容疑者ピエール 11.証人ドミニク

 「まあ、そんなもんだ。だが、健康状態について話を戻そうか。ネビル、船に乗っていた間、おまえとハーヴェイは相部屋だったよな?」
「はい、相部屋でした」
「おまえ、船酔いは?」
「最初はきつかったです」
「おまえにくらべてハーヴェイはどうだった?」
「私よりひどかったと思います」
「どんなところでひどいと判断した?」
「顔色が悪くて、目が血走ったようになって、歩くときにふらついたり、動作がのろのろしたりしてました。食欲もあまりなかったようでした」
ヴェルダー卿が言った。
「たいていの船酔いはそんなものだな」
「その症状が船酔いが原因とは言い切れないと思うが」
ヘンリーとヴェルダー卿の視線がぶつかりあった。
「ふむ。ネビル君、ハーヴェイはグランバニアに着いた後は、顔色、食欲は回復したかな?」
「それほどよくなっていなかったと思います。ただ上陸後宿舎では別の部屋になってしまいましたので、相部屋だった時ほどよく見ていたわけではありませんでした」
ヘンリーが咳ばらいをした。
「卿、あの裁判の最初にピピンが当日のようすを証言したのを御記憶だと思う。あのときピピンは、ハーヴェイがピエールと口論になった時、妙にふらふらしていたという印象を持ったと言っている」
「彼の主観だ。ここにピピンがいれば問い詰めてくれるのだがな。それからハーヴェイは自分の足で歩いて園遊会に参加できるほどの状態だったことも留意してもらいたい」
「確かにあいつはそのくらいの運動はできた。だが、健康だったというのとは、また別の話だ」
「何が違う?」
「心の問題を指摘させてもらいたい。ハーヴェイはラインハットにいたときから、ずっと悩んでいた」
「そんなことをどうして言いきれる」
「裁判のとき、おれは証人としてラインハットでのハーヴェイについて言及した。覚えているか?」
ヴェルダー卿は皮肉な笑みを浮かべた。
「ある未亡人に無礼を働いたことだったかな?」
「そうだ。姓名はあえて詳らかにしないが、あれは、俺が証人として宣誓したうえでの話だったことを思い出してほしい。やつは、その女性を偽名で呼び出して自分と結婚してくれるように強要した。しかも財産目当てにだ」
「法廷の外だから言わせてもらうが」
と卿は言った。
「正直言って見下げ果てた男だな」
「自分の利益のためには見境ないのがラインハットの血でね。だが、おれも含めてたいていはそれとわからないように、ソフトにやるさ。やつはあまりにも露骨だった」
「なんとも率直な自己紹介だな」
とヴェルダー卿はそっけなく言った。
「だが、その事件とハーヴェイの健康はどう結び付くのかね」
「この事件のあと、問題の未亡人の実家の父上、兄上がかんかんになった。ただ、実際に法に照らすとハーヴェイの受けるべき刑はたいへん軽かったんだ。ハーヴェイは罰金を払い、そして廷臣としては謹慎処分になった。その刑の軽さも御家族の怒りの火に油を注いだ」
「ラインハットの法律については詳しくはないがそれはそもそも法制の問題点だな」
「それについては否定しない。さて、ハーヴェイの周辺からやつに対する非難の声があがったあげく、ハーヴェイは“誰かが自分を罰しようとしている”と思いこむようになった」
「本当にそんなことをしようとしたやつがいたのかね?」
「まさか、あいつの思い込みさ。だが、その女性の兄上は面と向かってハーヴェイを罵倒したんだ。一度疑心暗鬼にとらわれたらハーヴェイはなかなか抜け出せなかったのだろう。自分がだました女性の父、兄からの刺客が命を狙っているんじゃないかとハーヴェイは考えていた」
「君の想像じゃないのかね?」
「あいつは実際デールにそのことを訴えた。デールは復讐の連鎖のような泥沼は避けたいと言って俺にハーヴェイを預け、外国行きの船に乗せたわけだ」
「それなら、国外へ出ればそんな心配は終わっただろう」
「終わったかもしれない。だが、刺客が追ってきた、と考えていたかもしれない。どっちなのか、今となっては俺にもわからない。ただ、いつもびくびくして自分の船室に閉じこもり、そうでないところでは壁ぎわに背中をつけて立っていたがった」
「とヘンリー殿は言っているが、きみは見たことがあるかね?」
唐突に話をふられてネビルは面食らったような顔になったが、答えは明確だった。
「ああ、びくびくしてたというのは本当です。人の輪の外側、特に壁際にいたがるもので、よっぽど人間嫌いかなと思っていました。もっとも、もとも態度がでかくて人から嫌われていましたからびくびくしてもしなくても同じだったでしょう」
