エルフの時代 12.天竜吼える

 妖精のホルンは力強い調べを繰り広げていく。ルーク一家はうねり押し寄せる音楽の波にさらわれそうだった。互いに手や衣をしっかりと握り合って立っていた。やがて音楽は荘厳なクライマックスへ突入した。打楽器が激しく打ち鳴らされ、弾むような躍動感のうちにエンディングが来た。
(ダ、ダ、ダ、ダ、ディ、ダ!)
 音楽は終わった。いきなり訪れた沈黙の中を風がまた花々を巻き上げた。ざざざざざ、と立てる音はまるで拍手のようだった。ルークたちは動けなかった。まだ脳内で妖精族の太古の調べが鳴り響いている。
 ゆっくり妖精の女王が身動きした。ルークはそれを見て、すばらしかった、と言おうとした。
 ルークの前を横切ったものがあった。
「ピサロ?」
女王のほうへではない。ピサロは足早にロザリーの眠る寝台へ近づいている。
「今、ロザリーが」
「なんですって?」
 一瞬にして呪縛が解けた。ルーク一家と女王、そして妖精の賢者たちが一斉にロザリーの元へ集まってきた。
「動いたのだ!」
早口にピサロは言った。
「まぶたが動き、頭がこちらを向いた」
女王は寝台の上にかが見込んだ。
「姫君、お目覚めですか?」
がっとピサロが寝台の端をつかんだ。
「ロザリー!」
楽器を手にした妖精たちは期待を込めてざわついた。ビアンカが振り向いた。
「あたしたちも呼びかけましょう!」
「ああ」
ルークがコロセウムの中央へ足を踏み出したときだった。ぞくりとした。いきなり温度がさがった、あるいは冷たい風を浴びた、と思った。
「お父さん!」
アイルがルークの腕をつかんだ。その表情が青ざめている。ルークはうなずいた。すきま風などではない。凄まじいまでの殺気だった。
 まっさきにピサロが反応した。
「もう追ってきたか!」
かっと目を見開き、天の一画をにらみつけた。ルークは思わずその方向へ視線を向けた。
 ドーム状の空は、それまで春の花曇りのようなおぼつかない明るさを保っていた。だが、まるで雨雲が生まれたかのように、黒い汚点ができている。それは見る間にふくらんでいった。
「間に合わなんだか!」
 妖精の女王もその黒雲を見上げ、悲痛な叫びを上げた。楽器を手にした妖精たちは悲鳴をあげて飛びのき、女王の背後へと群れ集まった。
「お父さん!」
アイルの横顔が青ざめている。ルークは無言で目をあわせ、自分の武器、ドラゴンの杖を握りなおした。アイルがうなずいた。背に負った鞘から、巨大な剣が滑り出てきた。天空の剣のきっさきが細かく震えて鳴いていた。
 黒雲は次第に大きくなり、その内部にどろどろと黒雲が渦巻いている。ときおりびしっと音を立てて内部から稲妻が走った。カイが音を立ててつばを飲み込み、ビアンカの服の袖を強く握った。
 黒雲の内部から、鱗に覆われ鋭い鍵爪の生えた前足がぬっと突き出てきた。苦もなく黒雲を裂き、マスタードラゴンが巨大な頭部を突き出した。
「逃がさぬ!」
 言うが早いか、目を怒らせて天空の竜の神は一声吼えた。大気が震え、コロセウムを取り巻く花々が暴風に乱される。余韻とともに華麗な花びらがあたりに舞い散った。
 片腕をあげてピサロが顔をかばった。掲げた腕の下から爛爛と光る目で長年の好敵手をにらみつけていた。
「こしゃくなり。我は世界を見守る者。この眼から逃れられると思ったか!」
黄金の竜は滾り立つ怒りを花のコロセウムの中にいた者たちにむきだしにぶつけてきた。妖精たちは暴風雨にさらされる野花のように無力だった。悲鳴を上げてうずくまり、あるいは自分の楽器をかばってかかえこんだまま歯の根も合わないほど震えている。
