真珠白 5.第五話

 樹齢を数えれば神代にも届こうかという古めかしいしだれ桜の大樹が、今を盛りと咲き誇っている。春の館の寝殿から見える庭を飾るのは、伝統的な鑓水のほかには、ただその桜だけだった。
 が、大人が数人がかりでも抱えきれないほどの太い幹から、枝が何本も出て滝のように流れ落ち、そのすべてが花を持ち、そして豊かに花開き、雪よ、みぞれよ、と花びらを後から後から風に散らして堂々と立っているさまは、豪華絢爛としか言いようがなかった。
 染井吉野よりやや濃いめの薄紅の、おおぶりの花びらが一枚、風に乗ってひらひらと舞い上がり、寝殿の庇の間へ届いた。庇の間から庭へ降りる階段のあたりは、うずたかい花びらの吹き溜まりと化している。
 花びらは、吹き溜まりへ混じるのを嫌ったか、ふわりと飛んで、男の膝へ飛び乗った。この館の主だった。
 館主は、花びらを取り上げ、そっと微笑み、手のひらに載せて唇で風を送った。そんな愛嬌のあるしぐさがよく似合う。人間で言えば、青二才ではないが、やっと壮年と呼べるあたりの年頃の貴人に見えた。
 段染めの小袖に袴をつけ、かわほり(大きな扇)を手に直衣をやわらかく羽織るという、気軽な姿だった。烏帽子をつけていないので、高く結った元結から時々ひとすじ、ふたすじ、銀髪がたなびいている。
 小姓たちは酒の用意をしながら、その姿を盗み見た。妖怪の間では“大犬の殿”、あるいは単に“牙殿”と、畏怖をこめて呼ばれているひとだが、今はゆったりとくつろいで見える。
「うちのお館さまは、いつもながら水際だった殿ぶりで……」
女房たちが寄るとさわるとうわさするのも、無理はない。が、ひとたび戦場へ立つと、日ノ本きっての武闘派の名に恥じない、果断な戦いぶりを見せることを小姓たちは知っていた。
 そういえば、と小姓は思う。さきほどお連れになった若様方は、父君に似て、たいそう見目良くお育ちになっていた。そのせいか、お館様はごきげんがよく、物見からお帰りになると、小姓の酌で杯を重ねた。ほろよいかげんになったところで突然、“邪見を呼べ”と仰せがあった。下級の小怪どもは冬の館の裏手の長屋に住まいを持っている。朋輩の小姓が今、その長屋までわざわざ邪見を呼びに行っているところだった。

 寝殿から正面に広がる庭へ直接降りるには五段ばかりの階段を使うのだが、庭の土の上、その階段を見上げるような位置に緋色の毛氈がしかれ、その上に邪見がかしこまっていた。 最初は寝殿へあがれといわれたのだが、めっそうもない、と固辞し、庭先に席を作ってもらったのだった。人頭杖はすぐそばに丁寧に置いてある。自由になった両手に、大ぶりの杯を持ち、邪見はうまそうに飲み干した。
「いや、もう、なんともこれは、けっこうなものでございますなあ!」
ぷっはあ、と酒臭い息がくちばしを割って出る。
 邪見のすぐ上、階段の中ほどに、館の主人は気楽そうに腰を下ろした。
「お、いける口だな。よし、今一度、とらせよう」
そばに控えていた小姓が、邪見の杯に酒を注ぎいれた。ぺち、と手で烏帽子の横の頭をたたき、邪見はうれしそうにうなった。
「さすがご闊達なる、お館さま、この邪見、このようなおふるまいには、どうもあずかったことがございません」
「まあまあ、そうかしこまるでない。そなた、殺生丸にずっと侍っていたそうではないか。あの子は気難しくてなあ。苦労もさせたであろうよ」
「お、おやかたさまぁ」
邪見は、杯を持ったまま、涙をにじませた。
「それはもう、殺生丸さまと来た日には」
