ちいさいやちゃのお話 第一話

武蔵の国、某月某日

 真紅の大袖の中に指を入れ、さっとかざして犬夜叉は顔を覆った。できるだけ吸い込まないようにしたが、妖力を秘めた火鼠の衣でさえ、その瘴気を完全にさえぎることはできなかった。
「くそっ……」
 目がちかちかして、めまいまでしてくる。手も足も出ないもどかしさに、犬夜叉の顔が口惜しそうに歪んだ。
 強敵だった。
「でも、あの中に小さい犬夜叉がいるのだ!」
自分も袖で鼻と口を覆って、小さな殺生丸が叫んだ。
「助けに、行かないと」
体を低くして突っ込んでいこうとするのを、犬夜叉はあわてて止めた。
「バカ、おまえが行ってどうすんだ。おれでさえ、これだけこたえてんだぞ」
続きは言うまでもない。小さい殺生丸は、こらえきれずに地べたに膝をつき、苦しげに喉を押さえている。
「でも!」
せつなげに、口惜しそうに、小さな殺生丸はその小屋を見つめた。
 それはもともと、楓の住む小屋だった。このところ、事情があって、犬夜叉一行はこの村の楓の小屋を根城にしている。それがどうしたものか、突然いてもたってもいられないような瘴気に包まれ、犬夜叉たちを寄せ付けなくなってしまったのだった。
「あの子は、まだ小さいのだ!きっとひどいことになっているに違いない」
人間で言えば7,8歳くらいの殺生丸は、一生懸命訴えた。あの子、というのは異母弟の小さな犬夜叉のことで、2歳前後の幼児、ただし犬耳、尻尾付き、に見える。
「だからって」
ためらう犬夜叉の前に進み出た人影があった。
「やめろ、殺生丸」
大きな殺生丸だった。右手のたもとがあがり、やはり鼻から下を覆っていた。
「ほうっておけ」
「ずいぶんと、冷たいじゃねえか」
見たところ19歳と14歳くらいに成長した兄弟は、つかの間、にらみあった。
「小さいほうのおまえはたぶんろくでもないことをしでかしてこうなったのだろう。自業自得だ」
「なんだと?!」
さっと鉄砕牙に手をかけたとたん、犬夜叉はげえ、と叫んで草地に転がった。ごほごほとせきこんだ。
「やはり、私が」
小さな殺生丸は這うように動き出した。その体をさっと大きな殺生丸が肩に抱え挙げた。
「放してっ、だめだっ」
「あきらめろ」
逃れようと必死で身をよじりながら、幼い殺生丸は大きな目に涙を湛えて弟を捕らえている小屋のほうへ手を伸ばし、叫んだ。
「犬夜叉~!」

