真珠白 7.第七話

 冬の館は思ったとおり、一面の雪景色だった。ここだけは寝殿造りではなく、大きな対の屋が二つあるだけだった。
 東の対の屋から見る庭には竹林があり、南天が植えてある。雪を持った竹の緑の葉や、南天の赤い実が、白一色の中で目にしみるようだった。
 竹林の向こうは、凍った湖だった。岸辺には大型の水鳥が、寒さをやり過ごすのか、じっと片足立ちになっていた。遠い空に、雪をかぶった山の峰が見えている。
 動くものはない。静寂の庭だった。
 板敷きの庇の間は、底冷えがする。途中から蔀戸の中に入り、火桶であたためられた空間へ入ると、かごめたちはほっとした。
 かごめの使う武器が必要になったので、栂ノ尾が院内の武器庫へ案内することになったのだった。武器庫と武具職人の工房は、冬の館の裏手の御倉にあった。犬夜叉は同行していない。まだ鉄砕牙の扱いに関して、父親からしごかれていた。
「珊瑚ちゃんたちは、攻撃まで夏の館で休んでいればよかったのに」
かごめが言うと、弥勒は片手を振った。
「そこの栂ノ尾殿に、お聞きしたいことがあったのですよ」
先に立って歩きながら、栂ノ尾は答えた。
「なんなりと。法師殿」
「どうしてあなたは、われわれの小隊に付くことにしたのです?それは、あなたの一族にとって、名誉なことではなさそうなのですが」
前を向いたまま栂ノ尾が答えた。
「そうですな。それがしは、下の若様に命を助けていただきました。そのご恩をお返ししたいと思い申した」
「それだけでしょうか?」
栂ノ尾は立ち止まり、振り向いた。笑ったようでもあった。
「そのようには、見えませぬか」
「はい」
栂ノ尾はしばらく黙っていた。それから、静かに語りだした。
「昔、あるところに、半妖の娘がおりました。母親は人間で、赤子を産んですぐに亡くなりました。父親は、犬の一族の者だったのですが、生まれたばかりの女児を己の住処へ連れ帰り、半妖であることを隠して育てておりました」
「隠しきれるものなのですか?」
「その男は一族でもなかなか身分あるもので、その娘はいわば姫君ですから、御簾のうちにいれば、姿を見せなくてあたりまえなのです。ところがある日、父親が大事にしている姫だというので好奇心を抱いた一族の若者が何人か、その屋敷へ忍び込み、姫が半妖だと知ってしまいました」
「それで、どうなったのです」
「姫は、あっという間に引き裂かれ、その体はばらばらにされたそうです」
「ひどい!」
と、かごめが叫んだ。栂ノ尾は静かに続けた。
「身を守るすべなど、何一つ教えられてはいませんでした」
「でも、半妖だったんでしょ?犬夜叉は……」
「犬夜叉様は、例外中の例外です。まず、お館さまのような大妖怪は、めったに人とはかかわりませんから、半妖をなすこと自体が珍しい。そして、生まれた子に己の牙を与え、強く育てるなどということは、ほとんどありえません」
弥勒が言った。
「犬の大殿は、なぜ、そんなことをなさったのでしょう」
栂ノ尾はまた、口をつぐんだ。
「殺された半妖の姫は、それがしには、腹違いの姉にあたります。異母姉が引き裂かれたとき、半妖であることを隠していたのならしかたがない、殺されてあたりまえだと言う者が多く、私の一家は、同情どころか白い目で見られたものでした。が、お館さまだけは、私の一家をひきたててくださいました。この栂ノ尾がおそば近くにお仕えしているのも、そのときからです」
「引き裂かれた姫に同情したことから、あの方だけは半妖への見方が変わったということですか」
「この栂ノ尾ごときにお館さまの胸のうちがすべてわかるわけではございませんが、そうかもしれません」
ぽつりと珊瑚が言った。
「それにしても、一族からはとことん嫌われてるんだね、半妖も、人間も」
「実は、半妖は、増えているのですよ」
「おや、そうなのですか?」
「とにかく、人が増えましたからな。妖怪とかかわることも多くなりました」
「では、もしかしたら、近い将来、犬の一族の中で半妖は、真妖の数を上回るのではありませんか?」
「十分に考えられます」
「そのとき、半妖たちは、おとなしくしているのでしょうか」
栂ノ尾は考え込んだ。
