ヘンリーのゲーム 10.処刑エンド

 その日、朝から大神殿では一番奥の壁、ステンドグラスをはめる大窓の工事をしていた。周りの石組みは複雑だった。ホレスは先頭に立って指揮をとった。職人にも徒弟にも意図的にホレスは大量の仕事を与えた。わき目もふらずに没頭しないと達成できないほどの量だった。そして自分はあちこちと動き回り、兵士たちには忙しく働いているという印象を与える。
 兵士たちがすっかり慣れきってさぼりだしたころを見計らって、自分の工房へ何か取りに行くような態度でホレスは現場を抜け出した。
 人がいないところへ来ると一目散に洞窟を抜け、台地を小走りに移動し、馬車隊の待機場所へ急いだ。目指すのは、空き樽を積んで下山する馬車だった。
 手周りの荷物は、こっそり腹にまきつけてある。岩陰を選んで動きながら、もし徒弟たちの報告が間違っていたらどうする、という疑いがしきりにうかんできた。
 まもなくその疑いは杞憂だとわかった。教団の召使が黙って列を作って山の上へひきあげてくる。それをやりすごしてホレスは馬車へ忍びよった。
 幸いなことに馬車の周りには誰もいなかった。御者はたぶん、これからの馬車の旅にそなえて休憩を取っているのだろう。
 ホレスは隠れられそうな空き樽を積んだ馬車がないか、いそいで見て回った。どういうわけか樽はひとつもなかったのだが、一番奥の馬車に大きな木の空き箱があった。嬉しいことに幌がかかっていて、うまく乗りこめば外から見えなくなるのだった。
「やったぞ」
 やせっぽち、ナマイキ、悪く思うな、と無言でホレスは念じた。馬車を見に来てもしあいつらもつれてこられるほど空きがあったら声をかけてやるつもりだったのだ。だが、呼びに行ったりしたら馬車は出発してしまうかもしれなかった。
 ホレスは頭を振った。そんなことを考えるなんて情が移ったか?俺は最初から裏切るつもりだったじゃないか、とホレスは自分自身に向かってつぶやいた。だからこそ、今日は大量のノルマを課したのだ。脱走は一人の方が成功しやすいに決まっている。
 一人で行く気ならどうしてあの子供らに手伝わせた?とホレスの中のホレスが尋ねた。ホレスは一生懸命いいわけを探した。どうせあいつらはあそこで死ぬ。奴隷なのだから。にもかかわらず俺はあいつらに技術を伝授し、武術まで教えてやった。おつりがくるくらいだ。
 本当にそうか?このルートで俺が脱走したら、教団の連中も警戒して二度とこの脱走ルートは使えなくなるぞ。
「仕方ないじゃないか!誰だって自分が一番かわいいんだ」
イライラしてそうつぶやき、ホレスは馬車の幌をつかんで荷台に足をかけた。
その瞬間、誰かの手がホレスの肩をつかんだ。
「何をしている」
全身の血が引いた。同時にかっと頭が熱くなった。脇に、背に、冷たい汗が浮かんだ。
 いくつもの手がホレスを馬車から引き離した。ホレスはからからの喉に無理に唾液を送り込んだ。
「乱暴するな。おれが何をしたって」
平静を装いながらホレスは相手に向き直った。
 それは教団の兵士たちだった。十二名、ということは二班が集まっている。うち一班の隊長はヨシュアだった。もうひとりはもっと年長の兵士で、そのすぐ後ろにホレスはもう一人知った顔を見つけた。高い酒を飲ませて馬車のことを聞きだした兵士だった。
 ホレスはショックが顔に出ないように怒っているふりをした。
「おれはちょっと人を探しに来ただけだ」
「誰を?」
「ああ、その」
ホレスは咳払いを繰り返した。
「名前は知らない。というよりも、その、下界へ降りる馬車なら、誰か俺の手紙を言付かってくれるやつがいないかと思ってね」
「さきほどと言い分が違う」
無表情にヨシュアが言った。
「うるさいぞ、若造!」
ホレスはいらいらした。
「俺は棟梁だ。そのくらい、いいだろう!」
そう言ったとたん、兵士が槍の穂先をいっせいにつきつけた。ひっとホレスは息を呑んだ。
「お前の判断は聞いていない」
と兵士は言った。
「教団が決めることだ。逮捕する」

 食べ物を盗んだり、脱走しようとした奴隷は、見せしめのため処刑されることに決まっていた。