武蔵の国、それより数日前

 チェック柄のハンカチを広げると、中から正方形のシールウェアが出てきた。中身が漏れ出さないように、ゴムパッキンのついたプラスチック容器である。かごめは蓋をはずした。かごめの母の手作りのラズベリームースが入っていた。横から見るときれいなピンク色だが、表面はダークレッドになっている。
「これは、血のような色じゃが、食えるもんじゃろうか」
かごめはスプーンでひとさじすくい、七宝に差し出した。
「おいしいわよ。甘さは控えめだけど、いい生クリーム使ったって、お母さん言ってたわ」
ぱくん、と食べてみて、七宝はうなずいた。
「これは美味いもんじゃ」
自分でスプーンを取り、顔中クリームだらけにして食べ始めた。
「かごめの持ってくるものは、いつも不思議じゃなぁ!甘くて不思議で美味いものが多い国なら、おらも行ってみたいもんじゃ」
「そんなにいいことばっかりじゃないわよ?」
「“てすと”とやらか?じゃが、せんにもってきてくれたちょこぷりんがたくさんあるのなら、おらはがまんするぞ」
楓が土間からあがってきた。
「そこらへこぼすでないぞ?」
「だいじょうぶじゃ!」
 以前、甘いものを持ってきたとき楓にもすすめてみたのだが、あまり受けないようだった。だが、缶入りの日本茶は喜んでくれた。今日もお茶を渡すと、押し頂いて受け取ってくれた。
「いつも、すまんの」
「いえ、こちらこそ」
素朴な茶器で楓は自分とかごめにお茶をいれてくれた。香りを楽しむように捧げて口元に運ぶ。殺伐とした時代だが、楓の村はどこかほのぼのとしていた。
 みゅう、という声がした。七宝ではなかった。小屋の隅で寝ていた、小さな子供が目を覚ましたのだった。
「かおめ~」
ちび夜叉こと、小さな犬夜叉だった。目をこすりこすり起き上がり、よちよちとかごめのほうへ寄ってきた。
「やちゃ、お昼寝してたのね。いい子」
ちび夜叉は、ぺたんとかごめの膝に体を押し付けた。
「やれやれ、あいかわらずだね、その子は」
ため息混じりに楓が言う。かごめは苦笑した。若くて美人のお姉さんが大好きなちび夜叉は、どうも楓を敬遠しているらしい。
 小さな犬耳がぴくっと動いた。
「あままいの?」
ラズベリームースの匂いをかぎつけたらしい。
「ええ?そうよ。甘いの持ってきたわ」
ぱっとちび夜叉の顔が輝いた。まだ短めのしっぽが、床板をぱたぱたとたたいた。
「七宝ちゃん」
そこでかごめは絶句した。子狐の妖怪は、プラ容器を抱えてそろそろと逃げ出すところだった。
「だめよ、ちゃんと半分こにしないと!」
「きゅう!」
ちび夜叉が抗議の声をあげる。あわてて追いすがろうとした。七宝は非常手段に出た。プラ容器に半分ほど残っていた赤いムースを、いきなり口の中へ押し込んだのである。
「むぐ、むぐぐ」
「ちょっと、七宝ちゃん、大変」
「水、みず」
 かごめと楓はあわてて立ち上がった。が、ちび夜叉は呆然としていた。大好きなかおめがもってきてくれた“おやちゅ”。いかにも甘い、いい匂いのする美味しいものが、眼の前で消えてなくなってしまった。
 これは、悲劇だ……わなわなとちび夜叉はふるえた。ぺたん、とすわりこみ、あうあうと口だけが動く。
「やちゃのは?やちゃの、あままいのは?」
やっと口にした訴えも、優しく退けられてしまった。
「あ~、ごめんね?今度また、持って来るからね?」
小さな犬夜叉がうわ~んと泣き出した。
「おらのせいじゃないぞっ」
真っ赤な袖をぱたぱたさせ、泣きながらちび夜叉は七宝に向かっていった。七宝はムースの入っていた容器を放り出してさっと逃げていった。
「けんかしないの!」
ちび夜叉はまだいい匂いのついているプラ容器を見つけ、くすん、とすすり泣きながら、小さな両手で口元へ運んで、鼻をつっこんだ。ぎゅっと目を閉じてがじがじと容器をかじっている姿は、ちび夜叉にはかわいそうだが、とてもかわいい、とかごめは思った。

東京都郊外、実は数百年後

 日暮家の主婦は、空っぽの容器を見て、不思議に思った。
「これ、歯型かしら?」
かごめはくすくす笑った。
「不器用な仲間がいるのよ」
 少々不思議なところに泊りがけででかけ、なかなか不思議な事情にかかわっている長女に、変わった仲間がいるときいても、かごめの母はそれほど驚かなくなっていた。
「穴があいているわけじゃないから、いいわ」
「よかった。ごめんね、お母さん」
かごめの母は、歯型つきのいれものと大きな重箱をていねいに洗って水切りかごに伏せた。
「でも、みんな食べてくれたのね?」
かごめは大きくうなずいた。
「大人気だったよ。ゆで卵の入ったミートローフなんて、とりあいだったもの。それから、鳥とにんじんとサトイモの煮物、いつもどおりにおいしいって。絹ざやを散らしてあるのが、とってもきれいに見えるって珊瑚ちゃんが言ってた」
 かごめの母は微笑んだ。娘に持たせる重箱入りの弁当の中身を考えるのは、彼女のひそかな喜びになっている。日暮家の台所は、古くて広い台所にシステムキッチンをいれたもので、料理の好きな主婦としては腕を振るってみたくてたまらないところだった。白く輝くカウンタートップの上のタイル壁には、もちろん日暮神社のお守りが貼ってある。
 エプロンの肩ひもをちょっと直し、菜ばしを採り上げた。
「今度はどういう趣向にしようかしら」
「このあいだの中華風のは?おいしかったよ?」
「和風じゃないとだめかと思ってたんだけど、意外だったわよねえ」
「ほんと、ザーサイが受けるなんてね」
かごめの母は、大型の冷蔵庫を開けて中身を調べた。インスピレーションが沸いたのはそのときだった。
「流行の韓国風はどうかしら」
「チャプチェとか、チヂミとか?」
「それと、密封できるものに、薬味につけたお肉をいっぱい入れてあげるわ」
「うん、戦国(あっち)で焼肉パーティやる」
じゃあ、タレは自家製のを作ってゆずの皮をたくさん刻んで入れて、と、かごめの母の頭は忙しく働き始めた。冷蔵庫を開けたかごめが何か言っているのは、上の空である。
「お母さん、これももってっていい?」
「え、あ、いいんじゃない?でも漏れるとたいへんだから、これに入れてね」
深く考えもせず、歯形のついたプラスチック容器を差し出してそう言っただけだった。

