容疑者ピエール 13.国王ルーク

 まだぬかるむ土を踏んで、サンチョの家の前から老いた兄妹は歩き出した。グランバニア城の長大な外壁の向こうにチゾットの山がそびえ立っていた。冬じゅう真っ白だった山がところどころ土が見えて、その黒い部分が動物のような形に見える。山肌へ春先に現れる馬やうさぎは、ゆっくりだが確かに春が訪れているのだとグランバニアの人々に教えていた。
「待ってください!」
ルークの声が後ろから追ってきた。ドミニクがびくっと震えた。
「大丈夫だ」
妹にそう声をかけて、ヴェルダー卿は向き直った。
「陛下、申し訳ありませんが」
 こちらへ向かって走ってくる若者を見て、ふいにヴェルダー卿は、彼がその父親に良く似ていることに気付いた。目鼻立ちはむしろ女顔でマーサ王妃に似ているのだが、全身から発散する雰囲気はあきらかにパパスのそれだった。
「卿、お願いです。ほんの少しでいい。僕の言うことを耳に留めてください」
「はてさて、これ以上、何をうかがえばよいのか」
「先日卿がおっしゃったことへの返事です」
「私が何を申しましたかな?」
「『人は街に、獣は野にあるべき』と」
ヴェルダー卿は背筋を伸ばした。
「いかにも申しました。今でもそう思っております」
立ち止ったルークは、大きく息をしていた。
「では、ぼくはどこにいればいい?」
荒い呼吸を整えて、ルークは言った。その声が少しかすれていた。
 一歩、ルークは後ずさった。目を閉じ、唇が動いた。呪文を唱えているのだとヴェルダー卿は知った。
 ルークの両手が胸へあがった。たいていの魔法使いは、攻撃しようとする相手に向かって掌底を向けるが、ルークは手を自分自身へあてがった。
「陛下、何を」
ルークの体が黒い光を次々とまとっていく。まるで心臓が苦しいかのように、ルークは自分の胸をつかんだ。
 うめき声とともに、若者の姿が消えた。次の瞬間、その場所に黒い塊がうずくまり、あっというまに城壁と同じ高さへ拡大した。
「うおぉぉぉぉぉぉぅぅぅ」
 全身を覆うのは黒光りする鱗だった。背から羽ばたくのは漆黒の翼だった。大地をつかむのは銀の巨大な爪だった。サンチョの家よりもまだ巨大な、力と威厳に満ちた黒いドラゴンがその場に現れた。
 巨大な顎には光る牙が並んでいる。咆哮とともにその口から洩れるのは火焔だった。だが、信じられないほど優しい、誠実な瞳をその怪物は備えていた。
「陛下……」
ヴェルダー卿は思わず引き寄せた妹とともに、呆然とその姿を見上げた。
「このグランバニアが人間のものか、モンスターのものかと、あなたは聞かれた」
ドラゴンはルークの声で話した。
「どちらかなどと決めることはできないんです。グランバニアの王はぼくで、ぼくは人間であり、同時にモンスターでもあるから」
 ヴェルダー卿の背後からあわてた声や悲鳴が聞こえてきた。城壁の上に次々と兵士が集まってきた。ヴェルダー卿のよく知っている王城警備隊の隊士もまじっている。みな、いきなり現れた黒いドラゴンに驚いているのだった。
「陛下、そのお姿を、国民にさらしては、その」
 かなわぬながらも槍や剣をドラゴンへ向け、明らかに攻撃しようとしている兵士がいた。それよりも恐怖の声をあげてあとずさる民衆のほうが多かった。
 もちろん彼らはルークの変身を見ていないのだから、その反応は当たり前だった。だが、ヴェルダー卿は胸の中に奇妙なあせりを感じていた。
 ドラゴンは、首を振った。
「僕は僕です。みんなの前で変身したのはこれが初めてですが、後悔はしていません」
