クレイモランの白鳥 1.王と少年

奪われた記憶その1

 夜の図書館は、森閑と静まり返っていた。この王立図書館は王宮と同じくクレイモランブルーの壁に金の縁取りを施し、あらゆるところに大小さまざまな窓を設けている。すべて鮮やかな色彩のステンドグラスをはめてあった。
 日中なら日差しによって煌びやかな光が床や壁を彩るのだが、早めの夕食の後のこの時間では、高天井から吊り下げた光る石の放つ幽玄な灯だけが光源だった。
 少年は足音を忍ばせた。夜の図書館は人けがなく、とても寒かった。男の子はマントの襟をかきよせ、かじかんだ指に息を吹きかけた。
 王立学院は、昨日から冬の一斉休暇に入った。少年の同級生たちはクレイモラン市内や郊外、またはもっと遠くにある実家へ帰ってしまった。教師たちも帰省が多く、寄宿舎に残っているのは彼のような留学生だけだった。
 市内は冬の祭りのために買い物客でこみあい、街頭でたき火を焚いてマシュマロを焼き、まわりで歌い踊っている。その騒ぎをよそに広すぎる食堂にぽつんと座り、小さな留学生は残り物を温めた食事をとった。そんな生活がこれから半月ほど続くのだ。
「……かえって楽しいくらいだ!」
と少年はつぶやいた。
 舎監の教師も見張りの兵士も、学期中より数が少ない。ということは、ずっと前から入ってみたかった図書館の特別室に出入りしても気付かれないということではないか?王立学院と王立図書館は隣接していて、屋根付きの渡り廊下でつながっていた。
 部屋着の上にフード付きのマントを着て、手には柄つきの小皿に刺したろうそくを持ち、少年はさっそく王立図書館にもぐりこんだ。
 ここまではよし、と少年は思った。だが、目当ての特別室が閉まっていたらどうしよう?そのときはそのとき、一般書架から好きな本を持ってきて、手持ちろうそくの明かりで読みふけるのだ。一晩中だってかまいやしない。
 薄暗い廊下の角を曲がった時、本好きの少年は目を見開いた。特別室の扉がかすかに開き、灯りが漏れていた。
「やった!」
ときどき特別室を使ってそのまま開けっぱなしで帰ってしまう利用者がいることを少年は知っていた。いつもは部屋の前に兵士たちが立っているのだが、今夜は見当たらない。胸をときめかせて少年は特別室へ足を踏み込んだ。
 そこは、別天地だった。それほど大きくはないが贅沢なしつらえで、なにより床から天井まで天地一杯の書架が並んでいる。茶色の木材の磨きこんだ輝き、黒い鋳鉄の梯子、金文字の映える背表紙の分厚い本の数々。少年は憧れのため息を放った。
 書架と書架の間には出窓があり、たっぷりしたドレープのカーテンがかかっている。ひとつだけ窓のない壁があり、そこには暖炉が設けてあった。暖炉では燃えさしがまだ熱を放っていた。
 最初おずおずと、それからはしゃぎまわりたいほどの気持ちで本棚から本棚へと見てまわり、少年は一冊の本を発見した。
「これ、母上の本棚にあった……」
 それはロトゼタシアに伝わる昔話の集大成だが、子供向けに書き直したものではない原話バージョンで、多くの挿絵がついている。
 教室や宿題でクレイモランの同級生たちにおくれを取りたくなかったから、読んでおきたい実学書はたくさんあった。だがこの本はそういうものとは違って純粋に読みたかった。なにせ、今はもう亡くなった母といっしょにページを広げ、美しい挿絵に見入ったあの本と同じなのだから。
 少年の両腕でやっと抱えられるような大判の書物を本棚からおろし、暖炉の前に敷かれた毛皮の上に乗せ、ページを広げ、その前に膝をついて少年は読みふけった。
 どのくらい時間がたっただろうか。誰かが乱暴に特別室の扉を開けはなった。
「ここでなにをしている!」
少年はあわてて顔を上げ、手元に昔話集をかき寄せた。紫のコートの兵士たちが数名、暖炉を取り囲んでいた。
