真珠白 1.第一話

 古い自転車のかごにスーパーの袋を入れ、ハンドルを押して、かごめは駐車場を歩き出した。国道に新しくできたスーパーの、今日はオープニングセールだった。にぎやかなCMメロディにあわせてマスコットキャラの着ぐるみが踊り、子供たちにポップコーンと風船を配っている。その横を通り過ぎたとき、後ろから名前を呼ばれた。
「かごめ~」
母と一緒に買い物に来たのだが、主婦の憧れ、タイムセールのつめ放題が始まるので、もう少し後で帰ると言っていた。声の主は、母ではなかった。
「真弓!え~、どうして?」
かごめと同じ制服の少女が、こちらへ走ってくる。
「うちも買い物よ、母親といっしょに」
追いついた真弓が言った。かごめは笑った。彼女も、スーパーの袋を持っている。
「うちのも、つめ放題やってくんだって。ねえ、途中まで一緒に帰ろう?」
真弓は小学校からの同級生で、家も近かった。
「いいよ」
 にぎやかな駐車場を出ると、とたんにあたりは静かになった。国道を車が往来するだけだった。もともとあのスーパーは倒産したゴルフ場の跡地に建てたものだったので、あたりはなにもない。
 学校のうわさ話、教師の話、進路のこと、昨日見たTVなど、とりとめもない話題で盛り上がって、かごめたちは国道沿いに歩いていた。
「あ、なつかしい、ぺんぺん草だ」
手を伸ばして、雑草をつもうとしたとき、かごめはくらりとした感覚をおぼえた。
「どうしたの?めまい?」
「え、ううん?」
そんなものではなかった。何かが結界を通り抜けたのだ。
「わっ、ちょっと、何あれ!」
むきだしの地平線から、真っ黒な群れがこちらへむかってなだれこんでくる。
 かごめはあわてて周囲を見回した。国道がなくなっていた。まわりから刺激的な匂いが漂っている。強い酸の匂いだった。草地も、森も、あちこちが酸に焼かれ、異臭を放っている。どんなに美しい土地であったかわからないが、そこはもう、岩の露出する荒野になっていた。
「結界を抜けたのは、あたしたちのほうなんだ……?」
狼狽した声で真弓が叫んだ。
「なによ~、ここ、どこ?」
かごめは思い出した。生まれて初めてあの井戸を通り抜けてしまったとき、やはりかごめも、ここはどこだと思ったのだった。
 だが、かごめの知っているあの時代ではない。少なくとも、楓の守る村の周辺とはようすがちがっていた。
「こんどはどこへ来ちゃったの」
「かごめ、どうしよう、あれ、こっち来るよ~」
少なくとも、見覚えのあるものがひとつ。巨大な化け物アリである。
 鎧のような黒光りのする体をてらてらと光らせて、アリの群れはこちらをめがけてやってくる。かごめはさっと手をあげて矢をとろうとして、唇をかみしめた。武器を持っていない……
 そのときだった。
「下がってな。あぶねえから」
 鋭い切っ先を持った幅広の巨大な剣が、ゆっくりと上がり、まっすぐに突き出された。ぶん、とうなりをあげて、使い手は巨大な剣を頭上高く掲げた。
真っ向上段、唐竹割りのかまえだが、使い手は筋骨逞しい大男ではなかった。背こそ高いが、骨格や、横顔の一途さ、幼さは、まだ少年だった。烏帽子をつけず、元結もなく、長い銀色の髪を背中にとき流している。剣道着ならば筒袖だが、少年が身につけているのは、大きな広袖に括り緒をつけ、上着を袴に着込めた垂り首の、しかも真紅の水干だった。
「犬夜叉?どうして」
「あ、あの子、かごめの彼?」
 やば、とかごめは思った。先日、まったくの偶然で、真弓をはじめ3人の友達が、かごめの部屋で犬夜叉と出くわしたことがあったのである。
 化け物アリの群れはふくれあがり、地鳴りをたてて襲ってくる。彼はただ一人群れの前に立ちはだかり、間合いを計った。
「くらえっ」
