容疑者ピエール 6.ヨーク師の実験

 王城警備隊所属の兵士たちが市内の巡回任務からもどってきた。二名ひと組でグランバニア城一階の城下町を見回るのだ。山一つくりぬいた広さのあるグランバニアの町はかなりの面積があるため、全体で8つの地区に分けてそれぞれに支部を置き、兵士を巡回させることになっていた。
「ただいま戻りましたーっ」
「ただいまっすーっ」
若い兵士たちが大声をあげて王城警備隊支部のひとつへ入ってきた。
「おつかれさんっ」
「次、出まーっす」
「おうっ」
 夜も更けたころだった。一般市民の活動は他の国と同じように日没で一区切りとなり、あとは夜間営業である。犯罪予防と治安維持が目的なので、警備隊の巡回は夜からが本番だった。
「お茶がはいったよ」
「おっ、うれしいねえ」
「今夜はどうよ」
「まあまあだな。家出一人、迷子一人、スリ三人、ケンカ二件、それに客引きのお姐さんがた。いつものとおりだ」
外はグランバニア城の中央大通りである。商店の多くはもう閉店だったが、脇道にはいくつも居酒屋があり、一日の疲れを落としたい、喉を潤したいという市民がそぞろ歩いていた。ときどき飲みすぎた者が路上で眠りこんだりケンカになったりすることもある。ケンカの仲裁をしたり酔っぱらいを保護したりするのも警備隊の仕事だった。
 その日、騎士ピエールが外国人を殺したとされる事件の裁判二日めの夜のこと、王城警備隊支部は、毎晩繰り返されるカオス状態だった。
「何すんのよ、あたしは知らないって言ったじゃないのよ」
甲高い女の声が抗議している。
「はいはい、おまえさんが持ってた財布は拾ったんだよな?……って今月よそ様の財布持ってたのは5回目だろうがっ!」
「痛いっ、痛たたたたた……女の子は丁寧に扱いなさいよっ」
「三十路すぎの“女の子”がどこの」
世界にいる、と、その兵士は言いかけて口を閉じた。
どうした?と言おうとして、奥で書類綴りを繰っていた古参の兵士が目を見開いた。
 居酒屋で殴り合いをしていた男二人を説教していた兵士が、ふと入口の方を見て、驚きのあまりのけぞった。
 支部の入口に、背の高い老人が姿を現したのだった。
 グランバニア風の襟の詰まった上着は暗い青、寒さよけのマントは黒。鷲鼻に眼光鋭い、立派な風采である。グランバニア宮廷公式の“正義の代弁者”ヴェルダー卿だった。
「閣下」
年配の兵士が驚いてつぶやいた。卿はこの職に就く以前、長く王城警備隊を率いてグランバニア城を守っていた経歴がある。古参の兵士は卿の顔をよく知っていた。
「支部長はおられるか」
兵士はびしっと背筋を伸ばした。
「ただいま呼んでまいります!」
うむ、とヴェルダー卿はうなずいた。
「こちらでとある方と待ち合わせをしておる。私と」
そう言って卿は振り向いた。
ヴェルダー卿の背後に、別の人物が立っていた。ラインハット風の仕立ての服と羽を飾った帽子、ケープの男だった。
「ラインハットのヘンリー殿だ」
大通りの喧噪の中からヘンリーは足を踏み入れてきた。
「こんばんは」
 法廷で争う敵手どうしの二人が王城警備隊支部の入口に並んで立っていた。支部内の兵士たちやスリ、酔っ払いなどは、いきなり現れた二人にこっそり好奇の目を向けていた。ヴェルダー卿は腕を組んでうつむき、ヘンリーは逆に片手を腰に当てて珍しそうに支部の中を見回している。二人とも連れだってやってきたのだが、互いに視線を合わそうとしなかった。
 まもなく知らせを受けた支部長が奥から出てきた。
「これは、お二方、おそろいで」
支部長は王城警備隊分隊の副隊長だった。かつてのヴェルダー卿の部下にあたる。
「こちらでヨーク師とお目にかかることになっているのだが」
「ヨーク師は先にお見えになって、実験の用意をしておられます」
「では、裁判所の許可も?」
「はい。実験を許可する旨、オジロン様より先に連絡がございました。どうぞ、こちらへ」
支部長は二人を階段の方へいざなった。
 王城警備隊の支部は、地下に留置場を持っている。その日の宵に殴り合いをやった二人の男は、今夜はここに泊ることになるだろう。
 地下室は床、壁、天井までレンガで造られている。壁はくぼみをつけてそこに太いろうそくが据えられ、黄色っぽい光を放っていた。パパス王の時代からこちら、王城警備隊の支部で拷問などあったためしはなかったが、それでもどことなく暗い雰囲気が漂っていた。
