クレイモランの白鳥 6.哀しい白鳥

 デルカダール王、モーゼフ・デルカダール三世は自ら玉座を立ち、両腕を広げて旧臣のもとへ歩み寄った。
「おお、ベルトラン。わざわざ呼びたてて済まなかった。グレイグに連行を命じたあとに手違いとわかったのだ」
名君と称えられた王の快活な口調に、宮廷の空気が一気に明るくなった。
「それは、それは」
ベルトランは目を白黒させたが、見るからにほっとしていた。王は目元を細めた。
「見れば、奥方も令嬢もごいっしょか。ちょうどよい、このわびしい年寄りに、酒と食事をつきあってくれぬか」
ベルトランは恭しく一礼した。
「それはもう、ありがたく御馳走にあずかります。ですが、御記憶ですか。それがしは呑むほうですぞ」
「申したな!今宵は城の酒蔵ごと干すとしようか」
はっはっはと磊落に笑ったあと、王はグレイグとホメロスに視線を向けた。
「お前たちにもいらぬ苦労をかけた。仕事は残っておろうが、今夜はお前たちもつきあってくれ」
 ホメロスは、ぞくりとした。モンスターをぶつけてダメなら毒杯と言う手がある。
「おお、そうだ、ホメロスよ、グレイグ隊の救出、見事であったぞ。明日にも将軍位を授けたいと思う。その前祝いもかねての酒宴としよう」
ぱっとグレイグが笑顔になった。
「光栄です、な、ホメロス?」
ホメロスはなんとか顔がひきつるのをこらえた。
「御礼申し上げます、我が王」
頭を下げたホメロスは、頭上に痛いほど王の視線を感じていた。

 デルカダール城は静まり返っていた。ベルトラン一家を招いてのにぎやかな夕食会はほどほどの時間に終わり、一家は貴賓室へ案内され、グレイグとホメロスはそれぞれの私室へ下がった。
 真夜中過ぎのこと、ホメロスの部屋の扉が細く開いた。廊下の常夜灯のほのかな灯りが市松模様の床に差し込んだ。その光を踏んで入ってきたのは幅広の金の縁取りのある長いチュニックと革靴だった。深夜の客が歩くと赤紫のマントが動き、その背に刺繍されている双頭の鷲が息づいた。
 デルカダール王の姿をしたその男は、衝立の陰に置かれたベッドへ近づいた。ベッドには、部屋の主が横たわっていた。
 寝台の前にあった紫の足載せ台に膝をつき、王は見下ろした。
「こざかしくも毒酒を警戒したか、ホメロスよ。だが、夢を喰らう魔物までは考えてはおらなんだろう、ん?」
眠るホメロスは、まったくの無防備だった。王はその寝顔を眺め、ほくそ笑んだ。
「考えを改めたのだ。そなたに興味がわいた」
大きな力強い手を白皙の美貌へと彼は伸ばした。細い顎をつかまれたとき、ホメロスは目を閉じたまま眉をひそめた。が、目覚めはしなかった。
「なに、そなたの知略などしょせん人間どまりのしろものよ。それより、そなたの胸中に渦巻くどす黒いモノ、これがよい」
くっくっと王の口から笑いが漏れた。
「人は、身体も命も悲しいほどもろいもの。だが、人が胸に抱く闇はどんなモンスターも及ばぬほど熱く、深く、どろりと澱んでいる」
 暗がりから、ぐるる、と唸り声がした。
(まことに。ああ、その者の闇、一口なりとすすらせてはくださいませぬか)
「バクーモスよ、おのれの飢えは際限がないのう」
笑いながら王は答えた。
「今はならぬ。わしはこの者の闇を育てたいのだ」
よだれの出そうな顔で王は眠る若者を眺めまわしていた。あごをつかんでいた手を下げて、夜着の胸の辺りを大きくはだけさせた。
「見せてもらおうか。そなたの嫉妬、憎悪、劣等感、承認欲求」
一言ごとに、王の手が白い胸へめりこんでいく。それは痛みを伴うらしく、眠りながらホメロスは眉をひそめ、歯を食いしばった。
「それ、邪魔ものを見つけたぞ。バクーモス、喰らってしまえ」
(ヒトの記憶などさぞかし不味かろう。が、あなたさまの命令とあらば)
王の手を通じて、黒い影がホメロスの胸の中へ忍び込んだ。うっとホメロスがうめき、せつなげに眉をしかめた。その眉間にあぶら汗が浮いた。
