パラケルサスの犯罪 30.第五章 第七話

 グラン・ウブラッジの頂上にある“盆地”では、数名の兵士が銃を片手に警備に当たっていた。彼らは院長から直接、不心得ものが温室を攻撃する恐れがある、と言われていた。
「外が、騒がしいな」
 岩壁に遮られて、外の喧騒はにぶく聞こえてくるだけだった。兵士たちは、油断なく目を配りながら、ガラスの上をそっと軍靴で歩いた。
 一人の兵士が顔を上げた。砂のようなものが首の後ろに当たったのだった。
「なんだ?」
兵士たちはきょろきょろした。
 また砂がかかった。一人が大声で言った。
「行儀の悪いハトでもいるのか?」
あはは、と笑いが出た。その声が消えないうちに異変は起きた。
 足元が、輝いていた。
「なんだ、こりゃ!」
広大なガラス天井のあちこちで、美しい光の波がたっていた。ガラスはまるで、アメ細工のように溶け、変形していく。
「おいおい」
牛乳の入ったカップの中に新たな一滴を垂らしたときにできるあのミルククラウンを、百倍ほども拡大したものが、五個も六個もガラスのアメ細工でつくられていった。
「うわっ、あぶねぇ」
ガラスの王冠は、どんどん大きくなっていく。その分、周囲のガラスを溶かし、吸収し、兵士たちの足場が失われていった。
「退避!」
兵士たちはあわててリーダーのところへかけより誰からともなく肩をよせあった。
「床が、溶ける!」

 院長の心の目には、大温室を守ってきたガラス天井がぼろぼろになっていくさまがうつっていた。
 のんびりした口調で、横からエドが言う。
「例えば、の話なんだから、なんでも言えるよな?」
いつのまにか横に、あの鎧の男が来ていた。
「じゃあ、院長先生、こんなのはどうですか?天井がなくなってしまったので、下に何か落ちてくるんです」
「さては、爆弾でも!」
「やだなあ、先生、そんな物騒な。そんなことしたら、グラン・ウブラッジが壊れちゃうじゃないですか」
「そうそう」
に、とエドが笑った。
「もっと小さいものがいいな。下が温室なんだから、植物の種なんてどうだ?南部の気候なら、いろいろ育つだろ」
「種でも、大きめのものなら、表面に練成陣を刻んでおくこともできるよね。兄さん、器用だもん」
院長は、ごくりとツバを飲み込んだ。

 大温室の中では、幻想的な風景が展開していた。温室の警備は、ふだんより厚い。兵士たちは目を疑った。この広い空間の中にだけ、雪が降っているように見えるのだった。白く明るく光るものが、空中を漂いながら舞い降りてくる。
あわてて見上げると、はるか上空にあるはずの大温室の天井が、溶けてしまっていた。鉄の梁から、アメのようにぶらさがっている。
 兵士はぞくりとした。
 “雪”はきらきらと光を反射しながら、兵士たちの頭上を落ちてきた。そのうちの一つが、いきなり青く輝いた。
 まぶしい!兵士は片手で目を覆った。が、ほかの“雪”も、次から次へと輝きはじめた。青い炎に焼かれて燃え上がるように見える。燃える“雪”はそのまま速度を落とさず、ケシの花畑へ吸い込まれていった。
「なんだったんだ、今の」
「さあ。とにかく、」
院長先生に報告を、と言いかけたとき、地鳴りのような音がした。
 兵士たちは、武器に手をかけた。地鳴りはやまない。兵士たちの額に、いやな汗が浮かんだ。
「見ろ!」
花畑の一箇所が、盛り上がっている。巨大なモグラが這い上がってこようとしているようだった。
 いや、モグラじゃない、と兵士は思った。むしろ、蛇に似ている。花畑の土壌の下でうごめき、のたうつ、大蛇。
 たおやかなケシの花はふるえる大地に揺れ、実を振り落としながら次々と倒れた。次の瞬間、温室のあちこちからケシとは異質な植物が姿を現した。
 その兵士は、南部のダブリス出身だった。大声でその植物の正体を叫び、そして青ざめた。
「ジャイアント・セコイア!」