叫ぶと同時に大刀をふりおろした。竜巻が生まれた、と見えたのは、気のせいではないようだった。気圧が変わる。耳鳴りがする。次の瞬間、巨大アリの群れは暴風に襲われた小船のように、ばらばらに吹っ飛んだ。犬夜叉は大刀をふりきって、刃の陰でにやりと笑った。
 アリの、タンスほどもある足や胴体が、あたりに降り注ぐ。かごめは思わず、げっとつぶやいた。
「ちょっと~、どうなってるのよ」
真弓は泣きそうだった。かごめは覚悟を決めた。
「真弓、よく聞いて?すぐには信じられないと思うんだけど」
「えっ、なに、なに?」
「あの」
言いかけた瞬間、視界の隅で動くものがあった。空気がゆらぐ。まるで蜃気楼のように殺風景な国道とそのむこうの郊外型スーパーマーケットのバーゲンセールが見えた。
「真弓、そこっ」
えっと叫ぶ友達の体を、かごめは力いっぱい蜃気楼へと押しやった。一瞬の抵抗の後、真弓の体は異世界の風景の中へ溶けていった。
 ふう、とかごめはためいきをついた。
「大丈夫ですか?」
別の男の声がした。かごめはふりむいた。
「弥勒さま。なんだ、やっぱりここ、いつもの時代なのね?」
弥勒は、かごめの足元から、自転車を起こしてくれた。
「それが、違うのです」
鉄砕牙をおさめて、犬夜叉がやってきた。
「巻き込まれたんだよ、おれたちも。あっというまだった」
友達だけでも元の世界へ返してよかった、と、そのときかごめは、つくづく思った。

 真っ白な獣が、死闘している。
 巨大な犬の妖怪は、牙をむき出し、目を真っ赤に血走らせて、前足で化け物アリをたたき伏せた。大きさで言えば、犬のほうがはるかに大きい。しかも前足の爪からは、毒が滴り落ちる。それでもはてしなく押し寄せるアリの前に、犬妖は苦しんでいるようだった。
 ふさふさした美しい尾は、アリがたかり、酸を浴びて、ぼろぼろになっている。 失われた左前足は戦力にはならない。しかも、アリどもは切り口をめがけて殺到していた。
 ぐるるる、と犬妖の喉が鳴った。後ろ足を使って軽く上半身を浮かせ、右前足を一振りして、たかってきたアリを一掃してのけた。
「やめな、殺生丸!」
雲母の上から、大声で珊瑚は叫んだ。
「きりがない、逃げなよ!」
“きさまごときの指図は受けぬ!”
 人語にならない声が、脳の中で響く。珊瑚は軽く額を抑えた。
「あのおちびさんさえ治ればいいんだけどね」
珊瑚は眼下の森にうずくまる双頭の竜をのぞきこんだ。竜の前には、邪見が杖を構えてふるえながら立ちはだかっている。邪見は背中に、りんをかばっていた。
「痛いじゃろうな、かわいそうに」
七宝がつぶやいた。
「酸を浴びたからね。洗ってあげたいけど、この土地にきれいな水なんてあるかな」
雲母はもう一度上空へもどって旋回した。
「珊瑚、あそこを見ろ。弥勒と犬夜叉ではないか?」
珊瑚は目を凝らした。弥勒と、それから赤い人影がこちらへ近づいていた。が、犬夜叉は一人ではなかった。
「誰か、いっしょに来る。かごめちゃんじゃないか!」
珊瑚は雲母の背をそっとたたいて地面におろした。珊瑚が妖猫の背から飛び降りるのと、かごめが自転車を停めるのと同時だった。
「珊瑚ちゃん、いっしょだったんだ」
「うん、どじ踏んだよ。村のみんなを逃がすのがせいいっぱいだった」
「あれ、殺生丸?」
「かんかんになってるよ。りんちゃんがアリに酸でやられたもんだから」
「酸?」
かごめは自転車のかごから見慣れない白い袋を取り出すと、地面の上にいきなり袋の中身をぶちまけた。
「あった!安売りの石鹸……と、これは真弓のか。『南信濃の天然水』2リットルPET。ごめん真弓、あとで返すからね」
犬夜叉が口を挟んだ。
「何をするつもりだ?」
「りんちゃんよ。石鹸水で洗えば、酸は中和できるはずよ」
「じゃ、おれが邪見を抑えとく」
「よろしく!」