「喰らえ、喰らえ、バクーモス。余計なことは忘れるがよいのだ。ホメロスよ、十三歳のそなたは、クレイモラン王から王家の伝統について聞いてなどいない。二十歳のそなたは、ユグノアから城へ戻ってきたグレイグに広間で話しかけておらず、グレイグは答えもしなかった。そしてそなたは、デルカダール王に疑惑を抱いたこともない」
王の眼が赤く輝いた。
「む、もうひとつあったぞ。せっかくの闇を押さえつける光の記憶だ。白鳥だと?くだらぬことを。バクーモスよ、これも邪魔だ。平らげてしまえ」
びく、とホメロスが身をふるわせた。大切な思い出が奪われ、食らい尽くされる。それをわかっているのか、いないのか、眠りながら彼は泣いていた。
「これでよし。極上の闇を育てるがいい」
聞こえているかのようにホメロスはかすかに首を振った。王は再び、細い顎を指で固定した。
「抗うつもりか。だが、いつまで抵抗がもつかのう?五年か、十年か。わしは気長に待とう。やがてこの身体は闇に染まる。わしが触れなば、熟柿のごとく自ら落ちるだろう。嫉妬の味が苦ければ苦いほど、裏切りは甘いものぞ」
王は手を引き、むしろかいがいしく夜着をなおしてやった。静かに立ち上がると、悠々と部屋を出た。
「裏切りの甘美に酔うがいい……。我が手に落ちる日を待っておるぞ、ホメロスよ」
ひそかなつぶやきを残して扉が閉まった。

奪われた記憶その4

 鈴が鳴っている。鹿よけの鈴は、橇(そり)が走るにつれてシャンシャンと鳴り、雪原に響きわたった。
 その橇は六頭立ての馬に引かせていた。橇そのものも馬車のように豪華で大形で、紫と金で塗り分けられ、高いところに座席がある。そこに座っているのは、毛皮のマントに身を包んだクレイモランの王だった。
「その先の湖で停めておくれ」
御者はかしこまり、雪原の先に広がる湖の見えるところへやってくると馬をとめさせた。冬の初めの空は青々と晴れ渡り、雪原は冷たい大気で満たされていた。
 王は立ち上がった。
「見せたいものがあるのだ、おいで、ホメロス」
橇に同乗していた若者が立ち上がった。
「お供いたします」
 この年、ホメロスは十八歳だった。国王クラディウス五世は還暦を少し過ぎている。そして、その二年前に王妃によってシャール王女を得ていた。王はホメロスを連れて離宮で静養する王妃を見舞い、あわせて愛娘のシャールに会いにいった帰りだった。
 湖は見渡すかぎりに広がっていた。もう湖岸の一部は凍り付いているが、水面の中央の小島付近にはまだ氷がなく、オオハクチョウの家族がゆったりと浮かんでいた。
「冬がはじまる」
と王はつぶやいた。
「白鳥の群れは、真冬の間メダチャット地方の湖で越冬するのだよ。そして春になるとここへ戻ってきて巣を作り、秋にはまた南へ渡る」
 雪靴と地厚のマントで身を覆ったホメロスは黙って聞いていた。
「まずは、祝いを言っておこうか」
王は微笑んだ。
「王立学院の卒業、おめでとう。首席卒業生殿」
ホメロスは片手を胸につけて一礼した。
「学院の先生方と、陛下のおかげをもちまして」
ははは、と王は笑った。
「君の成績は努力の賜物だ。実は、学院長と君の担当教授からせっつかれておるのだ、君をクレイモランに引き留めろ、とね」
ホメロスは驚いて顔を上げた。
「しかし、私は」
王は片手を口元にあて、笑みをもらした。
「彼らにすれば必死なのだろう。君が将来成しとげる華やかな実績が眼に見えるのだから。“あのホメロスはこのわたしが育てた”、そう言いたくてたまらないのだよ」
「私は学問的な業績より、騎士として生きることを志望しています。そのことは、先生方もご存知のはずです」
控えめにホメロスは抗議した。
「教授たちに泣きつかれた時に、私も彼らにそう説明したよ。第一、冬を迎えた白鳥が南へ渡るのを誰に止められるかね?」
 王はゆっくり湖岸を歩き始めた。ホメロスも後を追った。
「エッケハルト君から聞いたよ。幼なじみと約束しているそうだね。デルカダールの国と王女を支えるために、二人で王国一の騎士になる。相違ないかな?」
「一言一句違わず、その通りです」
ホメロスよ、とささやくように王は言った。