「失礼ですが」
初めてヘンリーが支部長に声をかけた。
「おれは何度かグランバニアにうかがっていますが、ヨーク師と言う方には初めてお目にかかります。どういった方ですか」
先に立って歩いていた支部長が首をやや後ろに向けた。
「グランバニアの町の中に教会がありますね。あの教会の、二代前の神父様です。少年のころから英才の誉れ高く、パパス王のころに特別に許可されてテルパドールへ留学された経験がおありです。ご専門は解毒の技と薬学で、グランバニア近郊の薬草についての書物を書き、オジロン王の代に王室へ献上しています」
 牢をいくつか過ぎた先に、証拠品保管庫があった。保管係の兵士たちが支部長一行を見て敬礼した。
 保管庫の扉の前に大きな木の作業台が据えられていた。台の前に長上着を身に付けたぽっちゃりとした小柄な男が立っていた。赤ん坊のようなピンク色の顔だが、中年以上の年らしく、髪はあまり残っていない。柔らかそうなほほに埋もれそうな目は小さめだが、ひどくあどけない表情だった。
「先生、これはどちらに?」
腕いっぱいに荷物を抱えた助手らしき若者が聞いた。
「ぼくがやるよ」
実験の道具らしきもの、天秤やたくさんの小皿、得体のしれない瓶などを何種類も並べていく。うれしそうな表情だった。
「ヨーク師」
支部長が言うとベビーフェイスの小男が振り向いた。
「ヴェルダー卿、ヘンリー大公が見えました」
「初めまして!」
きらきらと輝く目でヨーク師は来客を見た。
「ガボットなんて凄い毒を扱わせてもらえるなんて、ほんとにうれしいです。今夜は実験に呼んでいただいて感謝してます!」
リアクションに困ったらしく、珍しくヴェルダー卿がうなった。
「あー、今夜はよろしくお願いする」
支部長が咳ばらいをした。
「まず、こちらを」
そう言って、羊皮紙を何枚か束ねたものを差し出した。
「今回、毒殺の疑いがあるとわかったために、棺に入れる前の被害者の状態の記録を教会から取り寄せました。これは教会の担当者が、血まみれの衣服を脱がせたときに遺体がどのようだったかをまとめたものです」
「これが先にあれば」
と書類を手にしてヴェルダー卿が言った。
「ひと目で刺殺でないとわかったのだな」
「申し訳ありません。このような記録はめったに人目に触れないのです」
と支部長が言った。
「今さら仕方がない。それが我が国の慣習なのだ」
グランバニアでは慣習により、遺体はたいへんな尊厳をもって扱われることになっていた。一度棺に納めると取り出すことができないというのもそのひとつである。
 犯罪かもしれないと思われるときだけは教会が納棺の前に記録を残すが、目で見て、手で触れて、の観察であり、遺体に刃物をあてることはなかった。
「オジロン様より、この記録をヴェルダー卿、ヘンリー殿のお二人にお見せするようにおおせつかっています。ご一読の上、こちらにサインをお願いします」
ヴェルダー卿はヘンリーに書類を渡した。ぱさ、ぱさ、と羊皮紙をめくる音がした。
「肌が黄色っぽく、全体的に痩せているほかはほとんど異常なし。ただし、へそを中心に筋のようなものが四方八方へ現れている……」
そこまで読むと、ヘンリーは羊皮紙をヨーク師に見せた。
「いきなりの質問で失礼ですが、このような筋が体に出る毒はありますか?」
どれどれ、とえくぼのあるような手でヨーク師は遺体の記録を受け取った。そのページには、教会の担当者が描いたらしいスケッチがあった。
「う~ん、ないと思います。少なくとも、ぼくは知りません」
「おやおや」
薄笑いを浮かべてヴェルダー卿が言った。
「よかったですな、ヘンリー殿。が、今晩はそんなものよりも、もっと大物が待っていますぞ」
ヴェルダー卿はヨーク師に会釈した。
「さっそく始めていただけますか」
「はいっ」
 グランバニアの薬草学の権威は、助手に合図した。助手は作業台の奥にあったものから覆いを取り外した。小さなガラスの瓶が現れた。
「事件直後に押収された被告人の所持品のひとつで、目録リスト2-8番です」
支部長が言った。