 石工の親方は奴隷ではなかったが、教団側は事態を重く見て親方を公開処刑することに決めたのだった。
 脱走が露見した瞬間から大神殿の建設は完全に停止した。親方のもとで働いていた職人たちは、その場で一人づつ脱走との関わりを問いただされ、その後はそれぞれの宿舎に閉じ込められて兵士が監視に着いた。
 奴隷はすべて集められ、人数を数えて首輪と首輪を鎖でつなぎ、牢へ戻され、じっと座っているようにと言われた。
 ルークとヘンリーは最初に兵士につかまってさんざん鞭を浴びながら脱走について聞かれたが、もちろん知りませんで通した。そのあとは他の奴隷といっしょに牢へ戻され、お互いに言葉を交わすことさえできなかった。
 鉄格子の向こうでは人間の兵士とモンスターがじっと見張っていて、咳払いをしても兵士が見に来るほどの緊張感が漂った。
 牢へ戻されてどのくらいたったのか、やがて兵士たちに動きがあった。奴隷たちは視線を交わし合った。
「捕まったらしいな」
何人かがうなずいた。粛清が行われる。それは素肌にぴりぴりと迫りくる悪寒となってルークたちを締めつけた。夜明けまで奴隷たちは一人も眠らなかった。
 夜が明けると、奴隷たちは首輪付きで外へ出された。食事はもらえなかった。固まって兵士に連れられ、奴隷は建設現場へ出た。早朝の空はまだ紫色をしていた。
 言葉少ない命令によって、奴隷たちは大神殿外壁の石組現場で準備を始めた。
 外壁は、外から見える部分と建物の内側から見える部分になめらかなあるいは彫刻を施した化粧石を使い、その中に壁芯を入れる。たいていは砕いた粗石をモルタルにまぜたものだった。いつも作業の時は奴隷監督がわめき声をあげて命令するのだが、その日は人間の職人が小声で石組の指示を出すだけだった。そのことがかえって緊張をかきたてた。
 作業はとちゅうで中断を命じられた。奴隷は下げられた。そして兵士たちが数名で、親方を連れてきた。
 たった一晩で、親方はがくんと年をとっていた。天才肌で頑固で、いつも気短に怒鳴り散らしていた中年のかっぷくのいい男は、落ちくぼんだ目としまりのない口元をした頼りない年寄りになっていた。両側から兵士が支えるようにして歩かせているのだが、靴もはいていない足が奇妙な方角へねじれている。足の爪がなくなっていた。
 ルークは傷ましさに息を呑みこんだ。親方が助からないことを奴隷も職人たちも悟ってしまう何かがあった。いわば、いけにえの印のようなものが親方に刻まれていた。
 親方の目の周りには、殴られたらしく黒いあざができていた。うつろだったその目が外壁を見た途端いぶかしげになり、それから明らかな恐怖の表情を浮かべた。
「待て!やめろ」
足をその場に踏ん張って親方はいやがった。が、兵士たちは軽々と親方をひきずってきた。
「やめてくれーっ」
体格のいい兵士たちが無感動な顔で親方を内壁と外壁の間へ放り出し、内壁に押し付けるようにして立たせた。外壁のほうが内壁よりわずかに低く、親方の上半身が見えていた。
「壁芯を入れろ」
無表情に命令した。兵士たちが親方の足もとに粗石をシャベルで積み上げ、奴隷たちがモルタル入りの舟を持ってきた。
「待ってくれ、何でもする!」
親方の体は縛られていて、しかも左右の石組にはまりこんでいた。動けない親方は左右に首を振って絶叫した。
 兵士の一隊の後ろから、現場監督がやってきた。金茶色の鱗のワニ顔のモンスターだった。
「オマエハ、ワレワレノ、シンライヲ、ウラギッタ」
「悪かった、なあ、頼む!これからはまじめに働く!第一、俺なしでどうやって大神殿を完成させるんだ!」
あいかわらず感情のわからない顔で現場監督は告げた。
「ウラギリモノハ、イラナイ」
親方の顔のわきからモルタルが流し込まれた。
「やめろーっ」
壁の中に閉じこめられようとしていることに気づいて、親方は叫んだ。
「ま、待て!処刑をやめたら秘密を教えてやる」
「イラン」
「大事なことだ!脱走が起こるぞ」
脱走の一言に、兵士たちの手が止まった。現場監督は黙って考え込んだ。親方は叫んだ。
「いいか、脱走を企てたのは俺じゃない。奴隷の方だ。俺は計画に載せられただけだ!首謀者を教えてやる。だから、助けてくれ!」
