ヘンリーのゲーム 11.魔物馴らし

 兵士たちが闘技場を造らせたのは建設現場の隣だった。その場所はすり鉢状にくぼんでいた。闘技場の観客席のようなその場所に、ぐるりと奴隷たちは置かれ処刑を見ることを強制されていた。
 時刻は昼ごろになっていた。一日で太陽が一番高くなる時間だが、その日は違った。空には雲が重く垂れこめていた。上空ではただならぬ雰囲気の空を雲がどんどん走っていく。仮説闘技場は陰鬱だった。人間たちはこれが見せしめであると知っている。だが、それでもなお、ひそかな闘いの興奮が、じわじわと観客の心を染めていた。
 やがて、処刑の時が来て仮設闘技場の入口の板が上に引き上げられた。岩盤の空間が見えた。大蛇の檻がその中央にあった。教団の兵士はルークとヘンリーを連れて中に入り、足首につけた鎖をはずし、首輪と手錠を取った。
「せいぜい逃げ回れ。おびえろ。泣き叫べ」
低い声で兵士はそう言い、出て行った。
「むさぼり食われる絶望を見せつけろ」
徒手空拳の少年二人を残して、板戸は落ち、入口は閉ざされた。兵士、奴隷、職人たちの視線を集めてルークたちは蛇のほうへ向き直った。
 あのとき刃はヘンリーの左腕と左足の太股を切り裂いていた。ルークにできるのはありあわせのむしろを傷口に巻き付けることだけだった。むしろの表面は流れ出した血で赤黒くなっていた。出血が多いのだとルークは知った。
 ヘンリーは消耗しきっているようだった。闘技場の中で兵士たちが鎖を外したあと、ルークはヘンリーの脇の下に自分の肩を入れて支えた。
 闘技場のまわりには奴隷が全部集められていた。恐怖から沈黙を守っていても大勢の人間が集まって出る物音はそれだけで騒がしかった。そのざわめきが高まった。ルークは顔をあげた。蛇の檻が開かれた。
 出てきたのは二頭の大蛇だった。胴体は太く牛を丸飲みにできるほど、長さはオリエンタルドラゴンほどもある。全身は紫色で、緑と白の筋がところどころに入っていた。岩盤をすべる腹は明るい黄色、表情のない丸い目は黒、そしてちょろちょろと出し入れする舌が深紅だった。
 ルークはしばらく麻痺したようになっていたのだろう、ヘンリーが低く声をかけた。
「しゃべれ。何でもいいから」
ルークは落ち着こうと努力した。唇を舌で湿らせてから口を開いた。
「大きな蛇だ。見たことない。すごいな。君が言った通り、獲物に巻き付くんだろう。ひとたまりもないよ」
「ほかには?」
いつも余裕を装っているヘンリーの声がか細くかすれているのが悲しかった。
「……きれい」
「え?」
「色がきれいなんだ。鮮やかで、鱗がつやつやだ」
痛みが襲ってくるのか、ヘンリーは一度声を呑み込んだ。
「蛇どもに、おまえの力を認めさせろ」
二頭の大蛇は蛇行しながら檻から出てきていた。
「力なんて、ないよ」
激しくヘンリーがささやいた。
「ある!おれは見たんだから」
ルークは首を振った。
「ごめん、ぼくは」
ヘンリーはうめいた。
「じゃあ、おまえを大きく見せろ」
え、とルークはつぶやいた。動物にとって、実体より大きく見せることが天敵の撃退につながることは知っていた。胸を張る?かかとを上げる?それよりも……。
「きみはここにいて」
ルークは注意深く肩を下げて出血しているヘンリーをその場にうずくまらせた。
 冷たい岩の上に裸足の足を一歩踏み出した。
「こうすれば、君たちの視界の中で」
すたすたとルークは歩いていく。丸腰で大蛇の前へ出て行くのを見て闘技場の観衆が声を挙げた。
「ぼくは大きくなる。だろう?」
四つの丸い目の前にルークは立った。
 二頭の蛇はずるっと下がった。そしてぐっと体を起こして上からルークをにらみつけた。ルークは顔を上げてアイコンタクトを保った。
「ぼくがカエルに見えるのかい?」
獲物に見えるのなら、すぐ襲ってくるだろう。この巨体に巻き付かれ、締め上げられたら、関節なんかすぐにへし折られる。きっとすごく痛いだろう。ぐしゃぐしゃのあばら、目から耳から血を噴き出してぼくは死ぬのか。