「泣くな、泣くな。それ、杯を干せ。小姓ども、どんどんついでやれよ」
「ううう」
邪見は涙と鼻水をずりずりとすすりあげた。
「そなた、泣き上戸か?」
「今日はもう、特別でござります。この邪見にお館さまおん自ら、お杯を賜るなど」
ぐしっと涙をぬぐう。
「よしよし、愛いやつじゃ。なあ、邪見、いくつになっても、親は子の心配をするものだ。ひとつ、あれのことを話してみてはくれまいか」
はあ、と邪見は平伏して話し始めた。
「殺生丸さまは、あのように無口なお方でいらっしゃいますから、何をどうなさるおつもりか、邪見めには一言も教えてくださらないのでございます。おかげでこのところ、不可解なことばかりでございます。いえもう、やんごとなきお生まれでいらっしゃいますから、邪見めには、計り知れないところがおありなのはいたしかたございませんが、二言めには“殺すぞ”だのなんだの……」
酒の勢いを借りて、邪見はとうとうと訴えた。
「近頃はお叱りのお言葉さえ省略なさって、直接おみ足でげしっと」
「それはいかんなあ」
といいながら、主人はにやにやしていた。
「それなのに、あのりんという小娘には、たいそう甘いんでございます」
「ほおお?」
主人は身を乗り出した。
「いつもは人里には鼻もひっかけずにお通りになるのですが、せんだって、あの小娘がなんとかいう旅の坊主どもにくくられてしまったことがありました。坊主どものかしらが言うには、妖怪と共にいてはよろしくない、人の子は人の村へ帰れと、こう説教いたしましてな」
「うむうむ。で、殺生丸はどうしたのだ?」
「さすがにおん自ら取戻しには行かれませんようで」
にやにやと邪見は笑った。
「ですが小娘のいない間、落ち着かないことと言ったら、あの殺生丸さまぐゎっ」
ひっひっと邪見は笑い出した。
「夜空を見上げてうろうろ~、人里のほうへ二三歩行かれてはうろうろ~、また戻られてはうろうろ~」
わははっ、と館の主人は豪快に笑った。手にした扇で膝をぴしゃぴしゃとたたく。
「それは見ものであったな!ささ、飲め、飲め。それからどうなったのだ?」
「よくぞ聞いてくださいました」
ここからが聞かせどころでございます、と邪見は立ち上がり、身振り手振りをまじえ、声色を使って話し始めた。
「……“もしあたしが先に死んでもおぼえていてくださいますか”と娘がかわいいことを言いますと、それでも冷たそうなあのお顔でただ一言、“ばかなことを”と」
く~、とお館さまは笑った。
「あやつめ、無理をしおって~」
 そこへ、割って入った者があった。
「なにをしておるのじゃ?」
 七宝だった。院のあちこちを探検してきたらしい。頭に桜の花びらがついていた。
「うん?」
館の主人は、にや、とした。
「客人の、野狐どのか。いまな、邪見から、殺生丸の話を聞いていたのだ」
「殺生丸のほうは知らんが、おら、犬夜叉のことなら、なんでも知っとるぞ?」
おお、と館の主人は言い、扇で招いた。目が次男そっくりに輝いていた。
「さあさあ、これへ。水菓子など持ってこさせよう」
「息子のほうとちがって、太っ腹な親父さまじゃな!よし、わしも、とっときの話をしてやろう!」
七宝は階の下の段にすわりこんだ。主人は、扇で口元を覆ってたずねた。
「正味な話、あれはどこまで本気なのだ?」
「かごめのことじゃな?実は、あやつ、ふたまたかけておってのう」
「なに、許せんな。で、もう一人はどこのおなごだ」
