マイラ一天地六 7.遊び人の修行

 誰かが頭の上で会話をしている、とアムはぼんやりと思った。この宿の隣の部屋かどこかで宴会でもやっているのだろうか。騒がしかった。
「やっぱり岩下の姐さんで決まりだろう。『覚悟しいや』って」
男の声がそう言った。とたんにべち、と誰かが裏手ではたいた。
「何の、今は『ヤッチマイナー』でしょうが」
女の声が反論した。
「いや、ここはやっぱり正統派でいこうぜ。『姓は矢野、名は竜子、通り名を緋牡丹のお竜と発します』……」
 何の話をしているのだろう。うるさくて眠れやしない、とアムは思った。
「あ、起きた、起きた」
「いつまで寝てますの!」
アムは目を開けた。
 白い部屋にアムはいた。おそるおそる上半身を起こすと、椅子をいくつかつなげた上に横になっていたのだとわかった。
「ここはどこ?」
 透明な球形の物体が部屋の内部を明るく照らしている。
 白い壁の一面が巨大な鏡になっている。そこに二人の男女が映っていた。
「おはよう、別嬪さん」
彫りの深い顔立ちの男は、上背のある立派な体つきに使い込んだ鎧をまとっていた。
「ちょっとあたしたちにつきあってくれる?」
 隣の女は戦士よりも頭ひとつ分背が低いだけだった。スリットの入った武闘着に、豪華な肉体を包んでいる。同性ながらちらちら見える太ももがまぶしいほどだった。
「あたし、なんで……?」
武闘家らしい女はアムの手を取ると床に立たせた。すばらしくいい香りがする。チャイナスタイルの衣装にもかかわらず、彼女はアムとよく似たふわふわの金髪だった。
「さあ、こっち。ここに坐って」
壁際の机の前の椅子にアムは坐らされた。
「この髪はアップにするといいわ。キング、ブラシを取って」
いつのまにか、頭巾がなくなっている。
「はいよ」
女は机の前に置かれた大きな鏡を見ながらアムの髪を手早くまとめている。
「ほつれ毛もすこしあったほうが色っぽくていいわ」
「あ、あの、ちょっと」
アムはあわてた。
「あなた方は?ここは、どこですか?」
キングと呼ばれた戦士が鏡の中からアムをのぞきこんだ。
「おれは戦士キング。そっちのは相棒のクイーン。かつては勇者ロトとパーティを組んで、世界中回っていた」
ロトの名を聞いて、アムはわれに返った。
「そうよ、あたし、マイラに」
「ほら、動かない!」
びしっとクイーンが言った。
「それでもってここはあたしたちの楽屋だと思ってちょうだい」
「が、楽屋?」
クイーンは、唇に大量のピンをくわえたままもぐもぐと説明した。
「明日までにあんたをチョーかっこいい女博打うちに仕立てなくちゃならないのよ」
「そんなこと、いつ」
「決まったかって?そうしないと、竜の女王卵どころか、ロトの剣だって危ないんでしょ?」
 アムは言い返そうとして黙った。そのまま椅子に座りなおした。鏡の中にはもう、うなじを見せて髪を結った自分が映っている。後頭部できりりと髪をひっつめ、団子に巻いてから先端を遊ばせる感じでふんわりと垂らすのだ。クイーンは団子状の曲げに、金髪に映える黒漆の櫛を差し込んだ。
「次、服!」
キングは鏡になっていないほうの壁に近づくと、小さな取っ手をつかんで開け放った。壁の内部がワードローブになっていたらしい。何十着という服が壁を埋め尽くしていた。
「どれも似合いそうだなあ、別嬪さん」
「ごてっとしたもんはダメよ。賭場は暑いンだから」
アムはおそるおそる口にした。
「つまり、壺振りのときのあたしの衣装ですか?」
「決まってんじゃない、形から入るの。そのださいローブは、暑くてしょうがないでしょ?」
「でも、あたし」
「ごちゃごちゃ言わない!ほら、立って」
キングはようやく衣装を選び出した。