 一度あげた頭を、大蛇は下げてきた。大蛇の顔がルークの視界のほとんどすべてを占めた。鱗の一枚一枚が識別できる。紅の舌が触れそうだった。蛇特有の生臭い匂いがあたりに満ちた。
「ルーク!」
ヘンリーの声だった。ルークは反射的に顔をあげ、大蛇を見つめ返した。シャッと音を立てて二頭が下がった。
 それは不思議な感覚だった。ルークと大蛇たちの間に壁のようなものがある。ルークは、壁を押すように蛇たちへ注ぐ視線に力を込めた。蛇が下がった。が、見つめ返された。
「力比べか!」
心の中で、何かいびつな形をしたものが、同じ形の穴にきれいにはまってかちりと音をたてた。ルークは傷つき、疲れ、飢え、裏切られていたが、その瞬間すべてを忘れた。足を肩幅に開き、少し腰を落とす。親方に教えられた杖術のかまえを思い出しながら大蛇をにらみつけた。徒手空拳、武器は視線だけ。
「はっ……」
大きく息を吐いてルークは巨体を見つめた。
「それでいい」
小さくヘンリーがつぶやいた。
「視線だけがおまえの力なんじゃない、本当の力は」
長くしゃべるのは辛いらしい。だがルークには何をいいたいのか、おぼろげにわかった。
「認めさせろ、おまえを。万事、それからだ」
ルークは蛇を見つめたままうなずいた。大蛇は表情のない目でこちらをうかがっている。お互いに視線の圧力は拮抗していた。目をそらせた方が負けだとルークは悟っていた。
 気合いを入れ直してルークは“壁”を押さえにかかった。蛇はその場からこちらへ進めない。だが、自分も動けなくなった。
 ゆっくり時間は過ぎた。ルークは瞬きも容易にできないほどの緊張に縛られていた。目の周りの筋肉がこわばってくる。眼球の奥に痛みが走った。
 観衆のざわめきが聞こえる。兵士たちが何か言っている。ムチ男が闘技場の外でムチをふりまわし、蛇をけしかけた。
 気配が変わった。襲ってくる……。
 ひと呼吸早く、ルークは視線を投げつけた。びくっと大蛇がふるえ、動きを止めた。そしてまたゆっくり警戒しているように動き始めた。
 ルークも守りに入った。
「きつい」
今は押し返すことができた。だが、もう一度できるだろうか。
「疑っちゃ、だめだ」
陰鬱な空の下、仮設闘技場のなかは吹きさらし、だがルークは額に汗を浮かべていた。目が痛い。だが額を拭うことさえできないほど、ただひたすらにルークは蛇の目玉を見つめた。
 ふいに二頭の蛇は体を空中へ長くのばした。長大な体を波打たせ、上下左右へ頭部を舞うように動かした。
 蛇も何とかしようとしているのだろう。小細工ではあるが、実際見つめる時に焦点があわせづらくなった。元々四つある目玉が動くのだから。わずかに集中をゆるめ、視界を広げる。一点集中から全体像へ切り替える。大蛇は怒ったようにシュッシュッと息を噴き出した。
 ヘンリーがささやき声で告げた。
「気がついてるか?そいつら、必ず一緒に動くぞ」
ぴく、とルークは眉を動かした。
 そう、一頭がにらみ合いを続ける間にもう一頭が襲うという最悪の手段を、なぜか取ってこない。血の匂いをぷんぷんさせているヘンリーが動けないでいるというのに。
「そうか」
見えない壁のような圧を押して、ルークはその場からもう一歩前に出た。
 大神殿建設現場に、ルークはもう奴隷として八年ばかり暮らしていた。現場に現れる教団側のモンスターはそれほど種類が多くない。現場監督はシュプリンガー、奴隷監督はムチ男たち。だが、まれに異種族を見かけることがあった。
 ルークはぐっと目を閉じた。壁が消えたと思ったのか、いきなり大蛇二頭が勢いづいた。二階建ての家の上あたりの高さからルークのところまで大きな頭がまっすぐ降りてきた。わああっと観衆が声をあげた。
 ルークは目を開いた。見つめるのは蛇ではなかった。二頭の蛇と蛇の真ん中。見えないがそこにいるはずの存在。
「蛇手男!」
二頭の蛇は急停止した。そのままだらりと落ちて頭が岩盤へついた。深紅の舌を出したまま、蛇は急速に背後へ下がっていった。下がりながらどんどん縮んでいき、ついに人間の腕ほどのサイズになった。
