ちいさいやちゃのお話 第三話

 小さいやちゃの宇宙はとても狭く、大好きなものばかりでできていた。
 たとえば、ととさまの匂い。大きな手。ふわふわの、もこもこ。
 ついさきほどまでそばにあったそれは、どこにいったのだろうか。ちいさいやちゃは、昼寝から目を覚ました。天井の高い大きな寝殿の、几帳の中だった。
 夏の館……亡くなったかかさまの住まいであり、小さいやちゃが生まれてからずっと住んでいる建物とは、匂いや、気配、音が違う。
 ぴく、と小さな犬耳が動いた。とてつもなく大勢の人々がどこかに集まっている。ただならぬその気配。
 よたよたとやちゃは褥を降りて、几帳の中から這い出した。ぺたんとおしりをつけてすわり、周囲を見上げた。巨大な板敷きの間だったが一人の女房もいない。そのかわり、大きな櫃や錦の袋が部屋中に積み上げられていた。
 庭との境は、大きな布……御簾でへだてられている。小さいやちゃは、そのはしっこをお手々でつまみ、よいちょ!とめくって頭をつっこんだ。

 大犬の一族が住むこの広大な結界、「院」のいたるところに、今夜は煌々とかがり火が焚かれている。侵入してきた賊の潜む場所がないように、そして警備に当たる一族の兵士たちが院全体に目を配ることができるように、かがり火はいくつも配置されていた。
 春の館の主庭園には武装した一族郎党が集合していた。手に手に得物を持ち、油断なく身構えている。庇の間には一族の長老たちが陣取り、その中央に一族の長が姿を見せたところだった。
「よいか、賊は今宵から払暁にかけてこの院に侵入する、と予告してきている」
朗々とお館さまは言った。
「そして、“この院で一番たいせつなものを盗み出す”と」
敵対している一族からの、挑戦だった。現に院の総玄関の先には、軍勢が集まって雄たけびをあげている。
「これよりわれらは合戦に及ぼうと思う。だが、いくら戦に勝っても、賊に宝を奪われてはこちらの負けだ。よって、兵の半数を館に残し、守りとする。以上!」
おう、と一族が声を合わせて叫んだ。
「父上」
細く高めの少年の声が呼びかけた。お館さまはふりむいた。6~7歳くらいの童子だった。
「私も戦にお連れくださいませ」
「殺生丸」
お館さまは、少年に微笑みかけた。
「ならぬ」
「私はもう、戦うことができます!」
「それは知っているが、さきほど言うたのを聞いていたであろう。こたびの戦は守りが肝要だ。ご覧」
お館さまは、背後の御簾を指差した。
「我が一族代々の宝物や、敵から奪ったものなどは、みんなこの春の館の寝殿に集めてある。おまえはここにいて、守りに務めておくれ」
「ですが」
殺生丸がそう言いかけたときだった。父子は同時に背後の御簾の下のほうへ視線を向けた。
 片隅がめくれ、1~2歳くらいの幼い子が顔を出した。庭に集まっていた兵士たちが、どよめいた。半妖の仔だった。
 赤子の着る一つ身の着物の脇を紐で結び、袴もまだつけていない。眠っていたところを起きてきたらしく、手の甲にえくぼのある小さな手で目をくしゅくしゅとこすっている。見るからに柔らかそうなほっぺたをしていた。
 半妖でありながら、一族の最高位の血統を受け継いだ証として、白銀の髪がふさふさと生えている。その中に、三角の子犬の耳がふたつ。庭のざわめきをとらえているのか、時々ぴくん、と動いた。
 寝起きで機嫌の悪そうな口元は、きゅっと結ばれ、おでこにはかわいいしわができている。金色の瞳が、父を見つけた。
「ととしゃま!」
幼い子は一生懸命立ち上がり両手をあげて抱っこをせがむかっこうになった。
「起こしてしまったか」
優しく笑って館の主人は半妖の仔を抱き上げた。
「お館さま!」
庇の間に控えていた長老の一人がしかりつけるように声をかけた。
「まだそのようなものをおかまいなされているとは!とっくに都へ送り返してしまわれたかと思っておりましたのに」
「ああん?」
高い高い~と人目をはばからず、長は幼い子をあやしている。
「十六夜の実家へ遣れと申すか?冗談ではない、誰が渡せるものか。こんなかわいい子を。なあ、犬夜叉?」
父の言葉を理解しているかのように、赤子はうれしそうに笑った。ほっぺのお肉が盛り上がり、なんともかわいらしい笑いじわをつくっている。
 長老は、うそ寒いような顔になった。
「『犬夜叉』と、名づけなされたか」
「おお。良い名だろう」
一族を象徴する“犬”の一文字を名乗りに加えることを、この長は溺愛している長子にさえ許してはいなかったのだ。
「わしの、宝だ。一族の財宝など、欲しければ誰なりとくれてやる。が、殺生丸とこの子が奪われては、生きてはいかれぬよ」
長老は不承不承うなずいた。
「ですが、そろそろご出陣の刻限でございますが」
「そうか、しかたないな」
父の腕から、下へおろされると、小さな犬夜叉はみっ、と鳴いた。ぺたりと庇の間にすわりこみ、両手で父の袴のすそをつかんでひっぱった。
「み~、み~」
春の館の庭先を埋めた一族郎党が、心中ひそかにうめいた。犬の一族には、同族の幼い個体を保護してやりたいという強烈な欲求がある。大きな目に涙をたたえ、かわいい手で必死に衣をつかんでいる小さな犬夜叉の姿には、保護欲を刺激するのに十分すぎる力があった。
「こらこら」
世にも過酷な試練にあっている顔で、一族の長は小さな体をつかんでひきはなそうとした。
「び~!」
「これはたまらん……頼む、殺生丸」
殺生丸少年は膝で進み、ひょいと弟の脇腹を両手で抱えて自分の膝に乗せてしまった。
「父上はお出かけだ」
まだ乳の匂いのする柔らかい生き物を膝に抱え込むと、ちょうど子犬の耳が顔にあたる。
「だから、この兄といっしょにここでお留守番をするのだ」
みぃ?と小さな犬夜叉は考え込んだ。が、すぐに兄の右肩にかかる毛皮にじゃれついた。すっかり機嫌が直ったようだった。
「あに様の言うことをよく聞いて、お利口にしておいで」
「み~」
苦笑して一族の長は立ち上がった。
 小さいやちゃの宇宙は、まだとても狭く、大好きなものばかりでできていた。半妖の運命も身分も知らず、ひどく無邪気に彼は笑う。なんとも幼く、かよわく、しかし絶大な 威力のある笑顔だった。