「美人じゃぞ?桔梗という巫女でな、正直、かごめより一段上の美形なんじゃ。しかも、つきおうていたのは、桔梗のほうが先じゃ」
聞いていた主の目が、きらん、と光ったかのようだった。
「おもしろうなってきた。野狐どの、京の菓子はいかがかな?」
「ご馳走になる!で、な」
「うむ、うむ」
運ばれてきた砂糖菓子をうまそうにほおばりながら、七宝はひとしきり話を続けた。
「……それでてっきり、かごめはもうこちらへは来ないと思っていたんじゃが、なにやら思いつめたようすで戻ってきたのじゃ」
「ううむ、けなげなおなごだ。心根がかわいいの」
「じゃろ?しかも、あのとおりのべっぴんじゃ。おかげで妖狼族の若いのが、かごめにちょっかいを出しに来るんじゃ。そのたびに犬夜叉のやつ、かりかりしおって」
「しかたのないやつめ」
「それでかごめが、“桔梗のことは棚にあげて”と責めると、ぐうの音も出ないんじゃ!」
わははっ、と館の主人は笑い出した。

 犬夜叉の指が、木の葉を器用に折っていく。できあがったのは、小さな舟だった。滝つぼに浮かべると、くるくる回りながら流れていった。
「きゅ~!」
ちび夜叉は目を輝かせ、身を乗り出してながめている。舟の後を追いかけて、ちょこちょこ歩き出した。小さな尻尾がうれしそうにふりふり動いていた。その姿を、大きなほうの犬夜叉が、複雑な表情で眺めていた。
「ねえ」
「あ?」
かごめは、言い方に迷った。
「なんていうのか、元気ないじゃない」
「そんなことねえけど」
「その言い方もよ。気になってるんでしょ、お父さんのこと」
「別に」
「だめよ。犬夜叉が落ち着かないときは、わかるんだから」
ようやく犬夜叉がまっすぐにこちらを見た。
「何が言いてえんだ?」
「会っていらっしゃいよ、お父さんに。本当にうらんでいることがあるなら、吐き出したほうがいいわ」
犬夜叉は、腕を組んだ。唇を不満そうに結び、視線を落として、考え込んでいる。はだしの指先がやわらかな苔をいらだたしげに踏んでいた。何か言いそうにしてはやめ、ため息を吐き、うなり……やがて、ぽつりと言った。
「やつが、どこにいるか、わからねえ」
「春の館っていうところらしいの。行ってみようよ」
「簡単に言うけどな、だだっ広いぞ、ここ」
かごめは、声をあげた。
「やちゃ~」
ちび夜叉がぱたぱたと走ってきた。
「春の館って、どっちのほう?」
ちび夜叉は、きゅう?とつぶやいて首をかしげた。大きな目をぱちぱちさせ、鼻の頭にしわをよせて真剣に考え込んでいる。
「じゃあ、ととさまはどこ?」
理解できたらしい。ちび夜叉は、こっくんとうなずいた。やおら背伸びをしてかごめの指をつかみ、熱心に言った。
「ととしゃまは、あっちの!」
そのまま引っ張っていこうとする。
「案内してくれるの?ありがとう」
耳の間をなでてやると、たいへんすなおにちび夜叉は喜んだ。大きいのも、このくらい扱いやすいと楽なんだけど、とかごめはひそかに思った。

 それは、奇妙な光景だった。この館の主人と、小さな野狐と、ひからびた河童のような小怪が、寝殿から庭へ降りる階段のあたりに集まって、額をつきあわせるようにして何事か熱心に話し合っているのである。
 二、三歩近寄ったとき、自分の名前を聞いて、かごめは足を止めた。
「かごめが何も言わないのをよいことに、犬夜叉のやつ、鼻の下をのばしおって桔梗をこう、腕に抱きあげてな」
「おおっ」
「大胆な……」
「桔梗のほうもぐったりしていたが、まんざらではないようすじゃった。おらは怖くて怖くて、かごめの顔を見られなかったぞ」