 ルークは前へ出た。視線の圧力は消え失せていた。鉄の檻のすぐ前の岩の上に誰かがぺたんと座り込んでいた。紫色の皮膚に緑の服と黄色い靴だけの大男に見えた。頭は白い頭巾で被っているが、頭巾がずれて紫のうろこで被われた顔が見えていた。
 瞼のない丸い目、裂けたような口。蛇手男の同種上位にあたる、ダークシャーマンだった。
 ルークがその前に立つと、はるかに大柄なダークシャーマンは座ったままでも目線が同じくらいの高さにあった。
 ダークシャーマンは呆然としていた。頭巾がとれているのも気づかないのか、しょんぼりしたようすでルークを見上げた。モンスターは、意外なほど童顔だった。蛇だった両手は身体の脇にだらんと垂らしたままだった。
 ルークは自分の手をさしのべ、ダークシャーマンの頭に触れた。頭の丸みに掌のくぼみをあわせ、やさしく動かした。
「ぼくの力を認めさせたら、その次は」
友達になる番だった。ぷるるん、ぷるるん……昔洞窟で出会った青紫の小さな柔らかいモンスターにしたように、ルークはそっと撫でてやった。
「何ヲヤッテイルカー!!」
ルークとダークシャーマンは同時にぎくりとした。あわてて見上げると、怒り狂った現場監督が闘技場の観客席で仁王立ちになっていた。
「殺セ、シメアゲロ!」
その怒声にダークシャーマンはさっと萎縮した。この種族の子供なのかもしれないとルークは思った。ルークはとっさにダークシャーマンの前に立ちふさがり、闘技場の壁越しに現場監督と向き合った。
「クソッ!」
聞き取れない言葉で現場監督はわめきちらした。
 突然、耳鳴りがした。同時に異臭が漂った。ダークシャーマンは立ち上がり、きょろきょろと顔を動かした。
「ルーク!」
振り返ると、ヘンリーがいざるようにしてこちらへ向かっていた。
「やばいぞ、どこか高いところへ」
ヘンリーに駆け寄った瞬間、足下が揺れた。
 土嚢を積み上げた仮設闘技場が崩れかけていた。その上に集められていた奴隷たちが悲鳴をあげた。人間の職人も、教団の兵士、奴隷監督さえ、あわてた顔で浮き足立っている。
 土嚢の壁の一番弱いところ、板を上下させる出入り口の周りがついに崩れ落ちた。
「つかまって。あそこまで行くよ」
もう一度ヘンリーの体を支えてルークは歩き出した。その瞬間、大きな揺れに襲われた。岩盤の真下で巨大なものが暴れているような縦揺れだった。
「うわっ」
闘技場から逃げようとした者たちが、たたらを踏んだ。土嚢が崩れ、岩盤に亀裂が走った。ルークたちはとても立っていられなくてその場にうずくまった。
 地鳴りがする。悲鳴がまじる。がらんがらんと騒音がするのは、あの鉄の檻が転がって落ちていく音だった。
 闘技場だったところは根こそぎに持ち上げられていた。地面だと信じていたところが坂になり、壁になり、すべてをふるい落として立ち上がっていく。オーバーハング、そしてついに反転した。
 奴隷、兵士、モンスター、すべていっしょくたに彼らは台地から下の崖へたたきつけられた。ルークたちも例外ではなかった。

 マスタードラゴンは尋ねた。
「本当に光の教団の者たちは、地震を起こしたのか」
ルークは首を横に振った。
「そうじゃないと思います。第一地震だけで岩盤が反り返るなんてことはありません。あれは、以前に見た“地の守り手”だったのではないかと思います。同じ臭いがしましたから」
赤紫に光りながら奴隷を生きたまま固めたもののことだった。
「変な色でしたが、スライムの一種じゃないでしょうか。キングスライムより大きくなった、あるいは大きくされたスライムで、たぶん、教団の呪文使いが操って、岩盤ごとひっくり返させたのでしょう」
マスタードラゴンはそっと大きな頭をルークに寄せた。
「ダークシャーマンを見破られた腹いせか」
「そうかもしれません。でもぼくたちだけではなく、その場にいた奴隷たち、雇われ職人たち、教団の兵士や一部のモンスターまで巨大スライムは崖の下へたたき落としてしまったんです」