「まず晒しの木綿だな。このほかに上半身に身につけられる下着はないから、きっちりとね」
その夜に見たサシチのスタイルを思い出してアムは赤くなった。
「あたしが?あれじゃまるで裸だわ」
「だから涼しいんじゃないの。ほら、脱いで!」
夢の中だからだろうか。するりとローブが自分から脱げて行く。
「きゃ、きゃああ!」
アムは手で身体をおおって叫んだ。
「なんてことするのよぉ!」
え、という顔でキングとクイーンがこちらを見た。
「いいねえ。今の、いい」
「そうそう。今の呼吸を忘れちゃだめよ」
はい?とアムが聞き返そうとしたとき、クイーンが巨大な包帯のようなものをつきつけた。
「さ、巻くわよ?息つめて!」
呼吸ができるすれすれのきつさで胸まで木綿をまきあげていく。はしを胸元に押し込んでできあがりだった。確かに胸から腹、腰までは覆われているが、太もも以下の脚と両腕はむき出しである。
 何かが背中にあたった。キングがキモノを肩から着せ掛けているのだった。
「袖を通して?そうそう。前を重ねて帯を締めるから」
アムは鏡の前でとまどっている。だがクイーンはさっさと着付けていき、やがて鏡の中に、濃紺のキモノをすっきりとまとった金髪の少女賭博師ができあがった。
「ようし、こっち来て」
キングは一人で納得して、アムを楽屋の一角へ連れてきた。
「さ、坐ってみて」
マイラのジパング系の娘たちのように、アムは両膝をそろえて坐った。初めて身に着けるキモノの肌触りが快かった。
「ちがう、ちがう」
キングがとたんにダメを出した。
「片膝立てて!賭場の壺振りは片膝立ちが基本だからね」
だって、そんな、それでは脚の内側が見えてしまう。アムがためらっていると、隣にどん、とクイーンが坐った。
「こうよ、こう!」
いつのまにか黒の細身のキモノ姿になっている。肩先にジパングの呪われた仮面……般若が染め抜かれていた。ああ、夢だからよね、とぼんやりとアムは考えた。
 いきなりクイーンは片膝を立て、上体をぐっと伸ばした。すそが割れて立てたほうの足があらわになった。
「脚の内側が見えるなんて、はしたなくて、あたし」
「ごちゃごちゃ言わないで見てなさい!賭場じゃ壺振りはこれがあたりまえなんだから」
いきなり大勢の人々がざわめく声がした。“楽屋”はまだ存在する。だがその上からまるでぼかしのように、土蜘蛛のセンゾウの賭場が重なった。
 中央には盆茣蓙、まわりには目つきの悪い賭客たち。奥の神棚の前にはセンゾウが坐り、長火鉢の前でキセルをふかしている。そのセンゾウの後ろに下げられた紙には「精霊瑠美須女神」とジパングの文字で書いてあるのだということが今のアムにはなぜかわかった。
 クイーンが坐っているのは、盆茣蓙の半座中央、壺振りの定位置だった。片膝立てて坐った彼女は、いつの間にか片手に壺、片手にサイコロを二つ、人差し指、中指、薬指ではさんで持っている。両手を高く上げ、クイーンは低くつぶやいた。
「どなたさんも、よろしうござんすね?」
人々の目が、クイーンに集中する。のるか、そるか。
 煽っているんだわ、とアムは思った。壺振りは視線だけで人々を燃え上がらせる。
「どうよ」
すぐかたわらでキングがささやいた。
「おれのクイーンは、絵になるだろう」
アムは無言でうなずいた。さっきから胸がどきどきしている。
「やってみたくねえ?」
「あたしがですか」
「そうだよ。暑いだろう、きっと。だけど、気持ちいいぜ」
気持ちがいいなんてこと、あるはずが、と思いかけてアムはやめた。自分をだましてどうするの。クイーンは華やかで獰猛だった。賭場の熱気を一手につかみ好きなように引きずり回している。かっこいいと思った。
