真珠白 9.第九話

 別れの朝は、すぐにやってきた。戦国時代から戻るときいつも感じるように、かごめは、ほっとするような、でも別れがたいような、複雑な気持ちだった。
 特に今度は、二度と会えない者たちとの別れなのだから。
 重ねうちぎの袖で、但馬は何度も目元をぬぐった。
「若様、どうか、どうか、ご無事で、お元気で……」
ほかの半妖の女房たちも、涙ぐんでいる。犬夜叉はどうしていいかわからないようすだった。
「あ、ええと」
かりかりと頭をかく。
「世話になったな。おれ……それと、ちびも」
ちび、こと小さな犬夜叉は、かごめの足にしがみついて離れようとしなかった。
「かおめ、しゃんご」
名前を呼んでは、み~み~泣く。
「ほら、男の子だろ?泣かない、泣かない」
珊瑚が顔をのぞきこんでそう言っても、ちび夜叉はもうべそをかいて、ぐしゃぐしゃだった。
 かごめは、セーラー服の胸ポケットから、用意しておいたものを取り出した。最初この世界へ巻き込まれたときにもっていたスーパーの袋に、それは偶然入っていたのだった。
「やちゃ、これをあげるね」
えぐっ、としゃくりあげて、やちゃはそれを見つめた。
「わんわん?」
それは、スーパーのマスコットキャラの、3センチほどのぬいぐるみだった。実は白熊なのだが、見ようによっては犬にも見えないことはない。
 やちゃは“わんわん”を受け取り、そっと鼻先にもっていった。
「夕べから、ずっと持ってたの。私の匂いがするでしょ?」
やちゃはこくん、とうなずいた。
「これ、あげるね。大事にしてね」
みい、と泣いてやちゃはぬいぐるみをにぎりしめた。そして、自分からかごめを放し、とぼとぼ歩いて、但馬の手につかまった。
 但馬は反対側の手でもう一度涙を拭った。
「さあ、皆様、こちらへ。お館さまがお待ちです」
そう言って歩き出した。
 あのあとかごめは、今度はどうやって帰ればいいのか心配していたのだが、お館さまは平然としていた。異なる世界を繋げる力なら、わしにもある、と。
「それなら、さっさと送り返していただきたかったですなあ」
弥勒などはそうぼやいたが、かごめは、ちょっとおかしかった。もしかしたら、あの族長は、今回の戦にことよせて、異世界、つまりかごめの住む世界の時系列から、犬夜叉と殺生丸兄弟を呼び寄せたかったのではないか。そして、その実力を知りたかったのではないか、と。
「子煩悩な妖怪がいるとしたら、あのひとかしら」
 春の館への渡り廊下を渡ると、秋の館のほうから殺生丸一行が出てきたところだった。見慣れた白い振袖に鎧をつけた姿だった。これが見納めとばかりに、秋の館の女房たちが熱い視線を送っている。が、どれだけ情熱を注がれても、彼はいつものように、冷たい表情を崩さなかった。
 りんは、小さな殺生丸と手を繋いで出てきた。どうやら彼はりんを守りぬいたらしい。陰では何かあったのかもしれないが、りんはとりあえず、危害を加えられたようすはなかった。小さな殺生丸が手を放すと、りんはまっすぐに保護者のところへ行って、ほっとしたような顔でその袂をぎゅっとつかんだ。小さな殺生丸は大人びた目をして微笑んだ。だが、少しだけ寂しそうだった。
 春の館の小姓が現れて、一行を寝殿の正面にある、桜の庭へ案内した。大樹の根元で、阿吽をつれた邪見が待っていた。その横に自分の自転車があるのを見て、かごめはほっとした。
「みな、そろったか」
寝殿の上から、族長の声がした。小姓たちが御簾を巻き上げ、館の主はゆったりと庭へ降りてきた。
「さあ、元の世界へ送ろう」
かごめたちは庭の真ん中に集まった。
 かごめは、そっと犬夜叉と殺生丸のようすをうかがった。殺生丸は超然としているし、犬夜叉は唇を噛んでうつむいている。もう一度、父親と永遠の別れをしなくてはならないのだから。
 だが、その父は、ふっと微笑んだ。
「わしも、まもなくこの結界ごと一族を引き連れて、もとの世界の元の時代へもどるつもりだ。もう会うこともあるまいよ。この期に及んで、おまえたちに何も言うことはない」
冷たいようには聞こえなかった。“わしは満足している”、と彼は言外に言っていた。“愛しい、そして、自慢の子らよ”、と。
 そして、息子たちではなく、別の人物に声をかけた。
「法師殿」
「はい?」
「別れの前に、ひとつだけ誤解を解いておきたいのだが」
「なんでしょうか」
「なぜわしが、一族の女を、子どもたちの母親に選ばなかったのか、と不思議がっていたな?」
「おや、聞こえておいででしたか」
「理由は、単純なのだ」
「はい?」
にやりと族長は笑った。
「惚れたのよ」
「へ」
「ろうたけて高貴な玉藻にも、けなげでかわいい十六夜にも、一目で恋に落ちた。あとのいろいろは、結果としてついてきただけなのだ」
いっそ男らしいと思えるほど、堂々と言い放った。弥勒は呆れ返り、それからうむうむ、とうなずいた。
「けっこうな御艶福、あやかりたいですな」
 しだれ桜が、いちだんと見事な桜吹雪を舞い上げてよこした。周囲は、薄紅の霞におおわれていく。
「別れだ。無事にもどれよ」