「それからおまえたちはどうなったのだ?」
ルークはわずかに首を振った。
「崖の下まで一気に落ちたら命はなかったことでしょう。でも途中に岩棚があって、ぼくたちはそこまで落とされました。一昼夜、ぼくとヘンリーは死体の山の上で過ごしました」

 大神殿建設現場の周辺は、工事を行うために魔力で環境の厳しさを和らげていた。だが現場から距離のあるこの岩棚の上まではその恩恵は届かなかった。
 世界一高い岩山の上は、極端な低温だった。息が白く変わり、空気そのものが薄く鋭い刃のように皮膚を削いでいく。見上げても崖のずっと上の方でこちらをのぞきこんだり騒いでいるのがわずかにわかるだけで、救いの手はこなかった。
ほんのわずかな立ち位置の差が生死を分けたのだった。運の悪い者は先に振り落とされ、岩棚の上まで落下して負傷し、その上に奴隷や兵士が次々と振ってきてつぶされた。後から落ちた者はその上になったためにいくらか衝撃が弱くなり、生き延びる者もいた。
 ルークは、後者だった。が、このまま助けが来なければこの場所で凍死か餓死の運命が待っていた。大の字なりに横たわって空を見上げたままルークは呆然としていた。
 ふいに自分が、誰かの背の上に乗ってしまっていることに気付いた。顔は見えないが、奴隷の一人らしい。
 体重をかけないように動こうとした。その瞬間、激しい痛みが走った。どうやら落とされた時にやはり無事では済まなかったらしかった。
「大丈夫?」
それでもなんとか、真下の奴隷に声をかけた。泣き声、うめき声、ごぼごぼと声にならない喉の音。
 ルークは気付いた。ついさきほどまで生きていた身体が、どんどん体温が低くなっていく。日没前の光の中でも奴隷の皮膚から血色が失われ、白っぽくなっていくのがわかった。
 ルークの身体の真下で、ひとつの命が失せた。
 真下だけではなかった。あたりはぐちゃぐちゃになった人体の山だった。その山のあちこちから断末魔のうめき声が聞こえてきた。岩棚を吹く寒風とともに、ルークはそのなかにこめられた恨みを全身に浴びた。
「ヘンリー?どこ?!」
ほとんどパニックに近い状態でルークはその名を呼んだ。もしもヘンリーまで死んでたら、ぼくは、いっそ……。
「ここだ」
そのしゃがれた声に気づかなかったら、ルークは本当にその岩棚から身を投げていたかもしれなかった。
 ごめんねとつぶやきながら奴隷仲間の死体を踏みつけて動き回り、ルークはようやく友達を見つけた。
 ヘンリーはひどいありさまだった。元々斬られた傷はふさがっていなかった。死体と大差のない土気色の顔でこちらを見たが、手足は動かせないようだった。
少し動くだけで火のような痛みが走る。それでもルークは人体の山の下からヘンリーの身体を引っ張り出した。
「やったな」
凄い努力で口元を笑いの形にして、ヘンリーはそう言った。
「脱出、ちょい、成功だ」
ゲームだよ、これはゲームだ。そんな顔するな。暗黙の了解を受け入れてルークは答えた。
「どん詰まりだけどね」
「そうでもないさ」
ルークはヘンリーの隣に横たわった。二人で寄りそっている方が温かかったし、そうでもしないと、内容は威勢のいいくせに蚊の鳴くようなヘンリーの声は風に紛れて聞こえなかったのだ。
 あたりは次第に暗くなっていった。上からの助けは相変わらずこなかった。生き残っているかどうかわからない、しかも奴隷のために、教団員や兵士が暗闇の中危険を冒して崖を降りてくるとは、ルークには考えられなかった。
「見捨てられちゃったね」
そうつぶやいた。
「てことは、今なら誰も見てないってことだ」
ルークの言ったことを逆手にとって、ヘンリーが言い返した。
「おれたち、このまま逃げらんねえかな」
「逃げる……?」
ルークは、そうつぶやいた。
 高山の崖の岩棚の上は、真の暗闇だった。泣き声やすすり泣きも、ほとんど聞こえなくなっていた。
「痛みがひいたら」