「女王!事の次第を説明してもらおうか。よりによって魔族が、なぜ!」
震えながら女王は、それでも一族の長として逃げ隠れはしなかった。よろめきながらみなの前に出て、おそるおそる天の竜を見上げた。
「しかたがなかったのです。すべて」
「その娘がどうしたあああ!!!」
マスタードラゴンの咆哮は狭間の世界を切り裂かんばかりの勢いだった。
「この方は、太古のエルフの一族、サムルラーンの姫君です。お助けしないわけには」
「我の前には、サムルラーンの栄華もほんのひとときの花火にすぎぬ。たかだかそれだけの理由で天空城をたばかったか、愚か者が!」
激しい叱責の前に女王はひっとつぶやいて首をすくめ、眼をそらして両手の指をおちつかなげに握り合わせた。
「二度とこのような勝手ができぬよう、春夏秋冬をつかさどる四つの神器は天空城が預かる。ここへ差し出せ」
ベラが、アルノーが、そしてエルフたちがびくっとして顔をこわばらせた。
「お父さん!」
アイルが、思いつめたような眼でルークを見上げた。ルークが口を開きかけたとき、マスタードラゴンが鋭い視線を飛ばした。
「お前の番はまだ先だ。待っておれ、勇者よ。まったく、幼いとはいえこれほどに無分別、無思慮であったとは、我の誤算よ」
「ぼくは!」
叫ぶアイルをルークはなんとか手で抑えた。
「やつあたりもいいかげんにしろ、見苦しい」
ピサロだった。もう動揺していなかった。両手を組み、自分よりも高い位置にあるマスタードラゴンの顔をにらみつけていた。
「よほどもうろくしたようだな!」
面と向かってマスタードラゴンをあざけった。
「もうろくだと?この青二才が」
マスタードラゴンは黒雲の破れ目を押し開いて上体をぐっと乗り出した。
「きさまこそ、魔界で過ごしたこの年月、何を見てきた!地上の変化を感じ取れぬはずはあるまい。眼前に横たわる滅びのときが、きさまら魔族の目には見えぬと申すか!」
ピサロの表情が険しくなった。
「女王様」
カイだった。
「本当?エルフは、滅ぶの?あたしたちを置いて、行ってしまうの?」
女王は力なく肩を落とした。
「ええ、時の流れは残酷です。私たちはもうずっと前から滅びに向かっているのです」
驚いてアイルが叫んだ。
「なんで!」
「勇者よ」
と女王はつぶやいた。
「あなたとあなたの父君ならば、うすうす知っていらしたはず。妖精や魔族などの太古の民は、それだけでは存在できないのです。私たちの力は、この地上の生き物が私たちに寄せる想いに拠っている」
「女王様?」
「それは憧れかもしれません、恐れかもしれません。願い、祈り、戦慄、なんと呼ぼうとそのような想いなしには、私たちは無力なのです。かつて私たちが潤沢に与えられていた想いは、今はもう、枯渇してきています」
「ぼくたちのせい?人間が」
「ええ。人々が私たちへの想いを忘れてきているのです。きっと、そのように定められていたのでしょう。かつて地上に住んでいた私たちは力を失い、いつしか住処を追われ、妖精城へ逃げ込んでしまいました。それすらも仮の宿りです。私たちは、私たちは……」
女王の言葉は静かな嗚咽の中へ消えた。
 マスタードラゴンはむしろ静かに前足を重ね、その上に巨大な頭部を乗せた。
「そう、わかっているはずだ。エルフ、妖精、ホビット、ノーム、人魚、そしてモンスター、魔族、あるいは天空人。地上はもう、我々を支えてはくれぬ。太古の民は支えを失い、日ごと夜ごとに我らの居場所は狭まった。妖精城、天空城、そして魔界へと閉じ込められ、やがて滅び去るだろう」
 先ほどの怒りにまかせて吼え声より、静かな口調のほうが恐ろしかった。マスタードラゴンは、確信を持って滅びを語っていた。女王は細い十指で顔を覆った。
