でジーナがささやいた。
「そんなにテパが大事だったの?」
思わず聞き返した。
ふん、とジーナが鼻を鳴らした。
「あたしがあんたくらいの年のころは、大っきらいだったさ。テパも、このテアマト水郷全体も。いつか出て行ってやるって思ってた。けど」
ジーナは肩を落とした。
「ここが水浸しのまんまになったら、泣くやつがいるんだ。うちのぼんくら亭主も含めて」
心細さにジーナの声が震えた。
「だから聞いてんのさ、水が退かなかったら、どう落とし前つけるんだい」
攻撃的な女の言い分を、自分は微笑んで受け止めることができるのをアムはひそかに驚いていた。
「海神の巫女にそれを聞くなら、海神アビスの意志を先に信じることね」
ジーナがふりむいた。泣きそうな顔だった。
「頼むから、テパを助けて!あんたしかいないんだから!」
まわりにいるテパの女衆が息を殺して会話を聞いているのをアムは意識した。
「あたしらにはもう、おいのりくらいしかできないんだよっ」
「ならば、祈りなさい」
とアムは静かに答えた。
「あたしが今日行うのも、祈りだわ」
前方にドン・モハメの館が見えてきた。
「巫女様のお出ましだ!」
ジーナたち女衆は、だまってアムを世話係に引き渡した。
やがて準備が終わり、ドン・モハメが人々を召集した。アムを含め、女子供も交えて、人々はテパを離れ、列を作って粛々と動き始めた。
行列の中程には大切な神蚕の棲む浅箱が大切に守られて、同じく山頂へ向かっていた。月のかけらは小さな宝箱に納めてイリヤが捧げ持っていた。村人の家財道具や、テアマト水郷の織物技術を伝える見本や工具などは先に山の上に運び上げられている。
行列の最後は黒いマントとフードで身体をほとんど覆い隠したアムと付き従う女たちだった。最初、輿を用意するとドン・モハメは言ったのだが、断固としてアムは断った。
「私は世界中を歩き回ってきました。今歩けない謂われはありません」
月のかけらを発動させるべき場所は最初から決まっていた。テアマト水郷全体は山脈に囲まれているが、その盆地の中では河口付近が低地であり、テパへ近づくにつれて海抜は高くなる。 
もっとも高いところにあるのがテパの貯水池のある山の上、その次が満月の塔の頂上だった。
日が昇ると太陽は明るく輝き、山頂を目指す人々は汗ばむほどだった。もし、水が退かなかったら。水が退いた後も、人面樹を駆除できなかったら。不安も希望も次第にふくらむが、そんな人間の感情などまったくおかまいなく、世界はさわやかで美しさに満ちていた。
「くびかり族はどうなったのかしら」
歩きながら、ぼんやりとアムは思った。ロイの指示をきちんと受け取って高いところを目指しただろうか。そしてあの石板は結局なんだったのだろう。アムは首を振った。よけいなことを考えている場合ではなかった。
ついに山頂が現れた。すぐそばに貯水池だった大きな穴が見えている。山のふもとの水門小屋まで続く深い縦穴だった。 
その穴をすぎると、行き止まりだった。先は崖になっていて、眼下にテアマト水郷の全域を見渡すことができた。
「……」
アムは声もなくその風景に見入った。雪のロンダルキア山脈と灰色のテアマト山脈に囲まれた豊かな緑の盆地である。太い二本の河は銀色に輝きながら蛇行し、周辺へ血管のように支流を張り巡らせていた。森のあちらこちらに三日月形に残された湖が見えていた。
「ご覧くだされ、姫」
とドン・モハメは言った。
「盆地のなかに、わずかに木々の少なくなっている部分がありましょう。あれがすべて、わしらの町であったのです。水郷の玄関たるテアマト、水郷の女王テラビス、染色に秀でたテュエラ、工房都市テルク」
老人はひとつひとつ指さしてその名を唱えた。町の名が挙がるたびに、ため息のような声がもれた。その町をふるさととして懐かしむ人々の声だった。
「あちらに満月の塔があるのがおわかりになりますか」
周辺を円形の水路に囲まれた島に立つ塔はすぐにわかった。
「そしてわしらがテパ。アビス信仰の中心地でございます」
ドン・モハメは言葉を切った。わしらをふるさとへ帰してくれるのか、とくどいほどに問いただしたいはずだ、とアムは思ったが、ドン・モハメは万感をこめて祈りの言葉を口にしただけだった。
「アビス様がわし等をお守りくださいますように」
アムはうなずいた。
「『大丈夫です』。アビス様はそうおっしゃいました。そのお言葉が今日成就されます」
アムの背後から、希望と不安の入り交じった声がもれた。
アムは村から身につけてきた黒いマントを自ら脱ぎ捨てた。海神の巫女の正装、水の羽衣が現れた。
アムにとってこれを身につけるのは二度めになる。だが、テパの人々がその姿を見るのはほとんど初めてだった。
薄く紫がかった水色の布で衣は仕立ててあった。打ち合わせのある上着と幾重にも重ねた張りのあるスカートで衣はできている。その上から長い領布(ひれ)をかけ、領布のはしは左右の手首に結びつけてあった。
アムが身じろぎすると衣は青や翠、藤色、水色、青紫、群青とさまざまに色を変える。まるで海そのもののようだった。
興奮した子供の声が聞こえた。
「海の女神様のような、青いドレスね?」
ナンナの娘らしい。海神アビスは海から生まれたのだわ、とアムは思った。海の水の泡をまとっただけの裸の姿で描かれたアビスの肖像を、昔見たことがある。
「月のかけらをここへ」
イリヤは宝箱を捧げて近づいてきた。ドン・モハメは紫の円盤を取り出して恭しくアムに手渡した。
--お父様、お母様、アマランスをお助けください。
ぐっとアムは指に力をこめた。
「待って」
その声は遠くから聞こえた。
「サリュー?」
「おーい、ちょっと待ってくれ!」
はっきりと聞こえた。ロイが叫びながら、山道を登ってくる。その後ろからサリューも姿を見せた。