かごめは顔が赤くなるのを感じた。七宝は、どうやら桔梗のことを洗いざらいしゃべくっているらしい。
「七宝ちゃん!」
と言ったとき、ずかずかと犬夜叉が近寄り、ぼかっと七宝を殴りつけた。
「何しゃべってんだよ、おめえは!」
頭をおさえて七宝は言い返した。
「全部本当のことじゃろうが!そもそもおまえがふたまたかけるのがいけないんじゃ!」
「こっ、このっ」
まあ、そうなんだけど、とかごめは思った。
「これこれ。客人に手を上げるやつがあるか」
犬夜叉はきっと父親のほうをふりむいた。
「てめえっ、なんか聞き出してたな!」
「父のわしがせがれの素行を知りたがって、どこが悪い」
悪びれもせずに彼は言った。わざとらしくため息をついてみせた。
「それにしても、つくづく女扱いの下手なやつだ」
うっ、という表情で犬夜叉はつまった。
「修行が足らんようだな」
 そして、何気ない表情で、付け加えた。
「おまえもだぞ、殺生丸」
かごめはあっと思った。
 寝殿の向こう、大きな柱の陰で、白と紫色の袂がふわりと動き、風のように消えた。殺生丸が来ていたらしい。
 邪見が震えだした。
「どこから聞いておいでだったのか……」
「最初のほうからいたぞ?」
ひっ、と邪見は息を詰めた。
「こ、殺される、わし……」
すっと、館の主人は立ち上がった。
「どれ、ひとつ稽古をつけてやるか。犬夜叉、まいれ」
「稽古、って、女扱いのかよ」
はっは、と主人は笑った。
「それはまた別の機会にな」
手をたたくと、小姓が一人、真紅の錦でできた長い袋をささげ持ってきた。主は袋の緒をほどいた。それは、見覚えのある日本刀だった。
「爆龍破を使ってみよ」
犬夜叉は、はっとした。手を自分の刀に伸ばす。館の主は、挑発するような表情を浮かべていた。
 鉄砕牙対鉄砕牙。
 父子ともに、強敵を見出し、相手の力量をうかがう顔だった。突風が、これから戦場となる白砂の広い庭に、花吹雪を舞いあげた。犬夜叉の唇に、じわ、と笑みが浮かんだ。

 院内をぶらぶらするのは、弥勒にとってなかなか楽しかった。日ごろ、田舎大尽や村の名主などの屋敷はよく眼にするのだが、この妖怪の結界ほど豪華で広大で、手の込んだ館には、めったにお目にかかれない。
 墨染めの衣は、人の世のしがらみから離れたもの、という意味なのだが、妖怪の世界でもそのように見られるらしく、どこを訪れてもあまりとがめられることがなかった。
 冬の館の裏の厨房で半妖の下女や下級の女房たちに愛想をふりまいてひとしきり笑いをとり、夏の館へ立ち戻って得意の話術を駆使して但馬はじめ高級女房たちにちやほやされ、さて、しおどき、とばかりに弥勒は春の館ほうへ歩き出したところだった。
 幼児の声を聞いたのは春の館へつながる渡り廊下を渡りきったところだった。
「うわあん、ととしゃま~」
どうやら、ちび夜叉のようだった。冷静な少年の声が、たしなめている。
「父上は、大きなお前にお稽古をつけていらっしゃる。おじゃまをしては、いけないのだ」
み~、とちび夜叉は不満そうに泣いた。
 西の対の庇の間に、小さな殺生丸は乱れもなくすわっていた。ちび夜叉は、ころんと板敷きにころがり、不服そうに短い手足をばたつかせていた。おなかだけがぽっこりと丸い。幼児特有の体型である。小さな殺生丸は幼い弟をひざにひきつけて、髪をなでてやった。幼児は兄の体にかかる白いふわふわした毛皮を、まだぷにぷにした手でつかまえて、あむあむ噛み始めた。
「しょうがない。桜の花びらを集めておいで」