 バーレルヘルメットの下の顔は見えないが、兵士たちは槍のぎらぎらした先端を向けて威嚇していた。
「ぼくは、あの」
唇が震える。誰がどう見ても、立ち入り禁止の部屋で勝手に本を見ていたのがまるわかりなのだから。
 兵士の一人が少年の眼前に槍を突き付けた。
「誰の許可を得て入ったと聞いているんだ!」
男の子は両手で大きな本をぎゅっと抱え、泣きそうになった。
「私が許したのだよ」
穏やかな声がした。
 兵士たちが硬直し、おそるおそる振り返った。
 出窓を覆う厚地のカーテンが開いた。
 姿を現したのは、チュニックの上にガウンを重ねた壮年の男性だった。兵士たちより背が高いのではないかと思われる身長であり、眼も肌も、そして三つ編みにした長い髪も色素が薄い。かすかに目じりの下がった眼や、うすく微笑んでいる口元が、どこか飄々とした雰囲気をかもしだしていた。
「この子は、デルカダール王から私が直々に預かったのだ。そなたたち、丁寧に扱っておくれ」
兵士たちは明らかにうろたえていた。
「いえ、その、陛下にはお休みのところをお邪魔いたしまして、ま、まことに申し訳ございませんでした」
この国で陛下と尊称される者はクレイモラン国王クラディウス五世しかいない。少年は目を丸くしてその男を見上げた。
 王はうなずき、片手を振って兵士たちを下がらせた。
 少年は本を置いて暖炉の前に立ち上がった。
「お庇いくださいまして、ありがとうございました、クラディウス五世陛下」
王は口元をほころばせた。
「それから、お騒がせしてすみませんでした」
王は何かおもしろがっているような顔になった。
「先ほど言ったことはウソじゃない。モーゼフ・デルカダール殿とは知り合いでね。君はもう特別室に出入り自由だ、デルカダールのホメロス」
名前を言い当てられて小さなホメロスは唖然とした。
「ぼくを、ご存知なのですか」
「モーゼフ殿の言う通り、素直な子だ」
王は、暖炉のそばのゆり椅子にゆったりと腰をかけた。
「いろいろと知っているよ。わずか十三歳で国費留学生に選ばれて我が国へやってきたこと、寄宿舎に住んでいること、魔法学のほかに飛び級で法律、商業、行政、兵法、航海術その他いろいろなクラスに参加して、なかなかいい成績をとっていること、そして自由時間には個人的に剣と馬術の訓練を受けていることもね」
ホメロスはあっけに取られていた。
「そこまでお気にかけていただいたとは知りませんでした」
一国の王であることはおくとしても、クラディウス五世は“北の賢王”の二つ名で知られる博識の人で孤独と静寂を好む、留学以前からホメロスはそう聞かされていた。
 ふふふ、と枯れた声で王は笑った。
「たしかに私は人交わりの苦手な性質だが、たまには話を聞きたいこともある。何かデルカダールのことを話しておくれでないか」
何を申し上げようか、と少し考えてホメロスは話し始めた。
「ぼくは小さい頃にデルカダールのお城に引き取ってもらい、ずっとそこで暮らしていました。ある晩のこと、ぼくは厨房へ顔を洗うお湯をもらいに来ました。そのとき、真っ暗な食糧庫のどこかで、がたっと音がしました」
ほう、とつぶやいてクレイモラン王は聞いていた。
「おそるおそる食糧庫をのぞいてみたら、大きな食器棚が動いていたのです。ぼくは、お湯を入れるタライを持ったまま隠れて、食器棚がするする横へ滑るのを見ていました。
 食器棚が動くと後ろの壁に穴があいていました。そこに誰かいて、あたりの気配をうかがっているようでした。その人は足音を忍ばせて歩きだすと、ペストリーをしまってある棚に近づき、お菓子を取って、一気にパクッと……」
ははは、とクレイモラン王は意外なほど明るい声をあげた。
「当ててみせようか。盗み食いの犯人は、モーゼフ・デルカダール三世その人であろう」
ホメロスは小さく会釈した。
「御明察」
軽く握ったこぶしを口元に当てて、クレイモラン王は笑っていた。