クイーンの表情がひきしまった。
「ごめんなすって!」
賽が壺へ投げ入れられ、賭けは始まった。

 夜中に一人、ロイは部屋を抜け出した。刀御殿の中の浴場はいつでも開いている、と土蜘蛛一家の若い衆が言っていたのをロイは覚えていた。風呂でも浴びてくるか、とロイは湯殿へ向かった。
 口惜しくて、眠れない。
 それが賭場のやり方なのだと言われればそれまでだが、自分の単純さがセンゾウはじめマイラの連中にはさぞおかしかっただろうと思うと、ぐーすか眠っていられなかった。
 のれんをくぐって入った湯殿には誰もいなかった。もう夜更けのせいか、とロイは思った。さっさと服を脱ぎ、手ぬぐい片手に開き戸を開けると、そこには静かで、湯気が立ち込める空間があった。
 足を踏み込む。石の床は濡れて温かい。壁の高いところに明かりが取り付けてあるだけで、薄暗かった。木の手桶を取って床と同じ高さの低い湯船から湯をくみ上げ、ざっと音を立てて身体に浴びせた。手桶を床に置いたとき、かぽん、と音が響いた。
 誰もいないので話し声ひとつ聞こえない。湯を取り入れる口から風呂の水面へ流れ込むせせらぎのような音が耳に立つほどだった。外で風が庭の松をゆする音がした。
 ばしゃばしゃと音を立てて顔と身体を洗った。それから熱い湯船へ近づき、片足を入れてみた。心地よい温度がつまさきからあがってくる。なんとなく音を立てないように、静かにロイは広い湯の中へ身体を沈めた。
「ふう」
そうつぶやいて、湯船の縁の丸石に頭をのせる。両手両足は遠慮なく湯の中へ大の字にのばしてしまう。浮力で背中が浮き上がる。自分が湯の中へ溶け込んでいくような気持ちだった。
「サマとか、連れてくりゃよかった」
 賭場で負けた、と思った瞬間からのしかかっていた敗北感が、熱い湯に溶かされ、洗い流され、消えていくのがわかった。ロイは目を閉じた。
 しばらくそうしていたらしい。さすがにのぼせたようになって、ロイは湯船の中の石に腰掛けて上半身を湯から出した。
 あらめてみると、本当にでかい風呂だった。ローレシアはじめロト三国にも入浴の習慣はあるが、個人用の風呂桶がせいぜいなので、こんなに大きな面積に湯をたっぷりためる、というのは見たことがなかった。
「奥まで見えねえや」
 水面に立ち込める湯気と薄暗い明かりのせいで、浴室の向こう側さえ見えない。おそらく有名な露天風呂はその向こうにあるのだろう。
 好奇心に駆られてロイは湯の中を手ぬぐい片手に歩き出した。突き当たりに竹のスライドドアがあり、その向こうが屋外の風呂になっていた。
「星だ」
見上げれば濃紺の夜空から銀の星々が見下ろしている。ほてった皮膚に夜風が気持ちよかった。見事な庭園の中の風呂は水面から湯気を放っている。ロイはその中へ足を踏み入れ、中央の灯篭の下まで歩いてみた。外にあるのでぬるいかと思っていたが、湯の温度は保たれている。じゃぶ、と音を立ててほのかな明かりの下へロイはすわりこみ、ふうと息を吐き出した。
 そのとき、誰かが湯気の向こうからこちらへやってきた。
 たぶん先に露天風呂へ入った客だろう。背格好はロイと同じくらい。ジパング系なのか、髪が黒いことはわかった。
「失礼するよ」
若い男の声だった。ロイはどうぞ、とつぶやいて、ちょっと横へそれた。新しく来た若者は、湯の中、ロイのすぐとなりに座った。
 ちら、と横目でロイはその若者を観察した。どうしても筋肉のつき方に目が行ってしまう。
「あんた、剣を使うのか」
思わずそう言った。湯気を通して見る上腕や肩、胸の辺りが、かなり鍛えている感じがした。
「君もそうだろう?」
やはり体つきでわかるらしい。