 グラン・ウブラッジの外にも、地鳴りは伝わってきていた。が、そんなようすをまったく無視して、アルが言った。
「ジャイアント・セコイアって、知ってる?」
世間話のような口調でエドが答えた。
「カウロイ湖のまわりの森にたくさん生えてる、でかい樹だろ」
「成長すると、高さ100メートル、幹の周りは20メートルくらいになるんだって」
「覚えてるか?カウロイ湖の森で一番でかいジャイアント・セコイアを、おれたちがなんて呼んでいたか」
くすくすとアルは笑った。
「“師匠の樹”でしょ?」

 警備隊長は声を嗄らして叫んだ。
「にげろーっ、全員退避!」
 兵士たちは走った。巨大な温室があっというまに狭くなる。ケシの花畑をぶちやぶって生え出した十本以上のジャイアント・セコイアの若木は、見る間に巨大化していった。
 すでに見上げるほどの高さになり、針のような葉をいっぱいに茂らせて、そしてまだ成長をやめない。あたりは薄暗くなるほどだった。
 どこか遠くで鉄骨のひしげる音がした。兵士たちはぞっとした。ジャイアント・セコイアが、その破壊的な成長力で、温室天井にあった鉄の梁を押し破っているのだった。
 怪物じみた成長は、上のほうばかりではなかった。さきほど地面の下でのたうつ蛇のように見えたもの、ジャイアント・セコイアの根は、ふしくれだち、暴れ、狂いまわり、倒れたケシごと土壌を食い破りながら貪欲に育っている。
「おい、何をやってる」
ダブリス出身の兵士は、同僚に肩をどつかれた。
「逃げないと、圧死だぞ」
「ああ、わかってる」
そして、最後に一度だけ、温室だったものに視線を投げた。
「おしまいだ……」
「いそげよっ」
「ああ」
あわててドアをくぐりぬけた。もう、閉めることもできない。巨大な木の根が出入り口いっぱいに詰まっている。
 兵士たちの後ろから、声にならない悲鳴があがった。院長だった。
 ばたばたとヘイバーン院長は、大温室の前までやってきた。
「な、なかは」
兵士があわててとめた。
「いけません、危険です」
「わたしの温室!わたしのケシは」
体格のいい院長を取り押さえようとして、兵士たちは必死になった。
「花は全部だめです。あきらめてください!」
がくりと院長の膝が折れた。
「ちくしょう……ちくしょう!」
そのまま、ゆかへへたりこんでしまった。
「これが、君の自慢の施設かね?」
と、ボーマン少将が言った。院長の後についてきたらしかった。
 院長は、ゆるゆると首を振った。
「たいしたものには、ちがいないがな」
少将の靴のかかとが、かちりと鳴った。
「だが、どうやら、視察はここまでのようだ。そうそう、もうひとつ、こちらへ出向いた用件があった」
こほん、と少将は咳払いをした。
「軍医総監殿から、院長宛の召喚状をことづかってきてね。あまりよい知らせではないらしいが、本官をうらまないでいただきたい」
院長の頭が動いた。
「召喚ですと?」
「総監殿は君が阿片の栽培をはじめたことに、ひどく困惑しておられるようだ。覚悟したまえ」
院長は、ばったのように飛び上がった。
「阿片は、まったく合法的なもので!」
「それがどういうわけか、総監殿の目には、君が断りもなく勝手に栽培をはじめたのは、抜け駆けとうつったらしい」
少将は優雅に首を振った。
「覚悟することだな」
「バカな、こんなバカな」
出世のためにはなりふりかまわない男、ホレイショ・ヘイバーンは、落ちて砕けた夢を拾い集めるかのように、弱々しく指を動かすだけだった。