「細めの蓋付ガラス瓶、内部に何らかの植物の葉、肉片らしき物、全体の約半分の量の液体入り。瓶は半透明の青みがかったガラス製、蓋はコルクで、紙製の封印をはがしたあとがあります」
ヨーク師は、瓶の蓋を開けると手のひらくらいの長さの太めの銀の針を使って、中の葉と肉片を器用に取り出し、別々の皿に乗せた。
「ぼくはまず、この葉に注目しました!」
ヨーク師は銀針でその葉を指差した。
「グランバニアにたくさん生えているエルムの樹の若芽に似ていますが、細かい部分が微妙に違います。グランバニア産のエルムじゃないですが、その親戚だと思います。つまり、冬でも葉が落ちず、成長すると幹がかなり太く、樹高が高くなる種類の樹ということです」
ヴェルダー卿はヘンリーの方を見た。
「エルムはご存知かな?わが国ではごくありふれた植物なのだが」
「存じております」
丁寧に、だが、短くヘンリーが答えた。
「それから、これが最初なんだかわからなかったんです」
ヨーク師は肉片を差した。
「果肉じゃない、動物の肉とも少し違う」
ヴェルダー卿が声をかけた。
「ガボットのへその肉では?」
おっと、とヘンリーが言った。
「どうしてそう言いきれます?」
「それをヨーク師に調べていただこうというんだよ」
「任せてください!」
きみ、きみ、あれを、とヨーク師は助手に催促した。助手は厳重に封をした陶製の容器を持ってきた。
「オジロン様を通じて、レディ・アンナシルヴァから秘蔵の“ガボットのへそ”を持ってきてもらいました。取り立てでまだ新鮮なんです!」
料理人が食材を自慢するような口ぶりでヨーク師は言った。
「これからこの新鮮なへそと、こっちの瓶の中の肉片をちょっとづつ切り取って調べます。色や匂いを観察する、試薬に浸してみる、薄く切ったものをネズミに与えるという内容です。始めますねっ」
興奮でほほを赤くしながら、ヨーク師は二種類の肉片を並べ端を切り取った
「薬草学の大家の先生ってのは、もうちょっと違うイメージ持ってたんだが」
小声でヘンリーがつぶやいた。
「私もだ」
ぼそっとヴェルダー卿がつぶやいた。
「さあ、できました!」
気に入りの銀針の先に切り取った肉片を刺してヨーク師は宙にかざした。
「よーく見てください。こっちとこっち。色が違うのは、片方が長いこと水に浸してあったからだと思われます。かなり似てますね」
 さて、と言ってヨーク師はほとんど揉み手をせんばかりに助手の用意した皿に手を伸ばした。
「こっちの皿と、こっちの皿。同じ試薬が同じ量だけ入っています。まず本物のガボットのへそ。ほ~ら、色が変わったでしょ」
透明だった液体は、肉片に触れたところから白く濁ってきた。
「勢いがいいや。新鮮なんだなあ。じゃ、今度は瓶の中にあったお肉です。さ、見ててください」
銀の針で刺した肉片をそっと浅い皿に入れて針を抜いた。
「色が」
支部長がつぶやいた。
「濁った?」
さきほどの皿ほどの勢いはないが、たしかに白濁していた。
「やっぱり。じゃあ、最後の実験をしますね。きみ、ネズミを!」
はい、と助手が答えて、鳥かごのようなものを二つ抱えてきた。ネズミが一匹づつ入っていた。
「さあ、どうかな?」
ヨーク師はいそいそと肉片をスライスして、少年のように輝く目でネズミたちに与えた。ネズミは疑いもなくその肉片をつかみ、かじり始めた。片方のネズミの変化は劇的だった。いきなり動きをとめ、びくびくと痙攣し、横倒しに倒れた。倒れた鳥かごの床が赤くなっている。血を吐いていたのだった。
「ルークを連れてこなくてよかったぜ……」
微妙な角度に眉をしかめてヘンリーがつぶやいた。
 もう片方の鳥かごでも、やや時間を置いて同じ変化が起きていた。二匹のネズミが絶命するまで時間はほとんどかからなかった。
「ふう」
とヨーク師は言った。
「僕の結論は言うまでもないですね。この瓶に入ってるのは、ガボットのへそです。大きさからしてへそのきれっぱしというのかな」
ヴェルダー卿は白いハンカチで口元を押さえながら観察していた。
「そのへそには、毒があるのですな」
「効果はご覧になった通りです。これはもう、りっぱな毒です!」

 実験の結果は保管係の兵士が書記になってまとめていた。ヨーク師は記録を清書し、サインを入れて、報告書を作成することに同意した。それは新たな証拠品として保管庫に収まることになっていた。