「変わっていないね、彼は」
この方は、本当に我が王を知っているのだ。目の前の幕が上がったような開放感と安心感をホメロスは味わった。
 にこ、と王は笑いかけた。
「いいことを教えようか。若い頃モーゼフ殿は、巨大なアーモンドケーキを一人で平らげたよ」
「本当ですかっ?」
「本当も本当、お忍びでクレイモランの町中に遊んだときのことなのだが、大きな菓子屋があってね。生クリームで煮たアーモンドスライスをたっぷりのせたホールケーキを食べきったら無料、という客寄せをしていたのさ」
美味しそう、と小さなホメロスは眼を輝かせた。
「私を含め、そのときお忍びにつきあった連中がみな目を丸くして眺めるなか、モーゼフ殿は堂々とケーキを平らげてみせた。その時の幸せそうな顔ときたら、今でも忘れられぬよ」
幸せそうなのはこの方だ、とホメロスは思う。静寂を好む人嫌いの王など、とんでもない。
「モーゼフ殿は当時まだ王子の身分だったが、最初から世継ぎの君として帝王教育を受けてこられた。私のような気楽な身ならお忍びもたやすいのだけれど、モーゼフ殿にはさぞ新鮮だったのだろうね」
「でも、陛下も王太子でいらしたのでは?」
クラディウス五世は、ホメロスを見てくすりと笑った。
「まだ知らなかったか。我がクレイモランは代々女王が治めるのだよ。私は三十過ぎまで暫定王位継承者として王太子の地位にあった。私の姉妹、従姉妹、叔母たちがすべて王位を争って相討ちになってしまったので、しかたなく王になることを許された。母がもう一人娘を生むか、親族に一人でも女子が残っていたら、私は太子の身分を降りて学者になっていただろう」
姫同士で相討ち、という状況に小さなホメロスの頭はついていけなかった。王は指を組み合わせて顎を乗せた。
「うちの家系はもとをただせばバイキングの族長の末裔なのだ。どういうわけか、女は女傑ばかりでね。王女というより、氷の魔法と両手剣クレイモアをあやつる剽悍な女海賊たちさ」
眼を白黒させているホメロスにむかって王は肩をすくめた。
「しかも男は早死になのだよ。私の王としての名乗り“クラディウス”は、我が家の男王の伝統的な名前なのだが、一世から四世までのうち二十歳まで生きた者はいないよ」
「でも、陛下は長生きなさいますよね?」
ふふ、と王は笑い他人事のように言った。
「そうだとよいね。少なくとも、女児を授かるまでは死ぬに死ねないのだよ、私は」
そう言いながら、王は片手を伸ばしホメロスの頬に触れた。
「失礼。あまり柔らかそうだったのでね」
小さなホメロスは不思議な気がした。
「我が王も、時々そうやって私の顔をつままれます」
「彼にはマシュマロに見えるのだろう、このほっぺが」
ホメロスがむっとしたことに気づいたのか、くく、と王は笑った。自らゆり椅子を立ち、暖炉の前の毛皮の上に腰を下ろした。
「さっき見ていたのはロトゼタシアの昔語りだね。私に読んでおくれでないか」
はいと言ってホメロスは重い本を持ちあげた。
「おいで」
すこしためらったが、ホメロスは王の膝のすぐそば、毛皮の上に座り、敷物の上に本を広げた。
「『昔々、英雄王ネルセンがデルカダールに泊ったとき、黒い竜がネルセンを狙って襲ってきました……』」
すぐそばで、暖炉の火がぱちぱちとはぜている。クラディウス王の大きな手が、小さなホメロスの肩をあやすようにやさしくたたいていた。
「『人々が逃げまどう中、一人の騎士が黒竜を阻もうと両手を広げて立ちふさがったのです……』」
暖かく、心地よく、読みながらまだ小さなホメロスは夢心地だった。

 日が暮れ、城下町デルカダールには、にぎやかな夜が訪れていた。
 下層地区ではないが、貴族の邸宅の多い上町でもないあたり、教会の並び、城門に近い地区に、大きな居酒屋がある。丸テーブルをたくさん並べた店内のほかに、入り口そばのテラスにもテーブルを出して、その前でバニーガールがきゃっきゃっと声を上げて客を呼び込んでいた。
