月と海神の王国 7.王都と水郷

 サリューが意識を取り戻したのは、ザハンの宿屋の客室だった。海は穏やかで窓の外で波がささやき、海鳥が来ているのか、鳴き声が聞こえた。
「水、飲む?」
ベッドのそばにアムがいて、水差しを手にして顔を覗き込んでいた。
「うん、もらう」
 アムの向こう側にいたロイが、おら、とつぶやいて上半身を助け起こしてくれた。
 マグについでもらった水を、サリューは呑み下した。特別冷えていたり香りがついているわけではなかったが、すごくおいしいと思った。
「やれやれ、しくじっちゃったな。アムから全部聞きだす前に気絶しちゃったなんてさ」
アムは静かに首を振った。
「そんなことないわ。あたしが知ってるのも、あれがほとんど全部なのよ」
「なんで黙ってたの」
アムはベッドの脇に水差しを置いた。
「数百年前、精霊ルビスが初代ローレシア王、つまり竜殺しのアレフとその妻であるローラ妃をこの大地へお遣わしになった。当時のムーンブルグの王は精霊ルビスの神威に服して信仰を受け入れ、後にローレシア王の娘を迎えて后とした。でも、ムーンブルグの民の一部は、海神アビスへの信仰を捨てなかった」
「それが、ドン・モハメとテアマト水郷?」
「そうね。それから、細々と王家にも残されていたのよ、アビス信仰は」
サリューは美しい従姉の顔を見つめた。
「『ムーンブルグ王家の未婚の王女は、精霊ルビスの高尼僧を兼ねる』。いつだかそう言ってたよね」
アムはうなずいた。
「同時に、隠された神、アビス神の巫女でもあるわ」
「『隠された』?『忘れられた』んじゃなくて?」
「表向き、ムーンブルグは精霊ルビスを奉じるロト三国のひとつよ。滅びたテアマト水郷の町々に教会のシンボルは残っていたし、第一テパにもルビス様を祭る教会はあったでしょ?町外れだけど」
あの神父さん、たぶん、精霊ルビスと海神アビスを両方とも祭ってたんだ、とサリューはいまさらながらに思った。
「でも最初の晩そのあたりにつっこみいれられたくなくて、あの人ぼくたちに一服盛ったみたいだけどさ」
サリューのぼやきにかまわずアムは続けた。
「アビス信仰に詳しい人間が見れば、テパの町はアビスのシンボルだらけなの。橋の上に立った時、あたしにはひと目でわかった。おまけに出てきたのはドン・モハメ。アビス神の町だわ、テパは」
アビスの信徒たちは、それで精霊ルビスを意味するラーミアの紋章を帯びた旅人が町へ入るのを嫌がったわけか、とサリューは思った。
 ロイがゴーグルを取って、指で髪の間をすいた。
「おれたち別に、いまさらアビス信仰をやめろなんて言わないぜ?」
な?とロイは言い、サリューはうなずいた。
アムは肩をすくめた。
「テパの人々にとっては同じことなの。ロトの一族がどう思うかというより、精霊ルビスに遠慮して、その信仰は隠さなくてはならなかったのよ」
「信仰を隠したかったってことは、ぼくたちをペルポイだのなんだのへ行かせたのは、時間稼ぎだったんだね?」
こくんとアムはうなずいた。
「あたしたちの留守にドン・モハメはイリヤたちを使って、町中からアビスのシンボルを取り外させたんだわ、テパへ出入りするたびに減ってたもの」
「俺たちがどう思うかに関係なしにか。まったく、何なんだよ、その空回りは」
ふーとロイが息を吐いた。
「つまり、テパの町の住人だけが精霊ルビスの目から隠れて海神アビスを信仰している、そういう状態?」
アムは奇妙な表情になった。
「微妙なの、とっても。テパの人々は海神アビスのお力を信じているのだとおもうわ。ある意味、ルビス様よりも」
そう言うアムと、自分、サリューは両方ともロト三国の王族であり、魔力を持っている。だが、同じ血統でもロイに魔法はまったく使えない。誰も口にしないがそのことがすなわち、精霊女神の力の衰えではないかとみんなうすうす疑っている。
