ヘンリーのゲーム 7.牢名主

 マスタードラゴンは竜の息がかかりそうな距離に頭を近づけ、そっとルークの額に押しつけた。
「おまえたちが耐え忍んだ月日については、理解しているつもりだったが」
そう言って言葉を切り、静かに付け加えた。
「さぞ、つらかっただろう」
ルークは片手をあげ、竜の首にふれ、そっとなでた。
「そんなことなかった、なんて言うことはできません。こうして振り返ると、もう二度とあんな思いはしたくないし、第一あんな暮らしをもう一度できるかどうかわかりません。でも、あの当時、ぼくたちは無我夢中でした。」
ルークは首を振った。
「奴隷時代の話は、細かいところはとばします。結論だけ言うと、ぼくたちは食糧倉庫から品物を盗み出す方法を編み出しました。ぼくら、というか、ヘンリーが見つけたルートなのですが」
「ほう?」
ルークは人差し指をあげた。
「食糧倉庫は教団本部のある台地のはしにありました。大神殿も同じ台地に建てられることになっていました。光の教団は、使い捨てにする奴隷のためにわざわざ宿舎を建てるような手間はかけず、その台地の地下、天然の洞窟を柵で仕切って岩牢にしていたのです。その岩牢の奥、ぼくとヘンリーが月明かりを得るのに重宝していた壁のくぼみのすぐ外は、食糧倉庫の向かい側の崖の真下に位置していました」

 最初爪の痕だったヘンリーのカレンダーは、最近では石工の親方にもらった石筆で彫った白い筋になっていた。刻み目は二人が寝床にしているむしろのそばの壁をほとんど占領し、さらに拡大していた。
「何をやってるんだ」
と聞かれることもあった。捕まってから何日たったか印をつけていると答えると、たいていの奴隷はゆがんだ笑いを浮かべて"ムダなことをやってんじゃねえよ"と言ったが、印を消したりじゃましたりする者はいなかった。
 いつのまにか、二人は牢の中で六年目を迎えていた。
 すぐにくたばると思われていた二人の子供は、徒弟として石工に拾われたことで最初の数年を生き延びた。その数年の間に、最初に岩牢にいた者はほとんどいなくなった。ケガ、病気、老齢、または刑罰などで死に絶えたのだ。残ったのは本当に体力があり、それを維持するために食い物などを独占する権力を握った者だけ。それは牢内の絶対権力者、いわば牢名主となった。
 いつだかルークが、飢餓牢の奴隷に食べ物を分けてやってくれと頼んだ相手も牢名主の一人だった。出身は誰も聞いたことがないが元は船乗りらしい。頑健な体つきで顔の真ん中に団子鼻がでんとかまえており、「大鼻」と呼ばれていた。大鼻は情け深い権力者ではなく、そのときのルークの頼みを拒絶して逆にルークをさんざん殴ってやつあたりをしたのだが。
 岩牢には絶え間なく新しい奴隷が補給されていた。牢名主は当然の権利として彼らをねじ伏せ、食糧を取り上げる。新しく入った者たちと古参との間ではしょっちゅう諍いが起こっていた。
 それは突然始まる。疲れ切った奴隷たちが岩牢へ戻され、背後で扉が閉め切られ、鍵がかけられる。一度鍵がかかってしまったら、よほどの騒ぎがない限り当直の兵士は見に来たりしない。
 食事係の奴隷が牢の外でその日の食事を受け取り、大鍋やパンのかごを抱えて牢へ戻る。
 そのとき、それは始まった。
「てめぇに渡す飯はねえぞ!」
薄暗い岩牢全体がさっと緊張に包まれた。ずっと牢内の食糧や居心地のいい場所を独占してきた牢名主、傲慢な権力者大鼻に、ひと月ほど前外からつれてこられた若い奴隷が反発したのだった。背が高く筋骨たくましい若者で、頭髪の色から「赤毛」と呼ばれていた。
「やかましい、死にたくなけりゃ、さっさと寄越せ!」
「本気でやるか」
二人の男はにらみあった。
 岩牢は洞窟のどん詰まりだった。天然の岩壁に不規則に開いた穴から薄明かりがもれてくるだけ。その光の中で牢名主と新人は立ち上がって身構えていた。ほとんどが闇に沈むなかで眼だけが光をうけてぎらぎらしていた。
 やっかいなことになりそうだ、と他の奴隷たちは自分のむしろを引きずって壁際へ後ずさった。喉から手がでるような匂いのする大鍋とパンかごは二人の真ん中にある。誰も取りに行かれなかった。
