デルコンダルの黒い旗 9.決闘の朝

「『大魔王問答』のなかだね」
サリューは暗唱を始めた。
「『かくて大魔王の命運、尽きぬ。大魔王、臨終に問うていわく、不覚にして我敗れたり。しかれども、見よ、闇の奥底より邪悪なるもの、この地を目指して来たらんとす』」
「すげえな。おれはもう、あやふやだ」
「書き方のお手本だったし、寝る前にばあやの前で唱えさせられたもん」
ロイは、げっ、という表情をして見せた。
 アムは肩をすくめた。
「あたしは家庭教師にたたきこまれたわ。言わせてもらえば、暗唱は得意だったわよ。『 勇者よ、汝、死すべき定めの人の子なれば、命永らえて、これと戦うすべぞなかるべし。勇者よ、この地を如何になすや』」
アムに続けて、ロイがつぶやいた。
「『大魔王の屍に向かいて、勇者の誓いていわく』」
「なんだ、おぼえてるじゃない」
「思い出したんだよ。ちくしょう、ここんとこ、その、好きだったんだよ。かっこいいじゃないか。『まさしく我は人の子なり。命永らえるすべぞなし。されど、人の子はまた人の子を生む。我が命、我が魂、永久にこの地を見守らん。この地の再び悪に覆わるる時、勇者再び立ちて、必ずこれと戦うべし』」
「うん、その最後の部分が大誓約って言われるところだね」
「だろ?勇者が立つ条件は、再び悪に覆われる時、だ。人に頼まれて、じゃない。ましてや、強制されてじゃない」
サリューは真剣なまなざしでロイを見上げ、口を開いた。
「君も、言うの?強くなれって。自分の意志をもって、積極的に戦えって?」
「もしかして、ずっとそう言われ続けてきたのか、おまえ?」
「そうだよ!ぼくが生まれてからずっとそれが父の、一族の、王国の、世界の、精霊ルビス様の望みだったんだから。でもいくらその気になれって言われても、ぼくには、できない。頼むから、君の強さを、ぼくに押し付けないで!」
アムは言いかけた。
「誰もサリューに」
そんなこと押し付けてないわ。そう言おうとして、アムは口ごもった。
 誰もそんなことを、押し付けてはいない。サリューにも、アム自身にも。ひとつの確信が、心の底の方からこぽりと湧き上がってくるのを感じる。アムが何をするか、どう行動するかは、何を世界が望んでいるかとは、まったく関係がないのだ、ということ。
「そうだったんだ。ニナは、自分の狼狽を鋭いとげにしてあたしを刺した。あたしはそれを、世界の悪意だと思い込んだんだわ」
ロイとサリューが振り向いた。
「悪意につかまっていたとき、あたしはがんじがらめだった。でも、見て。本当はこんなに、自由だったの」
「それなら、闘わなくなっていいんじゃない?」
「ええ、そうよ。でも、ニナのとげは悲鳴になって、まだあたしの中にある。感じない?大きな……流れを」
「それが大誓約ってものだ、たぶん」
とロイは言った。
「流れって、戦いのことね。アリアハンで生まれた一人の若者が始めて、何世代にも渡って続けられてきた、長い戦いだわ」
アムは、笑った。このあいだから荒れ狂ってきた感情が、ようやく鎮まり、澄んで強靭な精神がたちもどってくる。アムは自分が、世界と和解したのを感じた。
「アム、君もなの?もう一度言うよ。君の強さを、ぼくにおしつけないで」
「そうじゃないのよ、サリュー」
アムは、たった今得た確信をうまく言葉にできなくて、口ごもった。
 ロイは、アムの目の前で、いきなり手をあげた。サリューを殴るのかと思って、アムは一瞬身をかたくした。だが、ロイは、その手で、しっかりとサリューの肩をつかんだ。
「じゃあ、こう考えろ。お前が生き残ったら、おれが喜ぶ。おれと、アムもだ。世界中のみんなががっかりするとしても、おれたちだけは、おまえが生きていて、うれしいはずだ」
サリューは眼を見開いた。
「ほんとう?」
「本当よ」
アムが言った。サリューは戸惑ったような顔でロイとアムの顔を見比べていた。
「だから、死ぬな。メガンテは使用禁止だ」
サリューは、泣きたいような、笑いたいような顔になった。
「あは……、すごい自信だね。君たち二人と世界を天秤にかけて、どっちが重たいと思うの?」
ロイはにやっと笑った。それから真顔で言った。
「もちろん、おれたちだ」