「ふむ。しかしハーヴェイの心中はわからない。ちがうかね?」
「もちろん、はっきりしたことは言えない。だが、勤務中でもしょっちゅう酒を飲んでいたのは、ネビルの観察から確実だ」
ふむ、とヴェルダー卿はつぶやいた。ヘンリーがたたみかけた。
「ハーヴェイの健康状態ははっきりしないが、日常生活に支障はなく、秘書としての業務も無能なりに行っていた。ただし、ふらふらしているという印象を持った者が少なくとも二人(ネビルとピピン)いる。そして、刺客に怯えていた可能性があり、飲酒量は多かった。これでいいか?」
「飲酒量が多かった、というが、かなり主観的な言い方ではないかね。まったく酒を飲まない人間にとっては、たとえば私が微薫を帯びていてもかなり酔っている、酒臭いと感じるのではないか?」
「主観的か。いいぜ、それなら、酒の話にうつろう。ネビル、おまえはこの小瓶を見たことがあるか?」
それは、さきほどヘンリーが持ち出した金具付きの革のケースにすっぽり入る、携帯用のフラスクだった。ケースはキャメル色、フラスクはガラスで、底の方にちょっぴり液体が入っていた。
「はい」
「どこで見た?」
「それはハーヴェイのフラスクです。あいつがこれを持っているのを見ました」
ヘンリーはヴェルダー卿の方を見た。
「俺がこいつをどこから持ち出したか話しておこう。これはハーヴェイの遺体から脱がせた上着のポケットに入っていて、この間の裁判の間中ブラント将軍の部署が管理していた。先日、ラインハットへ遺品を持って帰る許可がおりたんで持ち出したものだ」
「それを証明できるかね?」
「信じてもらうしかないが、この小瓶は押収された時に封印された。この封を見てくれ。担当兵士のサインがある」
「一度破れて、再封印しているようだが?」
「裁判のあと、ヨーク先生のところに持ち込んで中身を調べてもらったんだ。結果はこちらだ」
ヘンリーは一枚の羊皮紙をひらりと出して見せた。
「結論は香料入りの酒か。毒ではないわけだな?」
ヘンリーはうなずいた。
「そうだ。毒ってわけじゃない」
ヴェルダー卿は満足したようだった。
「よろしい。それで?」
ヘンリーはネビルの方を見た。
「ハーヴェイがこのフラスクを持っていたのを見たと言ったな。やつはどんなときにこれを持っていた?」
「どんなときと言うか、ハーヴェイがそれを持っていない時がなかったくらいですな。私が覚えている限り、あいつは常にこれを持ち歩いておりました」
「これは普通、酒を入れて持ち歩くフラスクだな。部下や後輩がいつも酒瓶を手から離さない時、おまえは何も注意しないのか?」
「ヘンリー様だって何も言わなかったじゃないですか」
「質問に答えろ」
「注意ならいつもしますし、現にハーヴェイにも言ってやりましたよ。酒の匂いをぷんぷんさせたままで船内をうろつくんじゃないとね」
「フラスクを持ったハーヴェイを見たのは船の中だけか?」
「だって、グランバニア行きの船に乗り合わせた時が初顔合わせでしたからね。それ以外と言うと、ああ、グランバニアに降りたあとも、ハーヴェイは私の見る限りいつもフラスクを持っていました」
 ヴェルダー卿が声をかけた。
「彼はこのフラスクから酒を飲んでいたのかね?そのことを君は確信しているか?」
「ハーヴェイは私の目の前でこのフラスクに口をつけてあおっていましたよ。第一、やつが口を開くと酒の匂いがぷーんとするんですから、隠しようがないですね」
卿は頭を振った。
「酒の飲みすぎは体を損なう。そのくらいのことは常識だが、普通は若いころから飲み続けて老人になって影響が出るような、緩慢なものだろう。酒の飲みすぎで死んだ、と結論付けるのは早計ではないかね」
卿はじろりとヘンリーを睨みあげた。
「もちろん、そのフラスクの中に毒が入っていれば別だが」
ヘンリーは肩をすくめた。
「それはさきほど、ヨーク先生が調べたものがあったはずだ。このフラスクの酒には毒はない」
「では話が戻るな。ハーヴェイはただの酒でどうやって死んだ?」
「ハーヴェイがこの酒の容器を常に持ち歩き、大量に飲んでいたことは同意してもらえるか?」
少し考えてヴェルダー卿はネビルに聞いた。
「しょっちゅう酒を飲んでいるのを見た、と君は言ったが、いつも同じ酒だったか?」
「少なくともいつも同じ匂いがしました」
「君は酒飲みかね?」
「少々嗜みます」
ちらっとネビルはヘンリーの方を見た。