 突然赤毛がなぐりかかった。多少、腕に覚えのあるようすだった。老獪な大鼻はひょいと避けて逆に足を払った。
「もらった!」
岩床に尻餅をついた相手の顔めがけて拳をふるおうとした時だった。大鼻の後ろから別の奴隷が数名襲いかかった。大鼻はあわててふりむき、応戦した。が、今度は赤毛に背後を取られた。
「うわぁ!」
一対四~五ほどの戦いで、決着はすぐについた。興奮した声がいくつも漏れた。どうやら赤毛は牢に入れられてからのひと月の間に、牢名主の下についていた数名を味方につけたようだった。
 奴隷たちは大鼻を岩床へ押さえつけた。そして赤毛が大鼻の右腕の肘を捕らえた。暗い牢の中に絶叫が響いた。壁際に逃げていた他の奴隷はこわごわとそのようすを見ていた。大鼻は、腕をへし折られたのだった。
 ほんのすこし前まで牢内の絶対権力者だった男は、闇の中にうずくまってすすり泣いた。この腕ではもう働けない。兵士は彼を、明日の朝飢餓牢へ入れるだろう。どれほど抵抗しても、十日もすれば否応なく餓死する運命だった。
 奴隷たちはそれを知っていた。知っていてもなすすべもなかった。すすり泣く大鼻から目を背け、とりあえず今夜のパンを確保しに真ん中へ群がった。
「おい、何をやってるんだ、おまえら」
新しい権力者が言った。
「誰に黙ってパンを取ってるんだ。俺たちが先だぞ」
それが、赤毛が古参奴隷数名を味方につけるための手みやげだったのだ。暗澹たる沈黙が訪れた。
「不満があるなら、かかって来いよ」
一人の牢名主が独占する食糧と、五名ほどが独占する食糧では、分量が違う。ほかの奴隷が手に入れられる食べ物は微々たるものになるだろう。だが奴隷たちの間には静かなあきらめが漂っていた。
「待てよ」
と誰かが言った。反乱を起こした者たちは、暗闇を透かしみた。薄明かりの中に、薄汚い奴隷が進み出た。
 身長は大人と同じくらいだが、骨がでそうなほどやせている。むしろでできた奴隷の着る服をつけ、手足はむきだしで裸足だった。脂にまみれた髪はぼさぼさだった。
「誰かと思ったら、ガキか」
と赤毛は言った。彼ともう一人の少年が、この牢の中でも古参であることは知られていた。だが彼らは昼間はうつむいて従順に働いてはいなかったか。片手を腰に当てて薄笑いさえ浮かべながらこちらを見ている姿は別人のようだった。わずかに入る光の中でその目が緑色に輝いて見えた。
「何か用か」
「あんたらは一対五で勝った。でもこの場で、五十対五のケンカになったらどうなる?」
赤毛は周りを見回した。
「こんな死に損ないどもが、ケンカするかよ」
「わからないぜ?」
やせっぽちのガキはにやりと笑った。
「おい、みんな!オレについてくれたら、飯の食いっぱぐれがないようにしてやるぜ。どうする?」
いくつもの目が彼に集中した。赤毛は嫌な気がした。やせっぽちは、自分と同じやり方でもっとたくさんの味方を得ようとしているのだった。
「みんなで分けたら分け前が減る。それはどうするんだ」
「決まってるだろう、追加を持ってくるのさ」
は!と赤毛は笑った。
「よし、ベルを鳴らしてボーイを呼べよ。追加注文、10皿頼め。ああ、酒も追加してくれ!」
牢名主を倒した五人は、背ばかり高くなった子供をあざけった。が、やせっぽちは動じなかった。
「酒だってさ。どうする?」
そう言って傍らをみた。
「う~ん、お酒は別のところに保管してるみたい」
まじめな声がそう答え、明かりの中に出てきた。黒い髪を首の後ろでひとつに束ねた、もう一人の古参の奴隷だった。赤毛にはわからない理由でナマイキと呼ばれていた。
「おい」
と赤毛が言った。
「おまえら、まさか」
にやりとやせっぽちは笑った。
「白いパン。チーズ。ハムの塊」
ただそれだけの単語が岩牢の中にはっきりとした変化をもたらした。長い間あきらめていた何かが、奴隷たちの目に宿った。
「手にはいるのか?」
「本当に?」
「俺の分もあるか?」
じり、じり、と奴隷たちは壁際から中央へ寄ってきた。
「待て待て!」
と赤毛は叫んだ。
「こいつの言うことを信用するのか!ただのガキだぞ」
「ああ、ガキだよ。でも石工の親方の徒弟をけっこう長くやってんだ」
そう言って傍らの相棒に目で合図をした。
「証拠を見せてやるよ」