「それに対して海神アビスはいまだに御力を保っているわ」
「どうしてそう思うの?」
「ひとつは、ルーラの件」
「やっぱり?」
「テパはいまだにアビス様の神域の中にあるの。テパまでルーラできないのはそれが理由じゃないかと、ムーンブルグの魔法博士たちが仮説をたてていたわ」
そうか、とサリューは思った。船に乗って川のあたりを探索していた時はひどく身体が重かった。ロンダルキアからの風のせいかな、とサリューは思ったのだがテパのまわりでそれを感じたことはない。アビスの神の神域として、守られていたんだとあらためて気がついた。
 それから、とアムは言った。
「月のかけらの能力は海神アビスに由来するの」
月のかけら。水位を自由に上げる超自然物質。
「だからか!」
サリューは思わず言った。
「だから、月のかけらはアビス信仰の中心地に、テアマト水郷にあったのか!」
アムはうなずいた。
 なあ、とロイが言った。
「月のかけらのこと言いだしたのは、姫だったよな?」
「そうよ。海面の水位を上げて浅瀬をなくそうと思った時、子供のころ父と母が月のかけらを使って同じことをしたのを思い出したの。ちょうど十年前。ドン・モハメに会ったのはそのときだった。だから、水郷へ行ってドン・モハメを探せば月のかけらが手に入るはずだと思ったの。ドン・モハメが私のことを覚えていたなんて意外だったわ」
「そんなに意外?アムは母上様と似てるんじゃないかな、きっと」
そう言いかけてサリューは気付いた。
「あ、もしかして」
初めてテパへ入って敵意をむんむんとさせた村人に囲まれた時、アムはムーンブルグの名を強調していた。
「今でもテパはムーンブルグの一部なの?」
「行政上、テパを含めてテアマト水郷は自治都市連合のはずよ。でも、ムーンブルグはずっと水郷を援助してきた。そのことは知ってるわ」
「テアマト水郷とムーンブルグ、両方とも……」
サリューは言い淀んだ。
「ええ、滅びたわね」
あっさりとアムは言った。
「たぶん今はムーンペタからテパへ援助物資が届けられているのだと思うわ」
「けっこう遠いだろう?」
「うろ覚えだけど、ムーンブルグ西の関所からテパへつながる抜け道が昔はあったと思ったわ」
むう、とロイはうなり、それきり黙ってしまった。
「ロイ?」
「ああ?」
「君の番だよ」
ちっとロイはつぶやいた。
「くびかり族だな?」
「うん」
「俺の話は長くはない。ていうか、ローレシアに伝わってる昔話だ。勇者ロトが大魔王をくだしたあと、天へ召される前にどこかの森でモンスターにあったそうだ」
「ぼく、聞いたことないや」
「ローレシアの、つったろ?大魔王がもういなかったので、モンスターも敵意がなかった。むしろ気が合ったので、やつらの頭目とサシで勝負をして勇者ロトが勝った。以来、その特別なモンスターの種族は、ロトを“強き者”として敬っている。そんなオチがつくんだ」
「私も初耳。真偽はともかく、いかにも勇者ロトらしいわね」
「で、こないだ満月の塔で、くびかり族とロトがいっしょに描いてある絵があっただろ?昔話にでてきたモンスターってのは、くびかり族なんじゃないかと思った。あいつら、見てくれがなんとなく」
「勇者っぽい?」
う~む、とロイはうなった。
「最初あのかっこは旅人を油断させるための変装じゃないかと思ったんだ。が、昔話が本当なら、あいつらいまだに勇者ロトの姿をまねているのかもしれない」
「なんだか律儀なモンスターね。何百年たってると思う?」
「だろ?そう思ったらなんだか、ばっさりやるのも、ちょっと……」
「ロイったら、くびかり族のほうは、ぼくらを勇者ロトの末裔だなんて知らないから襲ってくるんだよ?!」
