容疑者ピエール 10.証人ネビル

 ビアンカは壁際に身を持たせかけていた。立ちすくんでいたと言ってもよいほどだった。
 しばらくするとやっとルークたちが出てきた。
 一番先頭にいたルークは法廷から出てくると、何も言わずにぎゅっとビアンカを抱きしめた。
「ルーク、おめでとう。がんばったわね」
「そうだね、ピエールは釈放だ。ぼく一人じゃない。ぼくたち、みんながんばったんだ」
嘘のない笑顔が、ビアンカの目にはまぶしく見えた。
「そうよね。あとでオジロン様にも裁判長を務めてくださったお礼にうかがわないとね」
ビアンカは頭を振って、嫌な気分を振り払った。
「ルークもヘンリーもお疲れさま!もうピエールは自由なの?」
「書類上の手続きが終わったら、晴れて釈放ってことになったよ。たぶん、今日中には出られる」
「それにしても裁判はないことになったのね」
「うん、意外だったけど、よかった。ぼくもいい経験をさせてもらった」
そう言ってからちょっと心配そうにルークは聞いた。
「ドリスはどう?」
「ドリスは大丈夫なんだけど」
口調にやはり、むっとした気持ちを引きずっていたのだろう。ルークは首をかしげてその続きを待った。
 ビアンカはちょっと肩をすくめた。
「そこで、ヴェルダー卿と妹さんに会ったわ。すっかり嫌われちゃったみたい。妹さんには城で休むようにおすすめしたんだけど、家に帰るって」
「大丈夫なのかな」
「うん……なんか、本当は病気とかじゃなくてくやしくて泣いてたみたい」
「え、なんで妹さんが」
「よくわからないけど。でも卿も妹さんも取り巻きのみなさんも、まだピエールのことを疑ってるのよ」
はっきり言ってモンスターが気に入らないのだ。先ほどのヴェルダー卿の演説をビアンカも聞いていた。
「さっきだいぶはっきり言われちゃったからな。うまくやっていきたいんだけどなあ」
隣でヘンリーがためいきをついた。
「先代からの貴族と新王ってのは、対立しない方が不思議なんだ。おれもデールも苦労してるよ」
「きみでも?」
ちょっと驚いた顔でルークが言った。
「てっきりみんなまるめこんでると思ったよ」
「手はうってあるさ」
さらっと言ってヘンリーは肩をすくめた。
「モンスターの件だけどな、オラクルベリーじゃ、あるていど出入りは自由だ。領主は俺だし。だけどあくまでペットとして飼い主といっしょに街へ入るのを認めるって言う形を取ってる」
「それじゃ、だめなんだ」
「けどラインハットとなるとそこまでもいってない。昔からいる貴族の連中を説得するより、やつらが年くってくたばるのを待とうっていう戦法だ」
思わず噴き出してからルークは言った。
「ひ、ひどいね」
いっしょに笑い声をあげてからヘンリーは黙りこみ、独特の表情でルークの方を見た。
「おまえだったら真正面からぶつかるんだろうな」
ルークはうなずいた。
「うん。正直言って、さっきヴェルダー卿の話を聞いてから、一回法廷じゃないところで話し合いたいと思ったんだ」
「そうか」
ヘンリーは腕を組んで考え込んだ。何度も見たことのあるポーズだった。
「ヘンリー?」
つまり、と小さく彼はつぶやいた。
「おれたちはピエールにかかった疑いは晴らした。でもなんでハーヴェイが死んだのか、その真実は見つけられなかったんだ」
「うん。まあ、最初の目的は達成したんだけどね。ハーヴェイがどうやって死んだかわかれば、まだ卿と話し合うきっかけをつかめると思うんだけど」
しばらくヘンリーは黙っていた。
「しかたないな。あの頑固親父に、ハーヴェイが本当はどうやって死んだか、見せてやればいいんだな?」
「あのう、ぼくは君に、無理なことを頼んでるかい?」
心配して顔をのぞきこむと、ヘンリーは一瞬呆れたような表情で目を見張り、それから天を仰いで大きくため息をついた。
「何を今さら……」