「ああ」
「それで縄か何かあって、ふもとまで降りるだけの道が……」
「わかるといいな」
「せめて、灯り、たいまつ……」
「夜明けになればきっと」
「それに食糧と水と」
「山の中でもしかしたら」
何ひとつ持っていない。そんなことはわかっていた。怖かったのだ。ルークは、ヘンリーが沈黙するのがひたすら怖かった。斬られたあと出血がひどく、ひどく衰弱しているはずのヘンリーが死にはしないか、それが恐ろしくてたまらずにルークは話し続けた。
 唇を噛んで泣かないようにしていたが、だんだんルークは声が震え始めた。
 そのときふいにヘンリーが、岩棚の下の方を指差した。
「見ろ、ルーク、灯だ!誰か来るのかもしれないぞ」
「えっ?」
確かにルークの目は、あふれてきそうな涙でうるんでいた。だが、何か光があったら、見間違えるはずはない。
「俺と同じ角度に頭を向けて見ろよ。岩と岩の間さ」
かすれた声でヘンリーはそう言った。
「ほんとに光ったんだ。チカッチカッて」
「教団のやつらかな」
「かもしれないけど、そうじゃないかもしれない。地元の人間、漁師か何か」
「こんなとこまで人が来るのかな。でも」
もし、本当だとしたら。ルークの心はわずかな望みに揺れた。
「下界の人間なら、ついてこうぜ!ラインハットじゃなくたって全然かまわないさ。こんな地獄で8年暮らしたんだ。どんなとこだって天国さ」
ほとんど死にかけながら、ヘンリーはまさに必死に希望を紡ぎ出していた。
「ここでおしまいじゃない、“ゲーム”は続いてるんだ」

 マスタードラゴンは首を振った。
「あのあたりは、人間の集落がひとつ滅んでから人は住んでいなかったはずだ。エルフの湖と、天空の塔の残骸があるだけだからな」
とっくに知っていたその事実を、ルークはちょっとうなだれて受け入れた。
「ええ。そうです。ヘンリーは嘘をついたに違いないんです」
臆病や虚栄とは無縁の、不思議な嘘つき。
「でもぼくがあの暗い夜を生き延びたは、その嘘のおかげでした」

 夜が明けると、崖の上から救助隊が来ていた。救助というより、廃品回収に近いとルークは思った。
 ロープにすがってむち男たちが降りてきて、まだ働けそうな奴隷をピックアップして、上へ連れていくのだ。息があっても手足の損壊の激しい者は、とどめを刺された。
 恐ろしいことに、教団側のはずの兵士も全員が助けられたわけではなかった。
 ヘンリーの出血はおさまっていた。ルークとヘンリーは鞭男たちに見つかり、そのまま崖の上へ上げられてしまった。
「また、牢入りかよ……」
「助かっただけでもよかったよ」
引き上げられた奴隷の数は脱走事件の前よりずっと少なかった。
 彼らのすぐ横に、救助された兵士たちが集まって応急手当てを受けていた。みな口数が少なかった。頭に包帯を巻いた兵士が、石の上に座って青い顔でうつむいていた。
「あの人だ」
え、とヘンリーが言った。
「ほら、鍵の」
たしかヨシュアと言う名の、鍵束の持ち主。
「警備の兵士もいっしょに落とされたんだな」
ヨシュアは指で顔をおおっていた。
「なんで、どうして……」
と彼はつぶやいた。同僚や部下が何人も死んだようだった。
 別の兵士が、添え木を持ってやってきた。
「足に布を巻いたら、いっしょに兵舎へ戻ろう」
そう言われて、ヨシュアは青い顔でうなずいた。
「ナタンか。無事だったのか」
「後ろの方に下がってたんで、落とされなかったんだ」
ナタンはヨシュアの足もとにかがみ込み、添え木を当てて包帯を巻きながら、低くささやいた。
「教団に言いたいことあるんだろ?。おれは告げ口なんかしない。ためてないで吐きだせよ。今なら言えるだろう」
ヨシュアの喉がひくひくと動いた。わき目も振らないほど熱心な兵士の視界に、教団の独善や非人間的な奴隷の扱いなど、いろいろと新しいものが見えて来たのだろう。
「無理すんな、ヨシュア」
「無理なんかじゃない!」
ひとことヨシュアは吐きだした。ナタンはため息をついて布を巻き続けた。