エルフの時代 7.眼鏡のマスタードラゴン

「それではアルノー」
と言い掛けて女王はとまどった顔になった。アルノーはいなかった。ランジュが大騒ぎをしている間に玉座の間から出たらしい。
「仕方のない人ね。神器を探しに行ったのかしら」
「冬の神器なら、すぐに出ます」
とクロヴィスが言った。
「女王、そちらを先にしてはいかが?」
「それがよさそうね。ルーク、冬の神器、冬の湖のホルンは、やはりあなたがお持ちなのよ」
ルークにはもうわかっていた。
「妖精のホルンだ。確かに持っています」
 妖精のホルンこと、冬の湖のホルンは透明な青い物質でできているようだった。春のフルートと同じくクリスタルに見えるのだが、はるかに透明度が高い。 本体の両側には大きな翼の形の飾りがあるが、本体も翼もまるで氷の塊のようでどこか澄み切った、純粋な感じがした。吹き口に二本の細い金のバンドが巻かれている。それ以外の彩りはなかった。
 クロヴィスはルークの手からうやうやしくホルンを受け取り自ら献台へ運んだ。ドラムとの間を少し空けて、青いホルンを安置した。
 古代の神器がそろっていく光景は胸がわくわくするようだった。何かに似ている、とルークは思った。ちょうど、天空の武具がひとつひとつ集まっていく感じに似ているのだ。別れ別れだったパーツが一堂に会するとき、天空の剣も鎧もひときわ輝いて見えた。
 音楽を愛する民の女王はうっとりと献台をながめた。胸をときめかせているらしい。
「神器を預けていただけますか、ルーク。妖精の中でも最高の演奏者を選んで往古の音色をかなでさせましょう」
たったっと足音がした。人々の視線が集中する中をアルノーがもどってきた。
「勝手な退出をお許しください、女王様」
「かまいません。秋空のヴィオラを持ってきてくれたのでしょう?」
「それが……」
アルノーは恥じ入った顔になった。
「私の手違いで、某所に貸したっきりになっていたのです」
「では、返していただかなくては。ヴィオラがそろえば、往古の音色が復活するのですから」
アルノーはもじもじしていた。
「まことに申し訳ない事ながら、女王様から直接、返還の交渉をしていただけませんか?」
優男の吟遊詩人は穴があったら入りたそうな顔になった。
「マスタードラゴンに」
誰かがどかっと音を立てた。
「今、なんと言った!」
ピサロだった。さきほどもルークたちはランジュのかんしゃくを見たばかりだったが、魔王の怒りは桁違いの迫力だった。
「きさま、天空城へ大切なアイテムを渡したのか!」
 アルノーはふるえあがった。
「すいません、すいません!だって、すぐに返してくれると思ったのです。それに返してくれなんて言いにくくって」
「バカがっ」
罵声をピサロは吐き捨てた。クロヴィスが眉をひそめた。
「口を慎みなされ、お若いの」
妖精族の賢者はそうたしなめた。
「天空城の竜の神のなさることに間違いのあろうはずもない。事情を説明すればきっとお返しくださるだろう」
皮肉たっぷりな目でピサロはクロヴィスを見返した。
「若いの、とはな。きさまこそ年齢を無駄に重ねたようだな。妖精とはなんともおめでたいものだ」
再び険悪になりそうな場に、ルークが割り込んだ。
「あの、みなさん、どうか冷静に」
女王は何か言いたそうな表情のまま、言葉を飲み込んで玉座の背もたれに身を預けた。
「ぼくに行かせてください、女王様」
「あなたが交渉してくださるの?」
「はい。ルーラでいけばすぐだし、マスタードラゴンとはお話したこともありますから」
「そう」
ぐっと不満をこらえたという顔で女王は言った。
「では、ルーク、あなたにお願いいたしましょう。これを」
女王は繊細な指から指輪を抜いてルークの掌に落としこんだ。
「マスタードラゴンにお見せして、妖精族の代表として秋の空のヴィオラを受け取ってください」

 明るい空の下を天空城は快適に飛行していた。何度も入ったことのあるその城を、ルークは雲の塊の上に立って、真正面から見上げた。左右に一基づつ角塔を備えた、いかめしい構造である。城内も大変に広く、天空人たちの町そのものであるとルークは知っていた。