「味もわかるつもりですし、酒の匂いも区別できます。実は私の伯父が紳士として恥ずかしくない教育を」
「ああ、それは省略していい。ヘンリー殿、ハーヴェイがいつも同じ酒を飲んでいたということは同意しよう」
「……どうも」
とヘンリーは言った。
 軽く咳払いをしてヘンリーは言った。
「おまえはハーヴェイが酒を飲むところを何度も見ていた。酔ったハーヴェイと会話をした。そのときハーヴェイの息から臭っていた酒の匂いを覚えているか?」
鼻高々とネビルは答えた。
「覚えております」
「そのフラスクを手に取って、ふたを開けてかいでみてくれ。ハーヴェイの息と同じかどうか調べてくれ」
ネビルは露骨に気味悪そうにハーヴェイの持ち物だったフラスクを取りあげ、羊皮紙と針金の封印を破っておっかなびっくり蓋を開け、神妙な顔で鼻先へ持って行き鼻をうごめかせた。
「同じです」
「で、おまえは今嗅いだその匂いを知ってるか?」
ネビルは面食らった顔になった。
「知ってますよ……これは沼シソだ」
「なんだと?」
とヴェルダー卿が言った。
「沼シソとは聞かない名だが」
「こいつに説明させた方がいいでしょう。ネビル、沼シソについて知ってることを話せ」
ネビルは困ったような顔になった。
「たいしてお話することもありません。これは沼シソとか、双葉沼シソとか呼んだりするもので、名前の通り、ラインハットじゃ夏が近くなると沼地のまわりの湿ってあまり日に当たらないところにこいつがはびこります。このつんとした匂いが特徴です」
「なぜ酒からそんな匂いがするのだね」
とヴェルダー卿が言った。
「ちょっとした迷信があるんで、薬酒をつくるときに香料に使うからだと思います」
「秘書どの、君は自分で薬酒を造るかね?」
「私が自分でですか?」
ふっとネビルは笑った。
「いえ、造ったことはありません」
ヘンリーはぐるりと部屋を見渡した。
「この中で薬酒を造った経験のある人はいますか?」
ビアンカが片手をあげた。
「あるわ。母さん直伝のレシピよ」
マルコ夫人も上品に指先をそよがせた。
「自己流ですけど、私も」
こほん、とせきばらいの音がした。
「専門家をお忘れじゃありませんかね、ラインハットの若様」
ちょっと胸を反らせたサンチョだった。
「これは失礼した。ヴェルダー卿、サンチョ殿を薬酒造りの専門家とみなしてもかまわないか?」
 横目でヴェルダー卿は、サンチョを眺めていたが、しばらくしてからうなずいた。
「よろしい。亡くなった陛下もその才は認めておられた」
「では、サンチョ殿、あらためてお尋ねする。一般的な薬酒の造り方はどのようなものを使われますか」
サンチョは用意してきたものを取り出して並べた。
「まずこのような清潔な甕を用意して、質のいいブランデーを8分目まで注ぎます。そこへ好みで薬草、香草を浸けこんで寝かせます。レモン、ミント、リコリス、コリアンダー、オレンジの皮などをよく使いますな。風邪をひいたときはあたためていただくし、お客様に出すなら地下水で冷やして蜂蜜を垂らすといい」
「母さんが作ってたのはオレンジだったわ」
サンチョはビアンカに笑いかけた。
「女将さんにそのやり方を教えたのは私なんですよ、ビアンカ嬢ちゃん」
ひさしぶりの呼び方にビアンカは笑いを誘われた。
「どうりで」
ヴェルダー卿が声をかけた。
「双葉沼シソとやらはどこへ行ったのかね」
「そうせかしなさんな」
サンチョはさらりと流した。
「ネビルさんの言った迷信というのは、これでしょう」
片手でサンチョは、乾いた香草を取りだした。
「とくにもてなし用ということではなく、家族用に造り置きする薬酒には、ミントではなくこれを香りづけに使うことがありましてな」
それは、とがった葉が茎から二枚づつ生えているありふれた感じの草だった。
「サンタローズのある北の大陸では、沼ジソは偉大な魔法使いが見い出した薬草で、煎じて飲むと魔法力が高まりMPが回復すると言われておりました」
「本当かね?」
「いやいや現実にそんな作用があるならばとっくに採りつくされておりますな。本当はちょっとだるい時に少量服用すると舌にピリッときて気持ちがしゃっきりするていどのものです」
ちょっと待ってください、と言ってサンチョは厨房へ姿を消し、まもなく小さな甕を持って現れた。
「これですよ。おととし造り置きをしたのがあったと思ったもので」
封を解くと、たしかにハッカに似た、癖のある香りが漂った。
 かたんと音がした。マルコ夫人が飲みかけのマグをテーブルへ置いたのだった。
「まあ、これが?」