 ルークは前足、後ろ脚をそろえて胸を反らせ、背中の翼をゆっくりたたんだ。そしてはるか高みから首を曲げて人間の目線に近付けようとした。行儀のいい黒猫のような、端然とした姿勢だった。
 城の正面の大扉が開いて、兵士の一団を吐きだした。先頭に立つのは抜刀したピエールだった。
「諸君、急げ!」
号令も勇ましくスライムをはねさせてやってきて、ピエールは自分のスライムを急に停め、叫んだ。
「な、なんと!ルークか!」
兵士の中に、ピピンも混じっていた。
「うわ、本当だ。みんな、大丈夫だ、敵じゃない。ルーク様だ」
城の中庭も外壁の上の通路も、グランバニア人でいっぱいになっていた。ドラゴンが視線をあたりへ巡らせた。
「みんな、驚かせてごめん」
ルークの声でドラゴンは言った。グランバニアの人々は、自分たちのよく知っている、そしてかなり敬愛もしている国王の声を聞いて驚き、ざわめき、それからだんだん静かになった。
「でも、これは大事なことなんだ。みんなも聞いてください」
ドラゴンは長い首の角度を変えた。
「この国は僕の国だから、人間であれモンスターであれ、ぼくが守ります」
サンチョが、ビアンカが、家から出てきた。応援するようにうなずいて、粛々とした姿勢でルークをただ見守った。
「外敵があるなら、それが人間でもモンスターでも、例え魔王であってもぼくが闘います」
知らせを受けてやってきたアイル王子とカイ王女が、城壁の上で剣と杖を天へつきあげた。
「お父さん、がんばれ!」
ドラゴンはうれしそうに、ちょっと首を動かした。
「それを約束しますから」
まぎれもないルークの目でドラゴンはヴェルダー卿を見つめた。
「あなたはグランバニアの国民だ。あなたは一度父を信じてこの城壁の中にとどまってくれた。改めて問います。僕の約束と僕自身を、あなたは信じてくれますか?」
ヴェルダー卿の横にピエールが並んだ。
「吾輩は信じるである」
スライムナイトをヴェルダー卿はちらっと見た。
「陛下、もし私が、陛下を信じかねますと申し上げたら、この城を出て行けとおっしゃるか」
ピエールが卿を見上げた。
「異なことを言うものである。王を信じられなければ、信じるに足る王を見つけに行くまで。人間にはその自由があるはずである」
ヴェルダー卿は、ピエールに向かってどう呼びかければいいのか、少しの間ためらった。
「……貴殿は、ルキウス陛下を信じるというのか」
ピエールは胸を張った。
「騎士に二言なし!」
「この城は人間ばかりで、モンスターは圧倒的に少ない。それでもよいか」
うむ、とヘルメットをつけた頭がうなずいた。
「かまわん。吾輩は吾輩。もし魔王がモンスターを率いてこの城を襲うならば、最後までルークの傍らにて闘う所存である」
「貴殿の、その人間ではない仲間は、みなそのように思っているということか?」
「言葉にして確かめたことはないである。が、ルークに従わんと欲し、そしてルークが受け入れた以上、誓約はなったものと思うである」
 ヘルメットの下からピエールは、長身の老貴族を見上げた。
「ルークにつき従う以上、ルークの流儀にも従う。なればこそ吾輩は、御老体、貴殿の告発につきあったである。それがこの国の流儀と思えばこそ」
「本来のモンスターの流儀は異なるのか?」
「意見が異なれば、闘いあるのみ。勝者がすなわち正義である」
ドラゴンの、真円の瞳がヴェルダー卿をのぞきこんだ。
「ヴェルダー卿、あなたが僕を信じないなら」
とドラゴンは言った。
「信じてくれるまで僕は説き続け、どんなことでもやってみるつもりです」
手の下にある妹の肩が、もう震えていないことにヴェルダー卿は気付いた。ドミニクは兄に寄り添いながら、じっとドラゴンを見つめていた。