武蔵の国、かごめの感覚では、その次の日

 焼肉パーティは最初から盛り上がり、最後までにぎやかだった。犬夜叉や七宝はじめ妖怪系の仲間たちは、肉食にまったく抵抗がなかったし、弥勒も珊瑚も眼の前でじゅうじゅう音をたてる焼肉には興味をもってくれた。
 ただ、楓の村のみなさんには、天をも恐れない所業に見えたらしく、めちゃくちゃ避けられてしまった。
「仏教の教えでは、こういう系統の肉食は禁止されていますからね」
「そういう弥勒様はどうなの?」
「はっはっは」
村はずれの空き地で真昼間、焚き火を燃やし、持参の鉄板をかんかんに焼いて、盛大に煙をあげていたころ、ちいさな犬夜叉は一人、楓の小屋にしのびこんでいた。
 ちび夜叉は、見てしまったのだった。かおめがリュックの中からいそいそといろいろなものを取り出していた。大小いろいろなものが出てくる中に、アレがあった。
 先日、七宝に先を越されて食べ損ねたおいしい“あままいもの”の入っていた箱だった。観察したところ、色も同じだった。どうやらかおめは、もう一回アレを持ってきてくれたらしい。それはどう考えても、自分、やちゃのためにちがいなかった。
 どうせもらえるなら、少し早めに食べてもいいのではないだろうか。また七宝に横取りされてはたまったものではない。ちび夜叉はそう判断して、楓の小屋から人が出払ったのを見澄まし、そっと中へ入り込んだ。
 その入れ物はリュックのそばにおいてあった。ちび夜叉は舌なめずりをした。きょろきょろとまわりを確かめて、近づいてみた。このあいだと、だいたい、同じ色だった。なんか混じっているような気もするが、あまり気にしないことにした。
小さな手で赤い容器を抱え込み、ふたのはじっこをくわえ、ちび夜叉は一気にむしりとった。そのまま鼻をつっこもうとした。
 その瞬間、瘴気が襲った。
 すさまじい匂いがちび夜叉の鼻から入り込んでつーんと抜けていく。目がちかちかして、げほげほと咳き込んだ。ちび夜叉は鼻を押さえてのたうちまわった。

 かごめは、小屋に近づいて、不思議に思った。犬夜叉と殺生丸、それに小さな殺生丸が、雁首そろえている。
「どうしたの?」
「どうって、おめえ、何も感じねえのか?」
かごめは首をひねった。邪気らしきものは、まったくない。
「ほら、あの小屋だ」
「小屋?あっ……」
かごめが取りに来たプラ容器の中身の匂いが小屋から漂ってくる。
「誰か、あれを開けたわね?」
そんなことをするやつは、七宝かちび夜叉のどちらかだった。かごめは板戸を引いた。
「やちゃ!」
かごめのリュックのそばに、やちゃがひっくり返っていた。案の定、そばには強烈な匂いのするキムチの容器があった。汁がこぼれていないことに安堵して、改めて、しっかりと蓋をしめた。
「かおめ~」
ひいひい泣きながら、やちゃがすがりついてきた。
「もうっ、勝手に開けちゃだめじゃないっ」
小さな顔をかごめの胸に押し付けるようにして、やちゃは泣きじゃくっていた。涙を振り飛ばし、下唇を前へ突き出すようにして、ひどく憤慨して泣いている。
笑いをこらえてかごめはちび夜叉をなだめた。
「ああ、よしよし、かわいそうだったのね」
「えぐ……えぐ」
後ろで戸が開いた。おそるおそる犬夜叉がのぞきこんでいるところだった。
「大丈夫。なんでもないのよ」
かごめはてのひらで、そっと頭をなでていた。かわいそうなのだが、すごく、かわいいのだった。
「たぶん、一生、忘れないからね」
 翌日、かごめはもう一度、必死で笑いをこらえることになる。かごめがプラ容器を持ち出したとたん、それは本当になんでもない無臭の入れ物だったのだが、大あわてでちび夜叉が逃げていったからだった。