「わかってる、わかってる。今度はちゃんと戦うさ。パーティを守るのも俺の仕事だからな」
両手のひらを胸の高さにあげて、ロイは苦情を抑えるように動かした。
「それはそれとしてだ。サマ、これからどうする?」
うん、とサリューはつぶやいて、一度目を閉じた。
「話を聞いていろいろわかった。でも、大きな疑問が残ってるんだ。それを確かめないとね」
「私で答えられることなら言うわよ?」
とアムが言った。
「ドン・モハメ、海神アビスと、月のかけらが結びついてるのはわかったんだ。アム、なんでドン・モハメは月のかけらをあれほど欲しがったのかな?」
「そうねえ。アビス信仰の象徴だからかしら」
「満月の塔に安置されていたのは、大事なものだからだよね」
「だと思うわ。満月の塔はテアマト水郷の聖地だもの」
「それなら満月の塔に置きっぱなしにすればいいじゃない?ぼくたちロトの一族を差し向けてまで、ドン・モハメは月のかけらを手に入れることにこだわった。彼は今、テパで月のかけらを持って、何してると思う?」
ロイが眉をあげた。
「あいつは水の羽衣なんか織っちゃいないってことか?」
「織り機がないんだから元々無理だよ。でもたぶん、これも時間稼ぎだと思うんだ。ドン・モハメは何かやってる。しかもそれは、同じアビス信仰を分かち合っているアムにさえ秘密にしてることだよね」
アムが白魚のような指の関節をかるく噛んだ。
「そうよ。おかしいわ。ドン・モハメがアビス様のことを隠したいなら、あたしたちに月のかけらを渡して村から追い出せば済んだのに」
 サリューはドン・モハメに渡した魔法のアイテムのことを思い出した。銀の枠の中の紫の円盤、小さく描かれた金色の三日月……。
「アム、月のかけらって、水面の高さを上げる以外に何か機能があるのかな?何か知ってる?」
期待を込めて顔を見上げたが、アムは首を横に振った。
「たぶん、ないわ。少なくとも王家に伝わる伝承では、月のかけらは海神アビス様が信徒たちへくだしおかれたアイテムで、水位を上げることのできる力を持ってる。ただそれだけよ」
「上げるのは、海の水だけか?」
とロイが聞いた。
「水ならなんでもいいはずよ」
「そうか。テパは山の中だから、海までは遠いよな」
え?とサリューは思った。
「池でも川でもいいの?」
「ええ」
「水郷は、川だらけだった」
「そうね」
「でも今はモンスターでいっぱいだ」
「だから?」
 口を開く前にサリューは唾液を呑みこんだ。
「うわ……やばい」
「なにが」
「ドン・モハメが一番望んでいるのは、元の水郷へ戻ることでしょ?」
「でしょうね」
サリューの脳裏に、悪夢のような絵が立ち上がった。
 押し寄せる。
 ひたひたと。
 水はまぎれもなく一個のモンスターだった。嵐の海の波のような勢いはないがじりじりと水位をあげ、容赦なく海岸線を押し上げてくる。水面があがるにつれて川幅が広がり、森を侵食し、すべてを呑みこんでいく。
「津波だ」
「なんですって?」
痛いような確信が胸を貫いた。
「ドン・モハメは、テアマト水郷一帯を水没させる気でいるんだ!モンスターを滅ぼして、水郷を取り戻すために!」
ロイとアムは青ざめた。
「ちょ……」
「あのナンナっていうひとの娘さんが言ってた。月のかけらがあれば、元の町へ帰れるって」
「そんな、ばかな」
ドン・モハメには勝算があるのだろうとサリューは思った。テアマト水郷は、かなりの部分を高い山脈に囲まれている。山に囲まれたお椀のような地形で水をいっぱいに溢れさせれば、その中の大部分の生きものは死滅するだろう。
 がたんと音がした。アムが椅子を蹴って立ち上がったのだった。
「そんなこと、だめよ」
珍しくうろたえている。
「すぐにテパへ戻りましょう。ドン・モハメを止めなくちゃ!」