容疑者ピエール 12.証人サンチョ

「ひとつは、船で同室だったネビルがハーヴェイが酒を飲む所をしょっちゅう見ていたから。もうひとつは、あいつの所持品だ。船に乗り込むとき、酒の大甕を十二個あいつは持ち込んだ。それは船荷証券から明らかだ。だが、船がグランバニアに着いた時、船倉に残っている甕は二つだけだった。あいつは航海中に大甕十個分を飲みほしたことになる」
「ハーヴェイが他人に酒をわけてやったのでは?」
ヘンリーは、ネビルの方を振り向いた。
「おい、ハーヴェイのほかに、口をきくとこの酒の匂いがするようなやつが船にいたか?」
「いなかったと思います。少なくとも大っぴらに飲酒していたのはあいつぐらいでしたから」
「誰かがハーヴェイに隠れてこっそり飲んだ可能性は?」
「荷の預け主はハーヴェイだ。船から降りた時に荷が知らない間に減っていたらその時点で船長に抗議しているはずだ。だがハーヴェイは抗議することもなく残ったふた甕を自分の部屋に持ち込んだ」
「今も残っているかね?」
「宿舎の部屋から甕がふたつ押収された。中身は空だった」
 あの、と誰かが言った。
「ひとつお聞きしてよろしいですかね」
それはサンチョだった。
「どうぞ?」
「その、亡くなったお若い方が持っていた甕というのは、どんな大きさだったんでしょう?」
ヘンリーは、円形テーブルの上の甕を指さした。
「サンチョ殿が持ってきてくださった甕よりひと回り、いや、倍は大きなものでした」
サンチョは驚いたような顔になった。
「本当ですか。そりゃそりゃ、また大変な酒好きだ」
「好みは人それぞれだ。もうよろしいかな?」
嫌味をきかせた口調でヴェルダー卿は言った。
「ええ、それだけです。御用がないんなら、わたしゃ厨房へもどりますよ」
サンチョがぷいっときびすを返した。
「待ってください、サンチョ殿」
ヘンリーが声をかけた。
「さきほど持ってきていただいたこの小さな甕の薬酒ですが、サンチョ殿は自分で飲まれますか?」
「おお、飲みます。そのために造るんですからね」
「一度に飲む量はどのくらい?」
「そうですなあ。風邪かなと思った時に、マグに一杯ほどやりますな。めったに風邪もひきませんし、おととし造ったのがまだ残っている始末です」
「ではうかがいますが」
とヘンリーは言った。
「今まで一度に飲んだ量として、一番多かったときはどのくらいでした?」
うむむ、とサンチョは考え込んだ。
「だいぶ前ですが、新しく薬酒を造りたくて、古い酒の甕を空けようと思ったことがありました。そのとき残ったのを捨てるのももったいなくて自分で飲んだんですが、マグで三、四杯ほどだったかと思います」
「いつもの三倍の量を飲んだ時、体調はどうでした?普通と同じですか?それとも違いがありましたか?」
サンチョは小さく咳ばらいをした。
「ひどい目に合いましたよ、わたしゃ。いじきたないことをしたんで罰があたったんですかな。二杯めの途中でもう舌がぴりぴりしてきまして、三杯目で腹がしくしく痛みまして。それでも後少しだからと思って飲み続けたんですが、次の日になって腹は痛むわくだるわ、吐き気はするわ、飯ものどに通らないわで、懲り懲りしました」
「それは本当にこの酒だったか?確信はあるかね?」
サンチョはちらっとヴェルダー卿に視線を飛ばした。
「私は、私の食糧庫と酒蔵にあるものは、すべて把握しておりますよ。確かにこれと同じものでした」
ありがとう、とヘンリーはサンチョに言って、ヴェルダー卿の方を向いた。
「この薬酒とおなじものを、ひと月ちょっとでハーヴェイは大甕に十二個飲みほしたんだ」
ヘンリーの目は真剣だった。
「なんであいつがこの酒をそんなに好きだったのかは知らない。だが、結果は想像できる。サンチョ殿の言ったことが、ネビルの観察にあてはまるからだ。あいつは食欲がなく、いつもだるそうにしていて、よく吐いていた。船の中だったのでネビルはそれを船酔いだと思っただけだ」
しばらくヴェルダー卿は黙っていた。
「つまり、ハーヴェイは体調が悪かった。この酒にその体調を悪化させる要素があった。そして大量に飲んだ結果、死亡した。そう言いたいのかね」
「そうだ」
簡潔にヘンリーが答えた。卿は首を振った。
「矛盾がある」
「どこに?」
「サンチョ殿とハーヴェイは、二人ともこの酒を飲みすぎて、嘔吐、食欲不振、全身倦怠に見舞われた。だが、サンチョ殿は生きていて、ハーヴェイは死んだ。なぜだね?」
「もともとの体調と酒量の差だ」