「わかっていたはずではないか、妖精たちよ。なぜ、逆らう。時の流れと定めに逆らって太古のエルフをよみがえらせてなんとする?」
「答えがいるか?」
問い返したのは、ピサロだった。まるでほっそりとした女王を背中にかばおうとするかのように、マスタードラゴンの眼前へ進み出た。
「ロザリーを救うのに理由がいるか?彼女がロザリーだからだ。余人を持ってかけがえのない女だからだ」
天敵を前にして、堂々とピサロは言い切った。
「滅ぶというのなら勝手に滅ぶがいい。私はもとより魔族の王だ。きさまの決めた予定を守る義理など微塵もない」
マスタードラゴンはぐいと首をもたげた。
「それが愚かと言うのだ。我らは夢から生まれ、夢を食らって生きてた。夢から夢へと滅んでいくが正しき道ではないか」
「私はいやだ!」
ピサロが言い切った。
「正しき道などきさまにくれてやる。私は最後の最後、時の尽きるまで滅びに抗ってやるぞ!」
 そのときだった。エルフたちの間から、ざわめきが起こった。足早に誰かがやってくる。夏の妖精の長、ランジュだった。ふんわりとした白い薄物を膝までの丈のチュニックに仕立て、革のブーツと手甲を身につけている。鋲を打ったブーツの底でコロセウムの床で打ち鳴らし、ランジュは最前列へ出てきた。
「我慢できん」
血色の良い頬は怒りで桜色になっている。豊かな黒髪をゆすり、ランジュはあごを振り上げた。
「エルフの答えを御覧あれ」
吐き出すようにそう言うと、つかつかと魔王のそばへ寄り、その真横に足を軽く開いて立った。両腕は胸の前に組んでいる。文句があるなら言ってみろ、という顔だった。
「それがエルフの答えか?」
とマスタードラゴンが言った。
「妖精と魔族、互いに相容れぬ仲であろう。にわか同盟か!後悔するぞ」
「いいえ」
かぼそい声がした。妖精の女王だった。雨を浴びた百合の花のような女王は、涙を振り払い、何事か決意したようすだった。しっかりとした足取りで女王はランジュのすぐ隣へ足を運び、同じようにマスタードラゴンに対峙した。
「私たちエルフは、魔族とは千年の仇敵どうしですとも。けれどもこの重大な選択の時には魔族も妖精も同じ側に立つのです」
 ルークは息を呑んだ。かつて見たこともない光景だった。黒いマントの禍々しい魔王の傍に、エルフの女王と高貴な女戦士が立っている。その後ろからポワンが、クロヴィスが、アルノーが無言で歩み寄り、背後を固めた。世界を見守る神に逆らうという大罪を覚悟した、思いつめた表情だった。
「あれほど、仲悪かったのに……」
もう一度怒りが突き上げたのか、マスタードラゴンが巨大な口を開いた。
「どいつもこいつも、愚か者ばかりよ!」
 花のコロセウムに再び暴風雨が吹き荒れた。だが、エルフたちは互いに互いをかばい、マスタードラゴンの視線をはずすことなくその猛威に耐えた。マスタードラゴンはあせったのか、背を伸ばして伸び上がり、鋭い爪の前足を突き出した。
「待ってください」
ルークは飛び出した。ピサロたちの前に走り出て、両手を広げた。
「下がれ、ルーク!」
「下がりません!」
後ろから足音がする。ビアンカが真横に立った。そして子供たちが。
「勇者よ」
奇妙に静かな声でマスタードラゴンは呼びかけた。
「我が至宝。人の中の最上の存在となるべく、長年のかけてきた手間の結晶よ」
アイルはたじろいだ。手にした天空の剣のきっさきがさがりがちだった。
「こちらへまいれ。そのような愚か者たちに立ち混じってはならない」
ビアンカが顔色を変えアイルの肩をつかもうとした。が、その直前で手が止まった。