「近頃都に流行る、“下克上”というものですか」
「人間だけでしょうか?」
「いいえ、ありえます。ありえますが、おそらく、犬夜叉様が抑えとなるでしょう」
「ほう?」
「夏の館の若様は、まだ幼くていらっしゃいますが、一族の半妖は、あの方のお育ちになるのを心待ちにしております。なんと言っても、もっとも強力な血を受け継いだ半妖なのですから」
珊瑚は笑った。
「あのやちゃが、混血妖怪の希望の星?っていうよりも、半妖と真妖の絆そのものなんだね」
「そこまで見越してお館さまは、十六夜様を娶られたのでしょうか。豪快なお人柄にも似ぬ、底知れぬ智謀ですな」
 弓と矢を選ぶのは、それほど時間がかからなかった。栂ノ尾の提案で、武器庫の向こうのいわば裏門から外に出て、試し射ちをしてみた。
「いい弓だわ。ありがとう」
「では、そろそろ戻りますか。外を回っていきましょう。いえ、院内で、秋の館の女房衆とばったり会うといけませんので」
気を使わせているらしかった。が、唐津をはじめ、気の強そうな女たちとけんかになるのはうれしくなかったので、かごめたちは外を回ることにした。
 しばらくぶりに結界の外を歩いて、かごめは少し緊張した。が、とりあえず危険はなさそうだった。この世界にも、季節というものはあるのだろうか?風がやや肌寒く感じる。そして、日の入りの速さは、つるべ落としのようだった。
 栂ノ尾は体をひとゆすりして、ぶちのある大犬の姿になった。
「どうぞ、かごめさま」
かごめはおずおずとその背中に乗った。首の後ろの毛はふわふわしていて、ぎゅっとつかんでいいかどうか、かごめは迷った。栂ノ尾は、笑ったようだった。
「強くつかんでも大丈夫です。どうぞ。おちるといけませんから」
栂ノ尾は宙へ浮き上がり、風に乗って走り出した。弥勒たちが雲母に乗って追いかけてきた。
 広大な草原の上空を、あまり会話もせずに黙って走っていく。左手に夕日を見てずっと表門を目指していたのだが、途中でついに日が落ちてしまった。
 足を急がせて、かごめたちはほどなく門の見えるところまで帰り着いた。なんとなくほっとした気分で、かごめと、かごめの乗る栂ノ尾は屋敷へ近づいた。栂ノ尾が話しかけてきた。
「皆様がお集まりとは、そろそろ刻限か。間に合ったようです、かごめ様」
栂ノ尾は高度を上げ、かごめは下の方に向かって目を凝らした。そして、忘れられない情景を目にすることになった。
 それは、化け犬の群れだった。屋敷を覆う結界の前に、一族のものが集合していた。いずれも巨大な犬の姿だった。
 白い毛皮の広い背中にぶちなどの模様のあるもの、耳や尻尾、前足が黒っぽいもの、全体が薄茶色、黄色、灰色がかったものなど、いろいろな犬がいた。かなり大き目の猛々しい犬が四頭ほどいて、目立っている。一族の長老かしらとかごめは思った。
 群れの中央に、長老たちと比べてもひときわ巨大な、しみひとつない真っ白な大犬が悠然とうずくまっていた。ふた筋にわかれた長い尾を体に巻きつけるようにしている。壮大な体格とあいまって、その姿は波打つ毛皮の山だった。
 すぐ隣に、やはり純白の大犬がいた。左の前足が半ば欠けている。立つ事はせず、腹を地につけ、隣の白犬の背に、頭を預けてもたれていた。奇妙に甘えている雰囲気があった。
「真っ白なのは、父上殿と、兄上殿ですか」
「こうやってみると、きれいだね」
たそがれ時の薄闇の中、巨大な生き物の群れはただじっとうずくまり、まるで攻撃のときまで一族のうちに力を溜めようとしているように見えた。
 かごめは、あっとつぶやいた。
 犬夜叉が、いた。
 巨大な父犬の銀白色の背中の上に、真っ赤な水干姿が見えた。
 まどろんでいるらしい。普段よく見る、刀を抱いてすわったままの姿ではなく、白い毛皮の中に半ば埋もれて、安心しきったように寝そべっている。
 大犬は、自分にそっくりの長男も、姿かたちの異なる次男も、等しく自分のそばにひきつけて、満足そうだった。
 西の空から上ってきた満月が、化け犬の群れをやわらかく照らし出した。けぶるような銀の毛皮の美しい大犬の中に混じって、一点の真紅色、火鼠の皮衣はよく目立った。
