パラケルサスの犯罪 29.第五章 第六話

「はい。院長はたいへん協力的な方で、錬金術師一同、いろいろとお世話になりました」
院長はあっけにとられてエドの顔を見た。百匹の猫をかぶっているような、すまし顔だった。
「それはよかった。だが、そのようすでは、これから東部へ帰るのか?」
「はい」
「よかったら、院長自慢の設備をいっしょに見学しないかね」
 院長はあせった。大切な大切な温室に、ここ数日間、このクソガキを入れないように厳重に警備してきたのである。今日も人員を増やし、温室の内外を見晴らせている。ガラス天井の周囲にまで人を配置して、警戒に当たらせていた。
「閣下」
言いかけたが、言い訳のたねがない。だが、エドのほうから断りを入れてきた。
「残念ですが、汽車の時間がせまっていますので」
少将はがっかりした表情になった。
「そうか。それではしかたがないな。今度はセントラルで会いたいものだ。大総統閣下がよく君のうわさをしておられるのでな。近いうちに大総統府を訪ねてくれたまえ」
ひっ、と院長は喉を鳴らしてしまった。いったい、なにものだ、このエルリックというガキは。
「光栄です。大総統閣下には、連続作動練成陣問題において、おもしろい解決方法が見つかった、とお伝えください」
それは、錬金術を知らなければ、まったく意味のない言葉だったのだが、少将は目を輝かせた。
「連続問題を解決したのかね?すばらしい。軍事転用はどうだ。ひとつ、やってみせてくれないか?」
「院長先生さえ、かまわなければ」
ボーマン少将は、無邪気な視線を院長へ向けた。
「かまわないだろうね、きみ?」
「もちろんです」
と言う以外、院長になす術はなかった。
「では、ご許可が出たようですので。評価のほうは上層部におまかせいたしますが、だいたい、こんなものです」
エドはその場にトランクをそっと置いた。赤いじゅうたんを横切ってその端に来ると、おもむろに片ひざをついた。
 双手を重ね合わせて、地面に押し付けるようにした。
「せぇの」
コンクリートで固めた正面入り口の土台から、明るい光が噴き上がった。
 人が両腕で囲むほどの大きさの、光の円盤ができあがった。円盤は厚みを増した。やがて地面から、円柱がゆっくりと立ち上がってきた。みるみるうちに術師の身長を越え、高く伸びていく。それは、二階の窓に届こうか、という高さになったとき、成長をとめた。
「これが、なにか?」
エドが答えるよりも早く、円柱は根元に亀裂を生じた。ぐらりと揺れて、院長たちとは反対側へ倒れこんだ。
 円柱が地に付いた瞬間、何かが光った。その場所に、最初のそれとまったく同じような、光の円盤が生まれているのだった。
「何が起こったのだね?」
「発動を停止した練成陣の中へ、練成材料が送り込まれたところです。それによって停止コマンドが解除され、力が発動します」
話しているあいだに、二本目の円柱が伸び、倒れ、三個目の練成陣が発動した。
「驚いたな。まるで、ドミノだ」
たしかにその光景は、将棋倒し(ドミノ)にそっくりだった。一つの円柱が生まれては倒れ、また伸び上がっては倒れていく。
 周囲から感嘆の声がわきあがった。医師や兵士たちでさえ、列を崩し、勝手に生えては倒れる石柱を指差して騒いでいる。
 野次馬の中から錬金術師たちが、なぜかにやにやしながら巨人の将棋倒しを見守っていた。
 憲兵たちがドミノを見ようと列を崩したので、ペインター大尉が顔をあげた。
 院長はいぶかしんだ。なぜあいつは手錠のままで、あんな奇妙な表情をするのだろう?うれしそうに目を輝かせ、まるで“誇らしい”とでもいうような。
 ドミノの列は次々と進んでいた。少し進んだところで、練成された石の柱は、別の方向へ折れて落ちた。そこは、グラン・ウブラッジ外壁そのものだった。落ちたところから生えた石柱は、さらに上の階へ落ちた。
 見物の中から、歓声があがった。練成ドミノは、今度は上に向かってグラン・ウブラッジを登っていくのだった。
「こんなものは、見たことがない!」
興奮した表情で少将は断言した。
「大総統がお喜びになるだろうな。あのドミノはどこまで続くのかね?」
「次第に高さを上げるようにして、グラン・ウブラッジの頂上まで練成陣を配置しました」
「それは見ものだな!」
練成ドミノは、どんどん進んでいく。不本意ながら、院長は声をかけた。
「エルリック君、グラン・ウブラッジを石柱だらけにしておくつもりか」
平気な顔でエドは答えた。
「時間がたてば、石の柱は崩れて砂に戻ります」
「たいしたものだ」
少将が感嘆している。
「では、これで」
もういちど敬礼して、エドはきびすを返し、トランクを手に取った。
「待て」
院長は、少将のようすをうかがった。むじゃきなことに少将は野次馬と一緒になって、ドミノを見物している。すでに石の柱は、病棟の四、五階あたりへ進み、空中高く聳え立つようになっていた。
 押し殺した声で院長は確認した。
「本当に、それだけか」
エドは振り向いた。野生の猫のようなつり目勝ちの目の中で、金色の瞳が輝いた。
「なわけ、ねえだろう?」
今まで少将に見せていた、折り目正しい錬金術師の顔ではなかった。
「きさま、何をした」
「さあて、なんでもできるな」
「なんだと?」
「例えば、こんなのはどうだ?あの連続作動する練成陣の中の一つに、別の構築式を仕掛けておくんだ。そうだな、柱が崩れるときに、小石を撒き散らすように、なんてね」
エドは空を仰いだ。
「そして、十分な高さがあれば、小石はあんたの大事な温室の、ガラス天井に届く」
はっ、と院長はあざけった。
「小石ごときで天井が破れるか!」
「そうだろうよ。ちゃんと調べたからな。珪素一個、酸素二個、あとはナトリウムにカルシウム、その他もろもろがぐちゃぐちゃにくっついてたっけ」
すらすらとエドは言った。
「でも、おれがそのガラス天井の上に、練成陣を描いておいたとしたら、どうなる?すでに力は発動している。小石という材料が中に入ったときにはじめて練成が始まるように」
「バカな!」
院長は思わずグラン・ウブラッジの頂上を仰いだ。
「きさま、よくも、そんなことを」
うるさそうにエドは答えた。
「仮定の話だって言っただろ?もし何かあったとしても、全部実験の結果だ。あんたの許可してくれた、実験の」
エドはそう言って、院長の目の前に実験許可証を突き出した。院長は呆然として、公用便箋に書かれた自分の署名を見つめた。