 まだ笑いを含んだ声がそういうのをかごめは聞いた。身体の芯が、結界を越えるのを感知した。エレベータの急降下のようなめまいを一瞬感じる。それが終わったとき、かごめは、自転車一台とスーパーの袋ふたつをもって、国道の横に立ち尽くしていた。

 母が何か、叫んでいる。真弓はプレイヤーを切って叫び返した。
「なあに~?」
「かごめちゃんよ」
真弓は時計を見た。夜の八時だった。
 玄関の門のすぐ外に、日暮かごめが立っていた。真弓が出ていくと、ぱん、とかごめは両手を合わせた。
「昼間は、ごめん!」
「ああ、あのとき?」
昼間スーパーから帰ってきたとき、かごめは急にいなくなってしまったのだ。もっとも、その直前に彼女のつきあっている男をみかけたので、たぶんいっしょだろうと真弓は思っていた。
「いいって、いいって。あたしだって、お邪魔する気はなかったし」
「あの、それで」
かごめはスーパーの袋を差し出した。
「これ、真弓のだよね」
「ああ、そうよ!買ったものがどうも足らないってお母さんが言ってたのよ。そっか、袋がひとつ、なかったんだ」
「少し、中のものを、開けちゃったの。買いなおして入れておいたから」
「ごめ~ん、気をつかわせたね」
「ううん、こっちがヘンな別れかたしたから」
へへ、と真弓は笑った。
「彼といっしょだったんでしょ、ん?」
「え~、じつは」
そのとき、かごめの後ろにいた人物が声をかけた。
「終わったんなら、いくぞ?」
犬夜叉とかごめが呼ぶ、彼氏だった。
「あら、なんだ、いっしょだったの?」
これはもう、明日学校に行ったらオハナシしなくては!真弓はかごめの後ろをのぞきこんだ。
 真弓の住む住宅街は街灯が少なくて、今晩のような月の出ない夜はかなり暗い。だが、かごめのうしろに、その“彼氏”がいるのが見えた。隣の家の玄関の電灯が、その半身を照らしている。
 前にあったときはどちらも和服だったので、ごくあたりまえの服装が帰って新鮮に見えた。脚にぴったりした細身のジーンズに、赤いトレーナー(こいつは赤が好きなのかもしれないと真弓は思った)、かかとを踏んだスニーカーというかっこうだった。
 たしか先日は神社でアルバイトをしていたようだったが、いつもはどこで何をやっているのか、いまだに真弓は聞き出せていない。ケンカ好きの暴力男だとかごめが言っていたので、どうも危ない系ではないかと想像しているのだが、そんなかっこうをしていると、どこにでもいる普通の……ちょっとやんちゃな中学生か高校生に見えた。
 ただ、本当にありふれたと言ってしまうには、どうにも攻撃的な雰囲気があり、同時に両手をポケットにつっこんでいる立ち姿が、奇妙なほど幼く、言ってみればおぼっちゃんふうな感じだった。
「『や』のつく団体さんの、エライ人の息子さんとか」
と真弓は想像してみる。
 その印象は、彼の長髪のせいかもしれなかった。女の真弓がうらやましいような、漆黒のストレートロングだった。
「このあいだ会った時と、髪の色違うね」
「ああ、これね」
なぜかあわてたようすで、かごめが言った。
「染め直したのよね、午後に。ね?」
「いろいろとうるさいからな」
軽く肩をすくめ、彼はぼそっと言った。
「腕のいい美容院知ってるのね」
「ええ、まあ」
「でも安心したわ。まったくのヤンキーかと思ってたんだけど、うるさく言ってくれる人がいるみたいね」
犬夜叉は、指を髪の中に入れて、かるくかいていた。
 真弓は想像してみる。黒いスーツのこわもてのおじさんたちがずらっと並んでお出迎えをする、だだっ広い日本家屋、とか。
「このあいだは聞きそびれたけど、おうちはどこ?家族はいるの?」
かごめは、あわてた顔になった。
「えっと、あの」
犬夜叉は顔を上げた。
「おれの、家?そうだな」
軽く首をかしげると、彼はぼそぼそとつぶやいた。
「おれが生まれたときに家が火事にあって、親父はそんとき建物の下敷きになっちまった」
おおっ、と真弓は色めきたった。いつぞや、再放送で見たその手の映画など、思い出してみる。では、一家の親分は亡くなっちゃってるのね?すると、若、なんて呼ばれてたりするの?ええと、親分の奥さん、ていうか、姐御は?
「じゃあ、母子家庭なんだ」
「いや、母親も病気で、もう、いねえ。親父の下についてた冥加ってじじいが時々来るぐらいかな」
まあっ、一家は離散寸前なのねっ。
「うわ……悪いこと聞いたかな。じゃ、血のつながった人はもういないの?」
「母親違いの兄貴がいるけどな」
あうっ、そうだったの!本妻さんに、ちゃんと若親分がいたのね。きっと虐待されてるんだわ。真弓はかごめの顔を見てしまった。
「なんか、壮絶ねえ」
かごめは笑いたいような、泣きたいような、ひきつった顔をしていた。
「真弓が想像してるより、もうちょっと壮絶かもね」
犬夜叉は首をかしげた。
「壮絶か、おれ?」
かごめはちょっと考えてから、首を振った。
「たまたまこうなっちゃったけど、そうじゃない可能性もあったんだよね?」
不思議な言い方だった。真弓は聞き返そうとして、やめた。
 かごめが恋人を見上げて、どこかうれしそうに微笑み、犬夜叉もまた、なぜか吹っ切れたような顔でかごめを見ていたからだった。