「パパス様なら、いかにもそうおっしゃっただろう」
「似合いませんか、ぼくには」
穏やかにドラゴンは言った。
「父は偉大でした。ぼくはまだ追いつかないけど、良い王になれるように努力することはできます。どうでしょうか。あなたは公平な判断ができる方だと思いますが」
いつのまにか、まわりが静かになっていた。裁判のあいだヴェルダー卿とドミニクを心配して来てくれた旧友たちも来ていると卿は知った。ドミニクが懇意にしている、古くからのグランバニアの貴族たちもいた。そして兵士、城下町の住人たち、神父、オジロンなどなど。
「ぼくが父に代わって、あなたを、妹さんを、みんなを守ります。それを信じてくれますか?」
ドミニクがちょっと身じろぎした。
「怖くないか」
「私……」
とまどったようにドミニクが言葉を濁した。
「いや、怖いさ。怖くてあたりまえだ」
ヘンリーだった。
 真後ろからやってくると、ピエール、ヴェルダー卿兄妹と並んで親友を見上げた。ドラゴンは首をかしげた。
「そんなに怖い?」
「おまえ、でかいからな」
「君は、ずっと昔からぼくがドラゴンだって知ってたって言ったじゃないか」
「知ってるのと怖くないのとは違う」
「でもこんなにそばに来る」
一歩進み、ドラゴンがその気になればひと噛みで首を食いちぎれるほどの近さにヘンリーは立った。
「そりゃ正体がおまえだからだ。言わせんな、恥ずかしい」
そう言って手を差し伸べた。黒いドラゴンはその手のひらの上にあごを載せようとした。息の熱さに耐え切れずにヘンリーが手を滑らせた。
「あ、ごめん」
いや、と言い、照れくさそうにヘンリーは肩からちりを払うような仕草をした。
「ヴェルダー卿、お取り込み中をお邪魔をした」
いや、とヴェルダー卿は言った。
「正直言って、とまどっておる。最近の若い者の考え方なのかね。国の中に異質なものをいれようというのは」
「さあねえ」
とヘンリーは答えた。
「一応言っておくと、ラインハットにはモンスターの国民はいないな。っていうのも、モンスターの方で特にデールの国民になりたいって言ったやつがいなかったからな」
「君はどうだね」
「オラクルベリーのことか?いろんなやつがいるぜ。人間限定だが。出身はいろいろだ。だが、オラクルベリーに居着こうとする以上、おれが親分だってことは必ず認めさせてる。で、認めた以上は子分だから」
ちょっとヘンリーは胸を張った。
「異質じゃねえ」
黒いドラゴンが頭を下げ、そっとヘンリーの胸をついた。
「子分にはぼくみたいなのもいるからね」
「年寄りは、なかなかそこまで思いきれないものだ」
ヘンリーは軽く肩をすくめた。
 黒いドラゴンは丸い目でヴェルダー卿を見つめた。
「今、お返事をくださいと言ってはいけませんか、卿?」
「陛下、ここはあなたの国だ」
と、ヴェルダー卿は言った。
「答えはほとんど決まったようなもの。が、この年寄りに、今少し時間をいただけませぬか」
「もちろんです。もっと別のことも、お話したいと思ってます」
「そうですな。私にも話したいことがある。父君のことも含めてな」
ちょっとためらって、ルークは言った。
「父の選択のことをあなたや妹さんに謝るつもりはありません。ぼくが僕であるように、父も父だからです。父は母を愛し、ぼくが生まれた。二人が幸せだった時間は短かったけど、どれほど幸せだったかをぼくはある事情で知っています。そのこともお話したいのです」
「その話、サンチョは存じておりますかな?」
「あれ、そういえば、まだだ」
ほんのちょっと、ヴェルダー卿は気が晴れるのを感じた。
「では、サンチョと私、二人の年寄りの思い出話が苦痛でなかったら、共にお召し下され。いっしょにお聞かせ願いましょう」