 一番先に殺生丸が気がついた。父犬の背から頭を起こし、鼻の先で弟をつついた。
「起きろ。……きたぞ」
ん、と犬夜叉がつぶやいた。居心地のよい暖かい毛皮の中で、目をこすった。
「まだ、眠い」
「ふざけるな」
不思議に兄弟仲がよく見えるのは、どうしてだろう。殺生丸が、じれたように首を伸ばし、弟の襟をくわえあげた。
「よせったら、殺生丸」
父犬が、巨大な頭をめぐらせた。
「やめなさい、二人とも」
犬夜叉ははずみをつけて、父犬の背から飛び降りてきた。
 一族の結界である屋敷の、総門が開いた。女房たちを従えて、幼い殺生丸が現れた。
「お見送りに参りました」
「殺生丸か」
巨大な犬はゆっくりと頭を起こした。
「御武運をお祈り申し上げます」
「留守はそなたにまかせる。まんいちわしがここへ戻らなかったときは、おまえが一族を率いてもとの時代へ帰るのだぞ」
まっすぐに父の目を見上げて、少年は潔く答えた。
「父上の仰せのままに」
「よい子だ」
化け犬の長は、生真面目な返答を聞いてかすかに笑ったようだった。
 女房たちの間から、七宝が出てきた。
「おいっ、犬夜叉!」
「なんだよ」
「とっとと行って、さっさと済ませて来い」
つかつかと犬夜叉は仔狐に近寄って、ぽかりと殴りつけた。
「上から物を言ってんじゃねえよ」
かごめはあわててその手を止めた。
「七宝ちゃんは、見送ってくれているのよ」
「そうじゃそうじゃ!この恩知らずが」
「誰がてめえの見送りなんか」
 そのとき、背後で何か、大きなものが動いた。殺生丸だった。同じ一族から畏怖され、羨望され、憧憬されてはいても、この孤独で美しい生き物はその弟のようには見送ってくれる存在を持たないのか、とかごめは思い、胸がちくりと痛んだ。
「犬夜叉、殺生丸」
と一族の長は言った。
「父は、家中を率いて先に行く。おまえたちは、あとからまいれ」
「ああ、わかった」
犬夜叉はそう言い、殺生丸は無言で会釈した。化け犬の長は立ち上がった。それだけで、山が動いたようだった。
「待って!」
高い声が響いた。女房たちをかきわけて、小さな人影が飛び出した。
「りん!」
小さな殺生丸が驚いて叫んだ。
「申し訳ありません、若様」
秋の館の女房の一人が、息せき切ってついてきた。
「危ないからとおとどめ申したのですが、どうしても、と」
巨大な化け犬の群の中では、少女は本当にちっぽけなものに見えた。真紅の目がいくつも彼女の姿を捉えた。犬妖たちがその気になれば、少女の命など、あっというまに消し飛ぶに違いない。だが、一筋のためらいもなく、りんはまっすぐに殺生丸の前にやってきた。
「あの……」
はぁはぁと息をする下から、りんは自分の指を強く握り合わせ、輝く牙と鋭い爪を見上げた。殺生丸は孤高の存在、と誰もが言う。だが、彼はその誇り高い頭を、少女の顔の位置まで下げた。
「なんだ」
けして暖かくは聞こえない、その問いに、りんはしがみついた。
「りんはいい子にしてます!帰ってきてください!」
細い指が白い毛皮の中に入り込み、ぎゅ、とつかんだ。赤い瞳が少女の顔を至近距離からのぞきこんだ。
「……」
巨大な化け犬が、切ない嘆願にいったいなんと答えたのか、かごめの耳には聞こえなかった。
「失礼いたします」
唐津を先頭に、秋の館の女房たちがやってきた。
「りん殿。おさがりなさいませ。ご出陣のお邪魔でございましょう」
冷たく言って、りんをひきはがすようにした。
「もうよいか?」
一族の長は、自分の群を見渡した。
「では、まいる!」
だが、ふと大きな頭を唐津の方へ動かした。
「唐津、りん殿をよくお守りせよ。どうやら次代の家刀自さまらしい」
なっ、と叫んで唐津が絶句した。一族の者もぎょっとした顔だった。長だけは満足そうなようすだった。
 長は優雅な動作で前足を浮かせた。背中を丸めるようなしぐさをすると、四肢が地を離れて浮き上がった。丸めた背をぐっと伸ばし、前足の爪が力強く空をつかむ。たちまち空中へ駆け上がっていった。
 そのあとから、一族の大犬が次々と飛びだした。この異界の広大な空に、化け犬の大群が飛行する。闘志をむきだしにして一族は満月の前をかすめ、真一文字に疾走していった。