 グランバニア城の外壁の内側に接するようにして、サンチョの家はあった。城の内部の居住区に住む他の市民とは別格の扱いだが、サンチョは贅をこらした屋敷というより、居心地のよい隠居所というべき一軒家を建てていた。
「これはどういうことでしょうか!」
 黒いシンプルなドレスに白一色の刺繍をほどこした青灰色のショールを肩にかけたマルコ夫人が、憤慨のあまり声をあげた。
「アントニア様(オジロン夫人)に春蒔きの花の種のことで教えてほしいからと言われて私はサンチョ殿のお宅へ呼ばれましたのよ。兄を吊るしあげにされるためではございませんわ!」
小柄で小太りの夫人は、付き添ってきたヴェルダー卿をかばうように立ちはだかった。
「アントニア様はあとからお見えになります」
落ち付いた口調でビアンカが言った。
「その前にお茶でもいかがでしょうか、マルコの奥さま」
 サンチョの家は、冬の厳しいグランバニアの気候でも快適に暮らせるような工夫を随所に施していた。天井はやや低めで放射状の梁で支え、自然木を活かした太い柱が円形の部屋の中央にどっしりと立っている。壁は明るい茶色の木材を使ったものだが、一か所は煉瓦積みでそのまま巨大な暖炉となっていた。それこそ冬場、その暖炉の前にグランバニア名産の美しい織物を敷き、まだ小さかったアイル王子とカイ王女がサンチョ手製の積み木でさんざん遊んだ場所だった。
 中央の柱を取り巻くように大きな円形のテーブルがあり、手ひねりの素朴なマグカップがいくつも用意してあった。
「ぼくたち、お先にいただいています。これはサンチョが秋のうちに用意して乾燥させた葉のスペシャルブレンドですよ」
かつてサンチョの“坊っちゃん”だったルークが、ヴェルダー卿に声をかけた。
「リンゴのブランデーに合うらしいぞ。おれは遠慮するけど」
ガキ大将めいた口調にかかわらず、酒の匂いをかいだだけで酔う体質のヘンリーが片手で黒っぽい瓶を振ってみせた。
 マルコ夫人はまだ疑わしそうな眼をしていた。
「春とはいえ、今日もまだ冷える。いただくとしよう、ドミニク」
ヴェルダー卿が妹の幼名を呼んでそううながした。
「でも」
「私なら心配いらん」
 卿は家の入口で靴から泥を落とすと、さっさと玄関ホールへあがり、居間へ入ってきた。
「もちろんです。どうぞ、卿。それに、マルコ夫人」
 サンチョの家の居間は全体で円形をしている。弧を描く壁には子供の描いた絵がいくつも貼ってあった。どれも双子の作品のようだった。
 マルコ夫人はあとからやってきて、兄の隣に腰かけた。すかさずビアンカが湯気のたつマグカップを差し出した。
「どうぞ」
「あの、王妃様」
「宮廷ではなくわざわざこちらへお呼びしたんですもの、ビアンカと呼んでください」
厨房へつながる扉が開いた。
「クッキーが焼けましたぞ、みなさん」
焼き立てのいい香りとともにサンチョが大皿を運んできた。
「こりゃこりゃ、ヴェルダー卿、本日もお元気そうで」
「おおサンチョ殿か。暑苦しいほどご息災でけっこう」
「卿もあいかわらずガミガミやっておられるようですなあ」
ビアンカは笑いをかみ殺した。
 アントニアの話では、この二人、ヴェルダー卿、サンチョは、同年代でしかも知り合いだということだった。ほかならぬパパスの側近どうしだったのである。
「お二人ともパパス陛下が大好きだったのですよ」
とアントニアは言った。
「そう言う意味では、うちのオジロンもね」
「素敵な方でしたもの、パパス小父様は」
と少女のころ、自分自身ひそかにときめいたひとの名をビアンカは懐かしく口にした。
「一本筋の通った男らしい性格で、でも困っている人を見るとその筋を曲げてでも助けに飛び込んでいってしまう方でしたよ。また惚れ惚れするほど強くってねえ」
ぽっとアントニアはほほを染めた。
「私の年代のグランバニア人でパパス様に憧れなかった人なんていなかったんじゃないかしら」
