水界の覇者 7.コーラルの正体

 シャークアイの命令で、「ラグラーズの爪牙」からボートが下ろされた。水と食糧を積み込み、ダグランドが乗り込むと、ボートはいっぱいになった。ダグランドは不器用にボートを漕ぐと、海へ漕ぎ出して行った。
 シャークアイは、アニエスに声をかけた。
「あれであの男の命を救ったと思っているならまちがいだ、アニエス」
さきほどの激しさはどこへ行ったかと思うほど、ぼんやりした表情でアニエスは海を見守っていた。
「あの男は確かに海軍の軍人で、体力もあるだろう。だが、一人で海へ出るのは、恐ろしいことだ。漁師や海賊のように、半生を海で過ごしてきた者でさえ、ときに二の足を踏む。海は、何が起こるかわからない世界だ」
「助けたいと思ったのではありません」
そう言ってアニエスは、ためいきをついた。
「わたし、わたし、どうして……水上神殿の守り人様は、海から引き上げられた私に、たいそうよくしてくださいました。あのご老人の、仇を討ちたいとずっと願っていたのに」
シャークアイはそっと妻の肩を抱いた。
「もう、悩むな」
日は、かすかな光を残して沈みきった。シャークアイは、暗い海の上を遠ざかるダグランドのボートに、背を向けた。
「あの愚かな男の行く末は、水の精霊が決めてくださる」

 マール・デ・ドラゴーン号の上では、水夫たちが戦闘の後片付けをしているところだった。火船を操っていた水夫や斬り込み隊のなかに負傷者も出ている。甲板の一角で、船の教会のシスターが中心になって、けがに手当てがほどこされていた。
 すでに渡し板も収容された。マール・デ・ドラゴーンは戦場を離れ、帆に涼しげな夜風をはらんで、北に向かって進んでいる。
 船長たちが本船へ上がってくると、炯炯とした眼光の老人がやってきた。この船の人々が長老と呼ぶ人物である。
「総領!」
もじゃもじゃした白い眉毛を怒らせて、じろりとにらみつけた。
「いささか、奥方様に、甘くはございませんかな?」
「裁きの一件か?」
シャークアイは苦笑した。
「長が裁きを下す前に、異論があるかどうかを聞くのは、わが一族の慣わしだ。そこへこの、無鉄砲なお姫様が飛び出したのだ、ぜひもない」
きゅ、とアニエスは夫の衣服をつかんで見上げた。
「私、海賊です」
シャークアイは妻の顔をのぞきこんだ。
「そうだな、世界で一番かわいらしい海賊だ」
長老は大きく咳払いをした。
「それが甘いと申すのです!アニエス様は、この船で船長に継ぐ大事なお方。戦闘中に敵船へ渡るなど、もってのほかでございます。船の中でおとなしくなさらないのなら、いっそ、陸へあがっていただきますぞ」
しかし、説教を食らっている二人は、このうえなく幸せそうに見つめあい、ほとんど聞いていなかった。
「総領、おく……!」
そのとき、ロッシュが小柄な長老を後ろから抱えるようにしてキャプテンから引き離した。
「長老様、まあ、勝ち戦の後だ。野暮はよしなって」
へっへ、と笑う。
「無理もねえ、いつ見ても、奥方様はかわいいよなあ……うわ!」
ラノメがロッシュの耳をつかんで引きずって行く。水夫たちから、邪気のない笑い声があがった。
 そばで、こほん、と咳払いをした者がいた。
「あのぉ、だんな?それに、奥様?」
アニエスがぱっとふりむいた。酒場のベルメイユが手に腰をあてて立っていた。柳の眉が、危険な位置にまできりきりと逆立っている。
「みなさんに、勝ち戦のあとのお酒をふるまってもよろしいかしら?」
「あ、はい、ベルメイユさん。あたしもお手伝いします」
「あぁら、すいません。だんな、奥様をお借りしますわね」
ベルはすばやくアニエスをひっぱっていく。
「ベル姐さん、おれたちもお手伝いしますよぉ」
斬り込み隊の若い者がおいかけていくが、ベルはじゃけんに追い払った。
「ふんだ、あたしゃ機嫌が悪いんだよ、誰か、一杯ついどくれ!」
「あいよ、今夜は飲もう、ベル」
無骨なほど大きな手が酒瓶から豪快に酒を注いで、ベルの前に置いた。斬り込み隊所属の女性戦闘員たちだった。
「目の前で見せつけられちゃあねえ、呑まないでどうすんのよ」
ベルは杯を取って、ためいきをついた。
「シャークアイの旦那にくってかかったんだって?あ~あ、アニエス様にはかなわないよ、あたしら」
かいがいしく宴の手伝いをしているアニエスを横目に見て、“船内シャークアイファンクラブ”一同は、少々やけ気味に盛り上がっていく。
 白兵戦では遅れをとらない斬り込み隊の猛者たちが、彼女たちを遠巻きにして言い合った。今、あそこには近づくな!
 船の酒場と厨房から、酒と料理がどんどん運ばれてくる。船のあちこちに灯りがともり、マール・デ・ドラゴーン号全体が浮き浮きした気分につつまれた。
「そ、総領っ」
一杯きこしめした長老が、ろれつのあやしくなった舌でからんできた。
「あのダグランドめが、あ、あの宝を返してよこしたとは、まことですか!早く見せてくだされ」
「わかった、わかった」
シャークアイは苦笑した。
「コーラルはどこへ行った?」
得意の喉を披露して、喝采を浴びていたコーラルは、突然名前を呼ばれてどきっとした。
「は、はい、ここにおりますが」
「もっと近くへ来なくていいのか?水の民の、かけがえのない宝が何なのか、知りたくはないか」
シャークアイのそばには、当然のようにカデルが、ロッシュが、オトゥールが、そしてガネルとルドゥブレがいて、一緒に飲んでいた。
「それはもちろん、はい」
カデルは自分の酒盃を置いた。
「なあ、コーラルよ、もうそろそろ、芝居はよそうや」
「と、おっしゃいますと」
「おまえさんのことさ。たったいま、ここで話してたんだ、吟遊詩人と名乗っているコーラル、あいつは何もんだってね」
「見てのとおりの者ですとも」
「いやいや」
とルドゥブレが言った。
「とっくりかんがえてみたんだが、二番隊長ルドゥブレ、くさってもド素人にあとをつけられてわからないはずがないんだ」