ヘンリーが片手で彼女を招くような仕草をした。
「どうぞこちらへ、奥さま。この匂いを御存知ですか?」
マルコ夫人はヴェルダー卿の顔をちらっと見た。
「はい。知ってますけど」
「ヴェルダー卿?」
とヘンリーが言った。
「御令妹に質問してもよいだろうか」
ヴェルダー卿はじろっとヘンリーの顔を見て、それから妹に視線をうつした。マルコ夫人は心配そうに兄を見ていた。
「心配するな、ドミニク。知っていることは教えてあげなさい」
「では、失礼して」
ヘンリーが咳ばらいをした。
「奥様、この匂いを御存知だとおっしゃいましたね」
「はい」
「これは、なんの、匂いですか?」
どうして答えのわかっていることを聞くのだろう、とビアンカは思った。マルコ夫人はどきどきしているようだった。
「あのう、私」
ヴェルダー卿が妹にうなずいてみせた。
「これは知っております。でも、双葉沼シソなんていう名前ではありませんのよ」
「では、あなたが御存知の名前でお答えください。これは何の匂いですか?」
「“エルフのミント”と言います」
とマルコ夫人は答えた。
「ハーブの一種ですわ」
サンチョが何か言いたそうな顔になった。
「サンチョ殿はエルフのミントを御存知か?」
「知っております。というか、あちらの大陸では双葉沼シソと呼ぶ香草は、こちらではエルフのミントと呼ぶ。それだけのことです」
「確認したいのですが、双葉沼シソとエルフのミントは同じものなのですね?」
「同じです」
「使い道も同じですか?」
「同じですな。リキュールをつくるときの香りづけで、そのリキュールを菓子に使います。また生の葉を、肉を焼く時の薬味にしたり、乾燥させたものをスープに浮かべたりします」
ヴェルダー卿が炯炯とした眼光をサンチョに向けた。
「ひとつ聞きたいのだが」
「どうぞ?」
「リキュール、菓子、焼肉、スープと言ったが、どれも口に入れるものだ。双葉沼シソ、またはエルフのミントは、毒ではないのだな?」
「何度も言いましたが、毒じゃありません。毒だったら料理に使うもんですか」
「では、最初の疑問に戻る。ハーヴェイ・ローワンはなぜ死んだか、だ」
ヴェルダー卿は視線をヘンリーへ向けた。
「卿、もう一度ピエールの証言を思い出してほしい。ピエールがガボットの毒を溶かした水を自分で飲んだ理由を説明した時だ」
小さく咳払いをしてヘンリーはそのときの証言を復唱した。
「『決闘に際して体力を完全に回復しておきたかったである。園遊会の直前レディのお伴をして試練の洞窟へ赴いた際に少々戦闘があったので吾輩、ベストコンディションとは言い難かった。HPは魔法で回復できるが、肝心のMPはそうはいかん』と、やつは言った」
「それで」
「ハーヴェイも同じだったのでは?」
「あいつは魔法を使えたのかね?」
「おそらくだめだっただろう。あいつは普通の人間だし、レベルアップもしていないから」
「では意味がない」
「あの園遊会で、ハーヴェイとピエールは口論になり、ピエールが決闘を申し込んだ。ハーヴェイはののしる、ピエールは落ち付けと言う。正確には『酒ならいくらでもあろう。一杯やって、少し落ち着くである』だった。ハーヴェイはそう言われた後、自分でグラスを選んで取った。何のために?まさに、落ち着くためだ」
「そのグラスが冷静になるのに必要だとハーヴェイが判断した理由がわからん」
「理由はさきほどサンチョ殿が言ったはずだ、“舌にピリッときて気持ちがしゃっきりする”と」
「それを証明することはできないはずだ。今さらハーヴェイに聞くことはできん」
「それは最初から言っていることだろう。ハーヴェイは死んでいるんだから本当のことはわからないさ。だが、有力な仮説を示すことはできる。“決闘の前に気持ちをしゃっきりさせたかった”というのは、問題のグラスを選んだ理由として、信じるに足る合理的な理由だとおれは考えている」
卿は頑固に首を振った。
「偶然かもしれん」
「では、理由の部分を除いて、事実だけを見てくれ。ハーヴェイは、いつも飲んでいる薬酒と同じ香料の入ったリキュールのグラスを手に取った」
む、とうなってヴェルダー卿は考え、そしてうなずいた。
「よかろう。その点には合意する」
「ハーヴェイのやつは刺客に怯える理由があった。そして双葉沼シソの入った酒を航海中に大量に飲み、園遊会当日も同じ酒を飲んだ」
きら、とヴェルダー卿の目が光ったようだった。
「さきほども飲酒量の話が出たが、ハーヴェイが大量に酒を飲んだと客観的に言えるのかな?」
「言える」
とヘンリーは言いきった。