そのパパスに、とビアンカは思った。サンチョは同行を許され、ヴェルダー卿は城に残されたのだった。
 遠慮なくカルヴァドスの口を開け、ヴェルダー卿は紅茶に垂らした。すばらしい香りがした。
 上品に口をつけてから、おもむろにヴェルダー卿は言った。
「さて、何の御用ですかな、陛下」
「あ~、その~」
「この年寄りに話があるものと思いましたが?どうぞ遠慮なく」
「ええと、そのう、このあいだの裁判のことで」
「そうでございましょうとも」
「あ、だから、う~ん、話したいことはたくさんあります。でも、その前に、え~」
ルークは言いにくそうにしていた。
「えーと」
かた、と音がした。ヘンリーがテーブルのそばのいすから立ち上がったのだった。
「真犯人に興味はないか?」
もう一口茶をすすると、ヴェルダー卿はヘンリーの方を見た。
「私の仕事は国家に代わって告発することだ。それが覆されたのは事実だが、余計な詮索は私の仕事ではないな」
「仕事?仕事の話なら法廷でしてるさ。俺が言ったのはことの真相だ。卿自身、真相に興味はないかと聞いてるんだ」
ヘンリーはテーブルに片方の手のひらをつけもう片方の手を腰に当ててじっとヴェルダー卿の顔を見た。
「ハーヴェイ・ローワンはなぜ死んだ?」
マルコ夫人が口を開こうとした。ヴェルダー卿自身が、片手でその動きを制した。
「刺殺でも毒殺でもなかった。それはわかっている」
「あんたはそれでも、ピエールが関係していると思っているんだな?」
卿はマグカップをテーブルへ置いた。
「然り。その通りだ」
「ちがうね。ピエールは関係ない」
「ヘンリー殿、君には真相を知る方法がないはずだ」
ヴェルダー卿は傲然と言った。ヘンリーがちょっと眉を動かした。
「その通りだな。死者の霊をおろして真相を聞けるわけじゃないし。だが、おれは、“本当はこうだったんじゃないか”という合理的な仮説を提出することができる」
ヘンリーは腰にあてた手に持っていたものをテーブルの上に置いた。それは革のケース入りの小瓶だった。
「やつは病死だ。原因はこの薬の飲みすぎだ」
「それは果たして、私が信じるに足るほど説得力のある仮説かな?」
「説得してやるよ、今ここで」
ヴェルダー卿はカップからあがる湯気を透かしてその小瓶を見た。
「やっていただこう。やれるものならな」
その場にいた者の心の中で、その瞬間、無音のゴングが鳴り響いた。

「おれが何を説明しようと思っているか、それを最初に言っておこう」
とヘンリーは言った。
「ハーヴェイは病死、というか、薬の飲みすぎによる事故死だ」
「はてさて、毒でもないのに薬で人が死ぬものかな?」
ヴェルダー卿が応じた。
「もともと体調が悪いところへ、悪化させるような要素のある薬を大量に飲んだとしたら?」
ふん、といつものようにヴェルダー卿が鼻先で笑った。
「体調が悪かった。特定の薬にその体調を悪化させる要素があった。しかも死に至るほど大量に飲んだ。それを全部証明できるかね」
 ヘンリーはふりむき、手で合図をした。しゃれた身なりの男が気取った足取りでサンチョの居間に入ってきた。
「紹介しておこう。おれの私設秘書のネビルだ。ハーヴェイ・ローワンにとっては職場の先輩で、グランバニアまでの航海では相部屋だった。俺を含め、ラインハット使節団の中で一番やつと接触の機会の多かった人間だと思う」
 ヴェルダー卿は鋭い眼光で上から下までネビルを眺めた。ネビルは急にそわそわと落ち着きのないようすになった。
「しゃんとしろよ、ネビル。こちらはヴェルダー卿だ。グランバニアの公式な“正義の代弁者”でいらっしゃる」
ネビルの雇い主はびしびしと言った。
「ここは法廷ってわけじゃないが、自分の身がかわいけりゃ嘘はつかないことだな。隠しごともなしだ。いいな?」
「もちろんです。私が嘘などとそのようなことは」
「よーし。これからおれとヴェルダー卿が質問する。なかには俺がもう答えを知っている質問もあるが、おいでの皆さんに聞こえるように答えてくれ」