相棒の黒髪「ナマイキ」は壁際へ引き返すと、手にしたもので壁の窪みを数カ所をたたいた。そこはこの二人が寝床にしている場所のすぐ上だった。まるで上げ戸のように岩の一部が外側へ持ち上がった。冷気が吹き込んできた。
「あれが見えるか?」
やせっぽちが言ったのは、穴の向こうの光景だった。
 暗い岩肌に月光が射しているのかほのかに光って見えた。奴隷の岩牢は大神殿予定地の地下洞窟だが、その外側は断崖絶壁である。奴隷たちが見たのは向こう側の崖の岩肌の中央を縦に割るラインだった。その真下に何かつながれ、赤い布きれが結びつけられていた。
「なんだ、ありゃ」
「今日の午後おれが二人分働いている間に、相棒が親方の合い鍵を使って食糧倉庫へ忍び込んで、窓から食い物を紐に結びつけて下へぶら下げたんだ」
やせっぽちはそう説明しながら、自分の腕から鎖を外し始めた。この岩牢周辺で使われるよりかなり細目の軽いチェーンで、鎖の先には鉤のかたちに曲げた針金がつけてあった。完全に鎖をはずすと、彼は窓に向かって短めに持ち、身構えた。ひゅん、と音を立てて一度鎖の先端を回転させると窓の外、目印の赤い布めがけて鎖をとばした。
 一回目は失敗した。が、あわてるようすもなく、もう一度投げた。
「惜しい」
思わず見ていた奴隷がつぶやいた。
 三回目のトライで、ついに鎖の先の鉤が荷物を捕らえた。ゆっくり、彼はそれを引き寄せた。最後は相棒が窓から手を伸ばしてその荷物をつかみ、中へひきこんだ。自分たちが身につけている服と同じむしろのずだ袋だった。
 二人は岩牢の地下へ、その中身をぶちまけた。
 奴隷たちは息を呑んだ。たっぷりしたパンのかたまりがいくつも転がりでた。そして濃厚な匂いの、厚みのあるチーズ。表面に浮いて固まった脂で旨みの見当がつくようなハム。
「ほんものだぁ」
涎のでそうなつぶやきがあちこちから聞こえた。
「話は終わってないよな」
鎖使いはパンの塊を拾い上げてそう言った。
「さあ、どうする?そこの飯、欲しけりゃ全部食えよ。おれたちはこっちで豪勢にやらせてもらうからよ」
岩牢は薄暗かったが、奴隷たちは暗がりに目を慣らしていた。石工の徒弟組と牢名主反乱組の対決をじっと見守っていた。
「おい……」
反乱組は混乱しているようだった。
「待てよ。おれたち喧嘩しなくてもいいじゃねえか。なかよくやろうぜ」
やせっぽちは、どうする?という顔で相棒に視線を向けた。ナマイキはうなずいた。
「なかよくやるんなら、ぼくたちの言うことも聞いてください。すべての食べ物は公平に分けてください。ここには年寄りも病人もいます。そういう人もちゃんと食べられるようにしてください」
「分け前が減るじゃねえか!」
「みんな同じだけ食べるんです。あなただけ少ないと言うことは、ない」
「足りなくなるぞ」
「不足分は盗ってきます」
反乱組は沈黙した。
 奴隷の一人が動いた。ここでもう一年ほど働いている小柄な男で「目細」が通称だった。
「おれはこっちの兄ちゃんたちにつくよ」
期せずして賛成の声があがった。
「あんたらについても、食い扶持が増えるってことはないだろうし」
「おい、あんたら、この兄ちゃんたちが命がけで持ってきたパンを食おうってんだろ?でかい顔できると思ってんのか?」
ざわざわと岩牢全体が騒ぎ出した。先に反乱に加わった者も、肉とチーズの匂いに惹かれているようだった。
「うるせぇっ」
赤毛は、形勢不利を悟った。
「おまえらしっかりしろよ!やっと俺らの天下じゃねえか。たかがガキ二人だ。ぶちのめしてどっちが上か教えてやろうぜ」
赤毛は早口にまくしたてた。
「おい、どっちか一人、出ろ。決闘だ。俺が勝ったらおまえら死ぬまでパシりだからな」
やせっぽちはにやっとした。
「五対ニじゃないのか?まあいいや」
ナマイキがすっと前へ出た。
「ぼくがやる」
ああ、と言ってやせっぽちは笑った。
「殺すなよ。あとが面倒だ」
「こっちのセリフだろうが!」
赤毛は真っ先に殴りかかった。
 奴隷のナマイキことルークはこのとき十二才にすぎなかったし、慢性的な栄養失調でもあった。ただし背はかなり伸び、腕も長くなった。なおかつ、ここ三年ばかりヘンリーといっしょに石工の親方に武器の使い方そして体術を仕込まれていた。またこの当時は誰も知らなかったのだが、サバイバルに関しては父のパパスによって、グランバニア流の英才教育を与えられてもいたのである。