 支部長とヨーク師に礼を言ってヴェルダー卿とヘンリーは警備隊支部を後にした。
 夜のグランバニア城下の大通りは、人かげもほとんどなく静かだった。二人は黙って途中まで歩いていた。
「おれはここで失礼します」
夜間営業の居酒屋の前まできたとき、ヘンリーがそう言った。
「また明日、法廷でお目にかかりましょう」
ほう、とヴェルダー卿が言った。
「ほう。ということは当然戦略を変更されるよう陛下を説得されるのだろうな?」
居酒屋の窓から明かりがもれ、陽気な歌を合唱している声が聞こえてきた。
「いいえ」
とヘンリーは答えた。
「変更ありません。ピエールはハーヴェイを殺してはいません」
ヘンリーは薄く微笑みさえ浮かべて言いきった。
「無実を主張します」
「さきほどの実験をご覧になったはずだな。ピエールは、ガボットのへその肉の切れはしの入った瓶を所持していて、その肉には毒があった。これ以上何を争うのだね?」
「ま、いろいろと」
ヴェルダー卿は憐れむように微笑んだ。
「私の手札をさらすとしようか」
と卿は言った。
「明日の法廷には、ハーヴェイの最後のグラスを証拠品として出すつもりだ。事件直後のようすを検分した報告書もある。グラスがワゴンに乗っていたこと、ハーヴェイがワゴンからグラスを取ったこともわかっている」
「ハーヴェイは自分でグラスを選んだのですよ。それをお忘れなく」
「そうだったな。だが、ピエールはワゴンのそばにいて、ハーヴェイのグラスはピエールの手の届くところに置いてあった。そのことは先の報告書に記されている」
ヘンリーは黙ったまま何か考え込んでいた。
「ピエールに毒を入手する機会があったことは、すでに証明した。なおかつ、さきほどの実験だ。ピエールの所持品から毒が見つかったことはあきらかだ」
「どうやってピエールが、ハーヴェイのグラスに毒を入れたかをあなたは証明していない。ガボットのへその切れっぱしを、見事なコントロールでハーヴェイのグラスに投げ込んだのですか?」
はっはっは、と卿は笑った。
「楽しい方だな、ヘンリー殿。明日はヨーク師を証人として招くつもりだ。そこでガボットの毒が酒に溶けるかどうか質問する。答えは知っているがね。溶けるのだよ、水でも酒でも。ヨーク師の著した書物にそう書いてあったからな」
「ピエールが毒を持っていた、ハーヴェイが毒で死んだ、それだけでピエールと決めつけることができるのですか?」
「ふむ。ピピンの証言を覚えているだろうね。あのとき同僚の兵士がそばに来て話しかけた。レムンというんだが、その兵士をこちらは抑えている。レムン君はたいへんなものを目撃していたんだよ。実は」
ヴェルダー卿は首を振った。
「少しはお楽しみを取っておくとしようか」
ヘンリーはしばらく黙っていた。
「ひとつお尋ねする」
「何かな?」
「今見せてくださった手札なら、立派な毒殺の“役”ができそうだ。それなのになぜ、最初刺殺を訴因にしておられたのですか」
「おお、そのことか」
ヴェルダー卿は人差し指で自分の額を軽くたたいた。
「簡単に言えば思い込みだ。あの日私は園遊会に招かれておった。あの騒ぎのとき長年のくせで現場にかけつけ、そのとき剣を抜いて身構えたスライムナイトを発見した。あのスライムナイトの性格は私も多少知っている。剣があるのなら剣を使うはず、そう思ったまで」
「訴因を変更されたのは?」
「法廷で言った通りだ。やつには毒殺するための手段があり、同じくチャンスがあったからだ」
「性格には合わないとお考えにならなかったのですか?」
「この年までにいろいろな場面に出くわしてな。手段を問わない犯人もいると思い知っておる」
「さようで」
ちゃかすような口ぶりだが、ヘンリーの目は笑っていなかった。
「悪いことは言わん。陛下には戦略を変更した方がよいと伝えなさい。王者には意地を通すよりも大事なことがあるはずだと、思い出していただくとよい」
「卿はルークの性格を読み違えておいでだ」
ぽつりとヘンリーは言った。
「可能性の残っている限り、あいつは争いますよ。おれもね」
居酒屋から漏れてくる灯火の黄色っぽい光を横顔に浴びて、静かな笑顔でヘンリーは言った。
「では、これで。また明日、法廷でお目にかかりましょう」