なにをするか~、とわめく邪見を犬夜叉に任せかごめはりんの手当てに来た。酸を浴びた腕と脚が、痛々しく赤くなっていた。
「今、拭いてあげるからね」
ペットボトルの水で石鹸を少し溶かしてハンカチにしみこませ、そっと体をぬぐう。ぐったりしていたりんは、ぴりぴりする感覚から開放されて、ほっとしたような表情に変わった。
「おい、殺生丸」
巨大な化け犬に向かって、犬夜叉は大声で叫んだ。
「おまえんとこのちびは無事だぞ。だから、やめろ!」
真っ赤な目が、じろりとこちらをにらんだ。
 犬夜叉はりんを抱え揚げ、化け犬に向かって差し出すようにした。
「ほら、連れてけ!」
巨大な犬はすばやく身を翻してやってきた。無言のまま、車ほどもある頭をさげた。その首の後ろに、犬夜叉はりんを乗せた。
「しっかり、つかまれ」
「はい」
“邪見、来い”
低い声が響くと、邪見はあわてて阿吽の背に乗って舞い上がった。
「お待ちください、殺生丸さま」
そのときはもう、巨大な白犬は風に乗って遠ざかっていた。
「おれたちも行こう。ここはもうすぐ、アリにやられる」
雲母の背中の上から、弥勒が声をかけた。
「兄上殿を、追いかけましょう」
犬夜叉は走りながらけっとつぶやいた。
「冗談じゃねえ。誰がつるむか!」
「この土地は、私たちの時代とは違うのですよ。安全なところを探さなくてはなりません。兄上殿なら、あのお嬢さんのために、絶対そのようなところを見つけるはずです」
前方を行く雲母が、高度を下げた。
「兄上殿が、降りるようすですよ」
かごめは自転車の速度をあげた。
 アリがまだわいていないらしい草原が延々と続く。だが、どこまで行っても田んぼや畑と言った、人工的な土地がない。戦国時代の日本をうろうろしてきたかごめにとっても、これほど人手の入っていない土地は珍しかった。
 小さな林を抜けると、そこから一気に視界が開けた。高めの丘の上にいるらしい。はるか下には緑の滴るような草原が広がり、その中へ巨大な白犬と双頭の竜が着陸しようとしているところだった。
「あの野郎、焼きが回ったか!」
犬夜叉がつぶやいた。
「あんなとこ降りやがって、隠れるところひとつねえじゃねえか。どうなってんだ、弥勒?」
「私にもわかりません……が、あれはなんです?」
「あ?」
弥勒が指差しているのは、草原の地平線に近いところに立っている、大きな屋敷だった。大きな門の両側に塀が続いているが、あまりにも広大で、塀の曲がり角が見えない。
「大きな家じゃな!」
自転車の前のかごの中から、七宝が顔を出してそう言った。
「こっちへ来て、家と名が付くもんは初めてだ」
雲母の上から、珊瑚の声も聞こえてきた。
「土地の殿様か、名主か。行ってみましょう、犬夜叉」
犬夜叉は黙っていた。
「どうしたの、犬夜叉?」
「いや」
犬夜叉は腕を組んだ。考え込んでいるようすだった。
「あれ、見たことがあるような気がする」
「あれを?!」
かごめは驚いた。
「とにかく行ってみようぜ」
前足の先に炎を生じて、雲母が飛び出した。
「なら、早く行こう。あそこ見て!アリが来てるよ!」
「もう群れが来たの?」
かごめはあせった。
「さっきより小さい群れだけど。でも、何かが防いでる。あれ、犬だよ」
「犬だぁ?」
走りだした犬夜叉が聞き返した。珊瑚は目を凝らした。
「うん。白地に黒いぶちの。ここからでも見えるんだから、あれ、そうとう大きいんだ」
犬夜叉たちが近づくに連れて、その犬の大きさは明らかになった。殺生丸よりひとまわりほど小さい程度である。どう見ても、化け犬だった。
「おい、殺生丸!」
そう声を掛けたのが合図ででもあったかのように、白い大犬の姿がふっとゆらいだ。白い色彩がみるみるうちに縮んでいく。一瞬の後、振袖姿の美しい若者がそこに立っていた。追いついてきた異母弟を見て、彼はかすかに秀麗な眉をひそめた。