誰かがぐっとルークの手をつかんだ。ヘンリーだった。唇を引き結び、蒼白な顔をしていた。
「あいつ、売るぞ」
ルークは胸を打たれた。この地獄のような大神殿の建設現場で、親方はずっと特別な存在だった。保護者で、教師で、師匠で、それ以上の者だった。親方が裏切る。どんな苦境でも笑い飛ばしてきたヘンリーが、真剣な目をしている。ほんとなんだ……。ルークは言葉に詰まった。
「ドレイガ、ダッソウノ、シュボウシャ?アリエナイ」
「あるとも!」
親方は必死の形相で声を振り絞った。
「あいつだっ」
それは告発だった。
「あの徒弟のやせっぽちだっ」
奴隷、職人、兵士すべての視線がヘンリーの方へ集中した。いけにえの印、さきほど親方の上に確かにあったそれが、やせっぽちの奴隷少年の上に移り、ぎらぎらと輝きだした。
「あいつがぜんぶ企んだんだ」
「ドレイノ、シカモコドモデハナイカ」
「あいつにはできる。あいつはライン……」
現場監督は兵士に向かってちょっと顎を動かした。ヘンリーたちのそばにいた兵士の一人が、無造作に剣を抜き、ヘンリーに切りつけた。顔をそむけ、むき出しの腕をあげての抵抗は、あっけなく砕かれた。腕と脚から血しぶきがあがった。声もあげられずにヘンリーはその場に崩れ落ちた。
 ルークは声を呑んで一生懸命相棒を支えた。だが、それ以上のことは何もできず、奴隷たちも誰ひとり動かなかった。
 現場監督は興味無さそうに親方を一瞥し、兵士に命じた。
「塗リ込メロ」
兵士たちは親方の顔の前、さらに頭の上まで石を積み上げ、外壁と内壁の間に粗石とモルタルを流し込んだ。
 くぐもった悲鳴が聞こえた。言葉は不明瞭だったが、それが苦い絶望の断末魔であることは、よくわかった。

 絶望とはどんなものか、よく知っているつもりだったのに。
 早朝、師匠兼親方兼裏切り者は壁に塗り込められて死んだ。兵士に切りつけられたところはまだ出血している。相棒はあおざめた顔で黙っていた。二人とも両足は鎖でつなぎあわされているので走ることはできそうにない。第一この山頂台地からどこへ向かって走ればいいのか。両手首は、体の前で手錠をかけられている。首だけは首輪のみで鎖はついていない。これから獣にくわせる奴隷に、余分なものはいっさいいらないからだ。
 ヘンリーは目を閉じた。
 俺は、絶望のなんたるかをまったくわかっていなかったわけだ。小さく自嘲の笑いが出た。
 親方の最後の言葉が何だったか、ヘンリーにはわかる。あれは自分、ヘンリーをラインハットの王子だと告発する言葉だった。知ってやがった、ヘンリーはそう思った。知っていながら俺を売るのを、まったくためらわなかった。正真正銘ラインハット人だ、と思ったとたん、変な笑いが出そうになって口を手で押さえた。
 親方処刑の数時間後だった。いつもなら奴隷たちが石切場や大神殿建設現場で働いている時間だった。今日は全員、一カ所に集められている。全員、これから何が起こるかわかっているようだった。
 食料を盗んだ者、脱走を試みた者は見せしめのため、みんなの前で殺される。数年前に逃げようとした男たちがいたが、彼らは奴隷を集めたなかで、首を切り落とされた。今回は違う趣向らしい、とヘンリーは思った。
 教団の人間が兵士や奴隷を使って、屋外に一種の闘技場を造っている。重い土嚢を奴隷たちが列を作って運んでいき、高く積み上げていた。
 あれが俺たちの死に場所か。ルークと二人でヘンリーは、手足をつながれ、座らされていた。ヘンリーは血を流し過ぎてふらふらしているし、ルークは拷問じみた尋問で背中も手足も皮膚が破れるほどむちで打たれて傷だらけだった。土嚢をしょったら薄いかさぶたさえ開いてしまっただろうが、ショーの主役は労働を免れるらしい。そう思ってまた妙な笑いがこみあげてきた。
「まずいな」
