エルフの時代 1.さまようエルフのお姫様

 深い森の奥の大樹の幹に片手を付いたとき、ふと鼻腔をくすぐる香り。苔や樹皮や落ち葉の混ざった土がかもしだす森の匂い、緑の香り。悠久の歳月、雨と風と太陽が育んだしなやかで強靭なアロマ。
 人々はきょろきょろした。いったいこの不思議な匂いはどこから来るのか、と思ったのだ。そのあたりはどこを見回してもありふれた風景だったから。
 人々の行き交う雑踏である。大きな板石を敷き詰めた歩道の上には、サンダルや木靴をはいた人々が忙しげに歩いている。
「さあさあ、お買い得だよー!」
「今月の大売出し!出血大サービス!」
客引きの声につられて買い物の客は右往左往していた。腕からさげた籠や背中に負った袋などはどれも買い物でいっぱいだった。それなのに奥様やお嬢様がた、グランバニア風のすその長い厚地の服に華やかな肩掛けをして、大通りへ出かけるために髪を結って刺繍の付いたキャップでまとめたおでかけ仕様のみなさまは、まだまだこれからという気合で店から店へ見て歩いている。つきあう店の店員たちも商売に余念がなかった。
 上品な中年の婦人が、店主の勧める布地を手にとってうっとりと眺め、値段を聞こうとして、ふとためらった。きょろきょろと左右を見回し、不思議な匂いの源を探し始めた。
 彼女の背後ではおめかししたお嬢様とその気を引きたい若造どもが、意味ありげな視線のやり取りを一瞬やめて、同じようにあたりを見回し、くんくんかぎ始めた。
「なんの匂い?」
「森の深いところみたい」
 グランバニアは森の王国である。パパス王の築いた城塞都市グランバニア城の周辺には、太古の樹海が広がっている。国民は森の匂いに慣れ親しんでいた。
 しかしその場所は、城の中だった。魔力を含んだ石材で築かれ、閉鎖された巨大な空間の内部にある町の目抜き通りである。樹海の香りが漂うはずもない。ざわついていた市民の誰かがあっと声をあげた。人々の視線が一方向へ集中した。
 誰かが歩いてくる。若い女に見えた。髪はストロベリーゴールド、肌は絞りたてのミルクの色。人々は誰からともなく彼女の前に道を開け、雑多な群衆の中に一筋の道ができた。
 彼女の目はぼんやりとして焦点があっていない。くるぶしまで届くドレスのすそから見え隠れする小さな足は裸足のままだった。ドレスは蜘蛛の糸ほど繊細な繊維を織った不思議な布で、光のかげんによって淡い真珠色からばら色までさまざまに変化して見えた。ただくびれたウェストを締めるサッシュだけはローズピンクだった。
 グランバニア城塞都市の一階部分は山ひとつくりぬいた広さがあり、目抜き通りの幅も広い。グランバニア王国軍の使う六頭立ての戦闘用馬車が二台悠々とすれちがえるほどだった。その左右の外側に市民のためにベンチを並べ、合間に街路樹を植えてある。そして広めの歩道を取って商店が並んでいる。
 半地下の都市空間は天井が高く、商店は二階三階建てのものが多かった。不思議な貴婦人が現れたときのざわめきは大きく、店の階上の小窓から人々は何事かと顔を出した。
「なんだい、あれは」
その女はおぼつかない足取りで歩き続けている。額の上には大粒のルビーをはめた銀細工のティアラを飾っている。どこか高貴でたおやかな雰囲気があった。
「まるで、お姫様みたい」
母親に手を引かれた少女がつぶやいた。
「お耳がとがっているけど」
人々ははっとした。森の香りの姫君は、たしかにエルフイヤーを持っていた。
「本物か?」
「え、ほんとうなのか?」
エルフの姫は大通りをまっすぐ進んでいく。
「王様にお知らせせにゃあ」
「誰か、ピピンさんを呼んで来い!そのへんにいるだろう!」
毎日歩き回っているおなじみの街角にエルフの姫が現れる。人々はあわてふためいていた。
 時は昼下がりだった。大通りには太陽が差し込んでいる。天井を形作る魔石は雨を通さずに大気と日の光を通すのだった。雨は城の周辺の森へ吸い込まれ、地下水となって井戸から汲み上げられグランバニアを潤している。大通りの中央にも美しい噴水が造られていた。太陽を浴びて水の柱はきらめき、陽気な音を立てて次々と水盤へ落ちた。
 エルフの姫は、両手で何かを持っているようだった。腕をまっすぐ前に上げて両手で作ったくぼみの中に大切そうに布の塊のようなものをささげている。まるで、誰かに手渡そうとしているようだった。
 噴水の向こうに無邪気な歓声が起こった。わんぱくざかりの男の子たちの声だった。教会のほうから男の子の一団が走ってくるのだった。子供たちは大通りへ飛び出し、大人たちのざわめきに気づいたようだった。
「なに、なに?」
 子供たちの一団の先頭にいるのは、金髪にくりくりした青い目の男の子だった。十歳かそこらの年頃に見えた。簡素だが清潔な木綿の上着と膝までのパンツを身につけている。髪はかなり長く、首の後ろで結んでいた。