「ああ。うん。重くてごつい剣が好きなんで」
稲妻の剣。ロイが知る限り最も巨大で重量のある一振りである。今は宿泊している部屋の床の間にある刀掛けに置いてあった。
「ロトの剣じゃ、軽いかい?」
いきなりそういわれてロイは驚いた。
「あんた、夕方、賭場にいたのか?」
「そういうわけじゃない」
なんだか、おもしろがっているような口ぶりだった。
「ロトの……は、いい剣だと思うし、切れ味も凄い。ただ、俺とは相性がそれほどよくないらしい。サマのほうがあいつの力を引き出せるみたいだ。魔法力の差かな」
「MPのことは気にしないほうがいい」
「よくそう言われるけど、慣れねえよ、コンプレックスは」
ちゃぷんと音がした。隣の若者がロイの顔を覗き込んでいるのだった。
「コンプレックスも君の個性だよ。何もかも一人でできるなら、仲間なんていらないじゃないか」
そう言う真剣な顔、群青色の瞳。どこかでこの男を見たことがある、とロイは思った。ああ、故郷にいる親父に似てるのか、こいつ。そう思ったとき、ふと彼は笑った。
「アレフはそれで悩んでたよ」
アレフって誰だ。なんで俺がそんなやつのことを知っていなきゃならねえんだよと思ったとき、脳裏に一人の男の姿が浮かんだ。ローレシア城の奥に飾ってある肖像画である。初代ローレシア王、アレフ。またの名を竜殺しのアレフ。アレフガルドを竜王から救った勇者アレフ。
 ロイは湯の中から半分飛び上がった。
「あんたは!」
彼は父親に似ているのではなかった。自分とそっくりなのだ。鏡を見ているように同じ顔がロイを見上げていた。
「坐りなよ。湯冷めをする」
ロイは呆然としたま、再び腰を下ろした。間の抜けたちゃぽんという音がした。
「そんな顔しないでくれ。ようすを見に来ただけなんだ」
はにかむような笑顔だった。風呂場だからわからなかった、とロイは思った。こいつがサークレットをつけるか、ロトの兜をかぶれば、よく知っている面になる。ロイは震えながら息を吐き出した。
 若者はにこっと笑った。
「今頃サリューのところにはジャックが、アムのところにはキングとクイーンが行ってるよ」
戦士キング、武闘家クイーン、賢者ジャック。伝説のパーティのメンバーだとロイは知っていた。
「行ってるって、何をしに」
ははは、と勇者ロトは笑った。
「なにをやるんだか、ぼくには教えてくれなかった。あとで君が従姉弟たちから聞くといい」
「あんたは蚊帳の外か?」
「それだけ信用されていると思ってるよ。ぼくも彼らを信頼してる。君は違うのかい?」
「いや……」
勇者は微笑んだ。
「だよね。大いにあてにするといいよ、君のパーティメンバーをね」
彼は、おもむろに手を伸ばしロイの頭を自分に引き寄せた。
「思ったより元気そうでよかった」
「え」
なぜ伝説の勇者は、こんなに熱い身体を備えてここにいるのだろう。くらくらする頭でロイはそう思った。マイラの湯が幻を見せているのか。
「あとで夢だと思うといけないから、名前を教えておくよ」
耳元で勇者はささやいた。
「ラルス王より贈られし名はロト。だが亡き父オルテガの、かつて我に名付けしは……」
どことなく無邪気な語感のするその名を、ロイは脳裏に刻んだ。
「じゃあね。会えてうれしかったよ。それと、僕の剣は大事にしてやってくれ。大切な相棒だったんだ」
ささやくような挨拶が聞こえた。それと同時に今まで確かにそこにあった肉体は一瞬のうちに消え去ったのだった。
 腕にぬくもりが残っている。耳にあの声が残っている。だがロイは一人きりだった。
 ぴちょんと音がした。すぐ後ろの石灯籠から、水滴が水面へ落ちたのだった。 夜明けも間近なマイラの露天風呂にただひとり、ロイは座り込んでいるのだった。