「わかりました」
ヴェルダー卿はちょっと首を振って、ネビルの方を見た。
「君はハーヴェイの仕事仲間だったのだな?」
「そうです」
「彼の健康状態は良好だったかな?」
「はあ。いつも酒を持ち歩いていて酔っ払っていること以外、問題はないように見えましたが」
ヘンリーが口をはさんだ。
「やつは酒を手放さないことについて、おまえになんと言っていた?」
「それが、自分は虚弱体質で、これは薬酒だから、とか」
ヴェルダー卿が言った。
「虚弱?具体的には?」
「わかりませんです。その、私は、体質がどうのこうのと言うのはあいつのいいわけだと思ったので、具体的にどう虚弱なのか聞かなかったのです。ただの怠け癖だと思っていました」
ヴェルダー卿は口元に皮肉な笑いを浮かべた・
「ただの怠け癖か本当に虚弱体質だったのかを見分けるのは難しいものだ」
その笑みは、ヘンリーに向かっていた。
 ヘンリーは同じような表情を返した。
「卿、おれは法廷で、ハーヴェイが書記としては無能だった、という証言をした」
「記憶しているよ。彼はにわか書記だったようだな」
「まあ、そういうことだ。だな、ネビル?」
何を思ったか、いきなりネビルはぐっと背をそらせた。
「にわか書記だから何をしてもいいということはありません!」
堰を切ったようにネビルは言い始めた。
「ハーヴェイのやつめ、気はきかないわ、生意気だわ、怠けることしか頭にないのですな。おまけに上司先輩に対して態度が大きいというんですからまったく何を考えていたのでしょうかねえ。あのような者が次の世代を担うかと思うと情けなくなります。いや、死者の魂がすでにマスタードラゴンの身元にあることを忘れたわけではありませんが、しかし遺憾ながらハーヴェイ・ローワンがまだ生きていたとしても、とても秘書が務まるとは思えませんな。いやはやどのような名門にもできの悪いのは一人や二人いるものですが、あれで我がラインハット王家に名を連ねるとはマスタードラゴンも悪戯をなさるものです。もちろん長い時間をかけてじっくりと修行すればさすが名流の末裔、将来はあっぱれ歴史に名を残すこともできたと私は確信しておりますが、そのような時間も与えられずにみまかったということは彼のためにまことに惜しまれるものがあります。とはいえ、行政関係での才能はなきに等しい状態で、かといって(ここグランバニアでは御存じない方もいらっしゃるでしょうが私の伯父と言うのが実はオラクルベリーの、ああいえ、これは関係のないことでした)商売ができるような目利きや愛想があるかというとそうでもない。私自身を例に持ち出すのはまことに僭越ながら私のようなものにくらべても実に無愛想で口下手な男でした」
 ヴェルダー卿は聞いているのかいないのかわからないような顔で紅茶をすすっていたが、ネビルの演説が終わるとためいきをついた。
「残念だ。法廷だったらすぐに黙らせただろうに」
「その件に関しては完全に同意する」
重々しくヘンリーが言った。
「えっ?」
「えっじゃねえ。ネビル、おまえハーヴェイが怠ける怠けるというが、グランバニアに着いてからおれが作成した書類がどのくらいあったか覚えてるか?」
「ええと、挨拶状がいくつかと、個人的な御招待への礼状でしたっけ」
「何通?」
「全部で、ええと五通です」
「はずれ」
とヘンリーは言った。
「その倍はある。随行してきた商人のための信任状を発行したし、使節団名義の証明書もあった。詳細については、ヴェルダー卿、下書きも保存してあるし、オジロン殿も証明してくれるだろう。ネビルはハーヴェイを非難できるほど勤勉じゃない」
「何を言いたい?」
「ネビルがハーヴェイの怠惰を言う時、先入観があると知っておいていただきたい」
ぴくんとヴェルダー卿の眉が動いた。
「彼は君の証人だと思ったのだがね」