 そのかたわらに、もうちょっとよそゆきな感じの、身なりのいい男の子がいた。緑の髪をおかっぱに切りそろえた気の強そうな顔つきの子で、顔中にそばかすを散らしていた。
 二人の男の子は、エルフの貴婦人に気づいて立ち止まった。
「コリンズ君、あれ、もしかして」
「エ、エルフだよな。うわ、まじ?」
そのときだった。エルフの女性は初めて立ち止まった。まだぼんやりしてはいるが、彼女の目が金髪の男の子を捕らえた。
「アイル、こっち来るぜ」
「ど、どうしよう」
「攻撃力はないはずだけど」
 エルフは、たおやかだが確固とした足取りでアイルめがけてやってくる。グランバニアの市民は不思議な女性とアイルを遠巻きにして見守った。
 アイルことアイトヘルは、れっきとしたグランバニア王家の第一王子である。市外からの侵入者が第一王子に近寄ろうとすればまっさきに兵士たちが飛び出して阻止するはずだが、グランバニアに限ってそれはなかった。
「アイトヘル様だ」
「よかった、なんとかしてくださるよ」
事の成り行きに驚いていた市民の間に、落ち着きさえ漂った。
 アイルは一歩前に出た。
「気をつけろ!」
コリンズがささやいた。
「うん。まず話をしてみる」
「なんか、あのお姉さん、イッちゃってる感じの目だ」
「大丈夫だと思う。平気だよ」
ぼくは、勇者だから。言外にそう言って、少年勇者アイルは彼女の前に進み出た。
「あなたはエルフですか?どこから来たの?」
すらりとしたエルフの貴女は勇者をわずかに見下ろすようにした。何も答えず、じっとアイルの前に立ち尽くしている。そして、ささげ持った布の塊をアイルに差し出した。
「これ?くれるの?」
彼女は何も言わない。アイルは手を伸ばし、彼女から布の塊を受け取った。
 布は白っぽく見えた。ふわふわした感触だということは見ただけでもわかる。縫い目がほどけてばらばらになってはいるが、どうやら帽子のクラウンの部分のようだった。左右の耳の辺りに丸い小さな留め金が残っている。留めてあったものの残骸からすると、どうやら鳥の羽のようだった。
「羽帽子だ。すごく、古い」
アイルはつぶやいた。
「なんでそんなものをこの人持ってきたんだ?エルフのお姫様ならもっとこう」
続きを言おうとしてコリンズは言葉を飲み込んだ。
「アイル、どうしたんだ!」
アイルが泣いていた。
 手に羽帽子の残骸を持ったまま、アイルはその場に立ち尽くしていた。母親譲りの大きな目から、涙がひとすじあふれてほほをつたっていく。さきほどまでの屈託のない元気な男の子の顔とはまるで違う。唇を噛みしめ、目を潤ませ、何かとてつもなく大事なものを失った哀しみのためにアイルは泣いていた。
「アイル、しっかりしろよ、いったい、何なんだよ!」
う、う、と嗚咽の声をあげてアイルはつぶやいた。
「みんな死んじゃった」
「死んだ?誰が?!」
アイルはもう声を出せずに唇だけ動かした。
 なんと言ったのかコリンズにはわからなかったのだが、エルフの乙女はアイルにうなずいた。どこか悲しげな微笑を浮かべると、繊細な白い手を天に伸ばし、彼女はそのまま石畳の街路へ崩れ落ちた。と同時にアイルも羽帽子だったものを抱きしめたまま何かにうちのめされたように膝をつき、そのまま動かなくなった。
 人々は悲鳴を上げた。目の前で無敵と思われていた勇者が倒れたのだった。
「アイトヘル様!」
「殿下!」
兵士たちがあわてて走ってきた。
「このエルフが!」
王子のために市民はいきりたった。
「くそ、なにをしたんだ!」
コリンズは群衆の前に踊りでた。
「ちょっと待った!」
子供ながらせいいっぱい両手を伸ばして殺到する市民を制止した。
「このエルフの人は何もしなかった!俺は見てたんだ」
一瞬暴徒がひるむ。コリンズはすばやく見回し、顔を覚えていた兵士を名指しで呼びつけた。
「ジェイド!アイルとこの人を運び出してくれ!」
グランバニア人ではないコリンズが命令を出していることを不審がられるまえにコリンズは大声でたたみかけた。
「ピピンの実家の宿屋がいい。みんな、この人に何かしたらだめだぞ?王様が聞いたら悲しむぞっ」
当代のグランバニア王ルキウス七世は、人間にも人間でないものにも等しく慈愛を注ぐことで有名だった。いきりたっていた人々の間から、ためらうようなざわめきが生まれた。彼らは兵士たちがエルフの乙女と王子を宿屋へ運んでいくのを妨害することはなかったが、気絶したエルフに向ける視線は冷たかった。
 宿屋の女将はすぐに事情を察して部屋を提供してくれた。コリンズは心中ほっとして、アイルのベッドのそばに椅子を持ってきて座り込んだ。
「ジェイド、誰か一人出して、王様か王妃様にお知らせしてくれ。おれはアイルを見てる」
「はっ」
こうしてこの日の午後、勇者アイルの世界にてエルフの物語が始まったのだった。