「行こうか」
 ビアンカがうなずいた。天空城に入るときの常として、モンスターはほとんど連れてきていない。モンスターのほうでいやがるし、天空城の住人の態度もモンスターがいると違うような気がするので、勇者アイルをはじめとしてグランバニア一家のみが城へ 登ることにしていた。
 天上の強い風がルークたちのマントの裾をなびかせた。ルークは城正面の基壇につながる大階段へ片足を置いた。
 竜の神、マスタードラゴンが支配する天空の城。今でこそ地上や低空に留まりルーク一家の乗用とさせてもらっているが、本来は白雲に包まれて悠々と大空に浮かぶべき、至聖の領域である。
 大階段のてっぺんでは、左右に兵士が配置されて城の入り口を守っている。傷一つない鏡のような鎧に身を固めた天空人の戦士だった。
「ここは天空城です」
「ようこそ、勇者アイル、ルーク殿」
兵士たちは、優美な白い翼が似合わないほど背が高く堂々とした体格だった。無表情で、その声にはほとんど感情がない。だが見ている分にはまるで彫刻のような整った美しさがあった。
「マスタードラゴンにお目にかかりたいのですが」
ルークが言うと、兵士たちは人形のような顔の眉一つ動かさずに答えた。
「どうぞ、玉座の間へお通り下さい」
「あ、どうも」
 姿勢正しく、礼儀正しく、無表情。そしていつ来ても彼らはここにいる。おそらくこの城が雷鳴とどろく雲塊の中を進むときも、きっと同じように立っているのだろう。なぜかルークはためいきをつきたくなった。
 大階段をあがりきった先には入口がいくつかあり、この城のそれぞれ異なった部分につながっている。だが玉座の間への通路はただ一つであり、どこにも分岐点はなく、ただひたすらマスタードラゴンの待つ部屋へ向かうのみだった。
 通路の左右から城のあちこちを見下ろすことができる。天空人たちは今日も冷静に淡々と日常の業務をこなしていた。
「なんだか緊張するわ」
その血脈の中に天空の血を伝えるはずのビアンカがそうつぶやいた。
「ぼくもだよ」
 くす、とビアンカは微笑みをくれた。彼女が純粋の天空人でなくてよかった、とひそかにルークは思う。ビアンカは、もちろん顔立ちはとても美しいのだが、それよりも笑ったり動いたりして感情を豊かに見せるときのほうがずっとすてきなのだ。
 城の前の兵士たちとそっくりの天空人護衛兵がルーク一家を無言で迎え、無表情に内部へ導いた。
「ただいまおいでになりますので、少々お待ちください」
 天空城玉座の間は、例えばグランバニア城の玉座の間よりもずっと広々としている。それだけではなく、驚くほど天井が高い。なにせ玉座の主は人ではなく、巨大な竜なのだから。見上げるようなところに天井があり、床との間にはけっこうきゃしゃな柱が何本か立っている。柱の間から無限の青空と壮大な雲海がよく見えた。
 ルーク一家はきょろきょろした。普段ならば人間サイズをはるかにこえる玉座の前に黄金の竜の神はどっしりとうずくまっているのに、今日は無人だった。
「どこかへおでかけなのですか?」
「図書室へ、調べ物においでになりました」
へえ、とルークは思った。アイルがそっとルークの服の袖をひっぱった。
「どうやってご本読むんだろうね」
マスタードラゴンの前足は当然ながら竜のカギ爪なのだから。
「父さんにもわからないな。誰かが読んであげるんじゃないかな?」
誰かがそのとき、くすくすと笑った。
「ひどいなあ、自分で読みますよ、私は」
えっとつぶやいてルーク一家はもう一度、金色の巨体を探してあたりを見回した。だが、そこにいたのは一人の人間だった。
 まるでカジノのポーカーマスターのようないでたちである。白いシャツに黒いズボンとズボン吊りのバンド、蝶ネクタイ。どことなく気の弱そうな色の白い顔に黒いメガネをかけていた。
「プサンさん?」
その男はにこにことほほ笑みながら歩いてきた。
「こんな姿で失礼。そう、十本の指が必要な時は、この姿を取ることにしています」
あっさりとそう言うとプサンはひょいと玉座のはしに腰かけた。
「元気そうですねぇ、君たちも」
なんとも軽々しい言い方だった。