 犬夜叉はずかずかと近寄った。
「おい、あれは、もしかして、まさか」
「そのまさかだ。だったら、どうする」
「どうって、おめえ」
切羽詰ったように犬夜叉は、前方の屋敷と、その手前にいるアリと化け犬、そして兄を見比べた。
「助ける!」
じろ、と殺生丸はにらんだ。
「てめえに助けてくれなんぞと言ってねえよ。おれがやる」
「待て」
「なんだよ」
「私も行く」
「珍しいな。おめえが人助けか。雪が降るんじゃねえか?」
弟の軽口を聞き流して、殺生丸が走った。瞬間的に長剣を鞘走らせていた。
「あっ、待てこら」
犬夜叉が後から飛び出した。
 アリの群れに襲われていたぶち犬が、ついに一声鳴いて、がくりと前足を折った。そのままおびえたように後ずさっていく。あの不思議な屋敷へ逃げ込もうとしているようだった。だが、アリたちが回りこんできた。
 犬夜叉はぶち犬とアリの群れの間に飛び込んだ。ぶち犬はぼろぼろにされ、肩で荒く息をしていたが、赤い小さな人影を見て、目を見張った。
「おめえ、逃げろ!」
そのぶち犬に向かって肩越しに言い放ち、犬夜叉は鉄砕牙をかまえ、斜め下から上に向かって、虚空を一気に切り裂いた。アリの群れは衝撃波に襲われて大きく後退した。
 その群れに、殺生丸が襲い掛かった。刃うなりのするたびに、アリの群れが飛び散っていく。その絶大な威力に、かごめは改めて身震いした。
 そのときだった。ほかの個体の陰に隠れて剣圧をやりすごしたアリが一匹、顎を大きく開いて飛び出してきた。すばやく地を這うようにして、射程距離から逃れた。ちっと殺生丸がつぶやいた。
「いけない!」
かごめは叫んだ。この化け物アリは、一匹でも逃すと女王アリを呼ぶ。そのとき犬夜叉が気づいた。
「逃がすかよ!」
正面から飛び上がり、硬い殻に覆われた背中を狙った。邪魔者に向かって、アリの前足が高々と上がる。その爪が犬夜叉の袖を深く裂いた。
「くそっ」
おかげで狙いはわずかにそれた。が、鉄砕牙はアリの首を宙へ切り飛ばしていた。
「ふう」
かごめは息を継いだ。はらはらさせてくれる。荒々しいのが犬夜叉の本性の一部だとは知っていても、時に傷だらけになり、血と化け物の体液にまみれるこんな闘いには、いつまでたってもかごめは慣れなかった。
 今も犬夜叉は、左腕で右肩をおさえていた。
「大丈夫?」
かごめが近づくと、けっと彼は笑った。
「あいつ、爪でひっかけやがった。大丈夫だ。こんなもん、ケガのうちに入らねえよ」
「でも手当てしないと。さっきのスーパーで、お徳用の消毒薬買ったのよ」
気がついてかごめはふりかえった。大きなぶち犬ががっくりと草地に横たわっていた。
「あの、手当て、しましょうか?」
化け犬の目がかすかに開いた。赤い目だった。
 その色が急速に薄れていく。かごめと犬夜叉の眼の前で、ぶち犬は人間の姿に変化していった。人間で言えば20代か30代の男で、素襖姿に刀を佩いている。けっこう、身分の高い武士のようだった。
 まだ、立てないようだったが、必死で上体を起こそうとする。男は言った。
「半妖、そなた、何者だ?」
なにやら、ひどく驚いているようすだった。
「その姿、半妖であろう。にもかかわらず、……しかも、今しがた使うたのは、鉄砕牙ではあるまいか」
犬夜叉は腰の刀に片手を伸ばした。
「こいつを、知ってんのか」
「我が一族の長の愛刀を、知らぬはずがあるまい」
「一族?じゃ、やっぱり」
男はあっと叫んだ。
「あ、あれは、あの方は」
男の眼は、群れを掃討してきた殺生丸に釘付けになっていた。
「殺生丸だよ。おれの、腹違いの兄貴」
男は泣きたいような、笑いたいような、妙な顔になった。
「北の方様を男にしたようだ。殺生丸さまか、あれが……では、そなた、いや、あなたは、犬夜叉さまか」
と、男は言った。