 デルコンダルに、三たび、日の出が訪れた。
 死の町の朝だった。ロイは、教会の前から足を踏み出した。すでに、戦闘装備である。ロイに続いて、サリューとアムも王宮へ向かって歩き出した。
 サリューがかるく唇を湿らせ、口笛を吹きはじめた。昨日ギリアムが演奏していたメロディだった。その旋律が、よどんだようなデルコンダルの大気を切り裂いて響いた。
 累々と横たわる死体。
 林立する処刑台。
 生活そのままの姿で死に、立ち腐れていくなきがら。
 頭上を舞うカラス。
 足元を、濁流のように走り回るネズミ。
 昨日まで曲を奏でていた楽士も、青黒くみみずばれの浮き出した顔で客の相手をしていた少女も、すべて沈黙の中にある。
 教会の鐘楼には、黒い旗がひるがえる。
 鐘に、死せる神父の体がぶつかって、弔いの音を響かせる。
 一歩ごとに足元から、赤い目のネズミが逃げていく。そして背後から、警戒するように、あざけるように、後ろ足で立ち上がって、悪意のこもった目で三人を見つめた。
 ざくっと音を立ててブーツの底に砂利を砕き、三人はデルコンダル城の門の前に立った。人の気配がない。カラスのうつろな鳴き声よりほかに、音を立てるものもなかった。
 次の瞬間、城門がきしみ始めた。人の手を借りることなく、大扉は左右に開いて挑戦者を誘った。
ロイは振り向いた。
「デルコンダル最後の戦いだ。行くぞ」

 王宮の内部は荒涼としていた。城内に生きている人間は見当たらなかった。
「毎晩、呑めや歌えの大騒ぎじゃなかったのか?」
ロイが言うと、サリューは眉をひそめた。
「エルシノの目的がこの町に病を流行らせることだとしたら、王様はエルシノにとってもう、用済みだから」
 城の表では兵士や役人が、奥では侍女や女中たちが、室内や廊下の壁にもたれ、くずれ、すわりこみ、そのままの姿で死んでいた。
 なかには、豪華な衣装をつけて舞台でこときれている歌姫もいた。
 貴族たちは、贅沢な広間に集まっていた。華やかな装束をまとい、おどけた仮面をつけたまま、折り重なって倒れている。だが仮面の下や錦織の衣装の袖口に、蛆がわいてうごめいていた。
「見ろ!」
その広間の最も奥に、上座がしつらえてあった。男が一人、すわっていた。男は、王冠を戴いた頭を、ゆっくりと、あげた。
「そ、そなたら」
三人はなんとか悲鳴をこらえた。その男、デルコンダル王らしき人物は、やせ衰え、骨と皮ばかりになりながら、目だけが妙に光っていた。
「余を、楽しませてくれ」
王は、ぎらぎらした目つきであたりを見回した。
「なぜ、歌わぬ。なぜ、はしゃがぬ。道化はどこじゃ。病が入ってきてしまうではないか。おお、そなたらでよい。余を楽しませよ」
王座の後ろから、エルシノが現れた。
「ようこそ、デルコンダルの城へ。ご滞在はいかがだったかな」
「きさま」
エルシノは、黒い頭巾をゆすって笑った。
「デルコンダル王のご所望だ。王子方、せいぜいがんばって“象徴の獣”と闘ってくだされ!」
 いきなりロイは飛び出した。自分でも何が出来ると思ったわけではなかった。ただ、エルシノの僧衣をとらえて、強く引いた。
 次の瞬間、ロイの手の中で、僧衣が砕け散った。
「うわっ」
エルシノの黒いシルエットが崩れ、砕け、飛び散った。その破片がことごとく、赤い目のネズミと化すのをロイは見た。思わず剣を抜いたが、ネズミはやかましく鳴きながら、四方八方へ逃げ去った。
 鼠色の奔流が過ぎ去ると、城はまた、静寂に戻った。
「あんたのお気に入りの僧は、ネズミの化身だったみたいだな」
話し掛けたが、王は目を見開いたまま、何も言わなかった。ただ、骨ばった指をもちあげ、震えながらロイを指した。
「もういいんだ。あんた、だまされたんだ。あとは、おれたちがやる」
そう言ってやると、王の指は、ぱたりと膝へ落ちた。顔がやせて大きく見える目が、しだいに光を失っていく。
「もう、楽しまなくてよいのか」
 そうつぶやいて、デルコンダルの最後の王は目を閉じた。よく見ると王の片手は、玉座の傍らの小さな椅子の方へ伸ばされている。そこにはまだ色鮮やかな王女の衣装と、その下に埋もれるような小さな遺体があった。
 ロイは息を整えた。
「さあ、行くぞ」
「あの獣はどこ?」
「決まってる。闘技場だ!」