真珠白 3.第三話

 先触れが館にもどってきたので、但馬(たじま)はよっこらしょ、と腰をあげた。院の中の夏の館から、小さな、人間で言えば1,2歳くらいの幼い主人を昼寝から起こして、春の館まで挨拶に連れて行かなくてはならない。
 やんちゃでわんぱくで、ちょろちょろと落ち着きのない子は、まことに面倒なのだった。もっとも、手のかかる子ほどかわいいというのも道理にはちがいなく、乳母の但馬をはじめ、夏の館の女房たちは、みなこの小さな半妖をかわいがっていた。
 まだ眠そうに目をこする小さな若様……犬夜叉の手を引いて、但馬と夏の館の女房たちは春の館へやってきた。
 春の館の東の対は、この院の総玄関に隣接している。車宿りの向こうから物音が聞こえてきた。お館さまが一族郎党を引き連れて他出からもどってきたらしい。東の対の庇の間に但馬は犬夜叉を連れてきて、顔が映るほどよく磨きこんだ床に座らせた。
 もちろん、さきに、秋の館の主、殺生丸少年が来ていた。実際の年齢はともかく、7~8歳くらいの童子の姿である。だが、子供らしからぬほど端然と、姿勢よくすわっていた。後ろには唐津(からつ)をはじめ、権高い女房たちが控えている。ややぐずりぎみな犬夜叉を見て、唐津以下真妖の女房たちは、冷笑を浮かべた。
「お館さまが、お帰りになりました」
表のほうから声がかかる。館に仕える女房たちは、一斉に手をつき、頭を下げた。やがて廊下の上に、館の主が姿を見せた。いつ見てもうっとりするような殿ぶりで、但馬でなくても、館に勤める女房たちはどきどきする。
「ととしゃま?」
小さな犬夜叉は、大好きな父を見上げて、うれしそうに笑った。
きちんと正座していた殺生丸が、弟を手招きした。
「おいで、ご挨拶をするから」
そして、父に向かって、三つ指をつき、ていねいに頭を下げた。
「お帰りなさいませ」
その横にちょこんとすわった犬夜叉が、自分も兄のまねをして、紅葉のような手をついておじぎをした。きれいに形の決る兄にくらべてなんともぶかっこうだが、たいそうかわいらしかった。
「今、もどった。大事無かったか?」
「ようすを見にまいった栂ノ尾が、まだもどっておりませんが」
「栂ノ尾なら、連れて帰ってきたぞ。ご苦労だった、殺生丸」
それから、片手を差し伸べて、何かを取り除くような仕草をした。
「おまえに、お土産だ、犬夜叉」
きゅ、と幼い子が叫んだ。
「かおめ?」
お館さまの後ろに、数人の人間が立っていた。そのなかに、見慣れない服装の娘がまじっていた。
「また会えたね!やちゃ、元気だった?」
わああああん、と声を上げ、小さな犬夜叉はその娘に向かって突進した。
「かおめーっ、かおめ、かおめっ」
かおめというらしい娘はしゃがみこみ、笑って男の子を抱きしめた。
「ひさしぶりね」
それではこのおなごが小さな犬夜叉様の恋しいお方らしい、と但馬は思った。 いつぞや兄上様と出かけて以来、とつ国の巫女だというかごめ様をとにかく恋い慕い、泣いて泣いて、手がつけられなくなっていたのである。今も両手でしがみつき、涙と鼻水とよだれがいっしょくたになった顔をさかんにかごめ様の服にこすりつけて甘えていた。
「いいかげんにしろよ、ちび?」
かごめ様の後ろから、若い男が声を掛けた。
「いいじゃない、久しぶりなんだから。大目に見てあげてよ」
「だってよ。あ~あ、ばっちいな、こら」
但馬はぞくりとした。
 お館様によく似た目といい、一族の最高位を示す髪といい、身にまとう真紅の水干……火鼠の皮衣といい、なによりも半妖の耳が彼の素性を語っていた。
「もしや、犬夜叉様で?」
思わず但馬が叫んだ。彼は、きょとんとした顔でこちらのほうを見た。
「驚いたか、但馬」
お館様が、うれしそうに声を掛けた。
「そなたも聞いたであろう。小さな殺生丸が会った、成長した犬夜叉。連れてきたぞ」
但馬のうしろで、夏の館に仕える女房たちがざわめいた。
「うちのやんちゃな若様が、こんなに立派に、お育ちになるのですか……まあ、なんて」
そのあとを但馬は続けられなかった。胸が、いっぱいだった。半妖のお子のことを最後まで心にかけていらした十六夜の方様にひと目お見せしたかった、と思った。
「この子と、お連れは、但馬、お前に任せよう。夏の館でおもてなししておくれ」
但馬は頭を下げた。
「かしこまりました」
お館様は、もう一度、悪童めいた笑顔になった。
「唐津、秋の館にも客がある。わかるか?殺生丸だ」
ひっ、と音を立てて、秋の館の筆頭女房が息を飲み込んだ。唐津は、堂々とした一種の美人で、いつも人を見下したような目をして何事にも動じないのだが、今は目を見開き、唇をわなわなと震わせていた。
