パラケルサスの犯罪 24.第五章 第一話

 管理部に近づくと、人々がざわざわ言う声が聞こえてきた。昨日までの、ミツバチの巣のような機能的な営みのざわめきではない。大災害が一夜にして通り過ぎていったような雰囲気だった。
 管理部の廊下では女性兵士が2、3人集まって、涙にくれている。室内では、ペインター大尉の下で働いていた兵士たちが、あちこちに電話を入れたり、必死でファイルをめくったりしていた。
 事実上の管理部長だった大尉が、引継ぎもなしに逮捕されてしまったので、管理部は混乱状態になっているらしい。
 アルたちが管理部へ入っていくと、スタッフはいっせいに二人を見た。あからさまにおびえたような顔、敵意のこもった表情、訴えるような目。なんと言っていいか、わからないようすだった。
「おはようございます」
と、アルはとりあえず言ってみた。挨拶を返してくれる人はいなかった。
 代わりに人々は、横目でアルたちを見て、こそこそ話をはじめた。
「電話を借りにきた」
それだけ言って、エドは歩き出した。何人かがびくっとした。少し離れたデスクの上に、電話が一台乗っていた。
 赤毛の女性兵士が(このあいだ来たときにチョークを貸してくれた人だ、とアルは思った)、敵意のありありとこもった目でエドをにらみつけた。
「それは、大尉のです」
「使わせてもらうよ」
それだけ言って、エドは受話器を取り上げた。そろそろあの院長も盗聴しなくてもいいと思うころだ、という理由で、アルたちは管理部へ電話を借りに来たのだった。軍用回線は、すぐにつながる。交換手が出たようだった。
「東方司令部を頼む」
アルは、話の聞こえないていどに、エドのそばへ行った。管理部の冷たい視線をせめてさえぎってあげたかった。

 南部のグラン・ウブラッジから軍用回線が入った、と聞いて、マスタング大佐はためいきをひとつついて受話器をとった。
「大佐?」
「また君か。逮捕の件なら、今朝もう聞いたぞ。君が調査しろと言った男が、やはり犯人だったみたいだな」
「そうじゃないといいな、と、ずっと思ってたんだけどな」
「ローレンス・ペインター大尉に関する調査結果なら、軍用の郵便で昨日送ったぞ」
「そのことはもう、いいんだ。ほかに、頼みがある」
大佐は苦笑した。
「おやおや!南部に雪がふるのじゃないか?仕事しろ、じゃなくて、君のほうから私におねだりとはね」
返事はなかった。
「おい?」
息を吸い込む音が聞こえた。
「お願いします」
驚きのあまり、大佐は受話器を取り落としそうになった。
「おい」
大佐は、部屋に人がいないことを横目で確かめ、声をひそめた。
「ウブラッジ・ケースか?」
「ああ」
「私に、なにをさせたい」
「一級反逆罪を覆したい。手伝ってくれ」
「簡単じゃ、ないぞ。どうするつもりだ?」
「まず、ヘイバーン院長だけど……」
エドの話を聞きながら、大佐は目の前の書類の余白にメモをとっていった。
「君のことを知らないわけじゃなかったが」
大佐はつぶやいた。
「とんでもないことを考えるやつだな!」
受話器を置くと、ホークアイ中尉が入ってきた。電話が終わるのを待っていたらしい。
「今日、キャンセルできる予定はどのくらいある?」
中尉は即答した。
「わたくしごとのためにキャンセルしてよいような予定はひとつもありません、と言うべきなのでしょうが、何かありましたか?」
東方司令部の“鉄の乙女”の心を動かすべく、大佐は声に力をこめた。
「十三歳のこどもが、自分の利益とまったく関係ないことのために、プライドを捨てられるんだ。大人にも何かできることがあってしかるべきじゃないか?」
ホークアイ中尉の紅唇に、小さな笑みが浮かんだ。
「午後いっぱい、あけてみましょう」
「ありがたい」
大佐は安堵の息を吐き出した。
「それから、軍医総監は今、誰だ?そいつはどこに人脈を持っている?その人脈の中で、わたしが恩を売ったことのあるやつがいるかどうか知りたい」
「ファルマン准尉なら心得ているでしょう。すぐ出頭させます」
「そうしてくれ。それから、セントラルのヒューズにも連絡をとってくれ。一般回線で話がしたい、と」
「わかりました」
ちら、とホークアイ中尉の視線が大佐の手元へ飛んだ。
「わたくしごとですが」
「?」
「亡くなったラッシュ少佐は、私が師事した最初の、そして最高の教官でした」
それ以上は何も言わず、ホークアイ中尉は敬礼して部屋を出て行った。
大佐は椅子に座りなおし、髪の間に指を入れてかいた。
「お見通しか」