「ヨーク師の分析では、この酒は毒ではない。今のままでは、私は酒の飲みすぎが死に直結したと信じるには説得力が足らんと思っている」
ふう、とヘンリーがため息をついた。
「よし、わかった」
大きなテーブルの上にヘンリーは羊皮紙の束を取り出して乗せた。
「卿、先日俺とグランバニア市内の王城警備隊の地下で、実験に立ち会ったのを御記憶だと思う」
「ヨーク師の実験だな。覚えている」
「そのとき教会の記録を見てサインしたはずだ。ハーヴェイの遺体を観察した記録のことだが」
ヘンリーはページをめくってサインを見せた。
「私の筆跡だし、見覚えもある。ハーヴェイの遺体の観察記録がどうかしたかね」
「軽く言ってくれるもんだな。これを教会から持ち出すのにルークに散々苦労をかけたんだぞ」
「あたりまえだ。遺体の観察記録など、本来教会にとって門外不出なのだ」
「シスターを拝み倒してそれを持ち出したんだ。良く見てくれ」
ヴェルダー卿は遺体の記録を手にして文章を目で追った。
「以前読んだ通りだな。傷はなく、肌は黄色みを帯びていて痩せている、か」
「もう少し後に、スケッチがあるはずだ」
それはハーヴェイの遺体の腹部にできた筋状の模様を描いたものだった。
「毒が原因かどうか、ときみは最初にヨーク師に訊ね、そうではないらしいという回答を得ていたな」
ヘンリーはうなずいた。
「そう、それがこれだ。そして、こちらと比べてほしい」
大きな重い本をヘンリーはテーブルの上に乗せて表紙の留め金を開けた。
「ぼくがやるよ」
ルークがその本を引き取り、革のしおりを見つけてほこりくさいページを一息にめくった。
「それはなんですかな?」
ページは古い羊皮紙で、インクは消えかかっているものもあった。細かい手書きで文章がびっしり書かれ、ところどころ図が挿入されていた。
「あった、これだ」
一ページの半分が大きな図にあてられていた。簡略化した人間の体を正面から見たところで、へそらしき点から四方八方にうねうねと筋が伸びていた。
「きみの悪い絵でしょう?」
「まるで蛇ですな」
「この本はグランバニア王家に伝わる歴史書の外典です」
とルークは言った。
「ご存知かと思いますが、正規の歴史書のほかに、その時代ごとに起こった変わった出来事や記録した方がいいと思われる事件をまとめたもので、何巻もあります」
「そう、知っておりますよ」
ヴェルダー卿は眉をしかめるようにして、古いインクで書かれた細かい文字を読もうとつとめた。
「解呪詳解、と書いてあるのですかな?」
「そうです。つまり、呪いのとき方です。でもこのページは、“こういう場合は呪いではないので、魔法ではなく薬草等を使うようにすべし”というものを集めた項目にあります」
つまりな、とヘンリーが口をはさんだ。
「この気味の悪い蛇の巣みたいな模様は、呪いでできたのではなく病気に寄るものだから覚えておけ、と書いてあるんだ。ほら、ここだ」
図解の下にさらに細かい字で注釈が書きこんであった。
「これは……」
「こっからあとは、いつどんな病人がどういう経緯でこの模様を腹につくったか、という記録だ。上からネモス王の五年、ロブール村、男、農夫、36歳、次がファラス王の11年、オヴォ村、男、鍛冶屋、29歳だ。あとはリブス村の洗濯女、40歳とニベウス伯の男子、31歳。どれも病気になったあとの結果が書いてある」
ヘンリーはページの下部に指をあてた。
「良く見てくれ。最初の男は死亡とあるだけだが、あとはみな“血を吐いて死んだ”と書いてある」
「なんだと」
ヴェルダー卿は細かい文字にじっと目を注いだ。
「簡単だが、どの症例も共通点がある。病人は全員酒飲みだった。最初の三人は一般人だが、ニベウス伯の子息は貴族だろう。彼は裕福な分だけ酒を大量に入手しやすかったのか、若くして死んでいる。そして、どの遺体にもこの模様ができて肌が黄色くなったという記録がある」
しばらく黙ったままヴェルダー卿はその記録を読んでいた。それからページをめくり、その章の概要を確かめ、奥付を見て著者や発行元を確かめた。
「こんなものを、良く見つけてきたな」
つぶやくようにヴェルダー卿は言った。おう、とそのつぶやきにヘンリーが答えた。
「こいつのためにグランバニア王家の書庫へ入って徹夜したんだ、おれは」
口調はぶっきらぼうだったが、どこか誇らしげだった。
「ここにあると知っていたのかね」
「いいや。だが、酒の飲みすぎで死んだ例について書いた書物があったはずとヨーク師がひとことおっしゃったのでね」