「私は君をクレイモランに引き留めるつもりはないよ。だが、ひとつ気にかかっていることがある。私の問いに答えておくれでないか」
「喜んで」
「では、最初の質問だ。“王国一の騎士”というのは、二人でなれるものかね?」
「それは」
ホメロスは言いかけて口を閉じた。
「その約束をしたとき、私たちは子供でした。リンゴを分け合うように二人で“王国一”を分け合えると思っていました」
「今はどうだね?」
「力を合わせる約束をした、と思っています」
歌うように王はつぶやいた。
「おお、なんと熱き友情か。では、次の質問をしよう。どうして君はクレイモランに派遣されたのだろうか。騎士志望というなら、なぜソルティコへ行かされなかったのか?」
ホメロスは片手でマントの襟の合わせを抑えた。
「……わかりません。もしかしたらソルティコが受け入れる枠は一つしかなかったのかもしれません」
「その枠に選ばれたのは、君の幼なじみグレイグ君だった」
小さなとげが胸をえぐった。
「そういうことになります」
「モーゼフ殿と同じくソルティコのジエーゴ殿のことも、私は多少知っている。モーゼフ殿が才を見出し、ジエーゴ殿に預けて修行させるとは、グレイグ君はさぞかし騎士としての資質に恵まれているのだろう。これは私の推測だが、君の友だちは二十代のうちに将軍の位に進み、経験を積んだ後、全軍を掌握する元帥となるだろう」
ホメロスは黙ったまま、疼く胸を抑えていた。湖の水面は空を映して灰色がかった青、そこにさざ波が立っていた。
「最後の質問だ。モーゼフ・デルカダール殿は、マルティナ姫が生まれた時、君たち二人に向かって“王国一の騎士になれ”と言われたかね?」
 ホメロスは、記憶をたどった。生まれたばかりの王女を軽々と片手に抱え、もう片方の手に二つのペンダントを載せて王は言った――。
「……いいえ。我が王は“お前たちふたりがこの国の未来を守るのだ”と言われました」
ホメロスはきっと顔を上げ、噛みつくように問い返した。
「我が王は、私に騎士の才など期待していないということですか?!」
「それがどうしたね。ホメロス、君はいつか、デルカダールの丞相となるのだよ」
ホメロスは動きをとめた。続けて口から吐こうとした言葉は、白い呼気となって大気の中を漂った。
 クレイモランの賢王は、口元をほころばせた。
「知っておろう。丞相とは幼主を守り、国家の運営をつかさどる要職だ。グレイグ君が元帥として若きマルティナ女王の右手にあるとき、君は丞相として女王の左手にあるのだ。今、焦ってグレイグ君を追わなくても、君が自分の道を進めば、いつか必ず君たちは並び立つ時が来る」
「私は、しかし、我が王は」
ホメロスの驚いた顔がおもしろかったらしく、王はまた笑った。
「どうしてわかるのか、というのかね?わかるとも。ひとつには、私にも娘がいるからだよ。モーゼフ殿の胸中はよくわかる。小さな愛娘のことを思う時切実に欲するものは、娘の未来を託すに足る才ある若い世代なのだ。そしてもうひとつ」
ふふふ、と忍び笑いを交えて王は白状した。
「私は結論を知っていたのだよ。君が留学してくる前にモーゼフ殿から手紙をもらったのでね。君を“自慢のせがれ”と呼び、風邪をひかせるな、寂しい思いをさせるな、一流の教師をつけてくれ、本は好きなだけ読ませよ、好きな食べ物はあれこれ、嫌いなものは何々と、まあ、うるさいのなんの。老婆心と呼ぶさえおこがましいほどめちゃくちゃに細かい注意が盛りだくさんであったよ」
 鼻の奥がツンとなり、あわててホメロスは手袋をはめた手で鼻から下を覆った。
「あの夜、君が王立図書館の特別室に現れたとき、そういうわけで私は君のことをよく知っていた。そして実物を見て納得したよ。いまだ豊頬の童子にして、あふれんばかりの王佐の才」
 王は長い指を伸ばしてホメロスの頬に触れ、顔を上げさせた。
「そんな表情をすると、昔の顔になるのだね、あの愛らしかったころの。さてと、この五年間、可能な限り私はモーゼフ殿の注文を守ってきた。まもなくモーゼフ殿は未来の大黒柱を手に入れ、私はデルカダールの政権中枢に親クレイモラン派の政治家を得るわけだ」