ちび夜叉は、風に乗って舞い込んできた花びらを小さな手で拾い集め、言われたとおり兄のところにもってきた。
 小さな殺生丸は手のひらに花びらを数枚受け取ると、ふっと息を吹きかけ、手を握り、そっと開いた。手の上から、桜色の光がいくつか、ふわふわと浮き上がった。それは、親指の爪ほどの大きさの仔馬になり、床から一尺あたりのところを漂い始めた。幻術の一種だろうと弥勒は思った。
 ちび夜叉は目を輝かせて仔馬を見ていた。板敷きの上に小さくうずくまり、熱心に仔馬の中の一つを見つめる。瞳が仔馬の動きにつられて右へ漂い、左へ動き、していた。ついにわくわくと忍び寄り、ちび夜叉は狙いすまして、かわいい手でぱん、とたたいた。
 小さな殺生丸は、人差し指をくい、と動かした。ふわりと仔馬は逃れた。ちび夜叉はおなかからぽてんと板敷きに落っこちた。
「みい!」
はいはいをしながら、紅葉の手を振り上げて、ぱん、ぱん、とちび夜叉は仔馬をたたいている。すぐに夢中になってちび夜叉は、遊んでいた。
「殺生丸さま」
弥勒は声をかけた。
「法師、ひさしぶりだな」
弥勒は彼の隣にすわった。庭のほうが騒がしかった。見れば、館の主と犬夜叉が、真剣をひっさげて対峙している。長大な刃をかざして、まず主人のほうが一撃を放った。
 爆龍破をつかうつもりらしい。犬夜叉は刀をかまえて間合いを計っている。
「ぎりぎりまで待て……そこだっ」
うおぉ、とおたけびをあげて、犬夜叉は巨大な刀身を振るった。
「踏み込みが甘い!腕で振るな、腰を使え!」
指導はかなり厳しいようだった。
「どうやらみな様、このお館へ集まっているようですね」
「そうだな。さきほどまで、あの人もいた」
“あの人”というのが彼自身、成長した殺生丸のことだ、と弥勒にはすぐにわかった。
「あのお方は、お稽古はなされないのですか」
「父上はなにもおっしゃらなかった。犬夜叉だけに、まいれ、と」
その横顔が、どことなく寂しげだった。弥勒は、開きかけた口を閉じた。下手に慰めることは、少年の矜持を傷つけかねなかった。
「ずっと考えていたのですが」
「なんだ?」
「なぜ、お父上は結婚相手にご一族の姫をお選びにならなかったのでしょうか」
「そうだな、有力な家系がいくつかあるから、特定のどれかと結びつくと、ひいきをしたことになって、一族の乱れになるとお思いになったのかもしれない」
あいかわらず冷静な少年だった。
「失礼ですが」
「ん?」
「純粋な妖怪として生まれた場合、生まれた後で妖力を高める方法は、どれくらいあるのでしょう?」
「……そなたも知るように、四魂の玉を使うのがひとつ。それから、他の、特に力のある妖怪を倒して、その心臓をくらうのがひとつ。または、特定の妖力を吸い込む道具が、たまたま手に入った時に用いるか」
「どれも、あまり、頻繁に使える方法ではありませんな?」
「そうだな」
「では、一族の長が、己の跡取りに妖力の高い子を望んだ場合、己と同じか、それ以上の妖力の持ち主を母に選ぶ以外、道はありませんな」
「それで父上は、母を、九尾の狐を娶ったというのか」
「可能性として申し上げているだけですが、一族の姫には、あの方を上回る妖力を備えた方がいらっしゃらなかったのでしょう」
「そうして得た子供が、私か」
「そのとおりです。父上殿は二人のお子を設けられた。お一人があなた様。初期値が異常に高く、これ以上妖力を上げる必要のないほど優れたお子です。そしてもう一人が犬夜叉でした」
「お前の言う、初期値は低くなるぞ」