 お館様が半歩後ろへ下がると、但馬の目にも、唐津が見ている人が見えてきた。とっさに、北の方、と但馬は思った。あきらかに男性だが、かつて秋の館の女主人として君臨した、九尾の大妖狐にそっくりだった。
 小さな殺生丸が、もう一人の自分を見上げた。
「また会えたようだな、殺生丸」
「そうらしいな」
高低の差はあれ、同じ声だった。少年は、唐津に命じた。
「西の対を開けておくれ。お客様だから」
唐津は、やっと正気に戻ったようだった。顔が赤くなっている。今までうっとりと成長した殺生丸に見とれていたのだった。
「あ、ただいまご用意いたします」
「私がうつるのだ、唐津。北の対は、明け渡す」
少年がそういうと、美しい貴公子は、かまうな、とつぶやいた。
 春の館の小姓や女房たちが先ほどから主を待って集まっている。お館様は、一族を見回した。
「もっと遠くへ出した物見が、そのうち帰ってくるであろう。戦評定はその後とする。それまでは、みな、休むがいい」
女房たちはうやうやしく頭を下げ、主人が春の館の奥へ入るのを見送った。

 犬夜叉はものめずらしそうにあたりを見回している。
「やっぱ、見たことあるかな」
「自分の家なんでしょ?」
かごめがいうと、犬夜叉は首を振った。
「俺の家は死んだおふくろの親戚のはなれだった。ここで育ったわけじゃねえ。でも、一回ぐらい、来た事があるのかな。見覚えがあるんだよな」
抱きついて離れようとしないちび夜叉を抱き上げて、かごめは廊下を歩き出した。つるつるとして、靴下だと歩きにくかった。但馬、と呼ばれた、人の良さそうなおばさん風の女房が、正座のままていねいに頭を下げた。
「夏の館へご案内いたします。どうか、こちらへ」
「は、はい」
でかいことは、とにかくでかい屋敷だった。
「みんな、こっちだって。迷子になるよ?集まって」
弥勒、珊瑚、七宝がやってきた。
 後ろでは唐津が、まだほほを染めて、声を掛けた。
「若様はこちらへ。北の方さまのお部屋へご案内いたしましょう」
「母の住まいならば、わかる。先導は無用」
殺生丸は、まぎれもなくこの館で育ったのだ、とかごめは思った。華やかな背景に、この人はよく似合った。小さな殺生丸も立ち上がり、秋の館へ続く廊下へ向かった。
 そのときだった。唐津が立ち上がり、うちぎのすそをさばくと、眉を逆立てて叫んだ。
「そこな小娘!誰の許しを得てここまで入ったか!」
視線が一斉に集まった先には、あおざめた顔のりんがいた。驚いて口もきけないらしい。
「見れば、人間ではないか!秋の館が穢れる!出てお行き!」
唐津はじろりとかごめたちのほうへ視線を飛ばした。
「この院の、ほかのお館は知らぬが、秋の館には人間はおろか、半妖さえ足踏みさせませぬぞえ」
りんは、唇をわななかせていた。すがりつくような目で殺生丸を見上げていた。
「思い出したぜ」
犬夜叉だった。袖の中で腕を組んでいる。
「一回だけ、おれはこの館へ来た事がある。そのときだ。向こうの世界のてめえに、今みたいにこっぴどくやられたんだ。ああ、唐津って言ったっけな」
唐津は睨み返した。
「十六夜さまのお子か。秋の館のことは口をはさまないでいただきましょう」
くっきりした眉が、ぐっとひそめられた。犬夜叉はへえ、と言った。
「おれは“若様”でもないわけか。はっきりしてるよなあ!」
唐津はせせら笑った。
「“若様”は、そもそも殺生丸様お一人に決っておりましょうに」
かごめはやっと口を挟んだ。
「唐津さん、もう、いいです。りんちゃんはこっちへ引き取りますから。いらっしゃい、りんちゃん」
ほほほ、と唐津は笑った。
「おお、よかったこと。さっさと、お行き!」
驚いたことに、りんは動かなかった。
「りんは、殺生丸様といっしょにいます」
緊張に青ざめた顔で、そう、言い切った。
「小娘、」
青筋を立てて唐津は言いかけた。が、それを、大きなほうの殺生丸がさえぎった。
「行くぞ」
たった一言だったが、りんに与えた影響は絶大だった。泣き出したいような顔でりんは駆け出して、殺生丸の長い袂をつかんだ。
「な、殺生丸様!」
唐津が泡を吹きそうになった。殺生丸は、ふりかえりもせずに通っていく。小さな殺生丸は、おもしろそうな顔でそのやりとりを聞いていたが、犬夜叉たちに向かって話しかけた。
「大丈夫だ。りんは、私が守るから」
「やばそうだったら、こっちへよこせよ?」
「秋の館で、“殺生丸”の意向に反してまであの子を傷つける者はいない」
自信たっぷりにいうと、秋の館へ戻っていった。