ヘンリーのゲームは破たんしかけていた。バッドエンドもいいところの、処刑エンドと来た。恐い。まったく抵抗のすべを持たずに、あの中でヘンリーもルークも死ぬのだ。親方の処刑を見てからずっと、吐きそうになるほど怖かった。目と耳だけが異常に冴えてあたりのようすを探っているが、頭は干からびてからからになっていた。どっちを向いて何をやっても取り返しのつかない間違いを起こしている気がする。からからになりすぎて、先ほどからしょっちゅう変な笑いが沸いてくるのだ。
 兵士が近寄ってくるたびにぎくっとする。
 したくができたのか。
 まだか。
 何が来るのか。
 不意打ちか。
 痛いだろうか。
 なりふりかまわず叫びたてた親方の気持ちがわかるような気がした。
「うっ」
隣でうめき声がした。相棒は痩せた膝の間に額をつけていた。
「ルーク」
ルークは顔を上げた。目ばかり大きく見える、やつれた顔だった。どうすればいいの?とルークの目が尋ねていた。
 親方の言うように石を造れなくて殴られたとき、岩牢内の年長の奴隷たちに食べ物を取り上げられたとき、現場で反抗して奴隷監督に完膚なきまでにムチを浴びたとき、いつもルークは無言で尋ねてきた。何度慰め、励ましてきたことか。
かけてやる言葉が、何もない。かりそめの慰めさえヘンリーには持ち合わせがなかった。ヘンリーは体をルークの方へ寄せた。ルークも寄り添ってきた。
 絶望とはどんなものか、よく知っているつもりだったのに。
 今、相棒を元気づける言葉さえ、ヘンリーは持っていない。そしてそのことをルークにも知られてしまった。
 うっ、くっとヘンリーは笑わないためにうめいた。
 絶望とは、どんなものか。
 あのとき、古代遺跡でゲマに捕まり、ここへ魔法でつれてこられたときに、絶望を理解したと思ったのに。生まれた土地から保護者もなく引き離された、元王位継承者。いっしょに来たルークは言葉さえ失い、まるで動物のようにうめくだけになっていた。
 絶望とは……。
 ふとヘンリーは思い出した。
「ルーク、あのとき、おまえ」
え?という顔で相棒はこちらをみた。
 最初に考えたのは、単純なことだった。意識があるから死ぬのが怖いのだ。気を失ってしまえば怖くないかも。ルークがあのときと同じ状態になれば、少なくとも生きながら引き裂かれる苦痛から解放してやれる。
「ええと、八年前だ。ここへ来たときだ」
「覚えてないんだ、ぼくは。人間じゃないみたいだったってきみが言ったけど」
 人間じゃなかったら何だ?ヘンリーの考えは、このとき非論理的な飛躍を行った。人間じゃないなら、モンスターだ。モンスターの、何?
「ドラゴン、か何か」
ルークは目を見開いた。
「思い出せ」
自分でもヘンなことを言っていると思う。
「あの人、パパスさんが亡くなった時のこと」
ひくっとルークが息を呑んだ。自分が手に入れた唯一の光に向かってヘンリーはささやき続けた。
「おまえの心はあのとき、あっち側へ行っちゃったんだ。もう一回行かれるか」
「あっち側って」
「なんか、その、人間とモンスターの間の細い線のあっち側だよ。見ろ」
ヘンリーは仮設闘技場へ顎を向けた。
 もう土嚢詰みは終わっていた。闘技場の出入り口は上下にスライドさせる板だった。そこが開いて大きな檻が運び込まれていた。檻の中で蠢くものがあった。
「蛇?」
とルークがつぶやいた。
 二頭の大蛇が檻の中にいた。紫の地肌に筋が入っている。人の胴体よりずっと太い大きな蛇が互いにからみつき、丸い目を見開き真紅の舌を出したりひっこめたりしながら檻の中で出番を待っていた。
 体をくっつけているヘンリーには、ルークの腕に鳥肌がたったのがわかった。
「あいつら、たぶん獲物に巻き付いて絞め殺すか、あのでかい頭で牙をたてるんだ」
ふるえながらルークはうなずいた。
「もしおまえの心がモンスターの側へ行ったら、あいつらはお前の言うことを聞くかもしれない」
「本当?」
わからない。わかるはずがない。モンスターの心を持ったルークが、ヘンリーを助けようと思わないかもしれない。全身が縮みあがりそうになる。
「これは、賭けだ」
どうにか言葉を絞り出した。ドラゴンだという直感は、ヘンリーの中で急速に揺らぎ、とらえどころのない影のようなものになり下がってしまっていた。
「とにかく、やってみろ。どんな目がでるかわからないが、このままじゃ絶対死ぬ」