「単純に計算して、二分の一です。だが、それを補ってあまりあるものを、犬夜叉は与えられている」
「何を言いたい?」
 白砂を敷き詰めた広い庭では、犬夜叉がぼろぼろにされていた。歯を食いしばって立ち上がり、父に立ち向かっていく。容赦なく風の傷が浴びせられた。
「目に頼るな、感じとれ!そこだ、振りきれっ!瞬時のためらいが命取りになるぞっ」
「くそっ」
弥勒は微笑んだ。
「御覧なさい。鉄砕牙を得てから短い間に、あれほど使いこなす。それはひとえに犬夜叉が半妖だからではないでしょうか。人間の血を与えられたために、犬夜叉は高い成長力を持っているのではないかと思うのです」
「“良い使い手になった”と、父上は言っておられたそうだな」
「しかも犬夜叉は、残り半分の血をあの父上殿から受け継いでいる。もともと高い妖力の二分の一は、そのへんの雑魚妖怪よりもはるかに高いのです」
「高めの初期値に加えて、高い成長力をもった子か」
「成長したご兄弟を見て、父上殿が喜ばれたのは、ご自分の考えが正しいとわかったから、というのも、理由のひとつではありませんか」
「そうだったのか」
「殺生丸様は、修行の必要などないのです。天才に何かを教えることが誰にできますか。あなた様はそのままでよろしい。そのままで、父上殿の御愛子でいらっしゃる」
「そなた、私を慰めるつもりか。笑止な」
小さな殺生丸は、苦笑交じりにつぶやいた。弥勒は肩をすくめた。少なくとも、少年は、寂しげなようすではなくなっていた。
 板敷きの床から、花びらの仔馬を拾い上げていたちび夜叉が、みっ、と叫んで体を起こした。小さな足をよちよちと動かして、懸命に走っていく。大好きな“ととしゃま”が庭からあがってきたのだった。
「おお、やちゃか。よしよし」
さっと抱きあげて、彼は父親の顔になった。
「兄さまに遊んでもらったのか?よかったな」
腕をいっぱいにのばして、天井高くもちあげてやる。ちび夜叉は手足をふりまわしてきゃあきゃあと喜んだ。
 足をひきずりながら、大きなほうの犬夜叉が庭からあがってきた。
「……ちったあ、手加減しろよ、くそ親父」
わずか数段の階段をあがるのに、かごめが手を貸した。
「たしか、話し合いに来たんじゃなかったっけ?」
「そんなことやってる場合か。やつは鉄砕牙の専門家だからな。今のうちに、盗めるモンは盗む」
案外、へこたれていないようすだった。
 ちび夜叉を抱いた主人が、奥へやってきた。小さな殺生丸は座りなおした。
「弟の面倒を見ていたか。ご苦労」
小さな殺生丸は黙って手をつかえ、頭を下げた。その横に、ちび夜叉がおろされた。次の瞬間、館の主は、長男を抱き上げた。
「あっ……」
あわてる少年を主人は軽々と両腕に抱えた。
「ひさしぶりだな。高い高いをしてやろうか?」
小さな殺生丸は赤面した。
「そのような年ではございませぬ、おろしてくださりませ!」
「よいではないか。おまえたちは、すぐに大きくなってしまうのだから」
不思議にしんみりとした言い方だった。
 小さな殺生丸は、まだ少し恥ずかしそうにしていたが、おずおずと父の首に両腕を回し、甘えるように顔をおしつけた。弥勒のいる位置から、銀髪の流れる主人の背中とその肩の上の小さな殺生丸の顔が見えた。恥ずかしそうだが、どことなくうれしそうでもあった。
 やちゃも~、とちび夜叉が父の足元にまとわりついた。
「おいで」
片手で少年を抱き、もう片方の手で幼児の手を引いて、館の主人はうれしそうに歩いていった。