「この本でこの図を見つけたときは叫び出しそうになりました」
とルークが付け加えた。
「陛下も徹夜を?」
「もともと僕はピエールの代理人ですから。最善を尽くしたいと思ったんです。これで信じてくれますか、気の毒なハーヴェイ・ローワンは、本当はお酒の飲みすぎで亡くなったんだってことを?」
ヴェルダー卿はグランバニア王家の通史外典をゆっくり閉じてルークに手渡した。
「最初に取りきめたはずですな。真実はもうわからないのです。もっとも合理的で説得力のある仮説を見せてくださるはずだった」
「そのとおりだ」
とヘンリーが言った。
「ハーヴェイは命を狙われていると誤解して怯えていた。そのためか、生来の好みかわからないが、短い期間の間に大量に酒を飲んだ。恐怖、船酔い、飲酒、そして酒の中の香料による刺激があいまって、やつの体調は悪化した。そして園遊会の当日、いつも飲みつけているのと同じ匂いのする酒を手にして飲んだ時、ついに限界に達して血を吐き、死んだ」
ひといきに言ってから、ヘンリーはヴェルダー卿を正面から見据えた。
「おれは自信がある。卿は如何」
ドミニクがじっと年老いた兄を見つめた。ヴェルダー卿はやはり年配の妹にそっと首を振ってみせた。
「認めよう。ヘンリー殿。この仮説は、合理的だ」
 ほうっ、と言うためいきが部屋のあちこちから上がった。ビアンカはさっとルークの傍に寄った。ルークはうれしそうにビアンカをちらっと見て、ぎゅっと手を握ってくれた。
 そのそばを、ドミニクがすっと通り過ぎてヴェルダー卿に寄り添った。卿は、妹の肩をそっとたたき、肩かけをなおしてやった。
「よし、ルーク、おれの仕事はここまでだ。ここからはおまえじゃなきゃできない」
「まだ何か用かね」
とヴェルダー卿が言った。
「妹が動揺しているのだ。これで失礼させていただきたいのだがね」
「すいません、ドミニクさん。でも、ほんのしばらく兄上をお借りできませんか。大事なことなんです」
とルークが言った。その声にドミニク・マルコ夫人が顔をあげた。
「お言葉ですが陛下、どうしてこんなにあたくしたち兄妹につらくあたろうとなさるのか、わかりかねます」
ドミニク、とヴェルダー卿が言いかけたのをドミニクは手でとめた。
「ぼくは、つらくあたるなんて」
「あたりましたわ!」
小柄な年配の婦人にできる精いっぱいの威厳をこめてドミニク夫人は叫んだ。
「パパス様は兄をお城へ置いてきぼりになさるし、その前だって、みんなであれほどお止めしたのにパパス様は遠くまでおいでになって、モンスターを連れて帰られるなんて……それに」
「それに、母のマーサを連れてきた」
静かにルークが言った。
「あたくしは」
言いかけてドミニク夫人は口ごもった。
「もうやめなさい、ドミニク。パパス陛下がお決めになったことだ。我々は従うしかない」
「でも、でも!」
興奮したドミニク夫人が言いつのった。
「モンスターはまだいるじゃありませんか!しかも、もっと増えて!あのときからお城には怖いことばかりだって、みんな言ってるわ」
ビアンカは思わず口をはさんだ。
「みんなって、誰ですか?怖い事ってなんでしょう?」
きっと涙をたたえた目でドミニク夫人はビアンカを見た。
「みんなは、みんなです。古くからグランバニアにいる家柄の方たち、それに城下の善良な常民ですわ!あの方がお城に来てからいつもどこかしらにモンスターがうろついているなんて」
わなわなとドミニク夫人はふるえていた。
「あの方がお城へ来てからそんなことばっかり!」
「マーサ様を悪く言うなんて許せないっ」
二人の女は激しい言葉と視線をぶつけあった。
 そのとき、ヴェルダー卿がそっと妹の肩をたたいた。ドミニク夫人はわっと声をあげて兄の胸にすがった。
「失礼いたしました、王妃様」
静かにヴェルダー卿は言った。
「あの、わたし」
ビアンカは赤くなった。
「老女のくりごとと思ってお聞き流しくだされ。妹は、何十年も昔、亡くなったパパス様に娘らしい憧れを持っておりましてな」
卿は妹の背をやさしくたたいた。
「妹のみならず、陛下は宮廷中の崇拝の的であられたのです。その分、国外から妃をお連れになった時、当惑を感じ、裏切られたと感じた者も確かにおりました。臣下の身でまことに僭越ではございますが」
卿は妹を促して歩き出した。
「何十年も前のこととはいえ、思い出すと痛む古傷もございます。今日のところはこれで失礼させてくだされ」