あの、とドミニクが言った。
「私にもお聞かせくださいまし」
黒いドラゴンは、小柄な老婦人にむかって丁寧に頭を下げた。
「喜んで」

 精巧なロケットの中で、エルヘブンの乙女は不滅の絵の具によってその美しさを留めていた。ヘンリーはそっとふたを閉め、ロケットをルークへ手渡した。
「いつ見ても美人だなあ。それに、やっぱりおまえと似てるよ」
「父親似だって言われてたんだけど、そう言われるとそうかなと思うよ」
金の鎖でロケットを手に提げてルークはそう言った。
 このロケットを手に入れたいきさつは、実は先にヘンリーとマリアには話してあった。妖精城の絵を通って、若き日の父と母に出会った一件はルークにとっては大事件だった。すぐにラインハットへ飛んで行って興奮してしゃべりまくったのだ。
「あの頑固爺、納得したか?」
ふふっとルークは笑った。
「まだ言葉では“私がそう簡単に受け入れると思し召すな”とか言ってるけど、ヴェルダー卿はなんかピエールとは話をしてくれるようになった」
「そりゃまた、どんなことをしゃべってるんだ?」
「グランバニア城の防衛がどうのこうのって言いだして、サンチョもまざって二人して城壁を歩いて意見を交わしてたよ」
そうか、とヘンリーは言って座っていた椅子に深く背を預けた。
 二人がいるのは、グランバニアの屋上庭園だった。ビアンカとドリスがお茶を入れてくれたのだが、アントニアが呼びに来てちょうどそちらへ行ってしまい、あたりは静かになった。
「もう心配なさそうだな。ちょうどよかった。俺も帰るとするか」
「え」
「え、じゃねえ。もうひと月も国を留守にしてるんだぞ」
「そうか。そうだよね」
キメラの翼を好きなだけ使えるので、しょっちゅうラインハットとグランバニアを行き来してヘンリーは自分の職務もこなしていることをルークは知っていた。
「デール様も怒ってるかな」
「怒っちゃいないが、俺の方が心配なんだ。無理をやらかしそうで」
あのあと、再び王国宰相に任命されたので職務はヘンリーに重くのしかかっている。
「君のことを待ってる人はいっぱいいるんだよね。マリアも、コリンズ君も」
「うるさいガキはどうでもいいが、マリアは安心させたい」
旧友が人一倍子煩悩なことを知っていたが、ルークは黙っていた。
「それに、やつもいるしな」
「やつ?」
「ハーヴェイ・ローワン」
と、ヘンリーはつぶやくように言った。
「ああ……ほんとは君の親戚なんだっけ」
ハーヴェイの遺体は起訴の取り消しの直後ラインハットまで移送してすでに埋葬されているはずだった。
「それもあるが、あいつはとにかく典型的なラインハット人だったんだよ。自分の愚かさで死ぬなんてな」
「ハーヴェイは愚かだったのかもしれない。でも少なくとも、グランバニアのお客さんだった。彼の冥福を祈るよ」
「やつにはもったいないくらいだな」
ぶすっとした顔でヘンリーは言った。
「彼のお墓へ行く?」
「たぶん」
ぽつんと彼は答えた。
「花でも供えてくる。ついでに、おまえの言葉も聞かせてやるかな」
そう言ってヘンリーは立ち上がった。
 事件が終わったんだ、とルークは思った。
「ヘンリー」
「ああ?」
何と言えばいいのか、ルークは迷った。
「いつも君にちゃんと報えているかどうか悩むんだ。ええと、ありがとう、その、いろいろ」
「なんだよ、いきなり」
庭園の出入り口へ向かって歩きながら、ヘンリーはさらっと聞き流した。が、従卒がうやうやしく開けた扉の前で少し振り向いた。
「その言葉で、俺も十分だ」
照れて赤くなった顔のまま、彼はすぐに歩いていってしまった。