「うん、元気……にしていました。マスタードラゴン」
はははは、とその男は笑った。
「やだなあ、トロッコの洞窟で、もっと仲良しになったんじゃなかったかな、私らは?水臭いよ、勇者君」
アイルとカイはもじもじした。
「だってさ、ほんとはマスタードラゴンでしょ?」
「あれはあれ。私は私。ねっ、そういうことでっ」
「じゃ、『我は世界を見守る者なり』とか言わない?」
プサンは大げさに目を見張り、ぶんぶんと首を振った。
「言いませんよ~、やだなあ。そんな、しらけるじゃないですか」
ルークは少しほっとした。マスタードラゴンを相手に交渉するより少しは気が楽なような気がする。なんといってもプサンとは、トロッコの洞窟で知り合い、ルーク一家が助けだした男なのだ。ちょっとうっかり者で気弱な雰囲気でどう見ても都会育ちの、そう言ってよければ軟弱な優男。そしてドラゴンオーブの“器”でもある。ひとたびその器が満たされるとき、全知全能の竜の神マスタードラゴンとなる男だった。
「マスター~」
「『プサン』!そう呼んでくださいよ。約束でしょ?」
「ええ、わかりました。プサンさん。あの、ぼくたちは今日は、お願いがあって来ました」
「うん?何でも聞いちゃいますよ?ほかならぬルーク君の言うことだしっ」
あまりの軽さにルークは調子が狂ってしかたがなかった。
「あの、秋の妖精のアルノーさんをご存じですか?」
「知ってますとも。妖精は古い高貴な一族だしね。長い付き合いですよ」
ルークは女王から預かった指輪を指の間に挟み、プサンに見えるようにかかげた。
「ぼくたちは、アルノーさんと妖精の女王様の代理で来ました。アルノーさんに秋の空のヴィオラを返してあげてほしいのですけど。天空城へ貸したって言ってるんです」
プサンは黙っていた。黙ってにこにこしていた。顔がにこにこしていた。口元もおだやかだった。
 だが、眼だけは笑っていなかった。
 誰も何も言わなかった。
 ビアンカの表情がこわばり、ルークの腕をつかんだ。
 子どもたちは互いに互いの服を握り、両親のほうへ寄り添った。
 天空城の兵士たちは無言無表情のまま、じっと立ち尽くしていた。彼らはもともと感情の起伏が少ない一族なのだが、この玉座の間を守るのは、とりわけ立派な体格と冷静な人格の兵士たちだった。マスタードラゴン親衛隊こと「ドラゴンガード」。おそらくよりすぐりの戦士たちなのだろう。彼らは身じろぎもしなかった。
 プサンが眼鏡をはずした。ズボンのポケットから絹のハンカチを取り出し、それでレンズを拭き始めた。
「あの……」
 プサンさん、とは言いにくかった。マスタードラゴンだ、とルークは思った。どれだけ軽々しく振舞って見せても、今目の前にいるのは世界を見守る者、天空の竜の神だった。
 プサンは太い黒い縁の眼鏡をかけなおした。
「さあ、どうしようかな」
「そのヴィオラが、必要なんですが」
「ふうん。あれは、私にも必要なんです」
 玉座の上に足を組んで腰かけながら、プサンは肩をすくめてみせた。にこにこしている。いや、にやにやしている。こちらが困るのを承知の上で断っているのだとルークにはわかった。
 プサンの正面にビアンカが立ちはだかった。
「そんな意地悪言わないで!」
「意地悪?するわけないでしょ?」
いかにも心外だという表情をプサンはして見せた。
「もともと秋の妖精のものなのに、どうして返してくれないの?」
「なんでいきなり必要になったんです?」
何の気もなさそうにプサンが口にした。ビアンカは真っ正直に答えた。
「ロザリーさんを夢から覚ますために、大昔の音楽が必要なの。だからその特別なヴィオラがいるんだわ」
プサンの微笑みがいちだんとにこやかになった。
「な~んだ、そんなことか」
「そんなことって」
双子が絶句した。
「だってロザリーさん、眼を覚まさせてあげないと」
「寝てると誰か困るの?」
「ピサロが悲しむよ」
「ピサロ?」
プサンはわざとらしく視線を空中へさまよわせた。
「ああ、あの魔族か。はた迷惑な人だよねえ、あれも」
やれやれ、とプサンはおおげさに肩をすくめて見せた。