 テラスの端にプランターで他のテーブルからは目隠しになっている場所がある。そこに小さめの丸テーブルがあり、一人の客が長い足を組んで座っていた。兵士のように背筋を伸ばし、神父のように理知的な若い男で、長くのばした金髪を首の後ろでひとつにまとめている。襟元にクラバットを結んだブラウスに細身のキュロット、ひざ丈のブーツ、その上から簡素な上着を重ねていた。
 奥の厨房からバニーがトレイにグラスを乗せて運んできた。
「お待ちどうさま。お客さん、こんな端っこよりも中にいいお席あるわよ?」
男は背を木の椅子に預けていたが、バニーを見て薄く笑った。
「いや、人を待っているのでね。ここでいい」
「さてはデートね?お客さん、男前だもの」
客は軽く肩をすくめ、気障なしぐさで両手を広げた。
「残念だが、相手はごうけつぐまのような大男だ」
「あたしでよければいつでもお相手するわよ?」
意味ありげに片目を閉じて、彼女は行ってしまった。
 客の男、デルカダールのホメロスは、グラスを取って一口すすった。
 先月までデルカダール国民は幼くして亡くなったマルティナ姫の喪に服していた。
 世にいうユグノアの悲劇が起こったのは、二か月近く前になる。ユグノア王国の滅亡は悲しく恐ろしいできごとであったが、デルカダールにとっては七歳のマルティナ姫を失ったことこそ痛恨事だった。マルティナ王女は、現王モーゼフ・デルカダール三世が、年がいってから得た一人娘であり、ただ一人の王位継承者だった。
――だいぶにぎやかになったな。
町の居酒屋で杯を傾けながら、ホメロスはそう考えていた。本来なら王族の喪は一年近く続くのが慣例なのだが、父王自身が早々に王女の葬儀を執り行い、ひと月ほどで喪明けを宣言した。
 さすがは潔い、と国民は言い合ったが、やはり愛娘をなくした王の心中を思いやって人々はこのところ歌舞音曲や派手な催しを自粛していた。
 それでも日々は過ぎていくもので、その夜、デルカダールの町のにぎわいは以前のそれに近くなっていた。
 バニーガールが新しく客を見つけたらしい。
「いらっしゃ~い。こちらへどうぞ?」
たいていの客は鼻の下を伸ばしてバニーに誘導されていくのだが、その客は抗った。
「いや、その、俺は待ち合わせをしていて」
ホメロスはグラスをテーブルに置いた。
「こっちだ!」
新しく来た客、グレイグは、最初きょろきょろした。やっとテラスの端にいるホメロスに気が付き、ぱっと笑顔になった。いそいそとテーブルめがけてやってきて、途中で足が遅くなった。ホメロスの前にやってきたときは叱られた子犬のような後ろめたい顔になり、熊のような図体で上目遣いになった。
「や、やあ」
ホメロスは座ったまま腕を組んだ。
「将軍閣下には悪魔の子捜索でお忙しい折、かかる場所までお呼びたて申し上げ、まことに申し訳ない」
言葉は敬語だが、慇懃無礼を通り越して尊大な口調でホメロスはそう口を切った。
「まずは席を召されよ」
デルカダール王国将軍グレイグは、テーブルの上に手をついた。
「頼む、ホメロス、勘弁してくれ」
周りの喧噪にまぎれてはいるが、泣きそうな声だった。
「俺が将軍に任命されて以来、ずっとそんな言い方ばかりだ。もっと普通に話してくれよ」
つん、とホメロスは横を向いた。
「本官は王国軍軍規にのっとり、上官への礼儀を守るまで」
「やめてくれ。おまえがすっごく冷たい声で『ホメロス、入ります』とか言って俺の執務室に来るたびに、腹のあたりがきゅーっと痛くなるんだ。せめてここでは」
 バニーガールがやってきた。
「ご注文、お決まりですか?」
「あ、こいつと同じのを」
グレイグはこそこそとホメロスと反対側に座った。
「今夜はなんで城の外に呼びだしたんだ?もしかして、俺は何かやらかしたのか?」