エルフの時代 3.勇者は目覚める

 ビアンカは思わずうめき声を上げた。
 グランバニア城の門前は、緑の鱗の海と化していた。
「ドラゴン!」
一頭一頭が相当の巨体だった。ほとんどグランバニア城の最外壁の半ばぐらいまでの背丈がある。首を伸ばせばさらにでかいのではないかとビアンカは思った。
「こいつら、どこから来たの!」
グランバニアの一番外側の壁は家屋なら3、4階相当の高さがあり、壁の厚みは一番上を通路にして人が4~5人つれ立って歩けるほどぶ厚い。ビアンカとルークは、その壁上の通路から外を見下ろしているのだった。
 いつもは壁の上で見張りをしている若い兵士が震えながら声をかけてきた。
「わかりません。一頭が空を飛んできて驚いていたら、次から次へと集まってきて」
「アイルが倒れたってときに、いったい、なんでこんな!」
 ぐおお、といっせいにうなる声にビアンカの声はかきけされそうだった。竜が鼻から噴出す息がなまぐさい。目は白目の部分が黄色に見える。なぜか憎悪の光があるように見えた。巨大な口には牙が見え、はしからはよだれが滴っていた。彼らの四肢の爪はまがまがしいほどに尖り、引き裂いた獲物のひからびた肉がこびりついていた。
 ルークがつぶやいた。
「どうしてだろう、この子達はひどく怒っている」
「あたしたち、なにかした?」
「そんなはずはないんだが。誰がドラゴンを怒らせるなんてことするだろう。しかも、こんな大群」
「見て!」
ドラゴンの群れが動いた。城門の前の空間を開けるために左右へ詰めている。そして、うなるのをやめ、城門のほうへ頭を向けてしつけのいい番犬のようにうずくまった。
 緑の鱗のドラゴンの海を左右に分けて、ひときわ巨大な漆黒の竜が姿を現した。ビアンカはぞくっとした。城壁の上から下を見下ろしているビアンカたちよりも後ろ足で立つ黒い竜の目線のほうが上だった。
 黒竜は皮革質の翼を大きく広げてはばたいた。それだけで太陽が隠れるほどだった。地響きをあげて巨竜は城へ歩み寄り、首を伸ばしてルークたちを覗き込んだ。
 目の色は、白目の部分が冷ややかな金色、瞳は真紅色、縦長の虹彩が黒。怒りを我慢できないようすで、黒竜は口元をひくひくさせた。この距離で炎を食らえば死ぬかもしれない、とビアンカは思った。
「ルーク……」
ルークは、前に進み出た。
「ビアンカ、兵士を逃がして」
「うん、わかった」
 小声で指示を出すと、ルークはわざわざ黒竜の正面に立ってその巨大な頭を見上げた。
 黒竜は目を見張った。
「おまえか」
と竜は言った。
「え?君と会ったことがあるかい?」
竜は問いかけを無視した。
「エルフを出せ。人間たちの間に留め置くことはできぬ。彼女を返さぬのなら、たとえおまえでも許さん。我が爪にかけてくれよう」
「エルフ……」
言ったきりルークは沈黙している。あのエルフの女性のことだ、とビアンカは思った。
「あの人をどうする気ですか?」
「お前に説明する必要はない」
ルークは首を振った。
「説明してください。たぶん、そのエルフの人を知っていると思うけど、もし彼女がグランバニアに助けを求めてきたなら引き渡すわけには行かない」
ルークは恐れ気もなく黒竜の前に、握った杖を突き出した。
「ぼくはグランバニアを守るものだから」
黒竜は一瞬天を仰ぎ、黒い煙を吐き出した。どうやら笑ったようだった。もう一度ルークに向けた目はぎらぎらしていた。
「エルフが人間に助けを求めるだと!人間がエルフを見ればどのような仕打ちをするか、おまえ、わかっているのか」
ビアンカは、グランバニアの人々がエルフに向けた冷たい視線を思い出した。だがルークは黒竜の目を見上げた。
「ぼくは子供のころ、妖精の貴婦人から助けを求められたことがありますよ。彼女はお返しに、大人になったぼくを助けてくれた」
「おまえは変わり者だからな」
黒竜は皮肉っぽく言った。
「さあ、彼女を返すのだ。時間稼ぎのつもりなら、この城門ひとつ、砕いてやろうか」
そのときだった。頭上で窓の開く音がした。
「ピーサーロー!」
アイルの声だった。ビアンカは思わずふりあおぎ、悲鳴を上げそうになった。アイルは窓から半ば身を乗り出しているのだった。
「ロザリーはここだよっ」
その一言のもたらした変化は劇的だった。漆黒の竜はいきなり消えうせた。城壁の上、ルークと向き合っているのは黒い衣の美しい魔王だった。
「えっピサロ、あなたが」
ピサロは完璧に無視していた。ばさりと音を立てて背から巨大な黒翼を生じると黒いブーツで城壁を蹴りアイルのいる王室居住区の窓まで飛び上がった。