 受話器を置くと、エドは管理部の兵士たちの方を向いた。
「東方司令部から、おれあてに郵便がきているはずだが」
答えはがやがや言う声だけだった。エドはかるく眉をひそめた。
「エルリック殿あての郵便なら、今朝来ていました」
と、ウィーバー軍曹が言った。
「スタン!」
赤毛の女性兵士が、とがめるような声を出した。
「ジェニー、エルリックさんたちに、やつあたりをしてもしかたないだろ」
ジェニーと呼ばれた兵士は、それでも顔をそむけた。
「急な知らせだったんで、みんな、動転してるんです」
ウィーバー軍曹はつぶやいた。
「わかりますよ」
と、アルは言った。
「ほかの郵便物といっしょに区分けしてから、後でお部屋にお届けします」
「どうも」
小さく笑って、エドは管理部を出た。非常階段のほうへ歩いていく。
「上へ行くの、兄さん?」
エドは無言だった。二人が出て行ったあと、管理部は大騒ぎになっているのが聞こえた。たまに“院長の手先”だの、“鬼”、“悪魔”だのという単語が混じる。
もっとも、管理部だけでなく、看護婦たちも患者も、うってかわって兄弟に冷淡になっていたので、アルはいまさら、という気分だった。
「上へ行って、どうするの?」
「大温室を、外から見たい」

 大温室の天井を形作るのは、板ガラスだった。温室と同じ面積で広がっている。
 その天井を床とすると、壁はグラン・ウブラッジ本来の材質、岩だった。岩に取り囲まれたグラン・ウブラッジ頂上の、火山ならば火口のような盆地の底が、大温室の天井になっている感じだった。
 砲塔群の最上階からさらに上、ガラス屋根のメンテナンス用だろうか、小さな入り口があり、そこからやっと、この“盆地”へ入ることができたのだった。
 駅舎や古戦場のある裾野から見上げただけでは、こんなところにガラスの天井があることなど、とうていわからない。人は、鳥ではないのだ。
「高所恐怖症の人には、たまんないね」
足元がほとんど透明なので、はるか真下のケシ畑へ落ちていきそうな錯覚を覚える。
 それでもアルの今の体重を支えてびくともしないのだから、相当厚みのある、硬いガラスなのだろうとアルは思った。
 エドは大温室の天井を無造作に歩いて、下を見下ろした。そっと片膝をついて、片手でガラスの表面を撫でた。
 エドは右手の手袋をはずした。そのまま拳を作り、力をこめてガラスに打ちつけた。
「兄さん!」
二度、三度。エドは黙ったまま、憤りをぶつけるかのようにガラスを殴り続けた。
アルはそれ以上声をかけるのをためらった。誰が悪いのでもない、これは、エドが自分で決めたことだった。
 荒く息をついて、エドは動きをとめた。その手元で何かが光った。ガラスの破片のようだった。破るにはとても至らないが、機械鎧で何度も殴れば、破片ぐらいは削れたらしい。
 エドの指が、その破片をそっと摘み上げた。
「よし、取れた」
エドは立ち上がった。親指と人差し指で破片をつまみ、陽にかざした。
「兄さん?」
エドはふりむいた。
「今日から二、三日、ちょっといろいろやるけど、見逃してくれ」
にやりと笑った。
 大佐なら、焔のついた目だ、と言うだろうか?見慣れた表情だ、とアルは思った。だが、あの地下室の爆破事件以来、めったに見なかったことにアルは気づいた。
「国家錬金術師の義務は果たした。ここから先は、おれの領分。好きなようにやらせてもらうぜ!」
“盆地”のなかに強風が巻く。もしも空から鳥がこのグラン・ウブラッジの頂上を見下ろしていたら、ガラスの破片を高くかかげ、向かい風に顔を上げ、赤いコートをはためかせる少年を見ただろう。
 アルは、安心のあまり、ふるえがきそうだった。言葉を何度も呑みこんで、やっとのことで、アルは答えた。
「とめたって、やるんでしょ?」