「私は、ちっとも」
情けないほど口が回らない。弁論術の単位が泣く、ひそかにホメロスはそう思った。
「それはそうだろう。里心がついては勉学の妨げになるという理由で、モーゼフ殿は手紙を君に見せるなと追伸に書いていたから。いやはや、至れり尽くせりというわけだ」
 王はホメロスに向き直った。
「『草廬にありて龍と伏し、四海に出でて龍と飛ぶ』。ホメロスよ、君の才は測り知れない。騎士を志望することは問題ない。だが、チカラばかりを追ってはいけない。グレイグ君と己を引き比べるのはやめなさい」
 ご覧、と言って王は湖を指した。
「あの白鳥は、水面に映る己の影を見ている。だが、見たまえ」
一羽のオオハクチョウが水面から空中へ身を起こし、見事な翼を羽ばたかせた。それが合図だったかのように、四羽ほどの群れが一斉に泳ぎ出した。水面に水脈を引き、湖の端へ向かっていた。
 それは突然起こった。さきほどのように身を乗り出した白鳥が羽ばたき、脚で水面を歩くようなしぐさをする。激しく水滴が散った。やがて脚が水面を離れた。残りの三羽もまったく同じ動作で飛びあがった。
 長大な翼を激しく上下にうち振り、空中姿勢を取る。尖端の黒い長い脚をそろえ、一直線に伸ばして、オオハクチョウの一家は青空めがけて舞い上がった。
「あれを見せたかったのだ。あれは君だよ、ホメロス。水面の影ばかり眺めていてはいけない。君の行く道はあの空の向こうにあるのだからね」
何も言えずにホメロスは、青空を舞う白鳥を見送った。目じりから、熱い涙がとめどなく流れていくのを感じていた。

 デルカコスタ平野の戦いは終わり、デルカダール城はその後始末で忙しかった。大砲やバリスタを回収して元のように設置しなおすだけでも一仕事だったし、負傷した兵士たちや消耗した備品、延期した業務等、ホメロスが解決しなくてはならないことはたくさんあった。
 同時に、ホメロスの将軍就任が決定した。グレイグは浮き浮きしながら城を歩いていた。
「ホメロスを知らないか?」
ホメロス隊の隊士をつかまえてそう聞いた。
「朝から待機所で書類を見ていらしたのですが、つい先ほど外の空気を吸いたいと言ってお出かけになりました」
「たぶん、あそこだな」
まだ少年兵だった頃グレイグがホメロスと木の剣を振るっていた三階のバルコニーへグレイグは足を向けた。
 思ったとおりホメロスは城のバルコニーにいた。手すりを片手でつかみ、空を見上げていた。
「何をしてるんだ?」
ホメロスは振り向いた。
「少し疲れただけだ」
たしかにホメロスは、いつもまとっている尊大な雰囲気を取り落としているようだった。
「来月、おまえも将軍だぞ?さきほど決まったそうだ」
言葉少なく、そうか、とホメロスは答えた。
 バルコニーの向こうはデルカダールの市街と豊かな大地だった。眼下の森から大きな白い鳥が一羽、勢いよく飛び立った。
「そう言えば、この間言っていた白鳥って、なんのことだ?」
ホメロスは不思議そうな顔になった。
「はくちょう?なんの話だ?」
「戦いの前に、二人で城下の居酒屋へ行った時だ」
ホメロスは目で鳥を追ってつぶやいた。
「居酒屋など新米騎士の頃に二人で行ったきりだろうが」
「ふた月ほど前で、ほら、お前が我が王のことでいろいろ言っていたじゃないか」
ホメロスは片手を振った。
「悪いが、いろいろと忙しくてな。思い出せん」
グレイグはむしろ、ほっとした。我が王が我が王でなくなった、などというとんでもない言いぐさを、ホメロスがまだ信じていたらどうしようかと思っていた。
「それならいいんだ」
言いかけたグレイグは、どきりとした。
「ホメロス?どうした、泣いてるのか?」
ホメロスは人さし指で涙をぬぐい、指先をしげしげと見た。もう一度、青空を舞う白い鳥を見上げた。
「わからん。泣く理由など、ないのに。あの鳥を見たら、胸が、急に」
手すりを掴み、空を見上げ、ただ静かに涙を流す幼なじみの秀麗な横顔を、グレイグは息を詰めて見守ることしかできなかった。