「ロザリー」
とピサロが言いかけたとき、アイルは思いも寄らない行動に出た。窓から手を伸ばして、空中にいるピサロの衣の襟をつかんだのだった。
「ぼくが前の身体を持ってたら、ここでぶん殴ってるところだ!」
真剣な瞳で魔王を怒鳴りつけた。
「なんでロザリーに、シンシアの遺品を触らせた!」
ピサロの表情が変わった。かなり距離のあるところからでも、彼が青ざめたのがわかった。
「まさか……」
アイルの青い目とピサロの赤い目が出合った。二人とも言葉以外の方法で危機を共有しているようだった。
「ビアンカ!」
ルークは先に走り出している。
「上へ行こう!」
「わかったわ」

 ルークたちがロザリーの部屋へたどりついたとき、二人は室内のエルフの乙女の病床の前に立っていた。沈痛な表情だった。
「ピサロ」
息を切らせてルークは話しかけた。
「この人は、あなたの知っている人なんですか?」
首だけ動かしてピサロは振り向いた。
「彼女はロザリー。サムルラーンのエルフの王女で、一族の最後の一人だ」
それきり、何も言わなかった。
 ルークはアイルの背中に向かってたずねた。
「あなたは誰ですか?」
アイルの顔をした少年がふりむいた。
「ユーリル。勇者ユーリル」
「“勇者”……うちの子が見たのは、あなたの夢だったのかな?」
アイルの中にいるユーリルは首を振った。
「彼が見てしまったのは、シンシアの夢だ」
「シンシア?」
「シンシアは僕の友達だった。僕の姿かたちにモシャスして、僕の身代わりになって死んだ」
ビアンカは息を飲み込んだ。ピピンの宿屋でアイルは何と言っただろうか。“僕は安心してる。大事なものを隠しとおせる”。
「あの羽帽子は彼女の遺品だ。ロザリーは僕よりもっと強く夢の中へ入り込んでしまったのだと思う」
ピサロは眠るロザリーに視線をあてたままつぶやいた。
「本来森のエルフは名前を持たない。“ロザリー”も“シンシア”も、互いを仮に区別するためのただの記号だ」
「でも、ベラは名前を持っていた。ポアン様も」
ピサロは首を振った。
「今では彼ら一族も変化してきているのだ。妖精、というのだな。だが、サムルラーンのような原初の一族はもともと意識の一部を共有していた」
アイルの中にいる少年がつぶやいた。
「もしかしたらシンシアは、ロザリーの一族だったのかもしれないね。彼女は僕の覚えている限りずっと同じ姿、同じ年だった。本当にエルフだったのか」
あの、とルークが言った。
「じゃあ、ロザリーさんはシンシアさんという人と記憶を共有していたことになるんですか?」
ピサロはためいきをついた。
「ロザリーは、ほとんど幼女のころに一族を離れた。シンシアが死んだのは、それよりはるかに後の出来事だ。だから意識の共有はなかった、今までは」
アイル/ユーリルがきっと顔を上げた。
「そうさ!あの羽帽子に触ったりしなけりゃ!」
ピサロはうつむいた。
「なぜあの羽帽子をロザリーが手に入れたの?」
「あれは、私が手に入れて、持っていたのだ」
アイル/ユーリルは驚いたようだった。
「なんで……?」
「理由などない。私が持っていなくてはならないと思ったからだ」
ピサロは唇を引き結んだ。アイルの視線が下がった。
「バカ。昔から妙なところで律儀なんだから。でもそのせいでこんなことになっちゃうなんて。あなたはやっぱりバカだよ」
「バカバカと言うな。あいかわらず馴れ馴れしいやつだ」
ルークは奇妙な感覚を味わっていた。アイルが、ルークの大事な息子のアイルが、魔族の王と不思議に親しげに、というよりもまるで仲間のようにへだてなく話し合っている。実際の年齢よりも大人びて見えた。
「ピサロ」
とルークは言った。
「結局、この人、ロザリーさんはどうなるんですか?」
「眠り続けるかもしれん。共有してしまったシンシアの意識に支配されている。その記憶があまりにも強く、抗うことができないのだろう」
ピサロの表情は沈痛だった。
「だめだよ、起こさないと」
怒ったように少年が言った。
「シンシアの見た情景はね、すごく怖いんだ。悪夢を見続けて出口がないなんて、かわいそうすぎるよ」
「その夢の中に」
と言いかけてピサロは口ごもった。ほとんど無表情な彼が、苦痛に耐えるように眉を寄せた。
 アイルの手がピサロの腕をそっとたたいた。
「見てない。あのときシンシアは、魔王も吟遊詩人も見ていない。だからロザリーの悪夢の中に、あなたは出てこないよ」
身長の違いすぎる相手をいたわっているような言い方だった。ピサロは何も言わなかった。だが、いからせていた肩がわずかにさがるのをルークは見た。