 一方、赤毛はポートセルミのごろつきだった。相手を光の教団と知らずにいちゃもんをつけた結果、ここへぶちこまれるはめになっていた。もともと力自慢でケンカっ早いが、一月の入牢で体力は衰えていた。
 赤毛の拳がナマイキの顔を捕らえた。顎をしたたかに殴られて、ナマイキはかるくのけぞった。
「へっ、先手必勝だ!」
ナマイキは倒れなかった。その場に踏みとどまり、片手であごをおさえ、それからまっすぐ相手を見据えた。
「こんなものかい?」
赤毛はかっとした。もう一度体重をのせて殴ろうとしたとき、ナマイキがふと横にブレた。ぱし、と音を立ててナマイキは赤毛の手首をつかみ、もう片方の手で腹に拳をたたきこんだ。
 ぐぇ、とうめいて赤毛はうずくまった。呼吸さえできない痛みが下腹にうずまいていた。つかまれた腕が、むりやりに背に回された。肩の関節を絞り上げられる苦しみに赤毛は悲鳴をあげた。腕を背にねじりあげたまま、ナマイキは言った。
「降参しますか、それともこの腕、折りますか?」
「こうさん、す、る」
ナマイキはつかんだ手を離した。
ふう~というためいきが牢内からわき上がった。
「さあ、みんな、飯だ飯だ!」
ぱんぱんと手をたたいてやせっぽちが言った。
「俺たちは何人いる?そこからいこうぜ。心配しなくていい、みんな公平に分けるからなっ」
それは、ここ数年の間敷かれていた独裁的な牢名主体制が終わった瞬間だった。不思議な安心感が牢内に生まれていた。無気力だった奴隷はいそいそと列をつくり、自分の分け前をおとなしく待った。赤毛とその仲間たちも例外ではなかった。
食べ物の量を人数で割り、やせっぽちことヘンリーは暗算で一人分を計算した。
「待ってよ、一人足りない」
とルークは言った。
「あの人も勘定に入れて」
それは元の牢名主、大鼻だった。
「あのなあ、おまえ一回あいつにボコられてんだぞ?」
「あ、うん。そうだね。それで?」
ヘンリーは片手を額にあててため息をついた
「ああ、わかったよ。おまえならそう言うよな、やっぱり……」

 そのころに比べると遙かに成長したルークは、小さく頭を振った。
「あんなことをやったのは初めてでした。今考えると、かなり無茶でした」
今のルークは地上最強の戦士であり、勇者であるその息子が成長するまではおそらくその地位は揺るがない。
「僕はいろいろな戦いを経験してきましたが、あれはおそらく一番原始的な戦闘でした。けれど、計り知れない価値のある勝利でもありました」
しかし、とマスタードラゴンは言った。
「おまえたちはそれでは、数十人の奴隷たちを延々と養うはめになったのではないのか」
「ええ、まあ。僕たちのいた岩牢とその隣の女子牢の両方に、僕たちは食物を初め、いろいろなものを供給し続けました。公平に言ってある程度の食糧は教団側から供給されていました。ぼくたちがやったのは不足分を補ったことなので、思ったほど大量に持ち込む必要はなかったんです」
月明かりしかない暗い、底冷えのする牢の中、身を寄せ合い、わずかな食べ物を分け合って食べた記憶をルークはよみがえらせた。
「あそこで食べたよりもおいしいチーズを、ぼくは知りません。それからある意味、一番値打ちのあるものは、火でした。ぼくたちは壷の中に灰を詰め炭を埋けたものを牢内に持ち込みました」
「そうか。寒かっただろうからな」
とマスタードラゴンはつぶやいた。ルークは首を横に振った。
「あれだけ高い山の上にいるにしては気温は高かったのです。そうしないとたぶん、大神殿の建設に使っているモルタルがうまく固まらなかったのでしょう。それでもぼくらのいた岩牢には暖房などありませんでした」
「だが、炭壷なんぞがあったら、すぐに兵士に見つかったのではないのか」
「だから、慎重に隠しておきましたよ」
「どこに」
「壁の穴から鎖で外につり下げておきました。もし誰かが岩牢を外側から見たら見つかっていたでしょう」
くっくっとマスタードラゴンは笑った。
「工夫次第で生きられるということか」
ルークは苦笑した。
「綱渡りでしたけどね」